第31話 一回目 リンディは18歳(13)
後ろ髪を引かれる思いで実家を後にし、ルーファスがアパートに帰宅したのは翌日の夕方頃だった。
階段を上がろうと足を踏み出すが、気が重く、なかなか進まない。
普段通りに……何気ない顔で、ただいまと言えるだろうか。
リンディの部屋の前に着くと、気合いを入れる為、ピシャッと両手で頬を叩いた。
ベルを鳴らすや否や、ドドッという足音が聞こえる。ルーファスは慣れた様子で、勢いよく開かれる危険なドアから身を躱した。
「お兄様! おかえりなさい!」
……ああ、駄目だ……
リンディの笑顔に、張りつめていた心が緩んでいく。華奢な身体を抱き寄せ、その肩に、ぽとりと頭を落とした。
「……お兄様?」
いつもは自分よりずっと大きな兄が、今はとても小さく見える。リンディは手を伸ばし、大好きな黒髪を優しく撫でた。
「どうしたの? 何か悲しいの?」
「……ううん。なんでも……なんでもないよ」
「具合は悪くない? 大丈夫?」
「うん……うっ……」
震える兄を、リンディはただ撫で続けていた。
最近お兄様は、あまり元気がない。お仕事のことでお父様とお話しする為、急に実家へ帰ったあの休日以来だろうか。
毎日お仕事をして、一緒に食事をして、普通に喋ったり笑ったりするけど、何となく前とは違う気がしていた。
王女様とはきちんとお話して、もう会わないことになったって言ってたけど……何かあったのかな。
私みたいに、『変』とか『おかしい』とか『気味が悪い』とか……そんな風に言われてないといいんだけど。お兄様は私と違って頭が良いし綺麗だから、王女様もそんなこと言わないよね。
今夜は泊まりがけで視察に行くって言ってたから、帰りもご飯も一人で寂しいな……
リンディはぶんぶんと顔を振るう。
だめだめ! 寂しいとか、一緒に居たいとか、絶対にお兄様の邪魔をしたらだめ!
……お兄様にはお兄様の人生があるし、私はいつか必ず一人になる。それがいつかは分からないけど……一年後、一ヶ月後、もしかしたら明日かもしれない。
その時がいつ来ても、笑ってお別れが言えるように……今から一人に慣れておかなくちゃ。
普段はベルを鳴らしてもらわなければ気付かない程仕事に集中しているリンディだが、今日は終業時間になると、さっさと筆を洗って帰り支度を始める。
ロッテはベルを掴もうとした手を引っ込め、そんなリンディの様子をじっと見ていた。
「リンディ、今日はお兄様お迎えに来ないの?」
ロッテに話し掛けられ、リンディは笑顔で答えた。
「はい。今日は出張なんです」
「そう。なら、またいつもの店に行かない? 今はブルーベリーのデザートフェアをやっているらしいわよ」
「わあ! 行きたいです」
「よーし、沢山食べて飲むわよ!」
腕を組み作業室を出ようとした時、絵師の一人が緊張した面持ちで呼び止めた。
「リンディ……王女様のお使いがいらしているぞ。君に用があるらしい」
高級レストランの個室で、今、リンディはアリエッタ王女と向かい合っていた。
何故こんな状況になっているのか分からない。ただ身体は強張り、下を向いたままスカートを固く握り締めていた。
「ごめんなさいね、突然呼び出して。お兄様が居ない時でないと、なかなか二人きりになれないでしょ?」
何も答えぬリンディに、王女はふっと笑う。
「そんなに緊張しなくても構わないわ。仮にも貴女は公爵令嬢なんですから。口が利けなくても、背筋くらいは伸ばした方が良くてよ? みっともない」
それでも黙ったままのリンディに、王女はやれやれと首を振る。
「そのおかしな頭でどこまで理解出来るのか分からないけど……今日は貴女に良いお話を持って来てあげたのよ」
微笑みながら、すっと一枚の人物画を差し出した。
「この方ね、王妃陛下の遠縁に当たる伯爵なの。足が不自由だからなかなか結婚に縁がなくて、貴女より20歳程年上なのだけど、まあ問題はないでしょう」
人物画を見たまま、目を瞠るリンディ。手応えのないその反応に、王女は次第に苛々する。
「ねえ……私の言ってる意味分かる? 貴女とこの方、結婚したらどう? って言っているの!」
結婚……私とこの人が……私が結婚……
リンディの頭は激しく混乱し、王女と人物画を交互に見た。
「心配しなくていいわ。この方、歩けないけど頭はまともだから。頭はおかしいけど歩ける貴女と、ちょうど釣り合いが取れるのじゃない?」
「…………」
「セドラー家から見れば格下の伯爵家でしょうけど、貴女、元々は男爵令嬢でしょう? 充分有難いお話よ。資産のある家柄だし、無理に王宮で働かなくても、絵を描いて遊んで暮らせるわ」
「……せん」
「え?」
「私は……結婚はしません」
リンディは囁く様な声で、それでもキッパリと言った。
「私は頭がおかしいので、一生結婚はしません。この伯爵様にも、きっと私では釣り合いません」
「貴女……」
王女は満足気に嗤う。
「自分のこと、ちゃんと解っていたのね。でもそんなに謙遜することはないわ。確かに貴女はおかしいけど、見た目はそこそこいいもの。名門セドラー家とも一応繋がりが持てるのだし、お話は他にもあると思うわ。よかったら紹介しましょうか?」
そう言いながら、鞄から別の人物画を取り出す王女。リンディはさっきよりも大きな声で、もう一度キッパリと言った。
「私は結婚はしません。一人で生きていきます」
しんと静まる室内。王女は人物画をテーブルに放り投げると、ぐいとワインを飲み、乱暴にグラスを置いた。高圧的なその態度は、リンディに女学校時代を思い出させ萎縮させる。
「……何か勘違いしているんじゃない? 私が貴女に結婚を勧めるのは、貴女の為じゃなく、貴女のお兄様の為よ」
「お兄様の……?」
「そうよ。だって貴女、結婚でもしなきゃ彼の傍を離れないでしょう? 同じアパートに住んで、毎日一緒に通勤して、周りから見たら異常な兄妹よ。しかも血が繋がっていないのだから、良くない噂が立つのも時間の問題ね」
「良くない噂……」
「男女の関係を疑われるってことよ」
「男女の……」
「この際ハッキリ言うわね? 頭のおかしい貴女が傍に居ると、お兄様に良い縁談が来ないと言っているの。一人で生きる覚悟があるなら、さっさと彼の元から離れなさいよ。……彼の人生を、台無しにしたくないならね」
王女は品のない仕草でグラスを呷ると、人物画をまとめ席を立つ。
「とりあえず、この話は保留にするけど、興味が湧いたらいつでも言って」
そして、ぼんやりと何かを考え続けるリンディへ向かい、冷たく言い捨てた。
「……私は彼が言い難いことを、代わりに言ってあげただけよ。悪く思わないでね」
……王女様の言ったことは間違っていない。
一人で生きていくなんて言いながら、お兄様と離れる覚悟なんてちっとも出来ていなかった。
『お兄様が幸せになれるなら、結婚して欲しい。お兄様には、世界で一番幸せになって欲しいもの』
嘘ばっかり。本当にその時が来たら、きっと、泣いて泣いて、私を食べてもいいから傍に居てってお願いしてしまう。
結局自分のことばっかりで、お兄様の幸せなんて考えていないんだ。
本当の兄妹だったら、もっと傍に居られたのかな……
偽物の兄妹にならなかったら、お兄様は私と結婚してくれたかな……
どうしよう。お兄様が好きで……大好き過ぎてどうしよう……
零れた涙が指輪に落ち、キラキラと砂を輝かせた。




