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夢の旅人  作者: トトコ
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番外4-3.僕の日記「その手をつないで」

僕の名はゴルグルド。世界でも屈指のグリューノス公爵の息子だ。名前は僕が生まれて数日後に亡くなったひいおじい様から頂いた。つまり将来公爵家を継ぐことを約束された由緒正しい貴公子なのさ。


そんな僕は日々勉学に励み、武芸をたしなみ、処世術を磨いている。その他にも沢山教養の為に習いごとをしているし、時々妹のクロエの面倒だって見ている良い後継者を志している。

僕は時々『本の虫屋(ブック・ド・バグ)』にも行く。我が家も沢山蔵書があるけれど、『本の虫屋』以上に数多の書物が揃えられているところを僕は知らない。


代々僕の家は、貸本屋『本の虫屋』と懇意にしている。特に父様は昔から暇を見つけては店まで直に足を運び、本を買うなり借りたりしている。それは今でも変わらず、僕も時折連れて行ってもらった思い出がある。僕が大きくなってからは、従者のハリスを連れて自分で店に行くようになったけれど。

使用人に命じて本を借りてきてもらうことも出来るんだろうけど、僕も父様もそれはしない。だってあそこは不思議でいっぱいで、そこにいたいと思わせる何か惹きつけられるものがあるから。父様もきっとそう。


『本の虫屋』といえば、僕には一つ忘れられない思い出がある。

僕がまだ幼少の頃、そう、まだクロエが生まれて間もない、まだ揺り籠の中で眠っていた頃だ。僕はクロエにかかりきりになる母様と父様に怒りを感じ、クロエに嫉妬した。

クロエが生まれるまで、兄妹と言えば姉のソニアだけだった。姉とは年子の所為かとても気安い仲で、同じように育てられたから彼女に対してどうこう思ったことはなかった。


後継者である僕が生まれたからには、周囲が煩く口を出してくる後継者問題はなくなり、母様に子供を産む義務はなくなった。にも関わらず、新しい子供を産んだ。

父様と母様は互いを想い合っているから、自分達の子供が何人いても多すぎるなんてことはない、ということなんてちっちゃな僕には分りようがなかった。ただただ僕らがいるのに、と不満に思った。僕ら以外の子供が欲しくなったのかって思った。僕らはもういらないんだろうかと。

僕は後継ぎとしてソニアよりも厳しく育てられている。母様は愛情を一杯くれるけど、父様は節制を説いた。けれど母様に負けないくらい愛してくれているのも分かっている。だけどあの頃、外から見ていた僕には、クロエにしか愛情を注いでいないように思えた。父はいつも柔らかい物腰だけど、あんまり甘えさせてくれなかったから。

ソニアに対してもそうだったから、それが当たり前だと受け止めていたし、不満に思ったことはなかったけれど、クロエに対する態度を見てしまい、妙に気にかかってしまったんだ。


きっと、僕らのことなんて可愛くなくなってしまったんだ。我儘もいうし、反抗的な態度をとるようになった僕らなんてもういらないんだ。

この間、教師に失敗を指摘され窘められてしまったし、さらに先月には廊下で遊んでいたら壺を割ってしまった。問題ばかり起こす僕なんて…僕なんて…


そして気が付いたら家を飛び出していた。


…僕は思い込みが少々激しいのは自覚している。でも、それは当時からだったらしい。


とにかく小さい僕は走った。家出のつもりだったから、何処か安全な場所に駆け込むつもりで。それが『本の虫屋』だった。

そして店に駆け込み、古臭いぼんやりとした古書の香りに包まれ漸く一息吐いた。真夜中にも関わらず。

そう。駆け込んだ時間帯がまず深夜だった。花街や酒場以外の店は普通閉じている時間だ。なのに、正面の扉は難なく開いた。

それから、グリューノスは他とは段違いに治安がいいとはいえ、真夜中に鍵をかけないなんて不用心な家はないし、真夜中に身なりのいい子供が一人街にうろついていたら悪い奴らの恰好の餌食だ。それが酔っ払いの一人ともすれ違わず、店までまっすぐ辿り着くことが出来たのだ。

小さな僕は、怒りとも寂しさとれるうずきを持て余していて、その不可解さに気付く余裕はなかったけれど、今思えばよく店に辿りつけたと思う。


とにかく僕は本屋の中に入って何処か落ち着ける場所を探した。本を読む気分にはなれなかったがとりあえず本棚の間をうろうろした。店主のおじじか住み込みのアビスが、来客に気付いて奥から出てこないかとも思ったけれど誰も出てこなかった。

「………」

誰も、いない。

暫く歩いて落ち着いてくると、店の不思議な雰囲気に呑み込まれていくのをひしひしと感じた。

本棚は見える。机も椅子も、僕の記憶のまま、そこにあった。でも、他は真っ暗だった。壁も、窓も。夜だから当然なんだろうけど、本棚や椅子が暗闇の中で浮かんでいるような、壁も天井もなく、ぽっかりと空いた暗闇の中に一人立っている。そんな不思議な錯覚。


僕は無意識に腕の中のぬいぐるみをギュッと抱きしめた。何となく一緒に連れてきたつぎはぎだらけのうさぎだ。つぎはぎという名の僕の親友。夜になると動き出して寝つけずぐずる赤ん坊だった僕を楽しませてくれた、大切な家族。クロエが生まれてからは専らクロエと一緒にいるけれど、当時はまだまだ僕もつぎはぎと遊ぶ年頃だった。

生まれてからずっと一緒だったぬいぐるみがつぎはぎだったものだから、兄妹共々夜に動くぬいぐるみを変だと思う考え方はない。他とは違うとは思えど、気味が悪いなんて思うわけがなかった。夜中のこの時はつぎはぎが動き出す時間帯だが、つぎはぎは時折耳をぴくぴくと傾けたりする他は、僕が街を走っている間はずっと腕の中で大人しくしていた。それがきつく抱きしめるとつぎはぎがもがきだした。苦しかったのだろうかと力を緩めるとするりと腕を抜けだしてぴょんぴょんと走り出した。

「あ、待って!」

暗闇の中、自身の体温で暖まったぬいぐるみの感触が無くなって身体が寒くなった。それだけじゃない。心の中も同時に冷え込んだ。父様達を妹に取られ、もういらない存在なんだという思いに駆られてここまで来たこの時の自分は、ほんの些細なことでも酷く落ち込む要因になった。


つぎはぎが離れ、真っ暗な本棚の向こうに行ってしまう。追いかけようとしたけれど、足を縺れさせてしまい躓いてしまった。

…つぎはぎまで自分から離れるの? 僕が嫌いになった?

膝の痛みと、周りの大切な人達が離れて行ってしまう孤独。そしてつぎはぎまで…そう思ったら目が熱くなった。じわじわと滲むものに我慢が利かず、僕は声をあげて泣き出してしまった。


すると、走っていたつぎはぎの耳が動いた。そしてゴルグルドの泣き声に脚の動きが止まった。前足を浮かせ二本立ちになって、こちらを振り向いたかと思うと、まっすぐこちらに駆け戻ってきたのだ。


しゃがみこんで俯いたままだった僕はそんなつぎはぎに気付かず、突然勢いよくつぎはぎに激突され、一瞬涙が止まった。

驚いて顔をあげるとつぎはぎが自分にへばりついてきた。前足を万歳をするようにあげ、腹ばいになるようにしてべたっと僕の胸から腹にかけての胴体にくっついたのだ。

…多分、抱きしめてくれているつもりだったのだろう。しかし、悲しいかな、腕の長さが足りなかった。

代わりに抱っこすると、つぎはぎは甘えるようにちぎれそうな耳をくにゃりと曲げた。

「だいじょうぶ。ずっといるよ」

「……え?」

つぎはぎの言葉だだったのろうか。いつもの舌足らずなつぎはぎとはまた少し違うような気がした。けれど僕の腕の中でごろごろするつぎはぎは、いつものつぎはぎだった。

「………」

とにかくつぎはぎが戻ってきてくれたことに僕は胸が熱くなって、無我夢中でつぎはぎを抱きしめる力を強める。今度はつぎはぎは暴れずに大人しくしていてくれた。

そういえば、昔から、つぎはぎは子供の泣き声にだけは敏感だった。






暫くして、漸く僕の涙がおさまると、自分が真っ暗闇にいることに気付いた。さっきとは全く違う、本棚も、椅子も何にもない闇だ。

「…何にも見えない…」

つぎはぎだけはよく見える。自分の姿さえ定かではないのに。

「店の中じゃないの…かな?」

幼いながらも、普通の状況じゃないのは分かった。俄かに不安が僕の胸を襲い、指先が微かに震えた。ここは、『本の虫屋』じゃない。

「…ねえ、つぎはぎ。真っ暗だよ」

「なんで?」

「なんで? なんでって何がだよ」

「くらくないよ」

「…え、そう? つぎはぎには見えているの?」

つぎはぎは顔を外に向けて鼻をひくひく動かした。こうして見ると本物のうさぎのようだ。体のあちこちが布で繕われてなければ。

「あっち」

前足を右前方に向ける。僕には相変わらず何にも見えないけれど、つぎはぎを信じて僕は歩きだした。


一歩…十歩…五十歩…


僕は真っ暗で怖いから一歩づつ数えながらつぎはぎが示す方向へ歩を進めた。

…百歩。

ちょうど百歩歩いた地点で足を止め、目の前に現れた物を見上げた。

「…扉だ」

蔦模様の格子扉だった。何処かの公園に誂えられるような綺麗に飾られた扉。それが真っ暗闇に浮かんでいる。僕は首を捻った。つぎはぎがあっちあっちとせっつくからだ。

「あそこに行くの?」

「うん」

「………」

綺麗な扉だけど、見覚えがない。少なくとも『本の虫屋』には無いものだ。街にもこんな扉があったか定かではない。

けれど、他に行くあてもなかったから、僕は扉をそっと押した。

扉は簡単に開いた。軽く一押ししただけであとは勝手に動いて開いた扉をくぐる。その向こうに何があるのかドキドキしながら。

数歩歩くと真っ暗闇が一気に晴れて、僕の視界は明るくなった。


そして目出度く暗闇を抜けて初めて目に映ったのは、くまだった。


「…く、ま?」

僕はあまりに突然の事態に、思考が追いつかなかった。取りあえず生存本能というのか、反射的に保身に走った。どうしたかというと、体を縮こまらせてしゃがみこんだのだ。

…後になって思えば、走って逃げるとか、武器を探すとか、もっとこう、とるべき手段があったはずなんだけど、咄嗟というのは自分でも思いがけぬ行動に出るらしい。

お団子みたいになって、くまが立ち去るのを待った。でも、一向に立ち去る気配がない。僕の動悸は早くなる。けれど、あんまりにも長いことしゃがみこんでいると疲れる。緊張する身体も長くはもたない。

くまは立ち去らない代わりに、僕を襲おうともしないというのにも気付いた。僕は恐る恐る顔を上げると、最初に会ったままの大勢で、僕を見下ろすくまがいた。

「あれ?」

少し余裕を持って見て改めて気付いたのは、本物のくまじゃないということだった。服を着ているし、何より風船を持っている。

当時の僕には着ぐるみなんていう知識はなかったけれど、危険な存在ではなさそうだということは分かった。

「………お前、誰?」

くまは首を傾げる。そうするとくまの首がぐらついてちょっとびっくりした。

「ここ、何処なの?」

くまは反対側に首を傾げた。言葉が分からないのだろうか。それとも喋れないのだろうか。

「あの、僕…」

家に帰りたい、と言おうとして、口を噤んだ。真っ暗闇を抜けた安心感で失念していたが僕は家出中だった。恐らく今の時点で誰も僕の家出に気付いていないだろうけど、僕自身の気持ちの問題で、一日もしない内に帰りたくなかった。

僕がいないことに気付いたら、父様達は僕を探すだろうか。それとも勝手に出て行った息子のことなんてすぐ忘れてしまうのだろうか…。

再び、まぶたにジワリと熱が集まった。

「………」

「………」

急に黙り込んだ僕を見て何を思ったか、くまは手に持っていた風船を僕に差し出した。

「……くれるの?」

今度はくまは縦に首を振った。僕はおずおずと風船に手を伸ばし、ふわふわと浮かぶ風船とくまを交互に見比べた。

「…ありがとう」

鼻を啜り、漸く笑った僕に、くまは何処となく嬉しそうに頷いた。顔の表情は分からなくても、嬉しそうな思いは伝わった。


「あら、くま介。お客さん?」


ここは何処なんだろうと思ってきょろきょろとしていると、聞いたことのない声が僕に向かってかけられた。若い女性の声だ。その声の主はくまの後ろから現れた。

「あ……」

綺麗な(ひと)だったけど、切れ長の瞳にひたと見据えられ、僕は気圧されてつぎはぎをぎゅっと抱きしめた。

「……人間の子ね。こんなところにまでやってくるなんて、珍しい」

少しきつそうな印象だったその女性は、すっと目を細めた。そうすればずっと柔らかく見えた。女の人はしゃがみこんで僕と視線を合わせて、にっこりと笑った。

「ボク、お名前は?」

「あ、ぼ、僕はゴルグルドっていいます。あの、お姉さんは」

「私? …ドロシーよ」

一瞬、女の人は切なそうに笑ったが、ゴルグルドは気付かなかった。

「で、ボク。君、どうやって来たのかな?」

「わ、分かりません」

「ふぅん。まあ子供が夢に迷い込むのは珍しいことじゃないものね。子供は現よりも夢に近いから…」

ぶつぶつと呟いていた女の人は僕の腕の中の物を見て、目を丸くした。

「あら、珍しい子を連れているのね」

つぎはぎのことだ。僕は何となくつぎはぎを隠すようにして身を捻った。

「あ、つぎはぎは…僕の友達で」

「へえ、明らかに夢の住人だけど?」

「夢の住人って?」

「知らないで一緒にいるの? 動くぬいぐるみと当然のように?」

女の人は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに笑顔に変わった。

「まあいいわ。ここは子供と人形の為の“玩具箱”だもの。君が現に帰りたくなるまで歓迎するわ」

「なんで、僕が帰りたくないって知ってるの?」

「簡単よ。君の顔に書いてあるわ」

僕が慌てて頬に手を当てると、女の人は快活に笑った。

「顔に直接書いてはいないわよ。君から流れてくる気持ちが、泣いてるの。寂しいって」

「………」

僕ってそんなに分かりやすい性格だっただろうか。

「ここは夢だから、内に潜む感情が直接現れてしまうのよ」

「夢?」

言っている意味がよく分からなかったけれど、優しく頭を撫でる手に、母様を思い出して涙ぐんだ。


くま――くま介に見送られ、僕はドロシーに手をひかれて奥へと歩いて行った。そこは綺麗な建物とか遊戯が沢山あった。つぎはぎが妙にはしゃぎ出すのを見て、僕は好奇心を掻き立てられた。


「なんじゃ。客人か」

僕が走り出すとドロシーの後ろに大きな何かが降り立った。翼をもつ大きな鳥、否、龍である。その着地する際に羽ばたいた風が僕にまで届いた。

「えっ…」

僕はびっくりして後ろを振り返り、龍を茫然と見上げた。その時腕から抜け出して勝手に走りだしたつぎはぎに気付かないほどに。

「おお、子供か」

「初めてのお客さんが可愛らしい男の子なんて、嬉しいでしょう」

「そうじゃな。幸先が良いな」

「あの…」

話についていけず、というより龍に怯えてしまった僕は数歩後ろに後ずさった。

「ああ。大丈夫よ。この龍は…私はディックと呼んでいるわ。見た目はおっかないけど、噛みつきはしないから安心して。あ、火は吹くけど」

「えっ…」

「なんじゃその紹介は。子供が怯えるではないか」

「いいじゃない。間違ってはいないでしょう」

気安い二人の会話は、彼らと会ったばかりの僕にも分かるほど深い関係だと分かった。親友のような、同士のような、夫婦のように男女間の甘い空気はないけれど、それに近い深い絆が。

「…あの少年に似ておるのぉ」

龍は改めて僕を見つめた。しみじみとため息を吐く。その息で僕の前髪が浮き上がった。

「この子、知り合いなの?」

「いや、この子に似ている人間がおってな。もしかすると血縁かもしれん」

「へえ」

「して、何故に人間の子供がここにおる?」

「さあ。この子も分かっていないみたい。でも、そんなものよ。多感な時期だもの。無意識に夢に逃げるなんてことは珍しくないわ」

「そうじゃな」


二人が話している内に僕はつぎはぎがいなくなっていることに気付き、慌ててあたりを見渡した。そうしたら焦った割にはすぐにつぎはぎは見つかった。けれど、他の人形達も一緒だった。人形達と輪になって回っていた。

「つぎはぎっ」

僕が呼ぶとつぎはぎは耳を立てて僕の許に戻ってきてくれた。他の人形達もつぎはぎについて僕の足元に集まってきた。つぎはぎ以外に動く人形を見たのは初めてで、僕はどうしていいか分からなかった。

「だーりん。この子はだぁれ?」

頬に皹が入った金髪のアンティークドールが僕を見上げて言った。だーりん?

「ともだち」

「まあ。すてきですわ。でしたら、あなたもいっしょにあそびましょう」

可愛らしいお人形はやっぱり可愛らしい声で僕に語りかけた。舌足らずな物言いはつぎはぎと一緒だけど、つぎはぎよりもずっとしっかりした女の子という感じだ。他にもまるまる太った人形や、動くたびにギシギシ音が鳴る硬い人形も口々に僕を遊びに誘ってきた。

僕はどぎまぎしつつも、自分で動かさずに動いてくれる人形達に惹かれ、頷いた。

「…何して遊ぶの?」

「おままごとなんていかがかしら?」

「おにごっこがいいでごわす」

「マーメイのところにいこうよ」

「かくれんぼがいいっ」

見事にばらばらな意見を出され、仕方なく一番興味を惹かれた提案に乗ってみた。

「マーメイって?」

かくかくした人形が嬉しそうにカタカタ動いた。

「にんぎょのことだよ」

「人魚…へえ会ってみたいな」

この人形達と同じように人魚の人形だろうと思った。人魚と言えば美しい歌声である。僕は人形でも歌えるのだろうかと少しわくわくした。


僕は人形達といっぱい遊んだ。

会いに行った人魚は銅像だった。けれど銅像とは思えないほど滑らかに尾びれをくねらして、僕はその色気にどぎまぎした。

ドロシーとディックに見守られながら芝生の上で転がったり、追いかけっこをしたりした。どれくらい遊んだか分からない。この時、時間の感覚がなくなっていた。


そして、僕は彼らとすっかり馴染んだ頃、楽しい時間は終わりを告げた。


「ボク、お迎えが来たわよ」

つぎはぎやアンティークドールのメアリー達と遊んでいると、ドロシーが僕の許にやってきてトップハットの紳士を僕の前に連れてきた。僕はその人を知っているような、知らないような、不思議な思いを抱いた。

「…誰?」

「僕が何者かなんて些細なことだよ。僕は君を迎えに来ただけ」

「……父様に頼まれて?」

忘れかけていた家出を思い出し、楽しかった気分は一気に凋んでしまった。僕は差し出される手を取ることを躊躇った。つぎはぎを抱くことで手を塞ぎ、自ら帰る選択を避けた。そんな子供らしい姑息な意図を察してか、紳士は小さく笑った。

「…全く、腕白な末裔もいたものだ」

「何?」

「何でもないよ。僕は君のママに頼まれてきたんだ」

「母様に…?」

いつまでも僕が手を取る様子を見せないので、紳士はさっさと僕を抱き上げた。そうして、後ろに立っていたドロシーと龍を振り返る。

「保護してもらって助かったよ」

「子供ならいつだって大歓迎よ」

「じゃが、お前が来るとはの」

「いやね、この子の母親に胸座(むなぐら)を掴まれてしまってはね」

「…皆、怒っていない?」

忘れかけていた家出を思い出し、居心地が悪そうに身動ぎした。

「怒っているのは君を心配している証拠。君に関心がある証。その感情の奥にある愛情に気付かない内は、君はまだまだ子供だ」

「………」

項垂れる僕を抱いたまま紳士は歩きだす。はっとして僕はドロシー達に挨拶しようと紳士の肩越しに彼女らを振り返った。

「あの、ありがとうございました」

その言葉にドロシーは笑顔で手を振ってくれた。

「いつでもいらっしゃい。くま介がくれたその風船が、ここまで導いてくれるわ」


その言葉を最後に、僕の意識は途絶えた。






次に意識を取り戻した時、僕はつぎはぎを抱いたまま寝台の上で眠っていた。その手には風船はなく、紳士の姿もない代わりに、目覚めると父様と母様が目の前にいて、思いっきり怒られた。思いっきり抱きしめられた。母様が泣いているのを初めて見て、僕は本当に馬鹿なことをしたんだと後悔した。

そしてそれからは、二人の愛情を疑うことはなくなった。


どうしてこんな昔のことを今頃になって日記に書いているのかというと、実を言うと、僕はこの記憶がつい最近までなかったんだ。家出をしたことは覚えていたけれど、ドロシーや龍、そして人形達と遊んだことはすっぱり夢として忘れていたのだ。何処か靄がかって、風船の鮮やかな赤と、おぼろげに楽しい時を過ごしたという曖昧な感触だけが残った。

僕が思い出したのは、かぼちゃ頭のジャックさんの夢の世界に迷い込んでからだ。少しずつ、昔の思い出が蘇った。そして、彼らのことを全て思い出し、そのことを綴ることにした。

もう会いに行けない彼らを忘れないように。


「何してるの? 早くいらっしゃい」


日記を書くゴルグルドの耳に、階下から母の呼ぶ声が聞こえてきた。

「今行く」

ゴルグルドは母の声に答え、ペンを置いて部屋を出た。


ゴルグルドは庭で待つ家族の中心に入り込み、カメラに向かって笑みを作った。カメラは一枚撮るだけでとても疲れるけど、皆も一緒だと思えばつらいなんて言えない。




写真は家族分焼き増しされる。僕の分はジャックさんにあげようと決めている。

最近発明されたカメラは、母様やおじい様が街の科学者達と協力して開発したという。まだまだ改良の余地はあるけれど、少しずつ市販に出始めている。今はまだ高級品で金持ち連中の娯楽品にすぎないけれど、ゆくゆくは庶民層に広げていきたいと母様は言っていた。

そのカメラで撮った写真は時間を、一瞬だけ閉じ込めることが出来るから、僕らがいた証を、ジャックさんに残していける。

これが最初の一枚。これから少しずつ一瞬一瞬の生きた証を撮って、時が止まったままの彼らに託そう。


いずれは姉様も、クロエも他家に嫁いで、この家を出ていく。必ず。

そして父様と母様も、おばあ様やおじい様のように老いていく。僕らは別々の人間だ。同じ屋敷に住んでいても別々の人生を歩む僕らは、絶え間なく変わっていく現の中でいつしか過ぎ去っていく人間だ。今、僕の肩に手を乗せている姉も、僕の後ろで母様と寄り添っている父様も、いつかは僕の隣から消えてしまう。そして僕も、この場から消えているだろう。


この家族の時間は消えてしまうもの。


夢の世界を知ってから、今この時間がとても貴重なものに思えてきた。だから、僕ら以外で覚えている人が欲しくなったんだ。




「おとーさま。疲れたぁ」

「クロエ、もう少しよ」

父様の腕の中でむずかる妹のクロエを、母様の宥める声に心が温かくなった。

幸せだなって、改めて家族のぬくもりを噛みしめた。


僕らの“今”は、過ぎゆく時の中に呑み込まれて、消えてしまうのは止められない。

だけど、この写真は僕の手元にはいらない。懐かしむ必要なんかないから。思い出はいつだって僕の中に在る。


今繋いでいる手が、身体は離れてしまっても、解かれることはないと信じている。



だって僕らは家族だから。







これにて番外編も完結です。


本当ならばこれを最後に完全完結となるはずだったのですが、短いですがサプライズにお礼小話を書かせていただくことにしました。

更新は少し間が開くかとは思いますが、後少しだけお付き合いください。

だから、それまで完結の挨拶はとっておきます。


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