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2.

 ◇◆◇◆◇


 大した説明もされないままに身の回りのものを纏めるよう指示されたわたしは、セネガル家の令嬢だった頃とは比べものにもならないほどに少なくなった私物を自身の手で纏め、なんとか旅行用の大型鞄二つに収めました。


「とうとう明日、迎えの馬車がいらっしゃるのね…」


 昨夜は遅くまでティレシアが放してくれず、その間ずっとソーンネルフ辺境伯爵に関する悪い噂話を聞かされ続けました。

 山野を裸足で駆け回る野人のようだとか、人でも獣でも構わず襲ってくる血に飢えた狂人らしいとか、化け物のような醜い男だとか。

 すべてを真に受けはしないものの、火の無い所に煙は立たないと言いますし、やはり些か不安にもなります。

 そして寝不足の今日は出立前日ということもあり、いろいろと用意があるので使用人としてのお仕事はしなくてよいと言われました。なので朝から荷造りに追われ、昼を過ぎた今、漸く準備が終わったのです。


「…」


 お父様が亡くなり、叔父様が当主となられてから移り住んだ使用人棟の狭い個室。僅か四年ほどしか住んでいませんでしたが、それでもその間はわたしにとって唯一息がつける空間でしたから、寂しい気持ちもあります。

 すっかりカラになった机の前に佇んで窓の外を眺めると、使用人棟からはずっと離れた向こうの、お父様がお母様に贈ったバラ園が目に留まりました。

 毎年お母様の誕生日にバラの苗木を贈り続けたお父様。それはお母様が八年前にお亡くなりになってからも続き、腕の良い庭師が手入れを頑張ってくれたこともあり、それはそれは素敵で立派なバラの庭だったのです。

 しかしそれもお父様が亡くなるまでのことでした。今ではあの頃の庭師はすでに解雇されており、あまり仕事熱心ではない別の庭師が申し訳程度に剪定しているだけなのです。

 あの頃のような素晴らしいバラ園の姿も、そんな庭をうっとりと眺める両親の姿も見ることができないのだと思うと、やはりこの邸はもうわたしの”家”ではなくなってしまったのだと認めざるを得ません。

 物悲しい気持ちで感傷に浸っていると、ドアをノックする音と共にメイド頭のメイサの呼び声が聞こえました。


「お嬢様、エーデン様が書斎に来るようにと仰せです」

「はい、今行きます。…メイサ、わたしはもうお嬢様ではありませんよ」

「いいえ。あたしにとっては、ツィツェリアお嬢様はいつまでたっても、どこへ行きなすっても、お嬢様です!」


 ケヴィンと同様に昔からセネガル家に仕えてくれている古参の彼女は、情の深いふくよかな初老の女性です。

 彼女は同じメイド仲間となった今でも人目がない場所ではわたしをお嬢様と呼びますが、万が一にもそんな場面を見つかったらきっとひどく叱責されてしまうでしょう。だからいつもダメだと窘めているのですが、結局彼女は呼び方を改めようとはしません。


「お嬢様はあたしにとって…いいえ、ケヴィン様や他の使用人にとっても、ずっと敬愛する旦那様と奥様の大切な大切な忘れ形見なのです。そんな大切なお嬢様をお助けできずに…このメイサは…メイサは…っ」

「泣かないでメイサ。わたしはあなた方に十分よくしてもらったわ。とても感謝しています。それにわたしは婚約するのですから、おめでとうと笑顔で祝ってくださいな」

「お嬢様!」


 まだ仕事中だというのに感情豊かで涙もろいメイサは、滝のような涙を流しエプロンの裾で頬を拭いました。

 わたしはそんな彼女の手を取ると、これまでの感謝を込めて心からお礼を言いました。


「メイサ、これまで本当にありがとう。お父様やお母様がご存命だった頃はもちろん、使用人となってからもたくさんな事を教えてくれたり力になってくれたりして、わたしは本当に助かりました」

「お嬢様…」

「こんな言葉でしかあなたにも他のみんなにも気持ちを表すことができないけれど、本当に本当に感謝しています。ありがとう。本当に、ありがとうっ」

「お嬢様ぁぁぁ!」


 握っていた手を逆にぎゅうぎゅうと握り締められ、身動きできなくなっているところを別のメイドに助けられるまで、わたしは泣き続けるメイサをずっと宥めていました。



 *



 元はお父様のものだった叔父様の書斎を訪れドアをノックすると、中からは不機嫌な低い声が入室を許可しました。

 恐る恐るドアを開けると、家令のデイビスと共に事務仕事の最中だったらしく、眉間に深いシワを刻んだ叔父様が執務机に向かって書き物をしていました。


「お呼びと伺いまして、参りました」

「遅い。言づけてからどれだけ待たされたと思っている」


 ぎろりとこちらを見る目は書類仕事で疲れているのか血走っていて、些か乱れた髪と相まって恐ろしさ三割増しです。

 最後の最後に何を言われるのかと身構えていると、叔父様は放り出すようにペンを机に置き、背凭れに深く背中を預けて目頭を指先で揉みました。


「言い忘れたことがあってな。ツィツェリア、お前は明日ソーンネルフ辺境伯の元へ行くことになるが、その際ティレシアとして行きなさい」

「え?」


 説明なく命じられた言葉に理解が追いつかず、返事をせずにいると、叔父様は更に眉間のシワを増やしてわたしを睨みました。


「察しなさい。もともとティレシアに来ていた縁談だと言っただろう。それを理由があるとはいえこちらの都合で勝手に送る娘を変えたとなれば、私の落ち度として捉えられてしまうではないか」


 セネガル家の失点となれば、今後何かあった時どんな要求をされるかわかったものではないと叔父様は言います。ですが、ソーンネルフ辺境伯爵家は代々武力において国に貢献し、王族からの覚えもめでたいので、有事であってもわざわざセネガル家を頼ることはないと思うのですが…。

 しかしその考えを口にすると「意見するな」と叱られてしまうので、わたしはただ黙って頷くに留めました。


「婚約式はなんとか理由をつけて引き延ばす。暫くはソーンネルフにいることになるが、ティレシアとオーディオン殿下の関係が公に発表される前に呼び戻してやる。”ティレシア”が王族のものとなれば、さすがにソーンネルフ辺境伯も諦めるだろうからな」


 正式に婚約を結んでいなければ何とでも言いくるめられると告げた叔父様は、もう一度わたしにわかったなと念を押すと、手を振って追い払うように退室を命じました。

 どことなく釈然としない気持ちです。なんだか詐欺の片棒を担がされるような罪悪感を感じますが、叔父様には逆らえないわたしはドアの前で振り返ると、深々と腰を折りました。


「お父様亡き後、叔父様には大変お世話になりました。ありがとうございました」


 呼び戻される前提ではありますが、一度はこの家を離れるので、淑女らしい所作できちんと謝辞を述べました。本来であればお父様に伝える言葉だったのにと思うとやはり寂しさは拭えませんが、この四年間叔父様にお世話になったことに違いはないので、形式に則って挨拶をしたのです。

 しかしわたしの言葉を聞いた叔父様は、ヒクリと下瞼を引き攣らせ、書類を広げたままの机を力いっぱい叩きました。


「嫌味な芝居はよせ! 文句なら直接言えばよかろう!」

「え⁈ い、いいえ、わたしはそんなつもりでは…」

「言い訳はいい! 不愉快だ! さっさと出ていけ!」


 唾を飛ばさんばかりに怒鳴られたわたしは、慌ててペコリを会釈をし、急いで部屋を出ました。


「……」


 どうしてこんなにもわたしの気持ちは届かないのでしょう。

 たとえ使用人としてであっても、生まれ育った思い出でいっぱいのこの邸に置いてもらえただけで、十分に嬉しかったから、ただそれを伝えたかっただけですのに。

 込み上げる涙をこぼさないように上を向いたわたしは、大きく息を吐きだして気持ちを整えると、ドアに向かって一礼し、庭に向かうことにしました。

 窓越しではなく直接自分の目でバラの庭を見たら、優しく穏やかな思い出に癒されるような気がしたから。






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