第44話 一回目 リンディは18歳(26)
驚き、猜疑心、落胆……様々な感情が入り交じったルーファスの視線から、目を逸らす宰相。
「アドべネ宰相、セドラー大臣に説明してあげて」
王女の言葉に、宰相は声を震わせる。
「……セドラー大臣、済まない。君が自白をする前に、既にリンディ嬢が自白をしていたんだ。自分が国王陛下に故意に絵の具を飲ませたと」
リンディが……自白?
ギリギリと首を動かして隣を見れば、瞳に涙を溜めたリンディが震えている。繋いでいた左手をすっと離し、兵に身を預ける様に後ずさる。
「リンディ……どうして? 言ったじゃないか。君は王様に、絶対絵の具を飲ませたりなんかしていないって」
「ごめんなさい……嘘を吐いたの。私がやったの……本当は私が……ごめんなさい」
瞬く間に拘束され、落ちる涙を拭うことも出来ずに、目を伏せるリンディ。
「証拠の絵の具も、彼女の言う通り、陛下のお庭を探したら出て来たわ。……ほら、これよ。外見は黒だけど、中はあのルビー色だったの。きっと分けて持っていたのね」
王女はガウンのポケットから、黒い色紙が巻かれた一本のチューブを取り出す。
……仕組んだのか!
「貴方、元妹を助ける為に、宰相に虚偽の自白をしたんでしょう? そこまでしたのに……結局無駄になってしまったわね。可哀想だけど仕方ないわ。リンディには、嘘を吐き通せる程の、高度な知能はないんですもの」
宰相もまた、ルビー色の紙が巻かれたチューブを一本取り出した。
「こちらは君がさっき持ってきた方だ。残念だが……リンディ嬢の自白と証拠により、既に罪は確定してしまったんだ。……早朝に布令が出される」
布令……何の……布令……何……の?
恐怖の余り、ぐるぐると錯乱する頭。
リンディと同様、拘束され身動きが取れぬルーファスの耳元へ、王女は勝ち誇った様に囁いた。
「先手より先手を打つ人間が生き残るのよ」
◇
『貴女……もうすぐ釈放されるわよ。何故だと思う?』
『……分かりません』
牢の中、怯えた顔で首を振るリンディを、見下ろす王女。
『お兄様のおかげ。……何故かしらねえ』
リンディは少し考え、やはり首を振る。
『……分かりません』
王女は嘲笑を浮かべる。
『やはり貴女の知能じゃ、それ以上は考えられないのね』
縮こまり、リンディは『すみません』と下を向いた。王女はしゃがむと、彼女の顎を指で持ち上げ、目線を合わせる。
『……お兄様がね、自白したのよ。自分が陛下に絵の具を飲ませたって』
『お兄様が……絵の具を…………嘘!』
目を見開き叫ぶリンディの顔を、王女は片手で強く掴む。
『嘘じゃないわ。ちゃんと証拠も持って来たのよ。あのルビー色の絵の具をね』
『持って来た……? 持って……そうです!お兄様、きっと家から絵の具を持って来たんです!私がイーゼルに置いてあるって言ったから……』
『さあ、そんなこと知らないわ。絵の具を持っている彼が、やったと自白したんだから。残念だけど、お兄様が暗殺犯で確定ね』
『そんな……』
青白い頬からガタガタ震える肩に手を移し、王女は笑う。
『良かったじゃない、貴女は釈放されるんだから。それにしても……お兄様は本当に妹想いなのね。自分の命も省みず、罪を被るなんて』
『……違います、お兄様は絶対にやっていません』
リンディは冷たい床に、怪我した額を擦りつける。
『お願いします、お兄様を助けて下さい。お願いします』
『そうねえ。まあ一つだけ方法はあるけど、貴女にとってはあまり良くないわ』
『……教えて下さい!何でもしますから……お願いします、お願いします』
額から更に血が滲む様子を愉快そうに眺めると、王女は懐から一本のチューブを取り出した。それを手に握らされたリンディは、ハッと顔を上げる。
『それ……使わせてあげる。中身はルビー色よ。実は私も同じ物を持っていたの。それを陛下のお庭に隠したことにして、貴女がやったと自白すればお兄様は助かるわ。貴女の方が状況証拠は揃っているしね』
『本当に……本当ですか? 私がこれを王様に飲ませたと言えば、お兄様は助かりますか?』
絵の具を握り締めるリンディから、希望に満ちた目を向けられる。
この娘……どこまで愚かなのかしら。
王女は再び嘲笑と……憐憫を顔に浮かべた。
『ええ、上手くやってあげる。今から宰相の元で正式な取り調べをしましょう。その代わり、きちんと自白してね』
◇
「違う……リンディは何もしていない!きっと証拠も捏造されたんだ!王女に脅されたんだ!宰相、調査を……どうか調査をお願い致します!」
暴れるルーファスを、兵が数人がかりで押さえ付ける。
「無理だ……既に彼女の罪状は確定した。早朝には、国に布令が出される」
「そんな……そんな」
「大丈夫よ、刑の執行は明後日だから。明日一日あれば、お互いに心の整理も出来るでしょ。無事に処刑が済むまで、貴方の身柄も丁重に預からせて頂くわね。落ち着ける様に、ヒーリングの魔術もかけて眠らせてあげる」
命を弄ぶ王女を前に、ルビー色の瞳は暗く燃え盛っている。そこにはもはや、憎悪しかない。
医師の手により放たれた魔術が、その瞳に重たい瞼を下ろしていく。
リンディ……
黒い睫毛の隙間から見えたのは、兵に両腕を掴まれ、引きずられていく金色の巻き毛だった。
暗い……真っ暗だ。
周りも、上も下も、何処を向いても暗闇ばかり。
母上の哀れな亡骸を見たあの日から、心が苦しくなる度に、この闇に襲われる。
冷たいけど楽だった。心を無に包んでくれるから。
だけど……何も……誰も居ない。自分だって、本当は存在しないんじゃないかと、その内堪らなく怖くなった。
飲み込まれない様に、心を空っぽにしていたのに。
『カラス!! 赤い目のカラス!!』
ああ……それは僕のことか?
『カラスのお坊っちゃまは、カラスのお兄様になるの?』
そうだよ、僕は君のお兄様になるんだよ。
『きっと大人になっても、私が一番好きな男の人はお兄様のままだと思うわ』
僕も……僕も、君のことが一番好きだよ。
大人になっても、どんなに歳を取っても、砂が全部落ちて例えこの身体が無くなっても……
君を愛した僕の存在は、決して闇に消えたりしない。
リンディ……君を……リンディ……
リンディ!!
頭は跳ね起きたのに、身体が全く動かない。
そうか……魔術で眠らされたのか……くそ。
「……セドラー大臣は?」
この声は……アドべネ宰相か。
「はい、変わりございません。ずっと眠っていらっしゃいます」
「ご苦労。私が見るから、少し休んできなさい」
「はっ」
ドアが閉まる音が聞こえる。……兵が出て行ったのだろうか。残された足音が近付き、自分の枕元で止まった。
やがて悲痛な声が、ポツリポツリと頭上から響く。
「ルーファス……済まない。我が身可愛さに……大切なものを守る為に、私は……。せめて君だけでも救えればと」
……何を言ってるんだ?
あんたの目を見れば分かるさ。明らかに王女がやったと確信しながら、リンディを犠牲にした。
“君だけでも救えれば?”
取って付けた様に言いやがって。自分の立場を守りたかっただけじゃないか。
こんなやつを信頼していた自分が情けない。情けなくて腹立たしい。
ルーファスの怒りは、指先、手、腕と瞬く間に神経を駆け上がり……瞼をピクリと動かした。




