第51話 二回目 リンディは17歳(1)
どけ……ドケ……どけ…………退け?
たった二文字の言葉に混乱するリンディに目もくれず、彼は横をすり抜け立ち去る。
その背中が廊下の角を曲がるまで、リンディはぼんやりと見送った。
今のは……本当にお兄様だったかしら。
うん、確かにお兄様よ!大好きなお兄様を、私が見間違う訳ないもの!
でも……どこか違う気がしたのは何故? 艶々の黒髪も、高い鼻も、アーモンド形のルビー色の瞳も……確かにお兄様の顔だったのだけど。
『退け』
さっきの言葉が何度も頭に響く。低い声も確かにお兄様のものだけど……前はもっと甘くて優しかったわ。
やっぱり……別人? それとも幻覚?
ああ、私ったら!自己紹介して、ちゃんと本物か名前を聞けば良かった! 『私達、二回目なの』なんて……何であんな馬鹿なこと!
頭を掻きむしり悶絶するリンディの横を、なるべく見ない様にしながら王宮の職員達がすり抜けていく。
そうこうしている内に時計の針は進み、ゴーンと重い音が廊下に響いた。頭から手を下ろしたリンディは、その音が9時を知らせる鐘であることに気付き、さっと青ざめる。
たっ……大変!
リンディ・フローランス。10歳からあらゆる絵画コンクールで賞を総なめにし、僅か12歳で国王陛下より勲章と奨学金を賜る。ランネ学園の芸術科を飛び級で卒業し、採用試験はトップで合格。だけど……
「遅くなってすみません!!」
飛び込んできたのは、もじゃもじゃの金の毛に覆われた謎の物体。
「初日から遅刻なんて、いいご身分ね。それに此処は王宮よ。余裕を持って、身だしなみもきっちり整えてきてちょうだい」
「はい!すみません!」
慌てたリンディは鞄をひっくり返すも、紙くずやハンカチ、画材が散らばるだけで、肝心の櫛が見つからない。
まだ自己紹介もしていないのに……この調子じゃ先が思いやられるわ。
ロッテはやれやれと首を振り、自分の荷物から櫛を取り出すと、リンディのリボンをほどき髪を梳いてやる。
私……何しているのかしら。櫛を渡して自分でやらせればいいのに。
綺麗に整ったくるくるの金髪に青いリボンを結び直せば、お人形みたいなお嬢ちゃんが現れた。
涙ぐんだ青い瞳はロッテを見つめ、にこりと微笑みながら言う。
「リンディ・フローランスです。二回目もよろしくお願い致します!」
一回目と同じく、広間の壁画を模写する適正試験を無事に終えたリンディは、一人夕暮れの道を歩いて帰る。
王宮から徒歩10分の好立地にあるこのアパートは、以前兄と住んでいた高級アパートとは比べ物にならない、築ウン十年のオンボロだった。
もちろんセキュリティなど何もないが、一階には明るく親切な大家夫妻が住んでおり、家賃も格安でリンディは気に入っていた。
それに……
部屋に入り、シャッとカーテンを開ければ、赤い夕陽に佇む王宮を一望出来る。兄を想い出しては沈む心を、この美しい景色が慰めてくれる気がしていた。
古びた出窓に腰掛けながら、リンディは今朝の『彼』について考える。考えれば考える程、やはりあれは兄ルーファスだったのだと、そう確信していた。
何故なら、彼が放つ違和感と、在学中に聞いたワイアット教授の話がピタリと重なったからだ。
◇
あれは高等部の一年生の頃だった。久しぶりに学園の本堂で講演会を行うというワイアット教授を、リンディは逃がすものかと出待ちしていた。
それは彼女だけに留まらず、憧れの教授と一言だけでも話したい、教えを乞いたいと待つ生徒達が外に押し寄せていた。
90歳間近とは思えぬ貫禄の教授が出てくるなり、わっと群がる生徒達。その勢いに押された小柄なリンディは、後ろの方でピョンピョン飛び跳ねるしかなかった。
だが……何故か教授の方からリンディの元へ近付き、話がしたいと言われたのだ。
『君を纏っている魔力と呪力が、あまりに強力で気になったものでね。君自身の力ではなさそうなところを見ると、誰かにかけられたものか……魔道具か?』
話を聞く前にズバリと言い当てた教授に、リンディは興奮しながら皺々の手を握る。
『そうなんです!魔道具なんです!ここ……この薬指に、他の人には見えないけど、指輪があるんです!』
左手を教授の前にずいっと突き出しながら、右手でメモを取り出す。それは頭に残っている指輪の説明書を、リンディが書き写したものである。また、砂の入った石を可視化する為、リアルな指輪のイラストも描き添えられていた。
“この指輪は、夫婦の契りを交わす男女に適している。
互いの指に嵌めると同時に魔力が作動し、石の砂は相手を表す。
それぞれ一度だけ、相手を強く想う時にのみ、願った時に戻ることが出来る。その記憶は願った者にしか残らないが、指輪は互いの指に残る。
尚、指輪に愛された者達に限り、互いの砂を分け合うことが出来る”
教授は好奇心に満ちた面持ちでそれを読み終わると、リンディの薬指に手を触れたり、角度を変えては何回も眺めた。
『あの……信じて頂けないかもしれないですが、私、今が二回目の人生なんです。19歳で一度死んだんですけど、その時に5歳に戻して欲しいって、指輪にお願いしたんです。そうしたら本当に……』
教授は、ばっとリンディの顔を見る。
『5歳に戻ったというのか?』
『はい』
『……すごいな。時を戻す魔術もさることながら、呪術もすごい。いや、むしろこの魔道具に関しては、呪術の威力の方が上回っているな。これを作った職人の、“念”と言うべきか』
『念……』
興奮のあまり曇った眼鏡を拭き、かけ直す教授。リンディの不安を汲み取ったのか、落ち着かせる様に言った。
『念と言っても、黒魔術の様に悪魔と契約する危険なものではないよ。……まあ呪術自体、危険と隣り合わせと言っても過言ではないが』
『良いことと悪いことが表裏一体……なんですよね?』
『おお、勉強したのか』
『はい……少しだけですが』
呪術には偏見が多い為、堂々と書物を手に入れたり調べることは難しい。リンディも、寂れた古本屋で、呪術の基礎知識なる入門書を手に入れるのがやっとであった。
『その通り、良い効果をもたらす呪術にも、必ず悪い効果を組み込まなくてはならない。良い効果をもたらす為の、試練と言い換えた方がいいかな』
“試練”というその言葉が、まさしくこの二回目の人生そのものである気がして、リンディの中で何かがすとんと落ちた。
『指輪を作った職人さんは、奥さんと一緒に死にたかったと言っていたみたいです。石の砂は寿命で、夫婦で分け合えば同じ時に一緒に死ねる。これが職人さんの考えた良い効果かなって……違うかもしれないけど、私はそう思うんです』
教授は深く頷き、口を開く。
『だとしたら試練は……時戻りと、記憶が願った一方にしか残らないということかな』
……そう、時戻りは良い効果ではない。リンディは思う。
私は元々寿命が少ない為恩恵も感じるけど、それでも人生をやり直すというのは、非常に苦しいことだと身に染みている。何か一つを選択する度に、前の人生と比べては、これで良いのか間違っていないかと大きな不安や葛藤に襲われるからだ。
しかもこの指輪に関しては、時戻りに加え更に辛い試練を男女に課している。
『一方が記憶を失っても、もう一度愛し合えるか。この試練をクリアすれば、指輪に愛され寿命を分け合えるということだろう。
自分の指輪に相手の寿命を映したのは、職人の問いかけかもしれん。自分の寿命を相手に分けてでも一緒に死にたいか、また分けてもらってまで一緒に死ぬことを望むか……と』
教授は最後に、歳だから思うようには動けないが、何かあればいつでもと連絡先を教えてくれた。
◇
ワイアット教授との会話を思い出している内に、王宮はすっかり月光に浮かび上がっていた。
辛い……なんて辛いの……
今朝のあのお兄様が、もう一度私を愛してくれるかが試練なんて。
というか、もし運良く愛されてしまったら、寿命を分け合うことになってしまうの? 嫌だ……それは絶対に嫌。
愛する人と一緒に死ねたら、それは幸せなことかもしれないけど……お兄様と私じゃ寿命に差があり過ぎる。
前のお兄様がこれを知ったら、喜んで私に寿命を差し出してしまいそうだけど、今はどうかしら。
残り僅か一年半という短い寿命で、自分はこれから兄とどう接していけば良いのか。
──接しても良いのか。
ロッテのパンとジョセフ画家長のキャンディを口に転がしつつ、夜は更けていった。




