第５７話 二回目 リンディは17歳（7）
視線の先には、闇の中に居たあの男……黒髪に赤い目の、自分にそっくりな男が居る。
金髪の見知らぬ女と笑い合って……
ルーファスの足は勝手に駆け出し、二人の前に立つ。
至近距離まで来てやっと、それがあの男ではなく、自分の護衛のヨハネスだということに気付いた。そして笑い合っていたのは……
隣の女に視線を落とした。
突如、息を切らせ現れた主人に、ヨハネスは驚く。
……何故此処に？
一先ず敬礼するも、普段と違う主人の様子に、ただならぬ何かを感じていた。
ルーファスが来たことにも気付かず、二本の筆を真剣に見比べ、吟味するリンディ。筆を持つその左手に光る物を見つけたルーファスは、がっと細い手首を掴み叫んだ。
「……これは何だ！？」
筆から手首、手首から声の方へ、徐々に意識を移したリンディは驚愕する。
……お兄様……？
もはや指先に力は入らず、筆はポロリと落ちた。
「あっ……あの……」
自分を見下ろすルビー色の瞳は鋭く、恐ろしさのあまり、口をパクパクすることしか出来ない。
「……来い！！」
そのままズルズルと引きずられて行った。
路地裏まで連れて行かれたリンディは、建物の壁に押さえ込まれ、一切の動きを封じられる。
……感動の再会？ いえ、頭のおかしい私でも分かる。そんな雰囲気じゃないわ……これは、とても……
リンディの背に、嫌な汗がつうと流れた。
「この指輪は何だ」
掴まれていた左手を目の前に掲げられ、石の砂がキラキラと揺れた。
ゆび……わ…………
チラリとルーファスの左手を見れば、自分と同じ指輪が輝く薬指。
やっぱりある！ 私のも見えてるみたい！
ということは、この状況は……懸命に頭を動かす。
「何だと聞いているんだ」
大好きな顔を近付けられ、嬉しい筈が……今はただただ恐ろしい。リンディの思考は停止し、口が勝手に答えていた。
「指輪……です」
ルーファスの顔が、カッと怒りに燃える。
「ふざけるな！！」
恐らく子供の頃、突如彼の指に現れたであろう指輪。外れない、誰にも見えない謎の指輪。それと全く同じ物を薬指に着けている女。今自分は、彼にとって怪しい以外の何者でもないだろう。……つまり、非常にまずい状況だ。
リンディはビクリと肩を竦める。
「……言え。この指輪は何だ。どこで手に入れた」
どうしよう、どうしよう、いきなりこんな尋問。何の答えも用意出来ていない。ああ！私ったら、何でこうなることを予測出来なかったのかしら。
きっと正直に言っても信じてもらえないだろうし、魔術だの呪術だの言ったら……
チラリと目をやれば、殺気立った顔で自分に覆い被さるルーファス。
……最悪殺されてしまうかもしれない。
そう、彼は王家の血を引く公爵令息様で、宰相の息子。たかが男爵令嬢の、こんな小娘一人消すことなど訳ないのだから。リンディは青くなるも、身体の奥から、沸々と生存本能が湧いてくる。
もう、拷問だの投獄だの、痛いのはこりごり！
こうなったら……私も知らぬふりを通すしかないわ。
「……知りません。5歳の時から、気付いたら指に嵌まっていました。外れません、誰にも見えません、諦めました、お手上げです」
私は無害よ！とばかりに、愛想よくヘラヘラと笑ってみせる。だが……
「何を隠している」
ルーファスの目は更に鋭さを増す。
「外れない……誰にも見えない……そんな気味の悪い指輪を着けた女が、同じ指輪を着ける自分に近付き、更に護衛に取り入ろうとしている。これを偶然だとでも言うのか」
偶然……ではないわね、確かに。
思わずフルフルと首を振ってしまったリンディの左手には、いつの間にか短剣が当てられていた。
「言え！何を企んでいる！……言わなければ指を一本ずつ落としていってやる」
冷たい刃の感触に、リンディはゾッとする。
嫌……指だけは絶対に嫌！
一緒に絵を描いてきた大切なパートナーなのに……
何か……何か指を、身を守る武器はない？ そうだ、あれ！
リンディは自由な右手で、肩掛け鞄をガサガサ探り、ある物を掴む。
「指ごと指輪を落とせば、何か分かるかもしれないな」
ぐっと薬指を掴まれ、刃先を当てられた瞬間──
リンディは巨大な緑の物体を、ルーファスの顔へ突き付けた。
「釣りは要らない！」
ヨハネスは財布から紙幣を掴み出店の男に渡すと、リンディの落としていった篭を拾い、慌てて二人の後を追い掛けた。
何処だ？
見失った辺りを探していると……居た！
けど……一体これはどういう状況なんだ？
指に剣を当てられているリンディと……緑の物体をぐりぐりと顔に押し付けられている……我が主人、ルーファス・セドラー。
その木みたいな物体の正体に気付くと、ヨハネスはひっと叫びそうになった。
それは主人がこの世で一番忌み嫌う……見るだけで気分が悪くなるという……ブロッコリー。
粒々が……粒々に……顔を……目、鼻、口……全てが侵食されている……粒々……つぶつぶ……
ルーファスの全身に、ぞわっと鳥肌が立つ。
緩んだ彼の手から、するりと短剣が落ちた。もう指を脅かすものは何もないというのに、リンディは攻撃の手を緩めない。生存本能が生む獣並みの力で、これでもかと、ぐりぐりぐりぐり顔に押し付け続ける。
限界を突破したルーファスは、やがて立っていられなくなり、ふらりとその場に倒れ込んだ。
リンディはやっと我に返り、ブロッコリーを構えたまましゃがむと、ルーファスを揺さぶる。
「……お兄様！大丈夫！？」
白目を向き、うっと嘔吐くルーファスに、リンディは取り乱す。
「いやだ……死んじゃ嫌！」
益々激しく揺さぶられ、ルーファスはとうとう気を失った。
ごめんなさいと泣きわめきながら、主人を揺らし続けるリンディ。これは……どうしたものかと考えるヨハネスの視線の先に、主人を見失い慌てて探し回るセドラー家の護衛が居た。
そう、自分は今日非番だ。見たところ気絶しているだけだし、他の護衛に任せても問題ないだろう。
……それに剣を当てられていたあの様子からして、主人はリンディへ対し、何かしらの敵意を抱いている。目を覚ましたら色々と厄介だ。
ヨハネスは護衛を呼ぶと、さっと事情を説明する。胃の辺りに手をかざし、回復魔力で簡単なケアだけすると、主人を預けた。
「気絶してるだけだから大丈夫だよ、行こう」
「……本っ当？ 死なっない？」
まだ傍でしゃくり上げるリンディの背を、落ち着かせる様に撫でる。ブロッコリーを顔に付けたぐらいで人を殺せたら、学会も大騒ぎだと思うが……彼女は至って真面目だ。
「うん、胃のケアもしたから大丈夫。目を覚ます前に、早く行こう」
リンディの手を取り立ち上がらせると、一目散にその場から逃げ出した。
離れた公園までやって来ると、はあはあと芝生に座り込む二人。
こんなに全力疾走したのは久しぶりだ……
ヨハネスは汗を拭い、シャツの襟元を掴んでパタパタと風を通す。
リンディは……と隣を見れば、ボロボロのブロッコリーを両手に抱え、笑ったり泣いたりと忙しなく表情を動かしている。
お兄様……やっぱり本物のお兄様だった……
ちゃんとブロッコリーが嫌いだった……私の知っている部分が残っていた……嬉しい……でも……
そんな本物のお兄様が、私に剣を向けた。何度も繋いだあの優しい手で、私の手を乱暴に掴み刃を当てた。
ひりひりと痛む手首と薬指を見れば、強く掴まれたせいで赤くなっている。
哀しいのに……お兄様の手が触れていたと思うと嬉しくて……でも哀しくて……
ブロッコリーに涙を落とし続けるリンディの左手をそっと取ると、ヨハネスは手をかざし緑の光に包む。
赤くなっていた部分は、すうっと元の肌色に戻っていった。
……もう痛みも感じない。
リンディは目をごしごし拭った。
「ありがとう……回復魔力、すごいわね」
「ううん、難しいことは出来ないけど、このくらいなら」
「……ブロッコリー、折角美味しいサラダにする予定だったのに、こんな可哀想な姿にしてしまったわ。お兄様にも可哀想なことを……あんなに苦しむなんて」
“お兄様”
「リンディ」
ヨハネスはリンディの肩を掴み、真剣に向き合う。
「さっきもルーファス様のことを、“お兄様”って呼んでいたよね？ 親戚のお兄さんって、もしかして彼なの？ 君達はどういう関係？」
緑色の美しい瞳には、ただ彼女を案じる気持ちが表れている。
……もう、これ以上隠しきれない。
信じてもらえないかもしれない、彼のお祖父様の話をして嫌な思いをさせてしまうかもしれない。でも……何よりもう、こんなに優しい彼に嘘を吐きたくない。
「……実はね、ヨハン兄様にずっと隠していたことがあるの。信じてもらえないかもしれないけど……おかしいと思われてしまうかもしれないけど……全部話すわ」
リンディはすうっと息を吸い込んだ。
