第1話
俺は目を開けているのだろうか?
色が全くない。
光がないのだから当然か。
熱さも音も全くない。
何もかもがない場所だ。
なんていうか"始まり"だ。
何もかもが始まるための場所。
そんな場所にいる。
なるほど。
ここがどんなものなのかわかれば在り方もわかるな。
この世界にあった自分を形作る。
それは簡単な魔法を使うよりも簡単だった。
この色も熱も何もない場所で足の裏から感覚が伝わる。
それは俺がこの場所で立っているということだ。
「ここが……そうだったんだな」
「ああ……そうだ」
誰かいる?
いや、いて当然か。
ここは元をたどれば必ず行きつく場所なんだ。
そんな場所に誰もいないほうが不自然だ。
「どうだ? お前の定めから外れるのは?」
「ちょっと怖いな」
男が俺の方へと目をやる。
だが、目が合わない。
男が見ているのは俺ではなく、後ろにある何かだ。
振り向こうとするが、体が動いてくれない。
「いや……いいか」
男の満足そうな顔に腹が立つ。
目の前の俺を無視して勝手に納得したからだ。
「でも、怖さはなくなったな」
男の声から情けなさが消えた。
その頼りない男を見て直感した。
ここは"始まり"ではなく"果て"だと。
まるでわからないが、ここは初めとか終わりとかのそういったものが集まる場所な気がする。
なぜ、こんな場所に連れてこられたのかはわからない。
「行くよ」
男に突き放されたような気がした。
けれど
それがきっかけだ。
「いったいあれは……」
夢だったんだろうか?
それにしてはやけに感覚が残っている。
"果て”と思ったあの場での出来事。
それはまるで現実だった。
「どうしたの? ユウト」
まるで夢から覚めたかのようにパッと目を開いたのが驚かせたのだろう。
色白の顔は戸惑いの表情を浮かべていた。
「わからない」
涙がボロボロとあふれ出す。
ハーヴェの顔を見た途端に涙が出た。
空のように澄んだ青く腰ほどまで伸びた髪は風になびく。
不安に染まる夕空のような赤黒い目。
凛とした自信にあふれた顔つき。
そのどれもが懐かしく感じる。
見慣れた家族の顔を見ただけでどうしたんだろうか?
いや、これは俺じゃない。
俺の中からあふれ出たものだが、この俺の感情じゃない。
俺がこの俺を通して見たものに感動したんだ。
「大丈夫だから」
不安げにのぞき込むハーヴェの気休めにもならないのはわかる。
けれど、そう言うしかなかった。
「なんだ、これ?」
口の中にひどい違和感が広がる。
昼間の公園で横になっていた時に口を広げていたから、虫や砂が入ったとでもいうのか?
いや、違うな。
虫のもぞもぞした感じも砂のじゃりじゃりした感じもない。
「口の中が甘ったるい」
苺のクリームやチョコレートが混ざった味が口中に広がる。
お茶くらいしか口にしていないこの舌が感じるはずのない味は生理的嫌悪感を煽る。
「お前、ホルダーか?」
ホルダー?
聞きなれない言葉を放った男をにらみつける。
ここで漫画のような大粒の涙を流している間には全くしなかった気迫のような刺々しいものが向けられているのがわかる。
「そう怖い顔をするな」
見慣れない男が急に話しかけてきたんだ。
誰だって警戒する。
それに、単に見慣れないだけじゃなくって俺が落ち着いたとたんに湧いて出たかのようにいきなり声をかけてきたんだ。
普通以上に拒むだろう。
「ユウト、逃げよう。なんだかこの男は嫌な予感がする」
ハーヴェの言うことは尤もだ。
こんな得体のしれない男に関わってもろくなことはない。
だけど、逃げようって言ったって、口の中に広がる甘さのせいで上手く動けない。
「ユウト!」
ハーヴェの声と共に景色が一転する。
暗い。
光が全く届かない寂しい場所だ。
けれど、あの"始まり"や"果て"とは異質の空間だ。
そこに灯る無数の光の粒。
まるで星のように熱く強い。
これらを星だとするんならここは宇宙だな。
まるで世界を俯瞰してるかのようだ。
世界を視ているんだ。
これが世界だというのか?
あまりに小さい。
軽く爪を立てるだけで抉れてしまいそうだ。
けれど、これを歩けるっていうんならあの男からだって逃げられる。
一歩踏み出すだけで視界が変わる。
ザアァと波の音。
足をからめとる砂。
どうやら海に来たようだ。
こんな見覚えのない砂浜に来たんだ。
逃げきれたに決まっているさ。
安堵の吐息を漏らす。
「ダメだ」
ハーヴェのあきらめの声。
「子供がこの空間転移。天才ってだけで済む話じゃないな」
男が目の前にいた。
どうやって目の前に現れたのかわからない。
それだけに怖い。
自分にもわからない場所に自分でもわからない理屈で来たんだ。
普通ついてこれるか?
「何なんだよ!? お前」
「話す前に逃げるんだ」
ハーヴェの声が俺の頭をたたく。
そうだ。
今は逃げなくちゃいけない。
逃げることだけに集中するんだ。
逃げるための方法は一つだけだ。
「ハーヴェ。俺に世界を視せてくれ」
「世界? 何なの?」
あれはハーヴェが見せたものじゃないのか?
けれど、ハーヴェの叫びがきっかけだった。
「俺たちは逃げなくちゃいけないんだろ」
「でも、世界を視せるだなんて」
世界だなんてもので伝わるないか。
あの光景は世界としか言いようがない。
あれの中を歩けたなら絶対に逃げられるんだ。
今度は何だここ?
高架の高速道路のような大きく広がった車道。
後ろにはぐつぐつと煮え滾った謎の緑の液体の入った巨大なプール。
その蒸気は粘膜を刺激する。
ぽつんと立つ木造の二回の一戸建てまである。
それの湯気が鼻や目に入るとひりひりする。
なんていうかかなりめちゃくちゃだ。
「空間転移ではなく縮地か。やっぱりホルダーだな」
縮地だのホルダーだのこっちが知らない言葉をこっちが知っているかのように言いやがって。
「ホルダーってなんだよ?」
「この世界の始まりから終わりまでの記録を持つものをレコードホルダーという」
俺が行ったあの場所に繋がるまでの全部を知っているってことか?
いや、違う。
うまく言い表せないが、あの場所はレコードってやつの先だ。
「俺がその記録ってやつを持っているっていうのか?」
「ああ、魔元素を五感で感じられ、それでいてこの高度な縮地。ホルダーとしか考えられない」
魔元素を五感で感じられるのは希少な能力だとは知ってる。
そして、それを持つ人はもれなく魔法の際のが異常なほどに高いと。
レコードを魔法の天才の行き着く頂点だとするんなら、確かにすごい才能があるってわけだ。
「じゃあ、俺の縮地ってやつについてこれたアンタもホルダーってやつなのか?」
「まあな。レコードを持つものにこんなのは簡単なことだ」
世界を歩き渡っても絶対に逃げきれないってことか。
だったら、この男に立ち向かうしかないのか。
「もっといえばこんなこともできる」
男の背後に描かれる六芒星とそれを囲うように並ぶ文字。
それと同時に辺りに不快な甘さが充満した。
「この甘さ。お前の魔法だったのか!?」
男の魔法は簡単な式だ。
簡単な式だからできることは限られている。
だが、単純な式で繰り出される魔法は魔力量こそがものをいう。
あの式に尋常じゃない魔力量が集まっているのが感じ取れる。
十分な魔力量が集まったのか式がまるで太陽のような眩しさを放つ。
だが、この体には何ともない。
「ああ。だが、さすがはレコードホルダー。普通なら一瞬で体を消し去るはずの魔法を受けても少し苦しむ程度で済んでいる」
何を言っているのかわからない。
六芒星の周りに文字を並べるだけの魔法に消滅はできない。
しかし、男が嘘を言っているとも思えない。
この肌がひりひりする感覚。
肌で魔法を感じ取れるわけじゃないが、それでも脳みそに以上だと訴え続けている。
この男の魔法はかなり異常だ。
ちょっとだけ冷静さを取り戻せたからわかる。
あの六芒星とシンプルな文字の並びはフェイク。
こんな単純な式では表せない複雑な魔法だ。
それを瞬時に起動させるだなんて膨大な魔力で強引に叩き起こすようなことをしたって不可能だ。
もとから仕込んであった魔法を起動させただけだったんだ。
男の魔法は俺の体をこの世から消し去ろうとしている。
それどどういう理屈だかわからないが受けきったうえで生きている。
「う……ぐっ」
胸が締め付けられる。
これは俺の痛みじゃない。
ハーヴェの痛みだ。
ハーヴェは男の魔法の影響を受けている。
「そっちのガキには効くのか。不思議な体だな」
「大丈夫か? ハーヴェ」
咄嗟の質問に自己嫌悪。
この苦しさで大丈夫じゃないだなんてわかりきっているのに。
なぜだか死なないのはおそらく俺だけ。
ハーヴェは死んでしまう。
「なんとかね」
そして、やせ我慢。
間抜けすぎてほんと嫌になる。
ハーヴェの体が揺らいで見えた。
まるで霞がハーヴェの体を象っているようだ。
「お前、その体、そういうことか」
ハーヴェへの男の魔法の干渉が強まるのがわかる。
「やめろぉ」
ハーヴェへと手を伸ばす。
その想いに応えるように出現した巨大な手がハーヴェの体を包み込む。
そして、ハーヴェを飲み込んだ。
体に何かが入り込むような感じがした。
男の消滅の魔法ごと俺の体に入ったんだ。
「喰ったのか!? 俺の魔法ごとあのガキを」
喰った。
ああ……そうか。自分の体に取り入れることを喰うというのならその通りだな。
俺はハーヴェを助けるつもりでハーヴェにとどめを刺してしまったんだ。
「ホルダーってやつを倒してどうしたいんだ?」
「レコードをすべて得る。そして、終わりの先にある"深淵″ってやつを視る」
俺が視たあの場所に行くためだけに俺やハーヴェを狙ったのか。
ハーヴェを取り込んだからわかる。
レコードってやつの扱いを。
そして、あいつの魔法で消えなかった理由も。
多分、俺にとっての世界ってやつへアクセスするカギや権利がハーヴェだったんだ。
レコードってやつを視ればわかるっていうのはこういうことだったんだな。
なるほど。
世界ってやつを視るのはこういうことだったんだな。
この世界の始まりから未来まで好きなように見られる。
その中で目を凝らせば特定の一人の始まりから終わりまでだって視られる。
それで特定の魔法の情報を視たんだ。
一生かかってようやく確立できるような複雑な魔法だって、一瞬で再現できるってわけだ。
「やっぱレコードってやつの全部を持っていなんだな」
「お前……視たのか?」
「ああ……言ってもお前のレコードホルダーとしてのステージだけだがな」
あの男はあきれるほどに浅い。
表面だけ。
目ざとく自分に都合のいい情報を掌で掬い上げてるだけ。
レコードに触れることができるってだけで、なんも視ちゃいない。
「でさ、"深淵″ってやつにたどり着いて何がしたいんだ?」
「この世界を書き換える。そして、俺はあいつを……」
「無理だね。あの情報の上澄みだけを啜って、他人のレコードで足りない分を補完しようだなんて性根の時点で"深淵″には着けない」
大切な人をどうにかしたいんだろうけど、あの中に入る勇気すらないのに絶対無理だ。
まあ、怖いのはわかる。
一歩でも踏み込めば、たちまち飲み込まれて自分がなくなるんだろうなって直感するからだ。
指で銃を象り男へと向ける。
「なんの冗談だ? そんな震えた指先で何ができる?」
そりゃあ、まあ、震えるだろうよ。
失敗したら、脳みそを消し炭にしてしまうんだからな。
「死にたくなかったら黙ってろ」
銃を撃つイメージだ。
本物はどうか知らないけど、おもちゃの銃とそう大して変わんないだろうから多分いける。
頭の中の引き金を引く。
指先から熱線が放たれる。
それは男の頬のそばを通り過ぎた。
男のもみあげが塵となり消えた。
男の顔がみるみる青ざめる。
「式もなしにこの威力。……イヤ、これほどの威力。どこかに式はあるはずだ。だが、それをつくり出す式の発現にいる時間はなかったはず……」
男の戸惑う様はとても笑えた。
一矢報いたって感じが最高に気持ちいい。
まあ、式なんてものは本当にないんだけど。
「結局のところ魔法なんて量だよ。無駄に複雑にしなくても一度に高密度の攻撃性のある魔力塊を打ち込めばどんな頑丈な障壁だって打ち抜ける」
誰もが使える初歩的な魔法。
それを大量の魔力で行ったってだけだ。
威力だけなら六属性を配置した破壊魔法のほうが一度に放つ魔力量に依存しない分安定はする。
が、こっちは量に物を言わせているだけなのでちょっとした式で十分なので、速攻で放てる利点がある。
間髪入れずに男へと魔力塊を叩き込む。
一度障壁を破れば、その隙間に打ち込んでダメージを与えられるので案外魔力の消費量は少ない。
魔力の底が見え始めた時に気付いたが男の反応が見られない。
巻き上げられた土煙のせいで気付かなかったが、いつの間にか男の意識は飛んでいたようだ。
意識を失ったからってこの男を放っておくわけにはいかない。
この男がレコードを持ち続ける限り、着け狙われるんだから。
ゆっくりと目を瞑る。
それは、レコードと呼ばれる世界の記憶があるステージへと行くための手段だ。
そこは、石だらけの河原。
目の前には激しい流れの川。
まるで、三途の川だな。
世界からこの男がどうすればレコードに触れられなくなるのか手段を漁る。
水面を上から眺めるだけでは都合よく掴めそうにもないな。
だったら、やることは一つ。
このふとした瞬間に自分が溶けてしまいそうな情報の濁流へと身をゆだねる。
漠然とだが情報がはいいてくるのがわかる。
自分がしたことのない体験や経験も自分のものとして入ってくる。
こんなものの中に居続けたら自分というものを見失ってしまうわけだ。
俺の中に入り込んだ体験や経験をもとに記憶が作り上げられる。
俺なのに俺がなくなる。
俺って何なんだ?
俺の中の何かが脈を打つ。
熱い。
これを掴めというのか?
これは……知っている。
これの正体はハーヴェだ。
何が俺で何が俺じゃないのかわからない中ではっきりとわかる俺の一つだ。
ハーヴェが在るのがわかる。
この手ではちょっと届かないけど、すぐ近くだ。
世界と同じくらい脆く軽く小さい。
ほんの少し加減を間違えれば、壊れ裂けるし、彼方へと吹き飛ぶ。
俺を呼び寄せるほうへとゆっくり手を伸ばす。
じれったいがスローモーションの映像でさえ速く感じるほどにゆっくりとだ。
自分が消えうせるのが先か、ハーヴェに手が届くのが先かわからない。
それが焦りを強くすが、それでも勢いよく手を伸ばすことはできない。
指先が触れた。
すると、俺の中でハーヴェが広がる。
「ただいま」
「おかえり」
ほんのちょっとのことなのに永遠のように感じられた地獄から掬い上げられたような気分だ。
「ごめんね」
その言葉の意味が分からない。
ハーヴェが目を瞑る。
すると、ハーヴェの雰囲気が変わる。
「なんだ、お前は?」
ハーヴェからは、これまでにないとても大きなスケールのようなものを感じる。
人の尺度じゃあ計り知れないほど途方もないものだ。
「お前たちが世界と呼ぶものだ」
世界……世界と来たか。
それじゃあ、俺なんかが計れるはずもないな。
「世界、ね。それがどうしてこんな時に?」
「私に干渉できるようになったんだ。祝うくらい当たり前だろ?」
祝うって言われても、そんな空気よめないしょうもないやつが言いそうなことで場を白けさせるんだから戸惑ってしまう。
まあ、冗談だったらしらけるのは世界を自称するんだからわかっているはず。
本気の一言だとして受け取ろう。
「それだけには見えないけどな」
ずっと値踏みされているような感じだ。
まあ、俺の価値だなんて、この世界からしたらそのへんの石ころも同然だろうけど。
「で、本題はなんだ?」
「まぁ、な」
ハーヴェの目を使って俺を嘗め回すように見る。
その目は俺を品定めするようで本当に気に入らない。
「アンタにとって俺はどうなんだ?」
「どうだろうな。今度こそはやってくれよ」
「どういう意味だ?」
「その意味を知るのは今じゃない。今回の私は、お前に示唆をするためだけに現れたんだからな」
なぜだかとてつもない嫌な予感がよぎった。
何とははっきりとわからないがやけに現実味がある。
「示唆ってこれの事か?」
「ああ、そうだ。本能が感じ取ったそれ通りにならないよう頑張って可能性を広げろってことだ」
訳の分からないことを言いやがって。
とりあえず、気持ちの切り替えだ。
未来に向けて頑張るのは当然だが、目の前のことだってどうにかしないといけない。
「まさかさ、文を一文字も読まないクイズのわけのわからいヒントじみたことを押し付けて帰るわけじゃないよな?」
「何が言いたい?」
「祝ってくれるんなら祝儀の一つくらいあってもいいだろ?」
世界っていうんだから、この世界に関することの全部を知っているはずだ。
祝ってくれるっていうんだし祝儀の一つくらい集ってもいいだろ。
「へえ、世界相手に集るんだ。面白いな。あの示唆が祝儀でもあったんだが、まあいいか」
その価値を決めるための目は気に入らないが、ちょっとは価値があるって認めてくれたところはあるのかな?
「レコードへ一生アクセスさせれなくする方法ってのはあるのか?」
他人のレコードは奪えても、奪ったやつのアクセス権をなくすわけじゃない。
再びレコードから奪われた分を掬い上げればいいだけじゃあ、何も変わらない。
アクセスできなくする必要がある。
「簡単な話だ。アクセするための方法もそれを得るための方法もなくせばいいだけなんだから」
「簡単に言うなよ。できるのかそんなことが?」
「それくらいホルダーならやれて当然だ。今回はこれで終わりだ。この体をこの少女に返すよ」
ハーヴェが力なく倒れこむ。
ハーヴェの体が地面につく前に支えられた。
ハーヴェの体に触れたことで思い知らされる。
簡単に消えてしまうんだなって。
やることは終わったんだ、このレコードのあるステージに居る意味はないな。
夢から覚めるように現実が目に入る。
さて、この男をどうするか。
世界ってやつは答えを簡単に言いやがったがやりようがない。
まあ、そのうちわかるだろうって未来の俺に押し付けるか。
とりあえず、このかすかなハーヴェが在るってだけでもとても嬉しいことなんだから。
帰ろう。