第13話 一回目 リンディは10~13歳
「ここにあるよ!」
薬指を指すリンディに、タクトは首を傾げる。
まさか……とルーファスも慌て、自分の左手をタクトの前に突き出した。
「おい、ここに、薬指に何か見えるか?」
ルーファスも自分の左手をタクトの前に突き出す。だがタクトは更に大きく首を傾げ、「ううん」と答える。近くの護衛兵にも同じ様に尋ねるが、戸惑った顔をされるだけだった。
「リンディ……もう帰ろう」
いつもとは違う義兄の表情に、リンディは大人しく頷いた。
大通りを離れ、静かな裏道に抜けた頃には、午後の柔らかな日差しは色を変えようとしていた。
ルーファスはふと立ち止まると、リンディの手を離し、正面からしっかりと目線を合わせる。
「リンディ……この指輪は、どうやら僕達以外には見えないらしい」
「そうなの?」
「うん。だから、お父様とお母様には内緒にしよう。心配させたくないから」
「この指輪は心配なの?」
「……外せないからね。でも大丈夫、僕が必ず外す方法を見つけてあげるから」
「外さなくていいわ」
リンディは自分の左手と、ルーファスの左手をピッタリ並べて微笑む。
「お義兄様とお揃い嬉しいもん。結婚出来なくても、やっぱり嬉しい!」
「リンディ……」
義妹のその顔は、もう小さな子供の顔ではない。
綺麗で、甘くて、切なくて……何だか無性に泣きたくなった。
「お義兄様?」
俯く義兄の頬に触れるリンディ。ルーファスはその小さな手を掴むと、ぐっと引き寄せ抱き締めた。
あと何回、こうして抱き締められるだろう。
あと何回、僕の小さな妹でいてくれるだろう。
「お兄様、悲しいの?」
自分が指輪を嵌めてしまったせいだと思ったリンディは、大好きな黒髪を優しく撫でた。
「ごめんなさい……私、お義父様にもお母様にも、誰にも指輪のこと言わない! 絶対に言わないから!」
「どうだろう……君はお喋りだから」
ルーファスは目を赤くしながら、リンディの唇を摘まんだ。
「絶対言わないよ! だってね、今日も蛇さんて言うの我慢出来たもん!」
「蛇?」
「うん! あのおじいさん、蛇みたいだったけど、言うの我慢したの。お母様から、“ 人が動物に見えても決して口にしてはいけません ” って言われてるから!」
ルーファスは老人の紫色の目を思い出す。
確かに蛇みたいだったな……ふっ!
ルーファスは肩を震わせ、声を上げて笑い出した。
『カラス!!』
彼の脳裏に浮かんだのは、初めて出会った時のリンディ。ぼやけた当時の記憶の中で、あの衝撃だけは鮮明に覚えている。
この子の為に、大嫌いなブロッコリーを初めて食べたんだったな……
妹になったからとかじゃなく、リンディは自分にとって、最初からずっと特別だった。
ひとしきり笑い涙を拭うと、ルーファスは言う。
「我慢出来て偉かったな、リンディ。……大人になったんだな」
そしていつも通り、リンディの左手を取り、夕陽の中を歩き出した。
親指で優しく、リンディの薬指を撫でながら……
その後ルーファスは、何回も指輪と説明書を見比べ考えたものの、結局詳しいことは解らずじまいだった。時……砂……残っている砂。嫌な想像が何度か頭を過ったが、そのたびに馬鹿馬鹿しいと心が拒絶した。
リンディは約束通り、指輪のことは誰にも言わず、時折こっそり嬉しそうに眺めている。
次第に指輪の存在にも慣れ、あまり気に止めなくなってきた頃────
リンディは13歳、ルーファスは15歳になっていた。
◇
今夜は二人きりか……
学校から帰る馬車の中、ルーファスはぼんやりと考える。
王室主催の晩餐会に出席する為、両親は不在の今夜。
二人きりと言っても使用人達は大勢居るのだが、何となく落ち着かない様な、そわそわした気持ちになっていた。
この頃のリンディはルーファスにもよく分からない。
昔は彼女のことなら何でも分かったのに、今は一枚壁を隔てた様に感じることが増えた。
相変わらず好奇心旺盛で、よく喋り、よく笑う。なのに何故だろうと戸惑っていた。
「お嬢様でしたらお部屋にいらっしゃいますよ」
屋敷に帰ると、訊いてもいないのに侍女に告げられる。
……長年の習慣だな。リンディとは、子供の頃からさやの豆の様にくっついていたのだから。
リンディの部屋をノックするも返事がない。絵に集中している時は大抵こうだ。
そっと開けて中を覗くと、大きな窓ガラスの向こうに、金色の頭がゆらゆらと揺れていた。
中庭に居たのか。
画材で散らかった部屋を想像していたが、絵を描いていた形跡は全くない。
ルーファスがやって来たことにも気付かず、リンディはブランコを漕ぎながら青い空を見上げていた。
「リンディ」
「……お義兄様!」
満面の笑みを浮かべながら、ぴょんとブランコを飛び降りる。
「おかえりなさい!」
「ただいま。今日は絵を描かないの?」
「うん……絵より、空が見たかったの」
ああ、そう、こんな時だ。
リンディとの間に壁を感じるのは。
給仕が部屋にやって来て、二人分のおやつをテーブルに用意していく。
昔父に命じられたあの日から、当たり前の様になっている習慣だ。
「食べよう、リンディ」
「うん」
大好きな苺のショートケーキを前にしても、リンディはもう涎を垂らしたり、興奮して踊ることはない。
女学校入学前に叩き込まれたマナーを守り、公爵令嬢らしい落ち着いた所作でフォークを運ぶ。
何となく寂しくなったルーファスは、自分の苺を刺し、リンディの口元へ持っていく。
「好きだろ?あげる」
「でも……」
「誰も見てないから大丈夫だよ」
「……うん!」
リンディは大きな口で彼のフォークに飛び付くと、頬をもぐもぐさせながら笑う。
うん、やっぱりリンディはこうでなきゃ。
安心したルーファスは、微笑みながらお茶を一口飲んだ。
ところがリンディは、苺をゴクリと飲み込むと、フォークを置き静かに口を開く。
「ねえお義兄様……私って、変?」
その顔からは、さっきまでの笑顔が消え去っていた。
ルーファスはカップを置き、真剣な顔で問い掛ける。
「誰かに言われたのか?」
「……私も、お義兄様と同じ王律学園へ行きたかったな。もっと算術が出来たら……何で私は数字がよく見えないんだろう」
みるみる顔を曇らせるリンディ。
「休み時間に絵を描いていて……鐘が鳴って……でも私には聞こえないの。音は聞こえているはずなのに聞こえないの。どうしても止められなくて、怒られて、恥ずかしくて」
「リンディ」
「私が喋ると、みんな無視したり何処かへ逃げてしまうの。悲しくて、絵を描きたくなって……そしてまた、止められないの」
ルーファスは立ち上がると、リンディの前にしゃがみ、小さな手を握る。
「君は変なんかじゃないよ、リンディ」
「でも……みんなとは全然違うわ」
「違って当たり前だろ。君はこの世に一人しか居ないんだから」
「違ってもいいの?」
「もちろん。君は特別な子だよ。何しろ、僕に大嫌いなブロッコリーを食べさせたんだから」
リンディの顔に、やっと笑みが戻って来る。
「……リンディ、学校が嫌なら、お父様達に話をしてみるといい。言いにくいなら、僕が言ってあげるよ」
するとリンディは激しく首を振る。
「いいの! 学校には行きたい! ちゃんと卒業するの!」
「どうして?」
「……卒業したいから」
口を固く結び、俯くリンディ。
彼女の中で、何か思うところがあるのだろうと、ルーファスはそれ以上追及しなかった。
……一体誰が、何の権利があって、自分の妹にこんな顔をさせるのだろう。
怒りを抑えながら、ルーファスはリンディの頬を撫でた。
「……久しぶりに海へ行かないか?」
「行きたいけど……誰かに見られるのが嫌なの。変って思われてるかもしれないから」
ルーファスの胸が、ぎゅっと締め付けられる。
あんなに好きだった海へ行かなくなったのは、やはり理由があったんだな……
「僕がずっと傍に居るから大丈夫だよ」
「……いいの?」
「うん。僕も気分転換に外で勉強したかったから」
「……行く! じゃあ行く! 本当はずっとね、海の絵が描きたかったの!」
リンディの笑顔が弾ける。
そう、君にはこんな風に笑っていて欲しいんだ。
幼い日、僕を暗い闇から救いだしてくれた、ありのままの君で……
勉強道具を取りに、一旦自分の部屋へ戻ったルーファス。机からノートや辞書を集めていると、パサリと封筒が落ちた。拾い上げ、中身をチラッと覗いてため息を吐く。
そろそろ提出しなきゃな……




