第60話 二回目 リンディは17歳(10)
愛しいルーファスと同じ、ルビー色の瞳。まだ少しも白髪の混じらない豊かな金髪。国王の斜め横に座り、こちらを見ているのは、かつての義父デュークだった。
……かたつむりの塀の前で二回目の人生が始まった時、馬車に座る姿を見かけて以来だ。
涙がじわりと込み上げ、鼻がツンとする。
挨拶もせず、一国の宰相をジロジロと見下ろす非礼な娘に対し、優しい笑みを向けるデューク。
とうとう溢れてしまった涙に、国王は心配そうに問いかけた。
「どうした? 具合でも悪いのか?」
「もっ……申し訳ありません!」
リンディはハッとし、慌てて二人へ向かい正式な礼をする。だが頭を下げた途端、余計に涙が溢れ、自分の意思では止めることが出来ない。身体を震わせ赤い絨毯に染みを作っていく彼女に、国王とデュークは顔を見合わせていた。
「仕事中に急に呼び出した上に、宰相と二人で待ち構えていたんだ。緊張させてしまったのも無理はない」
リンディの涙を緊張から出たものと捉えた国王は、給仕にハーブティーを運ばせ、彼女へ勧める。
ひたすら謝りながらカップに口を付けると、温かい湯気と清涼感のある香りが、心を落ち着かせてくれた。
国王は彼女の涙が引いたのを見計らい、優しい声音で話を切り出した。
「リンディ・フローランス嬢。君を今日呼んだのは、此処にいるセドラー宰相の肖像画を描いてもらう為だ。歴代の宰相は、就任後すぐに肖像画を描かせるというのに、彼はずっとそれを拒んでいてね。……全く頑固者なんだよ」
仕方ないなと言った調子でデュークを見る王の目は、主従関係ではなく親友に対する温かいものだった。
「もうじき宰相に就任してから十周年を迎えるというのに、彼の肖像画を飾る予定の壁は、未だ空いていてね。このまま退任するつもりかと思っていたんだが、突然、君になら肖像画を描いてもらいたいと言い出したんだ」
私に……?
視線を送られたデュークは、こくりと頷き話し出した。
「リンディ嬢、君が描いた人物画を幾つか見させてもらったよ。どれもその人の表面だけでなく、内面までもが表れていて胸を打たれた。私は自分の顔が嫌いで、肖像画には抵抗があったのだが……君になら自分を遺してもらいたいと思ったんだ」
お父様……
また溢れそうになる涙を、鼻水と一緒にズッと啜る。
幸い王はそんなリンディには気付かず、笑いながら言った。
「彼の気が変わらない内に、早速描いてもらおうと思ってね。画材は持ってきてくれたかい?」
国王が退室し、二人きりになった応接室。
リンディは目を瞑り両手に問いかけると、選んだ右手に鉛筆を持ち、サラサラと輪郭から描いていく。
「じっとしてるのは、なかなか難しいものだな」
「動いても大丈夫です。お父……セドラー宰相様のお顔は、もう頭に入っていますので」
「そうか!それは助かる。早速、欠伸をしても構わないかい?」
『欠伸したいんだけど……動いてもいい?』
父子ね……
リンディはルーファスを重ね、くすりと笑う。同時に込み上げるものを飲み込み、誤魔化す様に明るく言った。
「はい!欠伸でもくしゃみでも何でも!本をお読みになったり、窓の景色をご覧になっても大丈夫ですよ」
「ありがとう。では空を見ていようかな。雲が風に流れていくのを、ぼんやり見るのが好きなんだ」
デュークは少し姿勢を崩すと、ふわあと欠伸をし、穏やかな目で窓の外を眺め出した。
鉛筆を動かしながら、リンディは思う。
記憶の中の……病気になる前のデュークは、もっと若々しかった気がすると。目元の微かな笑い皺しかなかったあの頃に比べ、今は頬が痩け、クマで黒ずんだ目元には深い皺が刻まれている。
まだこの時期はお元気だったと思うけど……二回目は違うのかしら。まさかもう、ご病気に……
リンディは懸命に不安を振り払い、絵に集中する。
再び目を瞑り両手に問いかけると、今度は左手に鉛筆を持ち、別の紙に瞳から描いていった。
「……出来ました!」
「もう描けたのか?」
「はい!彩色はまだですが、下書きは終わりです。こっちは右手、こっちは左手で描いてみました。どちらがお好きですか?」
デュークは差し出された二枚の絵を見比べる。
右手で描かれた自分は、鏡で見る自分とほぼ同じだ。気味の悪い顔は、どこまでも滑稽で哀しい。
左手で描かれた自分は、全く見知らぬ自分だ。目元に笑い皺をたたえたその顔は、幸福に満ちている。
どちらも表情は同じなのに、こんなに違うものなのか……
「君にはどちらが本当の私に見える?」
「右手の方は、お父……セドラー宰相様の現在のお姿で、左手の方は、宰相様の過去と未来のお姿である気がします。どちらも本当の宰相様に見えます」
「そうか……」
デュークは首を振り笑う。
「私には、右手の方が真実の自分。左手の方は理想の自分である気がするよ。……こんな顔で生きられたら、どんなに幸せだっただろうな」
理想の自分を手に取り、しばらく眺めた後、真実の自分に持ち変えた。
「王宮に飾る物は偽りの姿であってはいけない。……こちらの右手の方に色を塗り、仕上げてくれないか? 左手の方は、このまま記念にもらっておくよ」
デュークのあまりにも哀しい顔に、リンディの瞳がゆらゆらと潤み出す。
「お父さ……セドラー宰相様は、幸せではないのですか?」
「……家族を苦しめて、不幸にしてしまったからね。彼が……たった一人の息子が幸せになってくれない限り、私は永遠に幸せにはなれないよ」
さっき見た空よりも澄んだ瞳に、デュークは思う。
自分は何故、今日会ったばかりの少女に、こんな情けない話をしているのかと。
涙がほろりと彼女の頬から落ちる前に、自分のハンカチで受け止めた。だが、そうしたことによってか……彼女は一層肩を震わせ、後から後からハンカチを濡らしていく。
「お父様……セドラー宰相様は、どこかお身体の具合は悪くありませんか?痛い所や苦しい所はありませんか? 大丈夫だと思っても、必ず毎日お医者様に診てもらって、何か見つかったら早く治してもらって下さいね。長生きして下さらないと哀しいです。お兄……ルーファス様も……私も」
懇願する様に言う彼女に、ルビー色の瞳が見開いていく。
この娘は……私の寿命を、セドラー家の男子の宿命を知っているとでもいうのだろうか。何とも奇妙な……それでいてどこか懐かしく……愛しい感覚に、胸の奥がじんと震えた。
彼女の頬を拭い続けながら、デュークはさっきから気になっていたことを尋ねてみる。
「君は何故、私のことを“お父様”と呼ぼうとするんだ?」
……気付かれちゃった!
リンディは眉間に皺を寄せたり、目をキョロキョロ動かしたりと、アワアワと百面相を繰り出す。そんな自分を見て、デュークは声を上げて笑い出した。
私の知っているお父様だ……私を見て、話を聞いて、こうしてよく楽しそうに笑ってくれた……あのお父様だ。
ふっと気持ちがほぐれ、リンディは気付けば自然と問いに答えていた。
「亡くなった父を……思い出したからです」
「父上を?」
「はい……もう一度会いたいと。元気な父に会いたいと。ずっとそう思っていました」
デュークはハンカチとは逆の手で、リンディの頭を優しく撫でる。
「私は、お父上に似ているのか?」
「はい、とても」
「そうか……そういえば私も、君の様な可愛い娘が居た気がするよ」
かつての義父と娘は、心を通わせ微笑み合った。
「……君の為に長生きしないとな」
二日後、彩色を終えた肖像画を手に、リンディは再び国王とデュークの元へ向かった。
「素晴らしい!歴代の宰相の中で、最も凛々しく威厳があるのではないか?」
手放しで褒め称える国王に、デュークは苦笑する。
「実物より立派になってしまいましたね」
「肖像画なんてそんな物だ。私の絵なんて、実物を見ても本人と気付かれないだろう」
「ああ……そう言われればそうですね。シミや皺がないどころか、鼻の高さまで配慮されていましたし」
「国王に向かってそんなことを言うのはお前くらいだ。今度こそ極刑にしてやろうか」
「私を刑に処したら、気難しい陛下のお相手を出来る者が誰も居なくなってしまいますよ。お寂しいでしょう?」
「それもそうだな。では刑の執行はもう少し延期しよう」
軽口を叩き合いながらも、仲睦まじく笑う二人に、リンディは微笑んでいた。
「それにしても……睫毛の一本一本まで繊細で、今にも瞬きをしそうだ。瞳の色も美しいな、リンディ嬢」
「宰相様の美しいルビー色を出すのが難しくて……少し違う色味になってしまいました」
「いや、これはこれで深味があって良い色だ。彼の内面が出ている。……よし、ではこの絵に合う額を、この中から選んでくれないか?」
ズラリと並ぶ高価な額に、リンディは興奮する。ランネ学園でも見たことのない、貴重な素材や美しい細工のものばかりだ。
一つずつ触れてはため息を吐く彼女に、国王は言った。
「アリエッタ王女の肖像画も君に描いてもらいたかったがな……嫁ぐ前に」
“王女”
その言葉に、リンディは珍しくさっと意識を戻し、国王を見た。
「王女様……ご結婚されたのですか?」
「いや、来月成人を迎えると同時に、嫁ぐ予定なんだがね。既にヘイル国で暮らしていて、此処へはもう帰って来ないんだ」




