番外3-3.魔女の幸せ
優しい夢を見ているだけだと、分かっているつもりだった。
いつかは終わりを迎える甘露な夢だと。
可愛い村の子供達と歩く夕焼けの小道。声をかけてくれる隣人達。
大好き 大好き
でも…
突然現れた紳士に手を取られ、アルネイラは再び真っ暗闇に舞い戻った。
「…何処に行くんですかぁ?」
今度は紳士も龍もいるので退屈はしないが、真っ暗闇に紛れることなく目に映る彼らを不思議に思った。
「木漏れ日の君の夢にだよ」
龍は首を紳士に傾けた。
「何者の夢だ」
「僕はそう呼んでいるだけで誰もが知っている娘だよ。“姫”だ」
微かに龍が息を呑む音が伝わってきた。
「姫…」
龍が怯むなんてよっぽど凄い女性なのだろうか。と考え、それが己の知る者だと思い至る。
「私の…」
「そう。君の主人だよ」
アルネイラはそもそもここに来ることに至った理由を思い出した。自身の主人のお遣いである。
「………」
ここはやっぱり魔女さんの夢があったところらしい。以前魔女の夢にお邪魔した時に感じた感触が同じだから薄々分かってはいたが。ここは違うと。ここは真なる世界ではないと。
そして、アルネイラの主人に出会ったのも魔女の夢。ここに来たのは偶然ではなかったらしい。
アルネイラの顔付きを見た紳士は頷いた。
「話が速くて助かるよ。人の数だけ夢がある。“木漏れ日の君”の夢もその一つだった。でも、彼女がここからいなくなってしまったから、代わりに新しく再生する魔女に引き継いでもらいたいのさ」
アルネイラは首を傾げた。
「夢を引き継ぐって、何だか可笑しな話ぃ」
「そうだね。でも、国だって研究だって、王子様や助手が引き継いで完成させていくだろう? それと一緒だよ」
分かったような分からないような。
「まあいいよ。とにかく、魔女の再生をとっとと済ませたいんだ」
紳士の微かに焦りを含ませた言葉に龍が反応した。
「…何故だ」
「闇がまた現れたからだよ」
「闇ぃ?」
「疫病神みたいなものかな。悪さをしようとする奴は何処にでもいるものさ。誰も管理されていないところには特に良からぬモノが集まるだろう?」
「不良が潰れた酒場に縄張りを張るように?」
「そんなところ」
「…“奇術師”がまた現れたのか?」
憤る龍。何か因縁でもあるのだろうか。
「偉大なる龍殿。人がいる限り奴は滅びないよ」
「………」
アルネイラは難しい顔をした龍を見上げていた首を紳士に戻した。
「つまりぃ、管理人さんが欲しくて魔女さんが必要なのね?」
「そういうこと」
帽子のせいで顔の全貌は分からないが、紳士が微笑んだのが分かった。
「それで、魔女さんはもうその夢にいるのぉ?」
「逆だよ。彼女をそこに連れて行くんだ」
「今から?」
「そうだよ」
「…何処からぁ?」
魔女は今はこの世にいないのではなかったか。
「とある現実世界にいる。魔女の願望が凝縮された姿で」
アルネイラは足を止めた。添えられた紳士の手を見る。紳士も足を止めた。口元は笑みのままだ。
「君には是非魔女を連れて来て欲しいんだ」
「…それが私のお遣いなの?」
頼まれるのが嫌なのではなく、純粋に疑問に思った。態々アルネイラがしなければならないことなのだろうか。
「デリバーンさんは魔女さんのお友達なんでしょう? それに貴方だって」
「そうだけど、龍が人の世に出ると騒ぎになるし、僕は他の世界に行けない」
「行けない?」
「うん、今の僕は不自由な身でね」
夢を叶えた“調律師”は人の世を渡る“夢の旅人”としての力を失った。“審判”の使い走りとして夢を渡る力は今でも保持しているが、もはや己の血族が繁栄している世界以外に存在出来なくなった。けれどそれはここでいうことではない。
「他の候補者もいたんだけど、彼には強力な門番がいてねぇ」
他の候補者とは勿論ラドゥーのことである。しかし彼の妻がどうしても了承しなかった。新婚を引き離すとはどういう了見だと。その為、今の時点でアルネイラしか魔女を迎えに行ける者はいない。アルネイラも魔女を知っている一人だから。
話を聞いたアルネイラは、それに伴って勘付くことあった。こめかみをほぐす。
「…もしかして、ずっと私の後をつけてましたぁ? 真っ暗闇で彷徨っている間も」
「そうだよ」
紳士はあっさり認めた。
「…それで見て見ぬふりをしたんですかぁ?」
「君は僕が手助けをする間もなくさっさと自力で辿り着いてしまったじゃないか」
新しい主を待つ“姫”の夢に招く為に、以前より紳士は龍を探していた。しかし“夢の旅人”としての能力を殆ど失った彼では龍を見つけるのは至難の業。そこでラドゥーを呼ぼうと思ったのだが、彼の妻が許さず、代わりに寄こされたのが彼女。
「…そういえば、木漏れ日の君のかつての親友だったね」
闇に在っても変わらぬ柔軟さは、恐らくラドゥーに勝る。まさに現の魔女と呼ぶべき不思議な少女。
「…夢が砕けたけれど、“木漏れ日の君”が夢と現を引っ繰り返してしまって、色々歪んでしまったんだ。魔女は消えたのに、本が残ってしまったのもその一つかもね。だからこそ、以前の彼女に限りなく近い魔女に再生出来る可能性もあるんだけどね」
多少なりとも魔女の事情を知っているアルネイラはすぐには首肯しかねた。
「…魔女さんは、現実世界にいるのよね?」
「そうだよ」
「それから、彼女の願望が凝縮された姿でいるとも」
アルネイラは垂れた目を細めた。
「じゃあ、今の魔女さんは、昔住んでいた村にいるの?」
「…うん、いるよ」
「じゃあ私は行けないわ。魔女さんがあれだけ望んでいた夢が叶ったのなら、それを壊しては可哀相だもの」
アルネイラはきっぱりと言った。たとえお遣いが完遂出来なくても。本が二度と読めなくなっても。人が怖がるのを見るのは大好きだが、嫌がることをするのは好きじゃない。
「そうだね。彼女が幸せなら諦めたよ」
「どういうこと?」
「俗にいうだろ? 歴史は繰り返すって」
アルネイラは炎に包まれた村の前に立っていた。そこは紛れもない現実世界。
「……臭ぁい」
人の焼け焦げる臭いだと直感で分かった。流石のアルネイラも気分が悪くなってしまった。しかもこれからその臭いのする方に向かわねばならないなんて。
「こんな所に女の子を一人放り出すなんてぇひどぉい」
とはいえ結局引き受けたのは自分だ。仕方なくアルネイラは足を踏み出す。
紳士は言った。歴史は繰り返すと。
〈何の話?〉
〈彼女は戦で村を失った。けれど夢と現を覆したことによる弊害で歴史にも狂いが生じた。村を失う切っ掛けとなった戦はなくなり、彼女は村を失った過去が消えた〉
〈いいことじゃないの〉
〈それがそうもいかないのが人の世なんだよ〉
紳士は一旦言葉を切った。
〈一つの戦争が起きずとも、別の戦争も起きないと思うかい?〉
ざくざくと小石が転がる畦道を歩く。
「………」
こんなのってない。
〈結局、彼女は村を失う運命だったのかもしれないね〉
〈どうして?〉
〈あのね、夢と現を引っ繰り返すということは過去を塗り替えるという意味じゃない〉
そうであったなら、龍が魔女と出会った経緯はどうなる? 龍殿の中には魔女と出会った記憶が残っている。それは、なかったことにはなっても、あったことには変わりはないから。時の流れという悠久の流れには予定調和する力があるらしい。
ケンタウルスや人魚の過去は変わったが、龍は変わらなかった。姫は神ではなく、ただ力の強い“夢の旅人”に過ぎない。あらゆるものの軌道を変えてしまう程の力だが、それは“姫”の力が敵う範囲内での話だ。古の龍に影響がなかったのがいい見本だ。おそらく魔女と龍は出会う運命にあった。それを変える程の力は“姫”とてない。
それでも“姫”以上の者など皆無であり、だからこそ矛盾や歪みを生じ、夢にも現にも影響を与えた。
“審判”の命によりあらかた“姫”自身の手で修復はさせたが、それでも完全にとはいかない。生き物の繋がりは人知の至らぬ糸で繋がっている。
〈…今、魔女さんはどうしているの?〉
〈もう一度、繰り返そうとしている〉
何を? 決まってる。夢をだ。
アルネイラは紳士が焦ってる本当の理由を知った。
〈だから、早々に連れ戻そうと?〉
〈そうだよ〉
〈……分かりましたわぁ〉
アルネイラの表情が元に戻った。
アルネイラは燃え盛る家々の間を歩いた。時折柱が崩れ落ちる音がする。けれどアルネイラには火の粉は降りかからない。龍の息吹に遮られているからだ。それでも臭いや炎の熱さは伝わってくる。戦など見たことのない彼女には刺激が強い。本物の死体を見て楽しいと思える程アルネイラは腐ってはいない。
叫び声が聞こえた。この炎の中まだ生存者がいるらしい。ということは炎がまわって間もないのか。
「まだこんな所に女がいたとはなぁ」
魔女を探してうろうろしていたアルネイラの前に立ちはだかったのは三人の男。見るからに卑下た最低と評される男の類だ。一応身なりは兵士だが、きちんとしてないし、きっと中身は山賊と変わらない。男を殺し、女を犯し、子供を売り払う。それらを平気でしそうな人種だ。事実アルネイラを前に誰が最初に手を付けるか、などという会話を始めている。
「…人間ってきたなぁい」
溜息を吐いてしまうのはどうしようもないだろう。なんだかがっかりした。
「おいお嬢ちゃん、殺されたくなければ大人しくするんだな」
アルネイラは立派な成人だが、彼らの体格からみれば子供も同然。その内の一人がアルネイラを味見する権利を勝ち得たらしく、アルネイラに手を伸ばした。
しかし、その腕は吹き飛んだ。
「…え?」
血も出ない異常な傷口に、腕を失くした男も、それを目撃した残りの男も何も言えなくなった。
「オレの腕が…」
茫然とした呟きに、次第に湧き上がってくる憤り。突然野太い声を張り上げた男達はアルネイラに剣を向けた。
「何しやがったてめえ! さてはお前がオレ達の進軍を邪魔し続けた魔女だな!?」
アルネイラにはとんと記憶にない話だ。だが、魔女と聞いて、アルネイラが探している魔女のことかと見当をつける。
「……だったらどうだっていうのぉ?」
剣の切っ先に向かって微笑んだ彼女に余裕を失くした男達が襲いかかってきた。
そして、その身体ごと消えてしまった。
「……絶対危害は加えないって、こういう意味ぃ?」
アルネイラをここに送り出す前に紳士は言った。君に危害を加えようとする者は夢に引き摺り込んであげるから安心して、と。
引き摺り込まれた者はどうなるのかと問えば、狂うという答えが返ってきた。
〈でも、すぐには狂ったりはしないよ。数時間くらいなら大丈夫。君が魔女を迎えに行った後、返しておくから安心して〉
およそ信用に欠ける請け負いだったが、取り合えす信じる他なかった。
それから男達のような兵士に出くわすことなく暫く歩いた。
「…魔女さん」
いた。
アルネイラはへたりこんで俯いている白髪の老婆の背中を見つけた。アルネイラが知っているのは赤い赤い髪を巻いた美しい女だ。だが、不思議と彼女だと分かった。
一歩また近づいた。
「……魔女さん」
漸く背中が反応した。虚ろな目をアルネイラに向ける。
「…誰だい?」
「お久しぶりですぅ。アルネイラです」
焦点の合っていない老婆は魔女ドロテアとは一見見ただけでは決して分からない。だが、その赤い瞳は紛れもない彼女のもの。
「……あんたは」
「魔女さん。迎えに来ました」
次第に目が正気を取り戻してきた彼女にアルネイラは微笑んだ。
「……迎え?」
「魔女さん。貴女の村はどうあっても滅んでしまうみたいです。かといって再び村を夢に引きこんで再生させようとしてはいけませんわぁ。また同じことを繰り返すだけで何にもなりませんし、今の貴女は夢の塊。人でもなく、完全なる魔女でもない貴女に、そんな力はないらしいのです。だから、もう帰ってきて下さいな」
涙を流せても、それは願いだったからだ。人と同じようになりたいという。だからその雫はただの幻。
「何を…」
「貴女の心は童話となり、童話は親に聞かされて子供の心に刻まれる。充分ではありません? 人はいつかは死にます。けれど物語は残り続けます。村の住人達の楽しい日常の姿は、私達がきっと語り続けてみせますから。だから、どうか、夢に戻ってきて下さいな」
「………夢」
「そうです。夢です。貴女の大事な村人達はいなくなってしまっても物語の中でいつまでも笑い続けるでしょう。そこから時が動くことはありませんが、それでもここで朽ちていくよりはずっと素晴らしいんじゃありません?」
アルネイラは脇に抱えた絵本を老婆の前にかざした。
「………」
「お友達のディックという龍さんも待ってますよぉ。何だかんだいって寂しがってましたから、会いに行ってあげて下さい。夢には貴女の居場所がありますよぉ」
アルネイラは手を差し伸べた。
老婆の手が、ゆっくりと持ち上がった。
「ただいま戻りましたぁ」
アルネイラがグリューノスの屋敷に戻ると主の怒鳴り声が聞こえてきた。
「この匂いは何なのっ? 明らかに女物じゃない!」
「誤解だよ、これは伯爵夫人の…」
「じゃあ肩に付いた長い栗毛の髪は? 伯爵夫人はもう頭真っ白よね?」
「それは伯爵夫人の姪御さんで…」
「肩に擦り寄られる程近くにいたのよね!」
「誤解だよ…向こうがいたく積極的で…」
「……」
どうやらラドゥーが帰ってきたらしい。早速始まった喧嘩にアルネイラは微笑んだ。
「ただいま戻りましたぁ」
もう一度言って部屋に入ると妻に詰め寄られる屋敷の主の姿があった。
「お邪魔でしたら、また後ほど…」
分かっていながらそういうアルネイラをラドゥーは引きとめた。
「丁度よかった! 今からじい様のお部屋に伺うから。容体が悪化してないか気になってね。彼女を頼むよ」
そそくさと出ていったラドゥーを見送り、己の主を振り返った。
「…ムークット君が浮気なんてする筈ないって、知ってる癖にぃ」
「痴話喧嘩も夫婦円満の秘訣よ」
アルネイラの笑みに応え、彼女はさっぱりとした笑みを見せてくれた。ラドゥーの方も分かっていて付き合っているのだろう。切迫した雰囲気はなかった。結局はお互い理解し合っている良い夫婦なのだ。
「そうだ。ちゃんとお遣い済ませてきましたよぉ」
アルネイラは手に持っていた絵本を彼女に渡す。
「ありがとう。一日で済んだのね」
「それだけしか経ってないんですかぁ?」
アルネイラ的には何週間もかかったような気分である。
「……ねえ、アルネはぬいぐるみ達には会った?」
「ええ、会いましたよぉ。クマ介君に風船貰っちゃいました」
夢の世界を抜けた瞬間消えてしまったが、不思議と失くしたとは思えない。
「そりゃそうよ。夢だもの。いつだって貴女の中にあるわ」
「そうですかぁ、よかった」
「これで安心ね。うちのぬいぐるみ達も新しい魔女の下で楽しくやれるわ。魔女も友達と再会したことだし、もう無茶して自分を削ることはないでしょう」
「ええ、私達が物語を受け継いでいくと約束したら、彼女は笑ってくれました」
夫人はひとつ頷いた。
「今回はアルネには苦労かけたわね。ご苦労様」
「いいえぇ、その絵本とまた会えたことですしぃ」
「あら、以前のようなお話じゃないのね」
パラパラと適当に捲った彼女は少し眉を上げた。
「あら、内容変わっちゃったんですか?」
「そうみたいよ。多分、ラゥの所為ね。昔お話が消えちゃったから新しいお話しを考えたんですって。その上ツェリに読み聞かせちゃったみたいで」
「あらま」
「でもまあ、いいんじゃない? 真紅の魔女にしてみれば、子供達が笑っていてくれるなら、何でも構わないと思うし」
「ええ、そうですね」
アルネイラは満たされた笑みを浮かべた。
腰を落ち着けて絵本を読む公爵夫人にお茶を淹れていると、ふと思い出したように絵本から顔を上げた。
「ねえ私、出来ちゃったみたい」
「……はい?」
「折角だから今夜あの人を驚かせてやろうかしらね?」
首を傾げる己の侍女に向かって美しい公爵夫人は悪戯っぽく笑った。
次のラストは彼らの子供視点にしましょうか。