御礼小話3.そして
present for all the dear readers.
『本の虫屋』の扉が開かれる音に、本の整理をしていたアビスは振り返った。
供の一人も連れずに入って来たのはグリューノス公爵家の大奥方。年老いてなお美しい容貌に、笑みはない。
「……終わったのかい?」
彼女は頷く。本日、彼女の侍女をしていた夫人の葬儀が行われた。理想の骸骨男爵とやらにそっくりな男を見つけて、ちゃっかり嫁いでいった彼女の友人。嫁いでからは侍女の役はお役御免となったが、以降も交流が途絶えることはなく、結局、生涯に渡る長い付き合いだった。
「夫のことを語り合える友達が、また一人、いなくなっちゃったわ」
彼女は適当な椅子に座った。アビスは彼女を見下ろす形になった。喪服のままのところを見ると友人の埋葬後に、そのままその足でここに来たらしい。
夫を亡くし、悪友であったこの国の王妃を亡くし、そしてまた、生涯の親友を亡くした。特に彼女と親しかった者達は皆先に逝ってしまったことになる。
「あーあ。皆、先に逝っちゃうんだから。嫌になっちゃう」
けれど、遺された彼女に悲壮な雰囲気はない。寧ろ、晴れやかだった。
「…でも、全然悲しくないのよね。ラゥは終点で待ってるだろうし。死後にも楽しみがあるなんて、幸せだと思わない?」
小さく笑う彼女に、一瞬、少女だった頃の面影が過った気がした。
「そうだね」
「……あんたは、いつ行くの?」
唐突な問いだったが、彼女の言わんとしていることは分かった。
「うーん、なんだかんだ言って、あっという間に五十年以上もの時が経っちゃって、終点に旅立つ機会を失してたんだけど…どうしようかな」
「行くなら、私の後にして」
「何で。末裔よりも後に逝くご先祖様ってのはおかしくないかい?」
「今更じゃない。その末裔と同世代のふりして、そんな年取った恰好までしておいて。…おじじ様の遣い走りの後継者を見つけてからでも遅くないでしょ」
彼女の視線を追いかけると、この店の店主であるおじじが杖をつきながら歩いて来るところだった。おじじの瞳は凪いでいて、とても深い色をしていた。いつもそう。そして髭に覆われた口は何も語らない。彼女はおじじに一礼した。
「よう来たの、姫や」
「…また、置いて行かれてしまいました」
「じゃが、そう遠くない内に、お前さんらは会えるじゃろう?」
かつての頃とは違って。言外に言われた気がして、彼女は切なくなった。
「ええ。私の寿命もそろそろでしょうし」
彼女は顔を少し俯けた。
「…思えば、貴方はいつも刹那に生きる人々を見送って来られたのですよね」
人に戻った彼女は、その肉体は既に老いていて、やがて朽ちてしまう。逆に言えば、後に生まれた者達に見送ってもらえるのだ。だが、おじじは見送る側にしか立てない。彼は夢の監視者であり、裁判官だ。人の世の中に混じりながら、夢の世界と現実世界を見守り続けている。『無能なる支配者』の代理として。
後に生まれ、先に逝ってしまう者達を見送る気持ちは、かつて同じ立場だった彼女には、多少は分かる。
おじじは笑むように目を柔らかく歪ませた。
「ほ、ほ。面白い人間が一人失われれば、二人、面白い者が生まれてくるものじゃて。そういう者達を眺めているのは案外飽きぬものでな。じゃから儂は、見送る側とは思うてはおらん。出迎える側じゃと、思うておる」
彼女は少し目を丸くすると、小さく吹き出して笑い、敵わないなぁと呟いた。
「結局、貴方の正体を解明出来ずに夫の許に行かなきゃならなくなりそうなのが残念です」
夢の世界においては“審判”と呼ばれ、“夢の旅人”や魔女といった夢の中でも上位に位置する者達からも尊重される彼。いつから存在しているのか、彼が本当は何者なのか、誰も知らない。彼直属の遣い走りであるアビス――“調律師”でさえも。
ラドゥーは不思議なことは知らないままの方が楽しいと言っていたけれど、探求することの楽しさも、また格別だと彼女は思うのだ。
「おや、てっきり天寿を全うする日を、今か今かと待ち侘びているかと思ってたのに、そんな楽しみを見つけていたとは」
彼女はアビスの方を見た。悪戯っぽそうな笑みを浮かべて。
「私、ずっと長い間あの人を待っていたわ。私だけ待ってばっかりなんて不公平じゃない。少しくらい、待たせてみたいと思うのが女心よ」
夫を亡くした直後は、何処を探しても夫がいない世界に絶望はしたけど、それで子供達を顧みず自分勝手に夫の後を追うような脆い関係など、私達は築いてはいない。と彼女は言う。
「私達はね、夫婦であり、恋人でもあるけど、それ以前に、相棒なのよ」
恋人のように口付けを交わしたし、夫婦として身体を繋げる行為も幾夜も重ねた。そこに男女の愛情も確かに存在しているけれど、自分達を本当に結び付けているのは恋愛感情ではない。
それは、互いへの信頼と親愛のみで成り立つ、相棒の関係に近い。
「きっとね、私とあの人の道が分かたれることがなかったら、私達はただの親友のまま、夫婦になることなく、けれど生涯離れることなく、一生を終えていたと思うの。だって私達は別に互いの間にある関係に、敢えて名前を付けようとは思ってなかったから」
たいていの人は、関係し合うその結びつきに名前を付けたがる。例えば愛とか恋とか、友情とか。悪いことではないけれど、自分達の間にあるものはそれらも含んでいるし、それ以外の感情も内包して絡まり合っているから名前の付けようがなかった。あえて言うなら相棒、という言葉が一番近いというだけで。
愛とか恋とか、そんな一言で表せる関係であったなら、きっと自分が千年もの間“夢の旅人”となって世界を放浪することもなかった。千年彷徨うには、そういう感情は刹那的過ぎる。
そうではないから、魂が擦り切れて消えてしまうまで、これから自分達は何度だって出会って、互いの隣に立てるのだ。
「どうせ、嫌でもまた顔を合わせることになるんだから、ほんの数年くらい、子供と孫達に囲まれる幸せを満喫しながら、誰も知り得ないおじじ様の謎の解明に費やしたって構わないでしょう」
アビスは、下手な惚気を聞かされるよりも妬けるな、と思った。
「それを聞いて安心したよ。無謀な賭けをしただけはある」
「………ああそうそう。あんたとの賭けに一度でも勝つっていうのも、未練の一つだったわ」
「きっとそれも達成出来ずに終わりそうだね」
彼女の顰め面にアビスは笑みで返した。とびっきりの皮肉が返ってくるかと思いきや、戦意が失せたのか、彼女は溜息一つ吐くと、すらりと立ち上がって背を向けた。
「…でも、初めの賭けには感謝してないこともないわ」
彼女が出て行っても、暫くアビスはその場から動けなかった。
「これ、いつまで突っ立っておる」
「…いやぁ、何百年ぶりかの不意打ちでしょうか」
「礼を言われるくらいでか」
「……僕、彼女に感謝の意を述べられたのは初めてなんです」
「五百年以上の付き合いの中でか?」
「彼女の子供達を夢の世界から連れ帰ってあげた時も、締めあげられはしても、礼なんて…」
それには流石のおじじも苦笑を禁じ得なかった。どうやら彼女は気付かぬまま、最後の最後で彼をぎゃふんと言わせることに成功したらしい。
「それで、お前はいつ、この地を旅立つのかの?」
「もうじきです。恐らく、彼女よりも先に期限が来るでしょう」
アビスは笑みを消し、脱いだ帽子を胸に当て、躊躇いもなくおじじの前に膝をついた。
「僕も貴方には感謝しております。望みを叶えてこの世に未練を失くした僕を、これまでこの地に繋げて下さったこと」
「大したことではない。お前はそれに値するだけの仕事をしたじゃろう」
「大したことではありません」
おじじは彼女が座っていた椅子に歩み寄り、ゆっくりと腰かけた。杖の上に両手を乗せ、跪くアビスを見下ろす。
「儂にしてみれば、五百年など過ごした年月のほんの一部でしかないが……何故か、老いたお前がここを訪れ、この地に対する未練を口にしたあの日を、懐かしく思う」
アビス―否、初代アルフェッラ王ゴルグルドは、かつて“審判”に乞うた。それからは、四百年以上続いたアルフェッラ王家が公爵家となり、国が街となってしまっても、それでも続く自身の血を、ずっと見守ってきた。“審判”の傍らで。その時間の殆どは無為なものだったけれど、それでも垣間見る刹那の輝きの所為で、ずっとここに留まっていた五百年。そしてついに叶った生前の望み。
「でも…結局、僕が態々賭けを申し出なくても、いつか彼らは出会っていたのでしょう。無意味なことをしたのかと思うと、少し悔しいです」
「そんなことはあるまい」
巡り合わせ、というものは、数多の人がそれぞれ選択した道の先に生ずる偶然だ。ゴルグルドが賭けを申し出たのも選択の一つ。彼らが賭けをしなかったなら、今この結果は在り得ない。あの二人は未だ出会えていなかったかもしれない。逆に、もっと早く出会っていたかもしれない。
「…後者だと、やっぱり僕は余計なことをしたことになるじゃないですか」
「ほ、ほ。早いことが良いこととは限らんと、何百年も生きていてまだ学べんのか」
おじじの揶揄に、ゴルグルドは屁理屈を捏ねた。
「…生きてるとは言えませんよ。僕は夢の住人ですから」
「いや、生きている者達の記憶にお前がいるなら、お前も生きておる。この地で限りある命を生きた者達との交わりは、確かにお前を生かしたよ」
ゴルグルドは口を閉ざした。
「…そう、ですね」
長い沈黙の後そう呟くと、帽子を被り直し、表情を隠した。
おじじは一人、こつこつと杖をつきながら、店の奥へと進んだ。かつてアルネイラが足を踏み入れた、閲覧不可の書物や禁書が数多く保管されている部屋の、鍵の無い扉の向こうだ。
しかし、扉の向こうは、アルネイラが見たものとは大きく違っていた。アルネイラが見たのは果てのない闇。けれどおじじの目の前に広がるのは、通路のような長い長い部屋だった。
遥か高く伸びる天井、鏡のような床、壁一面を埋め尽くす本棚。全てが白だった。おじじと、書物だけが、色を帯びている。
この部屋の書物は全て、あらゆる世界で生きた、あらゆる生き物達の、一つ一つの人生を綴った記録である。
光り輝き、人の世でいう神殿の様に神々しいその部屋こそ、おじじの本当の領域だった。
こつ、こつ、と等間隔で天井に反響していた杖の音が止まった。
おじじは一つの棚を見上げていた。そして本棚に向かって手を伸ばすと、ゆっくりと一つの書物が本の間から擦り抜け、おじじの手元に降りてきた。その書物の最後の欄を捲る。
「…ラゥ坊らの物語は、やはり、まだ終わってはおらんか」
ここには、ラドゥーの人生の本も、物語となってここにある。だが未完だ。彼は特殊な輪の中にある故に。
おじじは優しく書物の表紙を撫でた。
膝を曲げると、彼の膝を掬うようにして現れたロッキングチェアに腰かけ、心地よい揺れに身を任せながら、書物を開いた。
おじじは出迎える者。
この世に出迎えられる者がいなくなるまで。
その時間は途方もなく膨大で、何か気を紛らわすことが不可欠だった。だが、この部屋の無数にある書物は全て違う物語だけれど、無数にあるが為に似通った人生もまた数多くある。そうでない物を見つけることが難しいくらいに。
「その中で…ラゥ坊や。お前さんの人生は、中々面白い」
彼の次の人生が始まるまで、まだまだ時間がある。
それまで、お前さんのこれまでの道を、辿ってみるとしようかの。
白い部屋で、ロッキングチェアがゆらりゆらりと、揺れる。
この小話は、この物語を読んで下さった全ての読者様へ贈ります。
これにて、夢の旅人完全完結です。
長らくご愛読下さりありがとうございました。
今回の小話は、実は始めepilogueに出すつもりだったもので、ある意味こちらがtrueend…かも。次回作の伏線の意味も込めて。
もうラドゥー達のことで語ることはありません。彼らは完全に私の手を離れました。次の人生も、彼らは自由に生きていくのでしょう。ここまで書けたのも応援して下さった皆様の御蔭です。
寂しさと満足が合わさって、感無量としか言えない心境です。
彼らの前世にあたる物語を、今年中に始めたいと思います。今年は忙しい年なので、いつも以上にゆっくりとした更新になることが予想されますが、その時は、そちらもよろしくお願い致します。
最後に、また別の物語で出会えることを願って。
トトコ