御礼小話2.夢の森の小さな淑女
present for Mr.nazu
変わらなきゃ 変わらなきゃ
でも、ずっとこのままでいたい
グリューノス公爵家二の姫、クロエは大変冷静で理知的な令嬢として知られていた。
母親似の長女のソニア、父親似のクロエ、と社交界で持て囃される姉妹だ。どちらも美しく成長し、ソニアが甘い砂糖菓子の様な愛らしい容姿に対し、クロエの容貌には凛々しさが備わっていた。
クロエの涼やかな瞳を恋の色に染めたなら、どれだけ美しく艶めいた輝きを放つのか。
まだ見ぬ彼女の笑顔を想像し、貴公子達はその目を向けられたいと切望した。
何より男性陣に見逃せないのは、クロエに婚約者がいないことだった。それ故、既に皇太子に嫁いでいるソニアより、クロエは恰好の縁談相手として注目されていた。
だが、そんな彼女の欠点は、真面目であるが故に美辞麗句の理解が乏しいことか。
「――貴女の瞳は深い深い海の底。貴女の瞳には何が見えているのかわたしは知りたくて、その深い色に溺れてしまいそうになっても見つめずにはおられないのです」
「二十一点」
とある伯爵家が主催する絢爛な夜会のバルコニーにて。
クロエは自身への称賛に自分基準の採点をすると、灰のようになって呆然とする青年貴族に背を向けて歩き去った。
「………」
クロエはそっと目を開けた。ゆっくりと起き上がり、深緑をした周囲を見渡した。
倦怠感を吹き消してくれる清々しい風がクロエの頬を撫でる。梢の隙間から降り注ぐ陽光がクロエの瞳に映る。この森は美しく、優しかった。深い緑に覆われ、しっとりとした水気を含んだ森の空気が好きだ。たとえこの森に頻繁に訪れることの代償に、彼女は社交界で変わり者として敬遠されようとも。
「………ふぅ」
「また来たのか」
さっきまで誰もいなかったのに。クロエははっと後ろを振り向いた。
「ケンさん…」
見知った者であったことに安心し、次いでクロエは不貞腐れた顔をした。
「来ては迷惑だった?」
「そうは言わぬ。だが、ここは人が軽々しく来るところではない」
弓矢を背に携え、森の中を颯爽と駆け抜ける俊敏な脚をもつ彼。その上半身は人、下半身は馬。
クロエが気安く言葉を交わす彼はケンタウロスだった。
人の世というのは、身分に限らず“普通”という枠に入る者を好ましく思うものだ。貴族の中において、好き好んで足場の悪い森の中に入る様な令嬢は変わり者と判断される。
良家の令嬢は外を出歩いて日焼けするのも嫌がるのが普通。
良家の令嬢は窮屈な靴を履いて、あまり歩かないのが普通。
良家の令嬢は飾られた言葉で褒められるのを好むのが普通。
――うんざりだ。
いちいち御者に行き先を告げねば動けない窮屈な馬車よりも、気ままに馬首の向きを変えて好きに走ることができる乗馬が好き。
綺麗な装飾の汚れぬよう気を付けなければならない靴よりも、泥が跳ねても気にせずすむ乗馬用の靴が好き。
そして、貴族としての教養の深さを見せつける為の令嬢への美辞麗句が大の苦手だった。
令嬢達は優雅にお茶を飲んではお茶受けのお菓子を摘まみ、怠惰に過ごす。そのくせ、体型には神経質なほど気にするのだ。その手は気に食わない者を叩き落とすことと、良い男を掴む為だけに存在するかのよう。クロエの引き締まった体型を羨む裏で、がさつな姫とクロエを嗤う。
好きなことをして何が悪いのだろう。彼らの尺度で勝手に測られて、変わり者と評される覚えはない。
だけど、軽く流して自分を保つには、クロエは真面目過ぎた。
心の中に鬱憤を溜めて、その発散に乗馬や森の散策にあて、そうしてますます同年代の令嬢達から距離を置くようになる悪循環。クロエは年々人前に出ることが億劫になっていった。
クロエとケンの出会いは、クロエが七つの誕生日を迎える前日だった。
その日、クロエはグリューノスの街の郊外にあるキグの森に従者を連れて散歩に来ていた。当時はソニアに影響されて可愛らしい衣装を好んで身に着けていた為、その日の装いも、あまり散歩に向かないレースがふんだんに使われたドレスだった。そのドレスが災いして、裾を縺れさせて崖から転落してしまった。
身体が宙に浮かび、幼いながらに死の恐怖を覚えたクロエは衝撃に備えてぎゅっと目を瞑った。
しかし、転落した先は地面ではなく何か柔らかい物の上だった。クロエは、予想よりずっと軽い身体の痛みだったが、暫く呆然と動けなかった。だから自分の下で呻く存在に気付くのが遅れた。
「いい加減に退かぬか!」
「きゃあ!」
いつまで経っても退かないクロエに焦れたマットは叫び、クロエを驚かせた。
「………むう、人間か」
「お馬…さん…?」
自分が下敷きにしていたのが、上半身が人間、下半身が馬の姿を持つ、クロエにはおとぎの世界の存在だったケンタウロスだったことにもクロエは度肝を抜かれた。だが、つぎはぎを友に持ち、両親から夢の物語をたくさん聞かされ、かつ母の侍女のアルネイラからその手の話を豊富に仕入れていたクロエは彼に馴染むのも早かった。
「助けてくれてありがとうございました」
「いや…なに、これしきのこと…」
突然自分の縄張りに入り込んできた異分子とはいえ、小さな子供にいつまでもがなっている訳にもいかず、彼は痛む部分をさすってクロエと向き合った。
「ねえお馬さん。ここは何処? 家に連れてって下さい」
互いに名乗った後、クロエは家まで送ってくれと彼に要求した。ケンと名乗った彼はくわっと目を剥いた。
「わたしは馬ではない。ケンという名があるっ!」
「…ケンさんの下半身はお馬さんじゃないの?」
「上半身と下半身を別々に考えるでない。わたしは人間以上の腕力と馬の脚力を兼ね備えし孤高なるケンタウロスだぞ!」
「じゃあ人馬ね。やっぱりお馬さんじゃない。馬人って言わないでしょう?」
「馬ではないといっている!」
「お馬さんの何がいけないの? お馬さんに失礼だわ」
「…だが馬は人と言葉を交わすことはせぬであろう」
「うーん、そういえばそうかも」
クロエとケンは僅かな時間に親しくなった。その後例のごとくクロエの母親にド突かれて迎えに来た“調律師”によってクロエは自分の故郷に帰ることが叶ったのだが、その日を境に、何故かクロエは夢を渡る力を手に入れた。ケンのいる場所限定だったが。
その力を持て余して戸惑うクレアに、母たる夫人は、クロエが一番私に似たのね、と仕方なさそうに笑っていた。
〈私はすっかり力を捨ててしまったけれど、その素養は確かに貴女の中に流れているのね…〉
母の言葉の意味は分からずとも力は使える。クロエは行使することを躊躇わなかった。そしてそれは成長した今でも変わらず、寧ろ令嬢達と上手くいかないことが多いクロエは、ケンとその同族が住まう深い森に避難所として訪れる頻度が年々増してきていた。
「………はぁ」
「お主はここに来ると溜息ばかり。十数年しか生きておらぬ者が、何を悩む」
クロエはちらりと横を見やり、すぐに逸らした。
「人間の世界には色々あるのよ」
「人間には秩序がない。いつだって姦しく騒いでおる」
「そうしなきゃ退屈で死ねるからよ」
「秩序を人間自身で作り、故にすぐに移り変わる。その移り変わりの際には必ず争いが始まる。生きることと名誉の為以外で同族同士で戦うのは人くらいだ」
「人は飽きっぽいから、常に刺激を求めているのよ」
「忙しなく日々を生きて、時間を無為に過ごす。まるで如何に退屈を凌ぐかが人生の命題のようだ。なんと浅はかな」
「それを嘆く人が詩人になれるのよ」
クロエはも日々無為に時間が流れるまま過ごしている一人だ。でも、それを悲観したことはない。今の自分をそれなりに気に入っている。
だが、姉のソニアと違ってクロエは不器用だった。ソニアも木に登るわ、誘拐犯のアジトに自ら乗り込むわで昔はそれはそれは大変なお転婆娘ぶりを発揮していたが、社交界の中にあってそのお転婆ぶりを巧妙に隠し、華やかという印象に変え、自身の魅力に変えていた。
兄のゴルグルドにしても夢見がちで物語を読むのも書くのも好きというので、後継ぎとして危ぶまれることもある青年だが、それを補って余りある家を運営していくだけの能力はある。
…クロエだけ、中途半端だ。クロエだけ、特出して優れたところがない。
令嬢らしく淑やかであることが苦手なら、それはそれとして代わりに剣を習っても、政治学に励んでみても、芸術に目を向けてみても、結局“そこそこ”までしか辿りつけない。何かを極める前に、本当にそれが好きかどうか疑問に思い始め、熱が冷めてしまうのだ。
クロエ達の両親は子供達の好きにさせてくれているからこそ、それらを実践することが出来た。周囲が大目に見てくれるのは、グリューノスの名前があるからこそ。その名に守られているから彼女の名誉は保たれている。そんなことは重々承知している。
「…でなければ、とっくに私は男性陣から縁談相手候補から外されているわね」
「結婚したいのか?」
「したいんじゃなくて、した方が良いだろうって話」
別に結婚出来なくても不都合はない。けれど、いつまでも家の名に甘えて何も責務を果たさないのでは事情が違ってくる。
自由な家風の下で育ち、義務を果たすことに対して、これまであまり重い責任を感じたことはなかった。ソニアのように王太子に嫁ぐべく育てられたわけでも、ゴルグのように後継ぎとして教育されたわけでもない、気楽な立場だったから。
でも、これだけ好きにやって、何一つ成果が表れない。流石のクロエも焦りを覚えた。
クロエの口から再び溜息が洩れた。
「………はぁ」
他の貴族が自分どう見ようが知ったことではないが、両親達にいたく心配をかけてしまっているのが居た堪れないのだ。
ソニアが嫁いで早数年。今度はクロエの番が来た。社交界でクロエを取り巻く周囲の空気がそろそろ、と促してくるのだ。
しかし、どうやら自分は恋や結婚に興味が薄いらしく、その空気を敢えて無視してきた。父が目に入れても痛くない可愛い娘を下手な男に嫁がせる気はないと公言している所為もあり、社交界に出るまで気にしていなかったことも大きい。でも、それではいけないと、少し気にかけるようになった。
貴族に生まれたからには、家を大事にし、家の盛隆に貢献することが最重要の責務だ。ひいては領民の生活を平らかにすることにもなるのだから。豊かな生活の代わりに受け持つ仕事。女がそれを果たすには結婚が一番最短の道なのだ。
問題はクロエの好きなことが、悉く普通の貴族との縁組を阻害していることだ。
今はクロエが型破りなことをしても寛大な目で見る者も、自分の妻となればその行動に一々口を出してくるに決まっている。夫ともなれば口を出す権利を有する。それを聞かなければ、聞かないクロエが悪いとされてしまう。それを打開する方法も考え付かず、期限までの時間がどんどん短くなっていく。
…結局、私も世間一般的な女に過ぎなかったてことなのかしら。
際立って特技がない自分は、多少変わった行動を取っていても、それだけだ。現在の自分の年齢は丁度結婚適齢期だ。だが、このまま一年、二年と過ぎれば、クロエは完全に嫁き遅れ、クロエの変わり者として評判は不動のものとなる。年増を娶ろうとする奇特な男性にまともな者がいるとも思えない。
この森をクロエから奪わない男性であれば、家柄や相手の容姿など気にしないのに。ほんの少し自由にさせてくれれば、妻としての責務を喜んで果たすのに。
「――何を恐れている?」
物思いに浸っていたクロエの耳に飛び込んできたケンの言葉。クロエははっとして二の句が継げなかった。
「お前は怖いから、ここに来る。ここに来れなくなることが怖いのか?」
「…怖がってなんて…」
否定は、出来なかった。
もし、ここにこれなくなったら? そう考えたら、血の気が引いていくのを感じた。
ここを捨ててまで結婚したくない。そう思っていた。違った。ここを捨てざるを得なくなるから結婚したくなかった。だから興味を持てないふりをしていた。もっと言えば、大人になることを。
母から夢の世界のことを聞いているから分かる。子供の心を失えば夢を自由に行き来出来なくなる。少なくとも、ここには来れなくなるだろう。ここは、夢と共存している現実世界でもあるのだから。この逃げ場所を失ってしまったら、今度こそクロエは自分を保てずに潰れてしまう。だからこそ、他の道を極めたくて足掻いていたのに。結婚とは、望む望まざるに関わらず当事者にもその周囲にも強い影響を与える。
だから、出来るなら、このままでいたいと…そう心の底で願ったから、周囲と溝を作ってしまったのだ。
「ずっと家に居たいなら居れるのだろう? 変わらなくても許されておるというのに、何を焦る」
「でも、このままでいたら、ただの穀潰しになってしまうじゃない」
家族がいいと言ってくれているからこそ、このままではいけないと思うのだ。クロエが大嫌いな親の脛を齧るだけのボンクラ青年貴族と一緒になってしまう。
「これまで好いた男はおらぬのか」
「………」
一瞬、過った顔があった。だが、クロエはそれを頭から追い出した。彼も普通の貴族に入る。きっとクロエの奇行を許してくれない。
貴族社会では言葉をとにかく飾る。それも、クロエには受け付けられないことだった。
いつからだろう。言葉も服装も、肩書も、とにかく飾ることに避けるようになったのは。
「……ねえ、私がケンさんと結婚すればずっとここに居られるのかな」
隣で息を呑む気配が伝わって来た。
「…お主もう帰れ」
思いがけず厳しい声だった。
「……どうして? 私、ここでなら楽しく暮らせそうだわ」
「馬鹿を言うな。異種族間の契りは障害が大きすぎる」
「……私のこと嫌い?」
「好きか嫌いかで言えば確かにお主のことを好いておる。だが、それは伴侶に対する思いとは異なる。そしてお前も、他の誰かを想いながら他の男に目を向けるな」
「………」
「やはり人は人と暮らすのが自然なのだ。ずっとここにいては悪影響を受ける。ここは夢の領域でもあるのだ。お主が逃避を願ったのがいい証拠だ」
「私は平気よ。これまで何度もここに来てたじゃない」
「駄目だ。今日はもう帰れ」
「嫌よ。このままじゃ帰れない」
今、帰ったら、もう二度とここに来られない気がした。何の心の準備もないままそんなことになれば、クロエは立ち直る自信がない。
しかし、彼はクロエの言葉も聞かず、彼女を持ち上げ、後ろに乗せて走りだした。
「やっ…何する」
言いかけたが、ケンさんが嘶いて飛び跳ねた為、舌を噛まぬよう口を噤んだ。そしてケンさんが弓矢をつがえて頭上に向かって矢を放ったことで周囲を見渡してみた。いつの間にか、クロエの周りに黒い靄が纏わり付いていた。
「…これ…何?」
「いくらお主が夢と縁深い者だとしても、そんな状態では食われるぞ」
「ケンさん…」
クロエは自身を乗せて走る彼の首にしがみ付いた。闇を撥ね退ける為、クロエはケンに促されるまま、楽しい記憶や優しい思い出を掘り起こした。
クロエが夢を渡る力を手に入れた後のある日、お父様のお膝の上で遊んでもらいながら、その隣に座るお母様がクロエに語りかけた。
〈人の子は七つになるまでは神様に近い存在なの。だから、その年頃の子供は時々何かの拍子に夢に迷い込んでしまうこともあるの。貴女の場合は自力で行けるようになってしまったけれど、それが心配だわ。あんまり夢に馴染むと今度は現に戻れなくなる。人から異質と感じ取られてしまうの。人は自分とは違う気配にとても敏感だから〉
七つになる前に夢を渡ったクロエは、その血筋も手伝って自力で“渡り”の力を得た。兄にもその経験があったそうだが、自在に渡る力は身に付かなかった。一番母親の血を受け継いだクロエだからこそ、ケンとその一族が暮らすこの“夢の森”に辿りつけた。
当時のクロエには当然理解しがたい小難しい話だったが、今なら分かる。すなわち、その心を未だ持ち続けているからこそ、大人と見做される歳になっても夢を渡ることが出来ている。逆にいえば、クロエの心が成長を拒んでしまっているということだ。
…本当は分かっている。夢を渡る力を捨てない限り、どんなに足掻いても無駄になってしまうこと。いつまでもクロエは大人になれない。そっけない服装も、態度も、それを隠す為。大人になれない子供の心を社交界の面々に指摘されないように。
夢の森を失いたくないが故の自己防衛。だけど、どうしても人は進むものだ。自然と成長しようとするクロエに心と、ずっとこのままがいいと駄々をこねる七つの自分。その幼い自分が色恋沙汰に興味を示さないし、高等な口説き文句を理解しない。その言葉を頭から跳ね付けてしまうのだ。
両親はそれに気付いているからこそ何も言わないでくれるのかもしれない。子供が大人になるのを、待っていてくれている。
「………」
そんな大事な両親を捨ててまで、この森に留まれない。クロエは十分我儘を言わせてもらった。そろそろ、蛹から羽化する時期だ。
さっきのケンさんに言った言葉に浅はかさに呆れる。ああ、これが闇に食われるということか。浅慮で後ろ向きな思考回路になっていく、あの不快感。
嫌だな、と思ったら、耳の…違う、頭の奥から誰かの声が聞こえてきた。誰だろうと思い、その声に近づく。
その声はクロエを呼んでいるようだった。
「…あ」
その声の主を思い浮かべる。すると、自分の身体がケンさんの背から離れて行く感覚がした。あれほど拒んだ現へ戻ることを、その声はそっとクロエを宥めて導いた。
「…ねえ、ケンさん。私、大人になってもここに来られるかな…」
「お前が望む限り。夢は休息を望む者にその扉を開く」
靄は去り、ケンは脚を緩めた。何本も射た矢が通って来た道々に突き刺さっている。見事な弓の腕前だ。是非見習いたいものだ。
「私、ずっと嫌だったの。お愛想笑いと、よく回る口が大人の印だって思ってたから、そんないらない物の為にここを失いたくなかった」
「違うな、本当の大人は、自分の世界を広げていける者のことだ」
「………ケンさん、やっぱり詩人になった方がいいよ」
くすっと笑ったクロエは、手から力の抜き、空中に身を投げた。
「――う!」
耳元で大きな声で何事か叫ばれている。
「――嬢!」
「………んぅ」
どうやら自分が呼ばれているらしい。そんなに叫ばなくても聞こえるわ。若干気分を害しながらクロエはそっと瞼を開けた。
「クロエ嬢! お気づきになりましたか?」
視界一杯に広がるのは見知った青年の顔だった。冒頭でクロエから美辞麗句を二十一点と評された青年である。彼は兄繋がりで昔からの知り合いだった。社交界に出るようになってから何かと顔を合わせる回数が増えた。
「…ラグ」
「よかった。ここはキグの森の中奥です。分かりますか?」
勿論分かっている。ケンさんの森に行くにはここの森で眠ることが必要だからだ。何故かは知らないが、ケンとこの森は縁深いらしい。クロエは目が覚めてもまだ自分から離れようとしない青年に目を向けた。
「何故貴方がここに?」
「えっ…あ…たまたま、僕も散歩に…」
ここは散歩道から幾分離れた場所だ。彼は自分の言い訳が上手くないことに気付き、口を噤んだ。視線を明後日の方に彷徨わせ、言葉を探しているようだが、何故か顔が赤い。
「…てっきり、気を失っているのかと…」
「私、ここでよくのんびりすることが多いの。私、貴方にここを教えたかしら」
「………それは」
「もしかして、付けていらした?」
「で、でも、うら若い女性が外で眠るなんて良くないと思います」
否定しないところを見ると図星らしい。クロエは眉を潜めた。やはり、彼も他の貴族と一緒か。クロエはそっぽを向いた。
「それは私の勝手だわ。私の行動に口を出さないで下さいます? これが貴方達にとって好ましくないことなのは承知していますが」
「僕はそんなことを言っているんじゃないっ」
青年がきっと目元を険しくさせてクロエに反論した。
「もし、万が一無頼漢が貴女に襲いかかったりしたらどうなさいます? 雨が降って土砂が流れてきたら? 森は危険が沢山潜んでいるんですよ」
「………」
思いがけず身を案じる言葉を言われ、少々意外に思ったものの、彼へ顔を向けることはしなかった。
「散歩することが好きなら好きなだけしてもいい。ただ、一人で行かないで下さい。その時は僕が一緒に付いて行くから」
「何故? 態々一緒に変わり者の看板を背負うことはないわ」
少し意地悪かしら、と思っていたら、青年はもごもごと再び顔を赤くした。
「貴女となら…喜んで背負いましょう。だって、その……だって、僕…貴女のことが…その…貴女が…ああ! もう! …好きだからですよ! 貴女が! いけませんか!?」
半ば叫ぶような自棄っぱちな告白。クロエが望んだ、飾らないまっすぐな言葉。
クロエは彼を振り向いた。
「最初からそう言えばいいのよ」
クロエがこの青年と正式に婚約を交わすのは、それから一年後のこと。
長らくお待たせいたしました。この小話はいつも感想を下さったナズさんに。いつもありがというございました。
後日、加筆訂正するかもしれません。