第70話 二回目 リンディは18歳(8)
「では、お休みなさいませ」
侍女が下がると、広い部屋に一人取り残される。
この部屋だけで、自分が住んでいたアパートの部屋が幾つ入るんだろう……
リンディはぼんやりと思う。
高価な家具に調度品、中央には天蓋付きの煌びやかなキングサイズのベッド。立派なセドラー家の屋敷の中でも、特に特別な部屋であることは間違いない。
ああ、今すぐあのベッドに飛び込みたい!
慣れない高いヒールで一日中歩いた足は、侍女に丁寧にマッサージしてもらったというのに、まだパンパンに腫れていた。
でも……
『旦那様がいらっしゃるまで、こちらにお座りになってお待ち下さい。決してうろちょろされてはなりません』
そう言われたからなあ……
もう寝るだけだと言うのに、何故か念入りに髪を整えられ、香油を塗られ、ドレスみたいに華やかで手触りの良いネグリジェを着せられた。
これがセドラー家の奥様の夜のスタイルなの?
……お母様もこうだったのかしら。
風呂上がりの髪をわしわしとタオルで拭き、十年間愛用しているくたびれた寝巻きで晩酌をする今の母からは、全く想像がつかない。
折角綺麗にしてもらったんだから、大人しく待ってないと……でも、待つって辛い。
時計の針をじっと見るも、秒針がカチカチ鳴るだけで、一向に進んでいない気がする。やっと1分……まだ3分……
その内睡魔が押し寄せ、こくっこくっと意識が飛んでは慌てて戻すことを繰り返していた。
駄目……もう……限界……
ふわあと大きな欠伸に涙を流すと、リンディは豪奢な椅子から立ち上がり、ベッドにぼふっと飛び込んだ。
ああ……なんて幸せなの。ふわふわで、雲の上に居るみたい。雲は本当は乗れないし食べられないって聞いたけど……死んで風になったら、どちらも試してみよう。
ふわふわ……ふわふわ……ふわ……
「……け」
ん?
「退け」
半分夢の中で雲を食べていたリンディは、人生で最も衝撃を受けたあの一言に、一気に現実へ突き落とされる。
がばっと跳ね起きると、そこには黒のガウン姿のルーファスが立ち、腕を組んで自分を見下ろしていた。
ベッドから転がる様にして降りると、背筋を伸ばしピシッと直立する。ルーファスはベッドを捲ると、中から薄手の布団を一枚引っ張り出し、リンディへ投げた。
「あっちで寝ろ」
彼の視線の先には、さっきまで座っていた椅子と同じデザインの豪奢なソファー。座面も柔らかく、小柄なリンディであれば、足を伸ばして眠ることも可能だろう。
しかし……問題はそこではない。リンディはソファーとベッドを見比べると、少し頬を膨らませ、夫へ手を伸ばした。
「あの、枕も下さい」
あんなに気持ち良さそうな枕を一人占めなんてズルい! 二つあったら足にだって置けるし、抱き枕にも出来るし、寝返りだってし放題じゃない!
ルーファスは面倒臭そうに枕を掴むと、リンディに投げ付ける。ふがっと顔で受け止めたリンディは、よいしょとそれらをソファーへ運んだ。
続けてルーファスは、一枚の紙とペンをテーブルへ置く。
「契約書だ。よく読んでサインしろ」
お兄様……いえ、旦那様との契約……何だか素敵な響き!
リンディはわくわくしながら手に取ると、声に出して読み始めた。
『 1 有事以外、夫に話し掛けてはならない。』
早速首を捻るリンディに、ルーファスは苛立たしげに問う。
「何だ」
「あの……有事って、戦争とか火事とかですか?」
「まあそうだろう」
「強盗とか、竜巻、怪我とか病気の時もいいですか?」
「……まあいいだろう」
「蜘蛛が天井から落ちて、旦那様のお皿に入りそうな時は?」
「……間に合いそうなら給仕に言え」
「挨拶はしてもいいですか? 私、挨拶は何より大切だってお母様に」
「煩い!自分で考えろ!」
リンディは頷くと、ペンで “有事” の箇所に(妻の判断に任せる)と書き足した。
『 2 食事は別々にとる。どうしても食卓を共にする必要がある場合、決して夫の前でブロッコリーを食べてはならない。』
うーんと考え、ぱっと笑うリンディ。
「とてもいい考えだわ!私、ブロッコリーが大好きだから毎日我慢するのは辛いし、おに……旦那様も毎日ブロッコリーの気配に怯えるのは辛いでしょう? だから、お食事が別々なのは、お互いの為にいいことだと思います。でも、寂しい時は一緒に食べましょうね。あっ、お料理はしてもいい?」
「……好きにしろ。但し俺の口に入る物には、決して手を触れるな。自分の食べる分だけにしろ」
「分かりました。自分の分と、あと旦那様以外の人の分なら、手で触れてもいい?」
自分と夫以外の誰の食事を作ると言うんだ……
苛立たしげに「勝手にしろ」と言い放つルーファスに、リンディは頷き、(寂しい時は食卓を共にする。夫の食事には決して手を触れてはいけない。夫以外の食事は調理可)と書き足す。
『 3 寝室は別とし、性行為は一切行わない。子供を作る必要に迫られた時だけは、必要な日にのみ行うことを義務とする』
またもや首を捻るリンディ。
「あの……毎日自分の部屋で、別々に寝るってことですか?」
「そうだ」
「じゃあ、何で今日は同じ部屋で寝るんですか?」
「初夜だからに決まってるだろう。面倒な噂が立たない様に、形だけでも取り繕っておかないと」
「あの、初夜って結婚して初めての夜ってことですよね」
「……そうだ」
「何で初めての夜だけ取り繕うの?」
こいつ……もしかして……
ルーファスはごほんと咳払いすると、単刀直入に問う。
「お前、性行為の意味を知っているか?」
「……生殖器を使って子供を作ることですか?」
……知っているじゃないか!
「でも、どうしてそれが寝るのと関係あるんですか?」
……知らないのか?
ルーファスが戸惑っていると、リンディは更に質問を畳み掛ける。
「あの……私、男女の生殖器で子供を作るってことは知っているんです。でも、どうやって作るのかは全くイメージが湧かなくて。生殖器が“反応”するって言葉は聞いたことがあるんですけど、“反応”って何ですか? 寝るのと“反応”が関係あるんですか?」
真剣な目で答えを待つリンディ。
こいつ……もしかしたら、知らないフリをして、夫をからかっているんじゃないか?
落ち着け……恐れずに……真っ直ぐ瞳を見ろ。
勇気を出して覗いた青い瞳の奥は、ただ……ただただ空っぽだった。
本当に何も知らないのか……
ルーファスは髪をくしゃくしゃと掻きむしる。これから毎日こんな風にペースを乱されるのかと思うと、気が重くなった。
「……疲れたからもう寝る。契約書はよく読んで、質問があるなら明日中にまとめてしろ」
「はい」
結局、性行為については分からずじまいだったわ。誰かちゃんと教えてくれないかしら、と眉をしかめていると……契約書を持つ左手をつっと取られた。
「あの……」
ルーファスは隣にしゃがむと、庭で結婚の話をした時の様に、華奢なそれを自分の手で優しく包み込む。薬指をなぞる長い親指の感触も、あの時と全く同じで、リンディはその心地好さにふわりと委ねた。
お兄様の手は、雲の上よりもふわふわしているかも……
ふと視線を落とせば、重ね合わせたガウンの隙間から、逞しい素肌の胸板が覗いている。どこに目をやっていいか分からず、瞼をギュッと閉じてみた。と、その時……
一回目の人生で兄に教わったあの知識が甦り、背中をつうと汗が伝った。
「あの……あの……何で手を触るの?」
「契約書の5を見ろ」
『 5 毎晩夫に指輪を確認させる。』
「……絶対に妻の指を切らないって書き足してもいい?」
「質問は明日まとめてしろと言った筈だ。とにかく今は黙って指輪を確認させろ」
穏やかな顔で自分の指を触り続けるルーファスとは反対に、次第に顔を強張らせ始めるリンディ。
「あの……」
“確認”を再び邪魔されたルーファスは、とうとう眉間に皺を寄せ怒鳴る。
「何だ! 指よりも先に口を切ってや……」
「旦那様は夜、裸にならない?」
「……は?」
「裸になって、私を食べない?」
しばらく思考が停止していたルーファスだが、突如ニヤリと口角を上げた。
ああ……そういうことか……
手を離すと同時に、ルーファスは妻の身体をひょいと抱き上げソファーに放り投げる。そして離したばかりの手を拘束しながら、その上に覆い被さった。
突然の事態を飲み込めず、リンディはただパクパクと口を動かし続ける。
「やはりお前は策士だな。何も知らないフリをして、夫をベッドに誘うとは……」
ベッド? 誘う? ……ここはソファーじゃなかったかしら。
混乱するリンディを余所に、ルーファスは片手でリンディの両手を拘束したまま、もう片方の手でガウンの紐をスルリとほどく。はだけたそこからは、さっきの逞しい素肌の胸板が、惜し気もなく完全な状態で現れた。
これが……お兄様の……
リンディの顔は沸騰し、忽ち真っ赤になる。
「さあ……何処から食べてやろうか」
「あの……あの……私、香油でベトベトしてるし、お風呂は一応入ったんだけど、また汗をかいたからあまり美味しくな」
「黙れ」
妖艶な薄い唇の間から、キラリと見える白い歯。
そうよ……食べてもらうならいつかお兄様に……そう思っていたけれど……
「いや……お兄様じゃないと嫌……」
「……何?」
「私、“旦那様” には食べられたくない! “お兄様” じゃないと嫌!」
……お兄様……
「そういえば……前から気になっていた。何故お前は、俺のことをお兄様と呼ぼうとする」
鋭い目で睨まれ、リンディはひゅうっと息を吸い込む。
どうしよう……どうしようどうしよう。
私、そんなにお兄様って呼ぼうとしてた?
混乱の中、口を衝いて出たのは……
「間違えたの……兄様と……ヨハンお兄様と、間違えちゃったの!」




