1.
◇◆◇◆◇
暑い夏の盛りを過ぎて、心地よい風にやや秋を感じられるようになりつつある黄葉の暦の頃。
その日、わたしは唐突に婚約を命じられました。
「ツェリ、お前にはソーンネルフ辺境伯の現当主と婚約してもらう。来月には相手方から迎えが来る、行儀見習いとして向こうで暮らすことになるから準備をしておけ」
「え?」
命じたのは優雅に朝食をとるセネガル伯爵家現当主のエーデン叔父様。彼は前セネガル伯爵だったお父様リュシードの弟で、父亡き後に家督を継ぎ、姪であるわたしを引き取ってくださった恩人でもあります。
エーデン叔父様は厳格な方で、困惑に思わず突いて出たわたしの呟きを反抗と受け取ったらしく、フォークを持った手を下ろし、ぎろりと睨みました。
「なんだ? 文句でもあるのか?」
「い、いえ! その、ただ…突然だったので驚いてしまいまして」
慌てて首を振ったわたしの様子にふんと鼻を鳴らした叔父様は、目の前の籠に手を伸ばしてパンを掴むと、千切ることなくそのまま齧りつきました。
「まあ、お前が驚く理由もわからなくはない。元はティレシアに来た縁談だからな。だがティレシアが辺境伯の元へ嫁げない以上、もう一人の娘が行くしかないだろう。先方とは”セネガル家のご息女”と書面で交わしているから、決して嘘ではないしな」
「そうですわ。わたくしはもともと片田舎の野蛮人の元へ嫁ぐなんて嫌でしたもの。オーディオン殿下が求婚してくださってとても助かりましたし、とても幸せですわ」
「ええ、わたくしの娘ですもの、殿下の目に留まるのも当然です」
同じく朝食の席に着き、小鳥の如くちまちまと食事するわたしと同い年の従姉妹ティレシアは、ポッと頬を染め、そんな愛娘の様子を叔父様と、叔父様の妻のマーリン叔母様が目を細めて誇らしげに見ていました。
「俺の目から見てもオーディオン殿下はティシーに夢中ですよ。きっと学院の卒業パーティーのパートナーにはティシーを選ぶはずです」
自信満々にそう告げたのは、叔父様夫婦の長男のスチュアート。彼はオーディオン殿下とは学園の同級生で、友人でもあり、将来の側近候補でもあるそうです。
オーディオン殿下がティレシアを見初めたのも、スチュアートの教室へ忘れ物を届けに来た時だと聞きました。
ふわふわと波打つ美しい金色の髪に、澄んだ湖水のような青い瞳の愛らしい顔立ちをしたティレシアは、オーディオン殿下の目には天使のように映ったのだそうです。
その後急速に親しくなった二人は、学院内では公認とされ、先日とうとう求愛の言葉を頂戴したとティレシアはとても喜んでいました。
「あの時の殿下はとても素敵でしたわ。学院の中庭にある四阿でわたくしの前に片膝をつき、ドレスに口づけてくださったの。そしてこの先もずっとそばにいてほしいと請われたのです」
うっとりと思い出に浸るティレシアは、白い頬を薄紅色に染め、サクランボのような唇でほぅっと悩まし気に吐息しました。
妖精のようだと称される美しく愛らしいティレシアと、噂でしか知りませんが、白金の髪にエメラルドを思わせる碧色の瞳が魅力的な、王妃様によく似た麗しい面立ちの美青年だというオーディオン殿下のお二人が並ばれたなら、それはそれはとてもお似合いでしょう。
ですが、わたしは一つだけ気になることがあるのです。
「旦那様、差し出口とは存じますが、確かオーディオン殿下には既に王命で決められた婚約者がおられたように記憶しております」
わたしが気になっていたことを、傍に控えていた執事のケヴィンが叔父様にそれとなく告げました。
するとそれを聞いたティレシアは、すっと目を細め、小馬鹿にしたように鼻で嗤いました。
「オーディオン殿下の婚約者候補は、あの取り澄ましたお堅いマッカートニー侯爵のエリザベス様ですのよ。常日頃から殿下は、エリザベス様のことを可愛げのないつまらない女だと仰っていますもの。きっとわたくしの方が殿下のお気持ちをやわらげ、公務や勉強でお疲れになった心を癒して差し上げることができますわ」
「ああ、さすが我が娘だ。そういうわけだ。以後余計な口は利くな。お前は雇われている使用人だということをもっと自覚しろ。ケヴィン」
「…申し訳ございません。旦那様」
叔父様のきつい物言いに、ケヴィンは恭しく頭を下げる。お父様がご存命の頃からずっとセネガル家を共に支え、共に助け合い、わたしを実の子のように可愛がってくれたケヴィンは、わたしにとっては家族同然の大切な人だけど、叔父様はケヴィンを…いいえ、他の古参の使用人たちのこともあまりよく思ってはいないみたいなのです。
わたしは少し悲しくなり、しょんぼりと項垂れました。
「まったく、使用人ごときが主人に意見するなんて。お義兄様は随分と家の中のことを気に掛けない方だったのね」
「義姉上が亡くなって女主人がいなかったからな。目が行き届かなかったのだろう。理由はともあれ兄上の力不足には違いない」
「はじめからお父様がセネガル家を継げばよかったのではありませんか?」
「ティシーの言う通りですね。長子だからではなく、能力のあるものが家名を受け継ぐべきだと俺も思います」
叔父様たちが口々に亡きお父様を貶すような言葉を口にするのに我慢ができず、わたしはつい反論してしまいました。
「で、ですが、お父様はわたしにも使用人の彼らにも、そして領民にも優しかったです! 日夜身を粉にして働き、いつも領地のために頑張っておられましたから、皆にもとても慕われていました!」
苦しい胸元を押さえて懸命に訴えると、叔父様たちは会話をピタリと止め、一斉に壁際に立つわたしへと目を向けます。その眼差しの冷たさに思わず体を竦めると、叔父様は不機嫌に襟元のナプキンを毟り取ってテーブルの上に放り出し、徐に席を立ちました。
「ケヴィンに注意したばかりなのに、お前は何を聞いていたんだ?」
「も、申し訳ございませんっ」
「謝れば許されるとでも思っているのか? 忘れているようだが、今のお前は一介の使用人だ。主人に口答えするなどあってはならない。これが他の使用人ならば、問答無用で解雇なのだぞ」
「は…はい。重々承知いたしております…」
「兄上の娘だからと無条件で邸に置いてやっているというのに。なんて常識知らずで恩知らずなんだ」
「…すみません」
何度も何度も頭を下げて謝罪しても、一向に叔父様の怒りは収まりません。
叱られる恐怖でカタカタと小さく震えていると、ケヴィンがわたしの前に体を割り込ませてきました。
「なんの真似だ? ケヴィン」
「大変申し訳ございませんでした。おじょ…ツィツェリア様が旦那様に意見されたのは、私が余計なことを申しましたせいでしょう。すべては私の責任でございます。平にお詫びいたします」
そう言って深く腰を折ったケヴィンを眇めた視線で睨んだ叔父様は、ふんと鼻を鳴らすと体を翻し、どすどすと靴音を鳴らして食堂を出て行ってしまわれました。
そんな旦那様に続くように、叔母様とお子様二人も食事の手を止めると、大仰に嘆息し立ち上がります。
「はぁ…朝から最低だ」
「本当ね。気分が悪いから部屋に戻るわ。エラ、後でお茶を持っていらっしゃい」
「はい。畏まりました」
「わたくしももういいわ」
給仕として近くに控えていた叔母様専属メイドのエラにお茶を運ぶよう言いつけると、三人は不機嫌な顔で食堂を出て行ってしまいました。
残された使用人たちは速やかに後片付けに移る中、わたしはぎゅっとエプロンの端を握り締めると、居た堪れない思いでケヴィンに謝ります。
「す、すみません。ケヴィン…様」
ずっと仕えてくれていたケヴィンに”様”をつけて呼ぶのが未だ慣れず、ぎこちないわたしに彼は優しく微笑んで首を横に振りました。
「先ほどエーデン様にも言った通り、私の配慮が足りなかったのです。ツィツェリア様が気に病む必要はございません」
「でも…」
「それよりもスチュアート様とティレシア様がそろそろ登校のためお出掛けになられますから、早くご用意しなければ間に合わないと叱られますよ」
「! はい、すぐ行きます!」
ケヴィンの言葉に慌てたわたしは、ぺこりとお辞儀を残して食堂を後にしました。
ティレシア付きのメイドのわたしがご用意を手伝わないと、忘れ物があった時にひどく怒られてしまうのです。
なので頭の中で本日の教科を思い出しながら走るわたしは、背後で見送っていたケヴィンの悲し気な視線に気が付くことができませんでした。
もしよろしければ、下の☆で評価をお願いいたします。