第74話 二回目 リンディは18歳(12)
行方不明……? あいつが?
問い質したいことは沢山あるのに、激しい動機が喉元まで込み上げ、上手く言葉が出てこない。
「パレードの人混みではぐれ、お姿が見えなくなりました。今、自警団が内密に捜索をしておりますが……」
ヨハネスが言い終わらない内に、ルーファスは彼を突き飛ばし、馬車から飛び降りていた。
「旦那様!」
──足が、身体が勝手に動く。心も意思も置き去りに。
何故こんなに走って、何処へ向かっているのかも分からない。
兵や自警団に任せておけばいい。
あいつは獣みたいに獰猛でしぶとい女だ。きっとあちこち飛び回った挙げ句、何ともなかった様な間抜け面で戻って来るに違いないのだから。
そう思うのに……
自分は何故こんなに走っているのだろう。
祭に賑わう大通りには見向きもせず、ルーファスが辿り着いたのは、白い波が揺らめく砂浜だった。
何故こんな所に……
さくさくと歩き、草が生い茂っている場所へ立つと、辺りを見回す。
前に……前に此処へ、誰かを迎えに来た気がする。一度だけでなく、何度も、何度も……
急に足に力が入らなくなり、フラリと草の上へ座り込む。
手を開ければ、無意識に掴んでいたらしい砂が、さらさらと潮風に乗って流れて行った。
“誰か”は一体、何処へ行ってしまったのだろう。
走り続ける子供達を、ひたすら追うリンディ。人混みを抜け、路地を抜け、民家の中を抜けて行く。雑木林に入った所で……その姿を見失った。
あともう少しだったのに……あともう少しであの頃の……兄妹だった私達に会えたのに。
泣きそうになっていると、豊かなハルニレの木の向こうから子供の笑い声がした。堪らず駆け寄ると、そこには一軒の小さな民家があり、玄関で子供達が笑い合っている。
「ほら!手を繋げばお兄ちゃんと同じ速さじゃない!」
「僕が手加減してやったんだよ!お前の足なんて亀と同じだ」
「ひっど~い!母さんに言いつけるから。ああ、喉渇いたあ」
あれ……?
そこに居たのは、自分とルーファスとは全く似ても似つかない子供達だった。よく似た焦げ茶の髪と丸い黒い目を合わせて笑う二人は、自分達とは違い、血の繋がりがある本物の兄妹なのだろう。
「……家に何か用ですか?」
立ち尽くすリンディに、男の子が気付く。
「いえ……何でもないの。ごめんなさい、ちょっと道に迷ってしまって……ごめんね!」
リンディは慌てて雑木林を抜け、元の道へ出た。
あれ……此処は……どこ?
くるくると回ってみるも、見渡す限り知らない景色が広がっている。
落ち着いて……私は変だけど、記憶力はまともなんだから。来た道をただ思い出せばいいの。
目を瞑り記憶のページを捲るも、目印も風景の一部すら全く思い出せない。
そっかあ……私、あの子達の背中ばかり見ていたから、他は何も覚えていないんだわ。
一回目の人生で、5歳から12歳まで過ごした地とは言え、徒歩ではほぼ屋敷から海までの、大通りと裏通りの移動しかしたことがない。(魔道具店タクトもこの途中にある)
二回目の人生でも、屋敷、海、魔道具店タクトに加え、大通りにある母の教室と貸馬車屋を訪れただけだ。
──つまり、今豊漁祭が行われている大通り以外、ほとんど土地勘がないのだ。
どうしよう……誰かに道を訊く? と考え、リンディはハッとする。
駄目……私はもうクリステン卿の妻で、セドラー家の人間なのよ。護衛も連れずに迷子になって、領民に道を訊いたなんて知れ渡ったら……頭のおかしい花嫁だって、お義父様やお兄様が笑われてしまう。
どうしよう……きっと今頃、ヨハン兄様が心配しているわ。約束の一時間も過ぎているだろうし……お兄様はもう帰ってしまったかしら。
幾ら走ったとは言え、子供の足で移動出来る範囲だ。それ程大通りからは離れていない筈だけど……離れてないといいけど……
焦りながらうろうろしていると、何処からか笑い声が聞こえ、咄嗟に木の陰に隠れた。チラリと顔を覗かせて見れば、屋台の食べ物や品物を持って、歩く人々の姿。
お祭りから帰る人だ! じゃあ……この人達が来た方向に進めば、大通りに戻れる?
リンディの目の前が明るく開けてきた。
誰にも見つからない様に、木に身を潜め、時には匍匐前進で、間者の如く慎重に移動する。その内徐々に人が増え、微かに音楽も聞こえてきた。
良かった!やっぱりこっちで合ってたみたい!
ほっと胸を撫で下ろしたその時、何かが肩にポンと触れた。恐る恐る振り向くと……そこには見知らぬ男が二人立っている。
「どうかしたのかい?」
「いえ……いえ、あの、少し気分が悪くて、休んでいるんです」
「おや……? もしかして貴女は……クリステン卿の奥様ではいらっしゃいませんか?」
「……いえっ!いえ!違います!よく似てると言われますが……ほら、ご覧の通り、護衛も連れていませんし、ねっ」
こんな祭にはそぐわない、高価な装飾品とドレスに身を包みながらも必死で否定する女。男達は顔を合わせてニヤリと笑った。
「護衛の方とはぐれてしまったのでしょう? あちらでクリステン卿がお待ちですので、私共がお送りしましょう」
「おに……旦那様が待っててくれているの!?」
思わず叫んでしまい、口を押さえたリンディに、男達は一層ニヤニヤと笑みを浮かべる。
それを目にした瞬間、リンディの全身に悪寒が走り、毛穴という毛穴がぶわっと開いた。
彼女の野生の勘が働く……絶対にこの人達に付いていってはいけないと。
「大丈夫です!本当にただ休んでいるだけですから!もうすぐ護衛が迎えに来ますから!」
ひきつった顔でふるふる首を振るも、それは逆効果だったらしい。あっという間に、一人には腕を、一人には腰を掴まれている。
「どうぞご安心を、奥様」
……絶対安心じゃないってば!!
私食べられちゃう? 殺されちゃう? どうしよう、どうしよう……思いきり叫んでみる? 思いきりふりほどいて、走って逃げる? でもそんなことしたら、頭のおかしい花嫁だってバレちゃう……折角此処まで誰にも見つからないで戻って来たのに。
そうだ、あれ!あれをあげたら見逃してくれないかしら……私の買ったのが最後の一個だったんだもの。もしまだ食べていないのだったら、この人達も絶対欲しい筈よ。
リンディは鞄に手を入れ、包みを掴む。
でも嫌……やっぱり嫌! これはお兄様の為に買ったんだから、どうしてもお兄様にあげたい……
ぐるぐる混乱し動けないでいる内に、いつの間にか口も塞がれていた。
お兄様……ああ……こんなことならお兄様に食べられて骨になった方が良かった……でも白くて不味そうだから、きっと食べてくれないの……
涙で滲む視界に、突如キラリと光る物が見えた。
「……不潔な手を離せ」
……この声……!
腕と呼吸がふっと楽になったかと思えば、さっきまで自分を押さえていた毛むくじゃらの手が、宙で小刻みに震えている。その奥には、鋭利な剣先が男の首を捕えているのがうっすらと見えた。長い足がもう一人の男を蹴り上げ、同時に腰の不快感も消える。
殴られ、捻り上げられ……男達は一人の男により忽ち拘束され、自警団に突き出された。それはリンディが息を吸って吐くまでの、僅か数秒の出来事だったと思える程に。
「リンディ!大丈夫か?怪我はないか?」
いつもは細く穏やかな緑色の瞳が、今は恐怖に見開いている。
「ヨハン兄様……!」
ヨハネスの美しい手が、腰……腕……口元と、男に掴まれていた所に優しく触れていく。白い腕はやや赤くなっているものの、傷や痛みがなさそうなことに安堵すると、そのまま震えている身体を掻き抱いた。
「良かった……良かった、リンディ……良かった」
一体どれだけ心配してくれたのだろう。弱々しく掠れたヨハネスの声に、青い双眸からどっと涙が溢れる。
「ごめん……ごめんなさい、ヨハン兄様。あのね、子供の頃の私とお兄様が居たの。会いたくて、会いたくて夢中で追いかけていたの。でもね、よく見たら、私とお兄様じゃなくて全然別の兄妹で……周りを見たら何処か分からなくなっていて。私……私……やっぱり変でおかしいの。自分で時を戻したくせに……あの頃のお兄様に会いたいって……あの頃に戻りたいって……お祭りを歩きながらそんな風にばかり考えていたから。ごめんなさい……ごめ」
「リンディ」
更に強く抱き締めると、薔薇色の唇に自分の耳を近付ける。高い声、温かい吐息……くすぐったい彼女の存在を、ヨハネスは夢中で確かめていた。
「いいんだよ……無事に戻って来てくれたなら……それでいいんだよ」
リンディは声を押し殺しながら、ヨハネスの胸でひとしきり泣いた。
やがて落ち着いてきたリンディは、涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔をバッと上げた。
「お兄様は……? どうしよう!きっと待ちくたびれているわ!」
今にも立ち上がろうとするリンディの手を、ヨハネスは掴み、低い声で言った。
「旦那様なら……何処かへ行ってしまったよ。もう先に帰っているかもしれない」




