5.
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「今更だが、一応形式に則って挨拶しよう。俺がこの辺境の地を預かるアセルバート・ソーンネルフだ。遠路遥々お越しいただき感謝する」
「いえ! こちらこそご挨拶が遅れまして申し訳ございませんっ。改めてご挨拶させていただきます。この度はご招待いただき光栄に存じます。わたしはセネガル伯が娘ティ…」
胸に右手を当てた正式な姿勢で自己紹介をしてくださった辺境伯爵様。この方を騙すのはとても気が引けますが、わたしもずっと幼い頃に亡きお母様から教わったカーテシーで精一杯優雅に見えるよう礼を返し、意を決してティレシアの名を名乗ろうとしました。しかし何かを察したのでしょうか、辺境伯爵様がニヤリと口角を持ち上げわたしの声を遮ったのです。
「ツィツェリア」
「え…?」
「ツィツェリア・セネガル嬢」
突然わたしの名前を言い当てられ、驚きに顔を上げてしまいました。すると辺境伯爵様はわたしに向けて手を差し伸べられました。
わたしはどうしたらいいのかと少しだけ迷った後に、そぅっとその手に自分の手を乗せました。すると彼は嬉しそうに破顔し、触れ合った手を持ち上げてその指先に口づけました。
「!」
「くくくっ、驚く顔も昔のままだ。会いたかったよ。我が婚約者殿」
間近で見下ろしてくる辺境伯爵様はとても野性味に溢れていて、わたしの胸はドキンと高鳴りました。
予期せぬ事態に困惑するわたしの心境など知らない彼は、硬くて太い指先でわたしの解れた髪を掬い取ると、器用に耳に掛けてくださいました。
「ツェリ、と呼んでもいいか?」
「は、はいっ」
「俺のことはアセルと。話したいことはたくさんあるが、長旅で疲れただろう? 部屋に案内させるから、夕食まで少し休むといい」
これからいくらでも時間はあるのだからと仰ると、先ほどお茶を淹れてくれたメイドに声を掛けました。
「ライナ、お前をツェリ専属にする。頼んだぞ」
「畏まりました」
わたし専属として任命されたライナというメイドは恭しくお辞儀をして了承すると、わたしに向かいニコリと微笑みました。
「ではお嬢様、お部屋にご案内いたしますので、参りましょう」
「えっと、はい。お願いします」
本当はどうしてわたしを知っているのかを含めていろいろとアセル様に訊きたいことはありますが、ニコニコ顔の皆様に逆らう勇気がないわたしは、夕食の席でお聞きしようと心に決め、退室の挨拶を残してライナと共に部屋を後にしました。
ライナの後ろをついて行き、階段を上って二階へと着くと、ふいに彼女は我慢しきれなかったというようにふふふと小さく笑いました。
「?」
不思議に思い首を傾げていると、ライナは振り返り「申し訳ございません」と謝りました。
「あの、わたしが何かおかしかったでしょうか?」
「いいえ、お嬢様を笑ったのではございません。あまりにもご主人様がご機嫌なうえに嬉しそうだったもので。世の噂では野蛮なソーンネルフの赤獅子などと呼ばれているようですが、先ほどの姿はまるで大好きな飼い主が帰宅した時の大型犬みたいで…ぷぷっ」
「まあ!」
わたしがドキドキしたアセル様の姿も、彼よりも年上と思われるライナからすると獰猛な獅子ではなく可愛らしいワンちゃんなのかと驚いてしまいました。ですがライナが言うように尻尾をブンブンと振っている犬の姿に当て嵌めて想像するとなんだか似合っていて、わたしもつい吹き出してしまいました。
二人でクスクスと笑い合いながら廊下を進み、到着した部屋は東の角に位置する客間でした。
「さあどうぞ。お嬢様の好みがわからなかったので、こちらで勝手に揃えさせていただきましたが、大分ご主人様の意見を取り入れましたことだけはお伝えしておきますね」
「アセル様の?」
そう前置きして通された室内は、淡いピンクのレースとフリルで揃えられた広く可愛らしいお部屋で、家具は王都で流行りのデザインとは違うものの、花のレリーフが可愛らしく色も白で統一されています。
あのやや年季の入った頑強を優先している邸の外観からは想像できないメルヘンチックな内装に、ポカンとして見回してしまいました。
「この、お伽噺のお姫様が住んでいるような可愛らしいお部屋の指示を、アセル様が?」
「ふくくっ、信じられないのも無理はございません。ご主人様はあの見た目ですからねぇ。しかも噂に違わず粗野な暴れん坊です。普段は率先して国境でヤンカンからの侵攻を防ぐために剣を振るっておられる大男が、こんなにも繊細に気を配られるようには見えませんもの」
話をしながらもわたしを長椅子へ座るよう勧めてくれたライナは、お茶を淹れるとすでに部屋の隅に置かれていたわたしが持参した鞄の中の物をテキパキと片付け、あっという間に終わらせてしまいました。
「少しお休みされましたら、晩餐のためにお着換えをいたしましょう。もしお望みになられるのでしたら湯浴みのための湯を運ばせますが、いかがいたしますか?」
奥のクローゼットから出してきたと思われる、わたしが持ってきた物の中にはなかった若草色のドレスをトルソーに掛けると、今度はそれに合わせた飾り付きの布靴と装飾品を選び出し、その組み合わせでよいかとわたしに訊ねました。
「お嬢様は明るい栗色の髪とアンバーの瞳がとても素敵ですので、ぶつかり合わないよう落ち着いた淡い緑のドレスと靴を選んでみました。アクセサリーはご主人様からの贈り物ですわ。こちらは独占欲がまるわかりの自身の髪色に合わせ、赤で統一してございます」
そう言って見せられた装飾品は、美しいデザインの金の台座にガーネットを組み合わせた、派手過ぎず質素過ぎない、わたし好みの素敵な品の数々です。
正直、わたしは私物と呼べる貴金属をほとんど持っていませんから、とても感動するとともに、こんな高価なものをと気後れしてしまいました。
諸手を挙げて大喜びできず、おろおろと狼狽えるわたしの様子から心の内を察したらしいライナは、アクセサリーケースをテーブルの上に置くと、遠慮のない口調で話し出しました。
「何を気に掛けておいでなのかはわかりませんが、ご主人様は婚約者にプレゼントもしないような甲斐性なしではございません。それどころか贈り物をしたくてしたくて仕方がないご様子なのを、ポール様やジャン様が抑えてくださったのです」
「ジャン様?」
「ああ、トールギス様のことですわ。ここソーンネルフは国境の向こうの国ヤンカンとの諍いに備えて領民みんなが一団となって鍛錬し、共に戦う仲間同士信頼し合っているので、とても絆が強いのです。身分や立場はきちんと弁えてございますが、気さくに意見を交わしたりもなさいます。ですからこちらのドレスも本当はもっと濃い色が良いとご主人様が仰ったのですが、依頼を受けた針子のマダム・オルガが頑として譲りませんでしたのよ」
言い負かされた時の悔しそうなアセル様の顔が母親に叱られた子供のようで面白かったと、ライナはくすくすと笑いました。
そしてゆっくりとお茶を楽しんだ後、ライナに手伝ってもらってドレスを着替え、豪華なアクセサリーで飾り、念入りにメイクをしていただきました。
「ああっ! やはりマダム・オルガの見立ては正解でしたわ。緩く巻いたフワフワの髪と淡い色味のドレスがとてもよく似合って精霊のようですもの。そこにご主人様の色のガーネットがアクセントとなって、本当にとっても素敵です!」
ライナが瞳をキラキラと輝かせて褒めてくれるだけあって、確かに鏡の中のわたしはわたしとは信じられないくらいに綺麗な令嬢に仕上がっています。
こうして見ると若くしてお亡くなりになったお母様にちょっぴり似ていなくもないような気がして、わたしは鏡の中のわたしをじっと見つめました。
「あの…お嬢様? 気に入りませんでしたか?」
わたしが何も言わずに固まっていたからでしょうか。ライナが心配そうに声を掛けてきました。
これはいけません。こんなにも素敵に身支度してくださったライナを不安にさせるなど、恩知らずにもほどがあります。
「いいえ! とっても素敵にしていただけて感動していました。こんなに綺麗にしてくださってありがとうございます!」
慌ててお礼を言うとライナはほっとしたように小さく息を吐き、メインダイニングへ案内しますと言って一緒に部屋を出ました。
「きっとご主人様もお嬢様のドレス姿を楽しみにして、今頃ソワソワして待っているはずですわ」
「ソワソワですか?」
「ええ。ソワソワです。ここだけの話ですが、ご主人様はお嬢様が成人されてこのソーンネルフにいらっしゃる日を心待ちになさっていたのです。それはそれはもう大の大人の男が鬱陶しいほどに指折り数えて、遠い昔にした結婚の約束を守るのだと仰っておられたのですのよ」
「昔の約束…」
ビビさんも言っていましたが、アセル様は十年以上前に本当にわたしと会っているみたいです。
ティレシアと偽るつもりの時はアセル様が会ったのは幼い頃のティレシアだと思いましたが、わたしをツィツェリアと呼んだことを加味して考えると、どうやら会ったことがあるのはわたしのようです。
未だに思い出せないのですが、それでもわたしでいいのでしょうか? それとも当の本人が忘れているのだからと反故になさるかしら?
もともとティレシアがオーディオン殿下と正式に縁を結ばれれば呼び戻されることになっていました。けれどまだ到着したばかりでほとんど話もしていないのに、あんなにも全開で歓迎してくださったアセル様や皆さんともっと一緒にいたいと思い始めています。
これからもっとソーンネルフを知ることで離れ難くなることが容易に想像でき、わたしはこっそりと胸の内で憂鬱な気持ちになりました。
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