番外3-2.さすらう古の龍
闇
「えぇ……何ここぉ」
扉をくぐれば、そこは深淵の闇だった。
どれだけ書庫を暗くすれば気が済むのか。いくら光を入れないよう配慮したといっても、ここまで暗くする必要などどこにもない。
取り敢えず灯りを、とランプを翳して気付いた。
「…光が見えない」
手に持っているランプの灯りが見えない。消した覚えはない。灯りさえ飲みこむ暗闇? そんなことあり得るだろうか。
「…どうしようかしらぁ?」
そろそろ暗闇に慣れてもいい頃なのに、依然として何も見えてこない。一歩先さえ見えないこの部屋の用途は一体何なのだろう。
部屋には壁があり、天井があり、そして家具や置物が置かれているのが普通である。だというのに、まだ入り口付近である筈のアルネイラの立ち位置から手を伸ばせる範囲内に壁がない。後ろにある筈の扉も、無かった。
「……なにごとぉ?」
辛うじて自分の声は聞こえるけれど、闇に吸いこまれるように響かない。その他に何も聞くものがなく、まったくの無音だ。
試しに数歩歩いてみる。足音がしない。床があるようなないようなおかしな感触。確かな足場を感じられない。自分が知らず沈んでいたとしても気付かないだろう。
もう一度手を伸ばしてみた。爪先は空を切った。少なくとも床に置かれた物によって無様に躓くことはなさそうだが、腑に落ちない。何かに当たったらそれはそれで、それが何なのか気になって仕方ないだろうが。
「……もしかすると、ここって異空間?」
オカルトが趣味の彼女だからこそ、何の情報もない不可思議な状況で真っ先にそんな発想を浮かべた。
「…ふぅん」
アルネイラはランプの持つ手を上下に振ってみた。ちゃんと重みがある。自分は正気だ。異常なのはこの空間。おじじの店はやはり不思議で一杯だ。
まあいい。進むしかないなら、行くまでだ。
彼女は恐れることなく大きく足を踏み出した。
「…わくわくする」
彼女はにんまりと笑い、舌で軽く唇を湿らせた。
己の身に脅威を感じることに快感を覚える。それがアルネイラだった。
暫く真っ直ぐ歩いた。正確には、歩いたつもりだ。なにせ真っ暗なのだ。道も、伝っていける壁もなく、自分の平衡感覚だけを頼りに歩くなかで、自分が本当に真っ直ぐ進んでいるかなんて分かりようがない。それは中々のスリルで、いつ何が出ても可笑しくない恐ろしさを充分に堪能した。
しかし、どれくらい時間が経ったか定かではないが、いつまで経っても変化がないことに辟易して、アルネイラはとうとう歩みを止めた。
「埒が明かない」
いっそ何かが出てくれれば、そこから現状を打開する術が見つかるかもしれないのに。
そんな怖い物知らずなことを考えていると、ふ、と天啓が閃き、アルネイラはエプロンのポケットに手を差し入れた。
「これ、使えないかしらぁ?」
手の感触からして、手に触れる物が何であるかは分かる。アルネイラの所持品のダウジングだ。
脇に抱える本を手掛かりに、ダウジングで何かを掴めないものか。己の手さえ全く見えないけれど、ダウジングがどう示すのかくらいは、手で触れる間隔で進む道が分かるだろう。
「……そういえば、これ、前にも使ったわねぇ」
あれは確か、学生時代、ラドゥーを含めた同級生達と、“キグの樹海”で…
「…何をしに行ったんだったかしら?」
アルネイラは自他共に認めるオカルト被れだ。ただの森の散策なら自分はおそらく参加はしない筈。なのに、確かに自分はそこにいた。
「…?」
じわじわと染みだす違和感。ただの散策だと記憶にはある。アルネイラはラドゥーと、同じく同級生のテリーと組になって…
「どうして、組になったんだったかしら?」
あんな大人数で散策に出かけた時点でまずおかしい。そしてさらに人数を分ける必要があるだろうか。アルネイラは別段オドロオドロしくもない森で、芋虫みたいにラドゥーにひっつくテリーを怖がらせて………なんて、あり得ない。
怖い話は、怖い雰囲気に囲まれてこそその魅力が存分に発揮されるのだ。何が楽しくて曰くのイの字もない森のハイキング中に怖い話などせねばならないのか。しかも、何故か散策の時間帯が夜だったのだ。中途半端にも程がある。
「…もしかして」
もしかして、肝試しに行っていたのだろうか。
「でも…記憶が…」
アルネイラの記憶違いだろうか。肝試しなら、夜に行くのも頷けるし、組み分けするのも当然だ。どうしてただの散策と片づけられていたのだろう。
何処か、辻褄を合せる為に創られたような記憶に、アルネイラはいよいよ不信感を持った。
アルネイラは脇に挟んでいる本に意識を移した。
思い返してみると、怖がるテリーにラドゥーが恐怖を和らげようと彼女に御伽話を聞かせてやっていた。
そう、この『いじわるおばあさん』を。
「…でも、何も書かれていないし、ムークット君が話していた内容が、頭の中からキレイさっぱりと消えてるなんてぇ」
ラドゥーはどうやってこの話の内容を知り得たのか。やはりこの本には何か仕掛けがかけてあるのだろうか。
「………素敵」
崩れかけた記憶、読めない童話。それを解かなければならない。自分の知識欲の為に。
最高の休暇の過ごし方ではないか。
しかし、それより何より…
「…どうやって帰ろうかしら」
相変わらず、あたりは何も見えない暗闇だった。
謎を解く以前に帰る道が分からなければどうしようもない。おつかいが完遂できない以前にこのままでは餓死してしまう。発狂死という候補は彼女にはない。
アルネイラは本をダウジングにかざした。ダウジングは小さな羅針盤の様な形をしている。中央にネジが固定され、針がネジを中心に回るのだ。この針の示す方向の先に進めばよいのだが、正確に動いてくれるだろうか。
暫く本を翳したままにした後、ダウジングから離した。指を近づける。針は回っている。どうやらここでもダウジングは有効らしい。一安心。
まもなくダウジングの針が静止し、一つの方向を指し示した。
「…あっちぃ?」
指し示す方向は後ろを向き。つまり元来た道だ。しかし、方向感覚があてにならない今、後ろが本当に後ろなのか断言出来ない。アルネイラはゆるゆると歩きだした。
人から冷静を奪い、正気を失わせるこの闇は、アルネイラとてあまり気分のいいものではない。しかし、アルネイラは不思議と平気だった。不愉快と思う程度で済んでいる。それが如何に特殊なことか彼女は知らない。
…知ったところで、彼女が気にするとは思えないが。
時間にして恐らく数分。歩くのに飽きてきた頃、アルネイラの前に岩が現れた。
「岩?」
闇に浮かぶ大きな岩。どんな大男も動かせなさそうな巨岩。
「………」
流石のアルネイラも理解に苦しんだ。自分の手さえ見えないのに、何故岩は見えるのか。
「それに、何の為あるのぉ?」
あたりは真っ暗。禁止欄の薄暗さなどメじゃない漆黒の闇。そこにある唯一見えたのが岩。意味が分からない。
「でも…あからさまに存在を誇示されると、何か意味があるとしか思えないじゃない?」
とはいえ、その意味などアルネイラに知る術はなく、とにかく今は何処かに座って休みたい。その一心で岩に近づいた。
岩を調べる前にひとまず腰かけようと出っ張ったところに座った。
そうしたら、岩が横に滑ってアルネイラは岩が退いた空間に落っこちた。
「岩の…くせに…ぃ」
人一人が乗っただけで軽々と動く岩なんて聞いたことがない。アルネイラは腰を擦りながら立ち上がった。そしてあたりが明るくなったことに気付いた。
「…手が見える」
ランプの光などいらないほどそこは明るかった。ダウジングの針を見るとゆっくりと揺れていた。どうやら目的地に着いたらしい。
「じゃあ…この本に縁の地?」
アルネイラの目の前に広がっているのは、果てしない草原だった。
「誰もいないじゃない」
闇を抜けたのはいいが、ここが何処かという疑問をぶつける先がない。グリューノスにこんな草原はない。地元の人間であるアルネイラには一目で分かる。
つまり、
「…また…歩くのぉ?」
誰かに何かを訪ねるには、当然だがまず誰かと行きあたる必要がある。アルネイラはしゃがみこんで草の上に座り込んだ。岩はアルネイラを休ませてはくれなかったが、この草原なら、暫くゆっくり出来そうだ。
「……長閑ねぇ」
膝を抱えてみる。雑多な都会より自然を好む彼女にとってここは安らぐ場所だ。視界が開けたことによる安心感もある。ためしに本を開く。しかし、何も書かれていない。ここに来ただけでは読めるようにはならないらしい。
「ふぅ…」
グリューノスから遠く離れた地に来てしまったのだろうか。でもたかが徒歩で一刻くらいでそんなに進むものではないから、大した距離ではないかもしれない。アルネイラはわくわくした気持ちは持続しているが、どうしていいやら途方に暮れた。
「どうやって帰ろうかしらぁ?」
アルネイラの呟きを風が攫っていった。謎を解けても帰れないことにはしょうがない。謎解きと同時に帰り道を探さなければいけない。だが、開いた本のページがぱらぱらと音を立てて捲れていく様を見て、和んだ彼女はお昼寝でもしようかと、瞼を閉じかけた。
「お主は誰じゃ。どうやってここに入ってきおった」
アルネイラのとろんとした目が、ぱっと丸くなった。
広い草原に、人影はなかった筈。少なくとも、アルネイラの目が捕える範囲内には。
「お主は人間じゃな? あの少年の他に正気を保って“道”を抜ける者がおるとは、いやはや…」
「どなたぁ?」
アルネイラは首を巡らせ、後ろを振り向き、口を閉ざした。
「……まぁ」
アルネイラの髪を揺らし、ページを繰ったのは、風ではなかった。
龍の息吹だ。
「………これもまた予想外」
アルネイラは億劫なので体操座りをしたまま龍を見上げた。しゃがんでいる所為でいっそう大きく見える。鼻の穴だけでも彼女の顔の大きさくらいはあった。堅い緑の鱗に覆われた有翼の龍。ワインレッドの瞳は賢智に富み、長きに渡って生きてきた者特有の冴え冴えとした理性が宿っていた。
「すみません、少し道を尋ねたいのですがぁ」
「龍を見ていきなり道を尋ねる人間も珍しいの」
龍の鼻息がまたしてもアルネイラに降り注いだ。どうやら笑ったらしい。吐く息は案外生臭くはなかった。
「それは失礼。お名前はぁ?」
「……まあよい。儂の名は…そうじゃな、ディックとでも」
「ディックさん、ですねぇ。私はアルネイラと申しますぅ」
アルネイラは立ち上がり、お尻を払った。
「して、アルネイラよ。お主は何故ここにおる?」
「私が知りたいですわぁ」
「………」
「実はぁ、この本を手掛かりに真っ暗闇を歩いてきたんですぅ。そうしたらここに」
「真っ暗…“道”か。歩いてきた? どうやって?」
「ダウジングでぇ」
アルネイラはダウジングを翳して見せた。
「なるほど…己の感覚ではないなら、迷うこともないか。しかし、こんなことをする人間が未だ生存していたとはの…」
“道”では、冷静な判断を下すのは難しい。その上、自分の感覚以外で“道”を歩こうとする強者は世界は多しといえど、どれほどいるだろうか。
「その本を読みたいのじゃな?」
「ええ」
アルネイラは本が真っ白なのを示す為に、龍の前で本をぱらぱらと捲った。龍は心得ているというように頷いた。
「その物語はなかったことになってしまった。だから読めないんじゃよ」
「なかったことぉ?」
「だが、完全に失われたわけではないのじゃな。本が残っているということは」
龍は懐かしそうに本に鼻を押し付けた。本を持っているアルネイラは少しよろついた。
「でもぉ、どうしても読みたいんです。どうにかなりませんかぁ?」
「どうにかと言われても、魔女がいなくなってしまったからどうしようもないの」
「魔女?」
アルネイラは何かを思い出しかけた。
「儂の古い知り合いの魔女じゃ。あれは、砕け散ってしまった。欠片を、僅かばかり残して」
龍は顎を草に擦りつけたお蔭で、アルネイラの首は痛くなる前に戻すことが出来た。
「ここは、その欠片の一片じゃ。欠片故、長くはもたぬが…確かにここは、その本の縁じゃ」
アルネイラには意味が分からずとも、ここと、ディックがこの本の解読の鍵であることは間違いないらしい。
「ふむ。本自体が残っているということは完全に失われたわけではないと思われるが…。どうしても読みたいなら、魔女が再生したら可能性がなくはない…じゃが、それには今暫し待つ必要がある」
「……魔女、再生?」
草原に足を踏み入れてから少しずつほどけていく記憶。ラドゥーとテリーと…鮮やかな森。綺麗な湖。そしてそこにいたのは…
「魔女…さん」
「ん、どうした?」
「私ぃ、もしかしたら貴方のお知り合いの魔女さんを知ってるかもしれません」
「…なんと。真か?」
「ええ、でも、あやふやでぇ」
アルネイラには草原へ行った記憶がない。森と湖には行った。そこにはケンタウルスと人魚、そして真紅の魔女がいた。
「何で、忘れてたの…」
こんな面白いことを。なんという不覚。
「この本の内容が消えてしまったことと何か関係が…?」
「察しがいいね。その通りだよ」
アルネイラと龍は同時に振り向いた。
「よくここまで辿り着いたね。流石“姫”の親友だけある」
トップハットを目深に被った紳士が、いつの間にか彼女らの目の前に立っていた。龍は彼を知っているようで、珍しいものを見る様な目で彼を見ていた。
「現の魔女が、夢の魔女の再生に立ち会い、現に帰った“姫”が、老婆の幸いを祝い、さらに偉大なる古の龍が、再び会う日を友との記憶の中で待ち続ける。完璧だろう?」
「…現の魔女?」
紳士は手に持つステッキの先を龍に向けた。
「全く、こんな所にいたんだね。探してたんだよ」
「何の話だ」
紳士はトップハットの鍔を摘み、少し回した。
「君達、魔女に会いたいかい?」
アルネイラはツワモノです。