第52話 二回目 リンディは17歳(2)
翌日、作業室で金のベルをじっと見つめるロッテに、ジョセフ画家長は話し掛けた。
「それ、昨日リンディ嬢から預かったベルか?」
「ええ……“私は何かに集中すると、中断出来なくなってしまうので、用がある時はこれを鳴らして下さい”って」
「面白い子だな。君の言う通り、即戦力になりそうだし」
それには答えず、ロッテはベルを手に取ると、チリンと鳴らしてみる。
「……私、前にもこれを何度も鳴らした気がして。懐かしい様な、不思議な気持ちになるんです」
「そう言われれば、私もその音を聞くと懐かしい気持ちになるよ。実に不思議だな」
何とも奇妙な感覚に、無意識に微笑む二人。画家長もロッテからそれを受け取り、チリチリと鳴らしてみる。
「人生は不思議なことばかりだな。誰かに操られ、嘲笑われている気さえするよ」
「分かります……私も子供の頃から、そんな風に考えては眠れない夜がありました」
「君もか!良かった。私が変人なのかと思っていた」
「変でなきゃ、この仕事は務まらないでしょう」
「ああ、それもそうだな」
目を合わせ、くすくす笑い合う。その穏やかな空間に、高い声が滑り込んだ。
「おはようございます!」
始業時間の30分以上前に到着したリンディは、ハツラツとした声とは反対に、目の下に大きなクマを浮かべている。
「今日からよろしくお願いします! あっ、拭き掃除と、道具の準備やりますね」
そう言うと慣れた手付きで、乾かしておいた絵筆やパレットを篭に入れていく。
まだ何も教えてないのに……何故朝の仕事が分かるのかしら。
首を傾げ合う二人を余所に、リンディは楽しそうに机を拭き始めた。
一通り終えると、ふわあと大きな欠伸をしながら、ロッテの隣に座るリンディ。こうして並んだ机をあてがわれるのは、前と同じだった。
「……睡眠はきっちり取りなさい。寝不足は画家の大敵よ」
「すみません……色々考え事をしていたら、いつの間にか明るくなっていて……そうしたら、窓から見える朝日と王宮が綺麗過ぎて、もう少しも寝られなくなってしまって」
「どうしても睡魔に耐えられなくなったら言いなさい。貴女、人の何倍も仕事をするのだから、少しぐらい仮眠を取ったって構わないわよ」
……ん? 私としたことが、なんて甘っちょろいこと!
確かに昨日の適正試験は凄かったけど、どれだけ仕事するかなんて、まだ分からないじゃない。
ロッテはそんな自分に呆れ、眉をしかめる。
そう、隣でにこにこと微笑むお嬢ちゃんに、自分は明らかに好意を抱いている。昨日会ったばかりなのに何故かしら。私は一体、何に操られているの?
でも……
多忙なクセに退屈な自分の人生。この娘はそこに差した光かもしれない。
心地好い不思議な刺激に、気付けばロッテも微笑み返していた。
一回目の人生では、専属画家となってすぐ三ヶ国会議の資料制作に追われていたが、その一年前の今は閑散期だったらしい。
あっさりと定時で上がったリンディは、ロッテに誘われあの馴染みの店にやってきた。
「わあ……このお店、もう一度来たかったんです!」
「あら、来たことあるの?」
「はい!前に何回か来ました!ランプも椅子もお祭りみたいで素敵だし、ご飯は美味しいし、大好きなんです」
「そう」
お祭りね……
またもや不思議な感覚に襲われるロッテは、高揚した気分でメニュー表を開いた。
「貴女、まだ17歳でしょ? 未成年だからジュースね」
グラスを合わせると、作業室のことやリンディの住むアパートのことなど、他愛ない話を交わす。
「へえ……外から見る王宮ってそんなに綺麗だったかしら。もうずっと中で働いていて、職場っていう感覚しかなかったから」
「今度家に見に来て下さい!出窓が大きな額縁に見える位、本当に綺麗なんです」
「ありがとう、是非見させてもらいたいわ。あ、良かったらお礼に何かご飯を作るわよ。私、料理が好きなの」
「うわあ!嬉しいです!」
「美味しいブロッコリーメニュー、考えておくわね」
はっ……何故ブロッコリー?
自然と口から出たそれは、どうやら彼女の好物らしく、わあと更に喜ばれる。
まあいいか、もうすぐ旬だし。
楽しそうにオレンジジュースを飲むリンディを見ながら、ロッテもぐいとグラスを傾け笑った。
早々に空になったグラスが片付けられ、お代わりが届いたタイミングで、リンディは尋ねてみる。
「あの……ロッテさん。大臣……補佐の、ルーファス・セドラーさんてご存知ですか?」
ルーファス・セドラー。その名を聞いた瞬間、さっきまでご機嫌だったロッテの眉間に、くっきりと皺が刻まれた。
「もちろん知ってるわよ。公爵令息だか何だか知らないけど、まだ補佐のくせに王様みたいに偉そうなやつ」
……あれ? 一回目の人生では、ロッテさんも画家の先輩達も、みんなお兄様を褒めていたと思うけど。
「この間なんて、たまたま廊下の角で出会い頭に肩が掠ってね。そうしたらアイツ、どうしたと思う?」
……どうしたんだろう。これは難問だ。
何しろ二回目の人生におけるルーファスの情報は、リンディの中にほぼない。そんな彼女から導き出された答えは……
「“退け”って言われましたか?」
──不正解だったらしい。ロッテはくわっと目を見開く。
「そんなもんじゃないわよ!チッと舌打ちしながら、ハンカチで汚らわしそうに肩を拭われたのよ!しかもそのハンカチをね、傍の護衛に渡して、“捨てろ”って命じたのよ!」
鼻息荒く、数秒で新しいグラスを空にするロッテに、リンディは圧倒される。
嘘……お兄様がそんなこと……信じられない。
私、さっきちゃんとルーファス・セドラーって言ったわよね? 同姓同名の別人とかじゃなくて?
「あの……ルーファス・セドラーさんて、背が高くて黒髪にルビー色の目の人ですよね?」
「そうよ!他に誰がいるの!」
やっぱり……やっぱりお兄様本人で間違いないらしい。
昨日の態度といい、ロッテさんの話といい、何故あんなに優しかったお兄様は変わってしまったのだろう。
「も~極度の女性嫌いだか何だか知らないけど、腹が立つったらありゃしない!こっちだって風呂でゴシゴシ肩を洗ってやったわよ! ……あ、すみません、お代わり下さい」
……ん? 今、聞き捨てならない言葉があった気が……
「ロッテさん!今、極度の女性嫌いって言いましたか!?」
「……ええ、そうよ」
「お兄……ルーファス・セドラーさんは、女性が嫌いなんですか!?」
今度はロッテがリンディの勢いに圧倒される。
「……ええ、そういう噂よ。おまけに男性が好きみたいで、いつも傍にいる護衛と恋仲なんですって。廊下で抱き合っている所を何人も見ているから……私もね。信憑性は高いと思うけど」
──夕べ程リンディは酒を飲みたいと、飲んで神経を麻痺させたいと思ったことはない。本当はもう成人しているのに、いや、成人どころか大分いい歳なのに、飲めないことが悔しかった。
あれ……そういえば私、実年齢は幾つ? 19+17……違う、二回目は5歳からだから……相変わらず苦手な計算を、ぶつぶつ唱えながらアパートを出る。
結局また一睡も出来ずに、仕事に向かわねばならなかった。
寝不足の身には痛すぎる朝日。クマが一層濃くなった目元を細め、帽子のつばをぐいと下げた。
男……まさかお兄様が、男の人が好きなんて。二回目の人生では、恋愛の嗜好まで変わってしまうものなの?
んもう~~~試練与えすぎだってば!
リンディは指輪が心底恨めしくなった。
でも……男の人が好きなら、絶対に私を愛することはない? 愛されなければ、冷たいお兄様のままなら、寿命を分けてもらわなくて済む?
悶々と考え歩を進める内に、いつの間にか王宮の裏門まで来ていた。
ダメ……駄目駄目!
実年齢が31歳でも、倒れる程眠くても、お兄様が男の人しか愛せなくても、とりあえず今は仕事に集中しないと!
両手でパシッと頬を叩き、王宮へ足を踏み入れた時……
横をすっと黒い影が通った。リンディのセンサーが反応する。
……お兄様!!
ばっと顔を上げれば、ルーファスらしき背中と、それに付き従う別の男性の背中があった。
あの人が、お兄様の愛する護衛さん?
ルーファスと同じ高さにあるのは、特徴的なサラサラのミルクティー色の髪の毛。
どんな人なんだろう……一目、一目見るだけ……
リンディは、気付けばまた獣並みの速さで駆け出していた。
前に回り込めば『退け』と言われることを学習した彼女は、今度は横に並び護衛らしき彼を覗き込む。
見覚えのあるその顔に、リンディはあっと息を飲んだ。確か絵に描いたこともある。彼の名は……そう、
「ヨハネス・ウェン!!」




