第38話 一回目 リンディは18歳(20)
フローラから離縁の書類を託された数日後、役所で手続きを終えたルーファスは、リンディと手を繋いで外へ出る。頬を温める日差しに空を見上げれば、自分の心を映すかのような、澄んだ青色が広がっていた。
「お兄様、もう私達兄妹じゃないの?」
「うん……だからもう、僕は “ お兄様 ” じゃないよ」
「そっかあ。ねえ、何て呼べばいい?」
「ルーファスでいいよ」
「ルー……ルー……」
あれ、何で言えないんだろうと真っ赤になるリンディに、ルーファスは意地の悪い顔を近付ける。
「早く言ってみて」
「ルー……ファ……ス…………お兄様……」
「ふっ、無理しなくていいよ。……僕も何だか照れてしまうから。いつか呼べる様になったら呼んで」
リンディの “ お兄様 ” は好きだから、呼んでもらえなくなると少し寂しいしな。それに……周りにはまだ兄妹だと思われていた方がいい。
「兄妹じゃなくなったことは、婚約するまで誰にも言ってはいけないよ。ロッテさんにもアリスにも」
「うん! もし言ったら結婚出来なくなってしまうんでしょう? 二人だけの秘密ね!」
離縁した今、リンディはセドラー家との繋がりを失った。婚約だけでもさっさとしてしまいたいところだが、正式な手順を踏むには最短でも二ヶ月は掛かる。
結婚し彼女を守る為には、あえて数ヵ月間、彼女をセドラー家の保護のない、不安定な状態に置かなければならないのだ。
『彼女を守る』
もちろんその一心だったが……
こんなに早く離縁したのは、彼女と結ばれたいという想いが、単純に先走ってしまったからだ。今だって、嬉し過ぎてまたスキップしたくなりそうなのだから。
ルーファスはリンディの無垢な笑顔を見下ろすと、繋いだ手にぐっと力を込め歩き出した。
────突如、空が翳り、微かな雷鳴が轟く。
一羽の烏が鳴き叫びながら飛んで行くのを、二人は立ち止まり、ぼんやりと見上げていた。
◇
「こちらは一旦お返し致します。今は必要ありませんので」
「……どういうことかしら?」
アリエッタ王女は不審に思う。あれから何の音沙汰もなく、業を煮やして彼を呼び出してみれば、こうしてあの書類を突き返されているのだから。
「折角ご配慮頂きましたが、家族と話し合い、当分は離縁せず兄妹のままで居ることに決めました」
「何故!」
思わず前のめりになり、王女は慌てて平静を装う。その様子をルーファスは一段高い所から冷静に眺めていた。
「……何故? 貴方達、今のままじゃ結ばれないのよ」
「ええ、解っております。ですが私もリンディも、当分誰とも結婚する予定はありません。父も亡くなったばかりですし、家族のままでいた方が安心だという結論に至りました」
「……とりあえず離縁しておけばいいじゃない。結婚なんていつだっていいんだから」
「何故ですか?」
今度はルーファスが、冷たい声で問い返す。
「王女殿下は何故それほどまでに、私とリンディの離縁を勧められるのですか?」
「それは……それは貴方達の為に、国王陛下が御存命の内にと」
ルーファスは厳しい目で王女を見据える。
「……アリエッタ王女殿下。貴女は陛下の御息女であると共に、臣下でもあるのですよ。陛下の尊い御命を軽んじる発言は、決して許されることではありません」
「軽んじてなど!」
「私は陛下のご回復を信じております。もしいつかその書類が必要な時が来ましたら、私から直に陛下にお願いに参りますので。……では」
すっと立ち上がり、形ばかりの礼をすると、ルーファスは部屋を出ていった。もうお前に用はないと言わんばかりの、軽快な足取りで……
廊下を歩きながら、ルーファスは険しい顔で考える。
やはり王女は何か企んでいた。自分とリンディを離縁させて、何をするつもりだったのかと。
(王女の身分を振りかざせば、セドラー家という盾を失ったリンディに危害を加えることなど簡単だ)
恐怖に粟立つルーファス。離縁したことは絶対に知られてはいけないと、気を引き締める。
恐る恐る指輪を見れば、一粒だけ残った砂が弱々しい光を放っていた。
(嘘だろう……朝見た時には、まだ数粒残っていたのに)
ルーファスは震える手で指輪を覆い隠した。
一方、部屋に残された王女は、先日とは明らかに違う彼の態度に戸惑っていた。書類をくしゃりと握りつぶし、その理由を考える。
迷いも、こちらを探るような様子も一切見られなかった。何故…………
やがて一つの可能性に思い当たった王女は、すぐさま侍女を呼び命じた。
「ねえ、ちょっと調べて欲しいことがあるの」
◇
離縁してから半月が経っても、リンディはルーファスとの約束を守り、兄妹として変わらず過ごしていた。
今日も作業室で黙々と仕事に集中していると、ベルの音がキンと鼓膜を震わせる。リンディはピタリと筆を止め、隣の机へ顔を向けるが、そこにロッテの姿はない。
「リンディ、こっちへ来て」
声のする方を見れば、絵師長のジョセフを中心に、絵師達がわらわらと集まっている。
「何ですか?」
「王女殿下から絵師達へ差し入れですって。歴史資料制作の激励らしいわ」
リンディもそこに加わり、ジョセフから名前入りの小包を受け取る。既に他の絵師達は、紙包みを開け始めていた。
「……おおっ! ヘイル国の絵の具だ!」
それは北方のヘイル国で開発された、高価な絵の具のセットだった。
「絵師なんて虫けら程にしか思っていないあの王女様が。どういう風の吹き回しかしらね。まあタダでもらえるなら何でもいいけど」
リンディの肩をぽんと叩きながら言うロッテだが、その声は彼女の耳には届いていない。『ヘイル国の絵の具』という言葉に、リンディは興奮し、ぱあっと目を輝かせていた。
高価なチューブ式のその絵の具は、ヘイル国原産の鉱物と草花を合わせた特産物であり、発色が繊細かつ鮮やかで大変素晴らしい。
興奮しながら包みを開けると、色紙が巻かれた十二色のチューブが出てくる。
「お兄様!」
そう叫びながら、リンディは一本を手に取った。
「あら?」と首を傾げたロッテは、自分の赤いチューブと見比べ叫ぶ。
「それ……ルビー色だわ!」
その言葉に、他の絵師達はざわざわと集まり、手元の赤いチューブと比べては口々に叫ぶ。
「何でリンディだけ!」
「超高級品だぞ!」
普通の “ 赤 ” とは違う色紙が巻かれたチューブ。それはヘイル国原産の氷結草から作られた、最高級の絵の具だった。
氷結草とはヘイル国の寒冷な気候でしか生育しない植物で、人の神経に作用する効能がある。主に麻酔薬として使用される高価な薬草であり、量によっては人を死に至らしめることもある。
その草の汁を特殊な技術で抽出し加工したのがこの色であり、此処ムジリカ国では、馬一頭と交換出来る程の高価な品だ。
リンディは机に駆け寄ると、筆を取り、白紙に色をのせていく。じわりと広がる赤に、リンディは両手で紙を持ち跳び跳ねた。
「お兄様……やっぱりお兄様! ずっと、ずっとこの色を出したかったの! お兄様の目の色!」
ロッテをはじめ絵師達は、その美しい赤に注目する。
「綺麗な色ね……本当に、貴女のお兄様の目みたい」
「いいなあ。何で俺のは普通の赤なんだよ!」
「俺も! 何でだよ!」
「何でって、当然でしょうよ! リンディが一番仕事をしているんだから! 悔しかったらさっさと机に戻って、リンディと同じ位描いてみなさい!」
次々に不満を口にする絵師を、一喝するロッテ。何も反論出来ず、絵師達は包みを手にすごすごと自分の席へと戻って行った。
紙をうっとりと見つめ続けるリンディを微笑ましく思いながらも、ロッテは内心疑問に思う。
リンディを牽制した王女が、何故リンディにだけこんな特別待遇を? と。
美しいはずのその色が、ロッテには黒く淀んで見えた。




