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第56話 二回目 リンディは17歳(6)


袋を手に彼女の部屋の前に立てば、ドアには大きな◯が書かれた紙が貼ってある。ヨハネスはふっと笑いながら紙を剥がした。

ノックしようと手を上げると同時に、バンとドアが開く。危うく顔に直撃する所を、彼は持ち前の反射神経で何とか躱した。


「いらっしゃい!」

「こんにちは。まだノックしてないのに、よく分かったね」

「階段がギシギシ鳴るから分かるの。紙を剥がす音もしたし」

「そうか……便利な階段だな。でも泥棒の可能性もあるから、今度からちゃんと確認してね」

「分かったわ」


この城は、セキュリティ面では大きな問題があるからな。素直で警戒心のなさそうな彼女だから、余計に心配だ。……こうして男を簡単に部屋に入れてしまうし。


室内は相変わらず乱雑ではあるものの、心地好く冷やされている。そして、鼻腔をくすぐるあの甘い塗料の香りに、ヨハネスはほっと温かな気持ちに包まれていた。


「良かった。お土産、アイスクリームを買ってきてしまったから、もし✕だったら一人で搔き込まなきゃいけないとこだったよ」

「アイスクリーム!? 嬉しい!」

「あと、ローストチキンと林檎。君の好みが分からなかったんだけど……食べられる?」

「うわあ、全部嬉しい!チキンも林檎も、好きだけど自分ではなかなか買えないから。ありがとう、ヨハン兄様」

「ヨハン兄様?」

「うん!年上なのに、呼び捨ては失礼だと思って。そう呼んでもいい?」


……ヨハン“兄様”か。

何だかくすぐったく、思わず顔が綻んでしまう。


「もちろん。妹が出来たみたいで嬉しいよ。君は今18歳?」

「ううん、まだ17歳なの。飛び級で卒業して、採用試験を受けたから」

「飛び級!? 優秀なんだね」

「……ちょっとね、慣れてる試験だったから。頭が勝手に覚えてしまっていただけで、考えて解いた訳ではないし、優秀な訳でもないの」


ヨハネスは小首を傾げるも、それでも感心した様に頷く。リンディは居たたまれず話を逸らした。

「ヨハン兄様は幾つなの?」

「21歳。もうすぐ22歳になるよ」

「じゃあ私より5つも上ね。やっぱり呼び捨てにしなくて良かったわ」


そこでふとリンディは思う。自分の実年齢は31歳なのだから、本当は自分の方が年上か?と。でも、彼も二回目の人生なら実年齢は……えっと……ええと……本当に数字は嫌い。とにかく彼が年上であることに変わりないのかしら。何だかややこしいわ。

彼には一回目の記憶がないのだから、精神年齢は自分の方が上なのだろうけど……全く開きを感じない。むしろ彼の方が大人だし、しっかりしている。

もう難しいことを考えずに、素直に肉体年齢で考えよう!


難しい顔で唸るリンディの頬に、何やら冷たい物が当てられた。

「ひゃあっ」

驚き飛び退く彼女の手に、ヨハネスは笑いながらアイスクリームの容器を置く。

「溶ける前に食べよう。ね?」



舌に広がる清々しい甘さに、目を細めにんまりするリンディ。「う~ん!」と興奮しながら、夢中でスプーンを口に運んでいる。

……買ってきて良かったな。

一人で食べるより何倍も甘く感じるそれを、ヨハネスはしみじみと味わっていた。


誰かの為に金を使えるのは幸せだ。

祖父が亡くなってから天涯孤独の身であった彼は、ルーファスの護衛で得る破格の給金をもて余していた。支えたい家族は既にこの世になく、恩返ししたいあの老人は居所が分からない。自分は何の為に働いているのだろうと、ふとした時に、空しさを感じることもあった。


アイスクリーム一つでこんなに喜んでくれるなら、10個……100個……幾つでも買ってやりたいと思う。

きっと妹が生きていたら、そうしていたに違いないから。


最後の一匙を掬い、ご馳走さまでしたと手を合わせるリンディを、ヨハネスは優しい眼差しで見つめていた。



眩しい太陽が差す奥の部屋に目をやれば、彼女が『生きている絵』と呼んでいた出窓の隣に、もう一つ窓がある。あんな窓あったか……? しかも、なんとそちらの景色は夜の星空だ。

どういうことかと目を凝らせば、それはイーゼルに置かれたキャンバスだということに気付く。ヨハネスは立ち上がると、それに近付きまじまじと眺めた。


「すごい……窓が二つあるみたいだ」

「そう? 心を空っぽにして写したから、その絵はあまり気に入ってないのだけど」

「でもすごく綺麗だよ。本当に星が点滅しているみたいだ。昼と夜、両方の景色が同時に楽しめるなんて素敵だね」


リンディもぴょんと椅子から降り、改めて絵を眺める。

……やっぱりこの絵はあまり好きじゃない。だけど、彼の言う通り、もう一つの窓と考えれば、少しだけ素敵な気もしてきた。


「リンディ、お昼を食べ終わったら、絵を教えてくれないか? 僕もこんな風に描いてみたい」





さっきの貼り紙の裏にでも描くつもりが、リンディは惜し気もなく、高価なキャンバスをヨハネスへ差し出す。


「いいよ、練習なんだから勿体ない。絵を描くのなんて子供の時以来だし、きっと上手く描けないだろうから」

「だからこそキャンバスに描くのよ。絶対こっちの方が楽しいわ!」


リンディは彼の前に、ずらっと画材を並べる。木炭、鉛筆、それに絵の具が何種類も。

「どれでも好きなのを使ってね。色々試してみて」


ヨハネスは、ガラスのシリンジに入った、緑の絵の具に興味を示し手に取った。

「……綺麗な色だね。これであの木を描いてみたい」

指差す窓の外には、緑の葉がユサユサと生い茂る大きな木。

「素敵!私もまだ、あの木は描いたことがないの」

「すぐに色を塗りたい気分なんだけど、下書きからした方がいいよね?」

「ううん、どちらでも構わないのよ。途中で変えたくなったら、色を重ねていけばいいし。気分が大事!」


そう言いながら、リンディは手早く絵の具をパレットに出し、筆になじませるとヨハネスへ渡す。

「どうぞ。思いきり楽しんでね」

彼はまるで冒険に出発する様な、わくわくした気分で、それを受け取った。



「……うーん、枝に奥行きを出したいんだけど、上手く描けないな。教えてくれる?」


にこにこ見守っていたリンディは、すっと彼の背中へ回り、横から筆を持つ長い指を取った。左利きの彼に左手を添えるので、自然と身体が密着する形になる。


アイスクリームか……それともさっき食べたばかりの林檎だろうか。

彼女からふわりと漂う甘い香りに、ヨハネスの胸がとくりと跳ねる。

「……君も左利きなの?」

「どっちも使えるの。色を塗るのは左の方が、線を描くのは右の方が少しだけ得意。でもその日によって違うから、手に聞いてから描くことにしてるわ。今日はね、左!」

「へえ……」


本当に面白いだな……

リンディの繊細な指に導かれ、平面的だった木は、みるみる立体的に仕上がっていった。


色を足しながら一通り木を描き終えると、ヨハネスは赤と黄色のシリンジを取った。

「この木に、果物を描いたら変かな。しかも林檎とオレンジ両方なんて」

「うわあ、すごく素敵!両方食べられる木なんて夢みたい! 変でいいのよ。芸術には、“変”が必要なの。」

「そうなの?」

「ええ!お兄様の絵なんて、すごく変だけど可愛くて大好きだったもの」


あ……また。リンディは口をつぐむ。


「お兄様って、この間言ってた親戚のお兄さん?」

「うん……」


それきり背を向け、絵の具の準備をする彼女。

……時折こうして、堪らなく哀しく見えるのは気のせいだろうか。






それからヨハネスは、休日の度にリンディの家を訪れ、共に過ごす様になっていた。孤独に耐えていた少年は、大人になった今、失った家族を再び手にした様な幸福感に満たされていた。


一方リンディも、彼と過ごす休日を楽しみにしていた。ルーファスや指輪のことを考えては、混乱し押し潰されそうになる心が慰められるからだ。

それに、リンディはヨハネスのことが好きである。

ルーファスが兄だった時の甘酸っぱい“好き”とは違い、ヨハネスに対するそれは、本当の兄の様な、家族の様な優しい“好き”だった。



今日は買い物に付き合って欲しい、そうヨハネスに連れられて来たのは、役所前の広場で年に二回開かれる雑貨市。

外国からの輸入品が多いこの市で、ヨハネスはリンディへ珍しい画材を買ってやりたかったのだ。期待どおり、画材が並ぶ店の前で足を止め、目を輝かせるリンディ。財布と相談しながら物色する彼女の横で、ヨハネスは迷って泣く泣く戻された方の画材を、どんどん自分の篭に入れていった。


こっそり買って、後でまとめて渡したらどんなに喜ぶかな。

その笑顔を思い浮かべるだけで、ヨハネスは楽しくなっていた。




役所から出て来た一人の男は、人混みの中の一点に目を止め立ち尽くす。


あれは……!


あり得ない光景に、ルビー色の瞳は激しく混乱していた。


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