第63話 二回目 リンディは18歳(1)
座席にルーファスの姿が見えた途端、さっきまで軽快に跳ね回っていた足は、急にガクガクと震え始める。
「どうぞ」
ヨハネスに促され乗り込むと、下を見たまま彼の向かいに座った。
「では、失礼致します」
小さく手を振るヨハネスに、あっと縋る様に手を伸ばすも、扉はパタリと閉められる。
お兄様と二人きり……
どうしよう、どうしよう……
しんと静まり返った車内は、車輪と蹄の音だけを響かせ、再び走り出した。
ピカピカに磨かれた仕立ての良い靴、すらっと長い足、見事な刺繍のベスト、光沢のあるクラヴァット……黒系統のシックな色でまとめられた彼の装いは、リンディの一番のお気に入りだった。
──ああ、お兄様は本当に素敵。
上へ……上へと進めていったリンディの視線は、クラヴァットから美しい喉仏まで辿り着いた。
いよいよこの上は……!
形の良い薄い唇、すっと高い鼻、そして大好きなルビー色の……ルビー…………色?
リンディはごしごしと目を擦り凝視する。
そして、以前ヨハネスがくるみ割り人形みたいだと例えた、あのあんぐりと口の開いた顔で固まった。
本来ルビー色であるはずの彼の目は、濃い緑色のレンズ越しに、奇妙な色の眼光を放っている。
そういえばヨハン兄様が言っていたわ……
『最近ルーファス様はブロッコリーを克服する為に、緑色の眼鏡でトレーニングしているんだ。誕生会にもかけてくるかもしれないけど、絶対に笑ったら駄目だよ』
……特注かしら。フレームまで緑だわ。
シックな装いとは真逆の “変” な眼鏡に、リンディは笑うどころか、ただただ興味津々だ。
するとルーファスは、背中からすっと剣を取り出し膝に置く。以前指を傷付けられそうになった護身用の短剣などではなく、兵が持つ本格的なサーベルだ。
鞘をカチカチと鳴らし睨み続けるその様子からして、どうやら威嚇されているのだとリンディは気付いた。
可哀想だけど……仕方ない!
リンディも負けじと、こんもりと膨らんだ鞄を膝に置く。ルーファスは一瞬ビクッとするも、すぐに体勢を立て直した。
すごい! トレーニングの成果が出ているのね!
やっぱり、“変”って素敵!
ニヤニヤ笑う不気味な女に、ルーファスは更に激しく鞘を鳴らす。その音にリンディは身の危険を感じ、ヨハネスから伝授された言葉をそのまま口にした。
「“お聞きでしょうが、私は見えない部分に護身用のブロッコリーを大量に仕込んでいます。私を切ったら、ブロッコリーの汁と粒々が、この狭い車内に充満しますからね”」
かなり棒読みだが、効果覿面だった様で……ルーファスの威嚇の手は、ピタリと止まった。
しばらく沈黙が続いた後、ルーファスは突如低い声で話し出す。
「……お前、生まれは何処だ」
普通に話し掛けてもらえたことが嬉しく、リンディは満面の笑みで答える。
「ムジリカ国です!」
「……ムジリカ国の何処だ」
「首都グリーン通り南、8181の9の、王都総合病院で産まれました。0歳から3歳までは首都マーガレット通り東、5454の9で暮らし、その後は首都グリーン通り西」
「もういい」
ルーファスは手を上げて制した。
「家族構成は」
「母フローラ・フローランスと私の二人です。本当は父も居たそうですが、世界一の酒場を造る夢を追って、海を渡る旅に出たと母が言っていました。素敵でしょう?」
それには答えず次に移る。
「学校は」
「12歳の途中までは母の経営する学習塾に通い、12歳の途中からはサレジア国のランネ学園中等部普通科に入学しました。二学年からは芸術科にコース変更し、17歳で卒業しました」
やっとまともな答えが帰って来たと思ったが、まだまだ彼女の話は終わらない。
「普通科でモネと、芸術科でアリスと友達になりました。二人と友達になるのは二回目だけど、二回ともすごく仲良くなれたんです。幼なじみのタクトは魔術科だけど、4人でよくお昼やおやつを食べたり……あっ、ランネ学園には天空のテラスっていう場所があって、そこで食べると、何でも最高に美味しいんです!お小遣いが足りなくなって、パンに塗るジャムやバターを買えなくなっても大丈夫!でも一度転んで、手に持ってた丸いドーナツがころころ柵の下に」
ガチッ!
苛ついたルーファスが、サーベルの刃をぎらつかせながら、鞘を乱暴に鳴らす。リンディは慌てて手で口を押さえた。
「……指輪は」
「え?」
長い指が、すっと彼女の左手を指す。
「その指輪が指に嵌まった時の状況を話せ。端的に」
……ついに核心に迫るのね。
ごくりと唾を飲み、リンディはヨハネスと何度も練習した答えを述べる。
「5歳の時……朝起きたら指に嵌まっていました」
「……それで?」
「それだけです」
「ふざけるな!!」
場所も忘れ勢いよく立ち上がったルーファスは、天井に思い切り頭をぶつけ悶絶する。
「おにっ……ルーファス・セドラーさん、大丈夫!?」
「お前……あれだけ下らないことをベラベラ喋っていたくせに、肝心の質問は適当に流しやがって!」
あまりの痛みに眼鏡の隙間から涙が溢れるも、必死に怒鳴った。
「適当じゃありません。だって本当にそれしか知らないんだもの。それに、端的にって……」
「見せろ!」
ぐいとリンディの左手を掴もうとするも、頭の痛みに力が入らず、軽く振り払われた。
「見てもいいけど、乱暴なのは嫌です。優しくして下さい」
こいつ……人が下手に出てりゃ、どこまでも調子に乗りやがって!
『表面上は少し友好的な態度をお取りになり、油断させてみてはいかがですか? ボロを出すかもしれません』
ルーファスはヨハネスの言葉を思い出し、ぐっと堪える。
「……分かった。優しくすると……約束するから見せてくれ」
彼はこめかみを震わせながらも、十何年ぶりかの精一杯の笑顔を浮かべてみる。だがリンディの目には、怒りで口元が引きつっている様にしか見えなかった。
お兄様……相当怒っているわ。今度こそ指を落とされてしまうかもしれない。
リンディは床に落ちていたサーベルを拾うと、素早く背中に隠した。
「これは私が預かります。あと、隠してる短剣も出して下さい。そうしたら見せてあげます」
こいつっ……! 本当に……!
駄目だ……堪えろ……堪えろ……
怒りに震える手を腰に突っ込むと、短剣を出しリンディの足元に滑らせた。
「もう一本も出して下さい」
……くそ!
今度はベストから、一回り小さめの剣が取り出される。
ヨハン兄様の言う通り!やっぱり二本も剣を隠し持っていたわ。危なかったあ。
リンディはほっとし、短剣を拾うと、微笑みながら自分の鞄を差し出した。
「ルーファス・セドラーさんも、これを持っていて下さい。お互い武器を預かって、安心して仲良くなりましょう」
要らない……そんなもの要らない……
ぞわっと鳥肌が立つも、ここで断ればまた弱みを握られてしまう。
この女……何という策士だ。
ルーファスは勇気を振り絞り、それを受け取った。鞄の隙間に覗く粒々から慌てて目を逸らし、さっと座席の端に放る。
「じゃあ……はい、どうぞ」
すっかり戦意喪失した彼は、にこにこ笑うリンディの左手をそっと取った。
うん……やはり。自分のと比べ、女の指輪の方が断然砂が多く、輝きも強い。だがデザインや材質は全く同じで、どう見ても対であるとしか思えない。
華奢な白い手の横に自分の左手を並べれば、魔力が呼応している様にも感じる。どちらも同じ時期に、気付いたら指に嵌まっていた。女の話が本当だとすれば、実に気味が悪い。
……そういえば女も、指輪について散々調べたが分からなかったと言っていたそうだな。その辺をもう少し探ってみるか。
「おい、指輪の……」
顔を上げたルーファスは、喋りかけたままギョッとする。
さっきまで笑っていた彼女が、こちらを見てボロボロと涙を流していたからだ。
嬉しい……お兄様に、こんなに優しく触れてもらっているなんて。もうこんなこと、二度とないかもしれないと思っていたのに。
何なんだ……これも何かの策略か?
動転したルーファスは、リンディの手をスルリと離す。柔らかい手の感触が消え、どこか名残惜しい様に感じるのは魔力のせいなのだろうか……
一方、御者台のヨハネスは、チラチラと後ろを窺っていた。
リンディは無事だろうか……色々アドバイスしたから大丈夫だと思うけど。一回何かがぶつかる音がした以外は、静かだったし。
それに今日の彼女はあんなに綺麗なんだ。さすがにルーファス様もあの姿を見たら……あ……あの変な眼鏡をかけていたら無効か。何せ全部緑に見えるんだから。
ああ、勿体ない。本当に、本当に綺麗なのに……
朝早めに出発した馬車は順調に進み、予定通り、日が高くなり始める前に、セドラー家の屋敷に到着した。
……さて、二人はどんな様子かな。
何の物音もしない車内。
そうっと扉を開けたヨハネスは、その意外な光景に驚いた。




