第75話 二回目 リンディは18歳(13)
先に帰っている。
その言葉にリンディはショックを受け、哀しげに目を伏せた。帰ってしまったと思いつつも、心のどこかでは、自分を待ってくれている気がしていたのだろう。
『あちらでクリステン卿がお待ちですので』
そっかあ……あれもさっきの人達の嘘だったんだ。
お兄様……旦那様が、私と一緒に馬車で来てくれて待っててくれたことだけでも凄いのに、約束の時間を過ぎてしまったら、帰ってしまうのも当然だわ。
きっと怒って……ううん、呆れているかもしれない。
瞬きをすれば、一度は引っ込んだ涙が、またほろりと溢れる。ヨハネスはハンカチを取り出し、リンディの顔を丁寧に拭くと、優しく微笑んだ。
「リンディ、海を歩いて帰らないか?」
「海……」
「きっと潮風が気持ちいいよ」
「でも、早く帰って旦那様に謝らなくちゃ」
「どうせもう遅れているんだから、少しぐらい平気だよ。王都に戻ったらまた仕事で忙しくなるんだから、息抜きに……ね?」
「うん」
ヨハネスに鼻をきゅっとつままれ、リンディはほんの少し和らいだ表情を浮かべた。
支えられながらゆっくり立ち上がると、ドレスのスカートには、泥やら草やらがたくさん付いている。よく見れば、綺麗に編み込まれていた髪も、あちこちほつれ飛び出していた。
「……君は一体、何処を冒険してきたの?」
「あのね、木の陰とか……植込みの裏とか。あっ、草の中も潜ったわ。誰にも見つかっていないといいのだけれど」
愛らしい花嫁の大冒険を想像し、ヨハネスはぷっと噴き出す。
「おかえり、リンディ」
心からそう言うと、華奢な手を取り、海へ向かい歩き出した。
ヨハネスの言った通り、浜には心地好い潮風が吹いていた。凪いだ青い海を赤い夕陽が染め、水平線が紫色の光を放っている。
「綺麗だね、この時間に浜辺を歩くの初めてかも」
「昔、一度目の人生でね、この浜にお義父様が東屋を建ててくださって。そこでよく、海の絵を描いていたの。確か、こんな景色も描いた気がするわ」
「へえ……リンディの描く海は、きっと素晴らしかったんだろうな」
「人魚や空を飛ぶ魚も描いたわ。金色のクジラも」
「それは本物の海より楽しそうだな」
「あとね、あとね、ふわふわの甘~い生クリームの波も」
「生クリーム!? 最高じゃないか!お腹がいっぱいになるまで泳いでみたいな」
夕陽に輝く目を合わせ、二人は笑う。
温かい……。彼女の傍は本当に温かい。
ずっとこうして、手を繋いで歩いて居られたらいいのに。
ヨハネスのそんな願いは届かず、紫の光が灰色に変わると共に、ある人物によって終わりを告げられた。
あれからルーファスは、砂浜の草に座ったまま、ずっと動けないでいた。
“ 誰か ” を手繰り寄せている内に、記憶の溝にすっぽり落ちてしまったのだ。
さくさくと砂を踏む足音に混じり、聞き覚えのある甲高い声が耳を突く。その瞬間、ルーファスの心身は急に解き放たれた。
立ち上がり、声の方へ視線を向ければ、手を繋ぎ笑い合うヨハネスと妻がいる。ルーファスは砂を激しく蹴散らし、そちらへ向かった。
「旦那様!」
驚いた顔で自分を見上げる妻にも、自分が目の前に居るというのに妻の手を離さないヨハネスにも、怒りが込み上げる。口から出たのは、自分でも聞いたことがない程、昏く冷淡な声だった。
「今まで何をしていた」
「あの……ごめんなさい。買い物をしていたら、迷子になってしまって」
「迷子? はっ、成人した大人が……頭は正気か」
鋭い視線にリンディの身がすくむ。繋いでいる手を離し頭を下げようとするも、何故かヨハネスの手には力がこもり、そうさせてくれない。
ルーファスは二人の手を射抜く様に睨むと、冷たい言葉を放ち続ける。
「その手は何だ? 夫を待たせておきながら逢引きか」
「……安全の為に繋いでおります。そもそも最初からこうしていれば、はぐれることはありませんでした。旦那様のご命令には背くかもしれませんが、私は奥様の身の安全を優先させて頂きます」
「何?」
一段と増す怒気にも、ヨハネスは全く怯まない。
「奥様は先程、暴漢に拐われそうになっておりましたので」
ルーファスの顔色が変わる。細い腕をさっと両手で掴み、リンディの頭から爪先までを見下ろした。それでもヨハネスは、リンディの手を離さずに、淡々と報告する。
「お怪我はありませんのでご安心を」
「……処理は」
「自警団にて、一時的に身柄を拘束しております」
「徹底的に痛めつけた後、辺境送りにして奴隷として働かせろ」
痛めつける……辺境送り……奴隷……
頭上を飛び交う物騒な言葉に、リンディは震える。
一度目の人生で受けた拷問の痛みと恐怖が甦ったからだ。
いつもの如く、突如発動する獣並みの腕力でヨハネスの手を振りほどき、両手でルーファスのベストを掴む。
「あの……大丈夫! 私、どこも怪我してないし、何も言われてないから! 痛めつけなくても大丈夫!」
ルーファスは、ベストを掴む指を器用にこじ開けると、そのままリンディの両手を握った。
「公爵家の人間を、領地内で害そうとした奴を罰しない法が何処にある。本来は極刑とする所を、未遂だったことを考慮し、拷問と辺境送りで済ませてやるというのに」
「でも……痛いのは可哀想」
その言葉にこれ以上ない程顔をしかめたルーファスは、吐息と共に冷たい言葉を吐いた。
「誰のせいでこうなったと思っている。お前が勝手にはぐれたからだろう。そいつらが痛い目に遭うことになったのも、元はといえばお前のせいだ」
……そうだ。旦那様の言う通りだ。
私の軽率な行動が、あの人達の人生を壊した。
一度目の人生では、何事もなく平和に暮らしていたかもしれないのに。
あまりのショックに、リンディの全身から力が抜けていく。ルーファスがこうして手を握っていなければ、立っていられない程だった。
「奥様、お気になさることはありません。あの様な輩は、今回のことがなくても、いずれ別の悪事を働いたでしょう。むしろ捕えることが出来て良かった位です」
「お前……たかが護衛の分際で口を挟むな」
二人の間に飛び交う不穏な空気にも気付かず、リンディは遠い目で辺りを見る。空も、海も、浜も、すっかり濃い灰色になり、宵闇がじりじりと迫って来ていた。
消さないで……大好きな海を、大切な想い出を。
消さないで……
ヨハネスへと気が逸れたルーファスは、握っていたリンディの手を離す。リンディは寂しい手を鞄に入れると、包みを取り出し、ルーファスへ差し出した。
「あのね、これ、旦那様へ。食べて欲しくて買ったの。もう冷めてしまったけれど」
しわくちゃの包みが、ルーファスの前で震えている。
その向こうの妻の表情は、顔を伏せている為よく見えない。パッと受け取り、中身を見たルーファスは、呆れた口調で言った。
「夫にこんな汚い物を食べろと言うのか」
……汚い?
ルーファスの手からそれを取り返し、中身を見たリンディの顔は忽ち歪んでいく。
冷めきった衣は油を滲ませながらぐしゃぐしゃに潰れ、その中からは、見るも無惨な白身魚とホワイトソースが飛び出していた。子供の頃、まだ兄妹だった頃、この浜辺で一緒に齧ったフライとは、似ても似つかない。
とうとう完全に力の抜けたリンディは、砂の上に崩れ落ちた。
「……おい」
呼び掛けにも答えず、妻はドレスを砂に埋めながらペタリと座り込んでいる。しゃがんでその顔を覗けば、ルーファスの心臓がドクリと跳ねた。
いつも笑っている妻の口は真っ直ぐに閉じ、頬も強張り動かない。虚ろな瞳からは、ただ涙が流れては落ち、落ちては流れていく。
「おい!」
肩を掴んで揺さぶると、やっと目が合う。するとリンディは、うーっと声を振り絞りながら、激しくしゃくり上げた。
心臓が痛い。針で、剣で串刺しにされた様に痛い……
ルーファスは胸を押さえる。
勝手に動いた身体は、動かないリンディを腕に抱き上げ、馬車へ向かい歩き出していた。
◇
「先程お薬を飲まれ、今はご入浴されています」
侍女プリシラの言葉に、ルーファスはホッと胸を撫で下ろす。
──あの後、馬車へ戻ったリンディは、急にうずくまり額に脂汗をかき始めた。医師に診せたところ、冷たい物の食べ過ぎと精神的なストレスだと言う。
呆れるな。腹を壊しやすいのに、アイスクリームを一気に二個も食べるなんて。
そう考え、ルーファスは首を捻る。
……腹を壊しやすい?
妻の体質など興味がないのに、何故こんなことを知っているのだろう。
「旦那様、今日は別々にお休みになられますか?」
「……いや、同じ部屋でいい」
「あの、それでしたら……」
プリシラは遠慮がちに、それでもキッパリと言った。
「今夜は奥様をベッドで寝かせて差し上げて下さい。ソファーではお身体が冷えてしまいますので」
気付かれていたかと、ルーファスはやや、ばつが悪い顔で頷いた。
風呂から上がったリンディは、部屋に入るなり、枕と布団を持ち、当たり前の様にソファーへ向かおうとする。その手を掴むと、ルーファスは聞き取れない程微かな声で呟いた。
「……ベッドでいい」
「え?」
「今夜はベッドで、一緒に寝ることを許可してやる」




