番外3-1.漆黒の侍女
アルネイラの一日は、不気味な骸骨男爵の肖像画を眺めることから始まる。
「おはようございますぅ、理想の御方」
甘い眼差しで寝台の横に飾られているそれを形の良い爪先でうっとりとなぞる。彼女の目がとろんとしているのは寝起きだからではなく、元々の顔立ちの為だ。
アルネイラはグリューノス公爵家を新しく継いだ若君の奥方の侍女をしている。跡継ぎとは同級生で、その伝手で面倒な就職活動をすることなく貴族でもない彼女が高地位、高給、好待遇な職場に就くことが出来たのである。
アルネイラ仕様のお仕着せは、白いリボンの付いたわざと古ぼけているように見える黒いエプロンに、襟と袖口に灰色のレースの付いた真白なシャツだ。勿論特注で、この陰気な衣装は何故か彼女を引き立ててしまう。彼女の主人が何も言わないので、誰も彼女に抗議出来ない。
嗜み程度に軽く化粧を施し、エプロンのリボンと対の黒いリボンで髪をまとめてから主の部屋に赴くと、既に彼女は起きていた。
「おはようございますぅ」
「おはようアルネ」
「いつもながらお早いですねぇ」
使用人よりも早起きな主、跡継ぎの新妻。学生時代は美少女で名を馳せたアルネイラ以上の美女。在り来たりな茶色い髪が、どうしてこうも美しく洗練されているように見えるのかいつも不思議に思っている。
それ以上に、懐の広さを併せ持ち、大らかな性格をした彼女を慕う使用人は多く、アルネイラの地位を狙う者もいる。絶対譲らないが。
「今日も良い天気ね」
主人を見下ろすと寝台の上で、背を起こした格好のまま窓を見つめていた。その向こうには明るい光とまだ色の薄い青空が見える。
いつもは夫であるラドゥーと共に朝日を見るのだろうが、今日はラドゥーは抜けられない仕事の為に屋敷に不在である。でなければ新婚の彼らが離れるわけがない。
「ほんと、良いお天気ですねぇ」
彼女が早起きなのは朝日を拝むのが好きだからだ。何の為かと問うと、何故か彼女ははにかむ様に、ただ、実感したいから、とだけ言った。
何を実感したいのか。しかし、その笑顔はひどく印象的で、それ以上問うことは出来なかった。
いつものアルネイラなら、紅茶を淹れて、主人の気分に合わせた衣装を選んで朝食の席に送り出すという流れなのだが、今日はいつもと違った。
「ねえ、アルネ、今日暇?」
「貴女がお休みをくれるなら暇ですぅ」
「じゃ、あげるわ。今日ね、『本の虫屋』の店までおつかいに行って来てほしいの」
「いいですよぉ。何の本を借りてこればよろしいんですかぁ?」
「『いじわるおばあさん』」
アルネイラは首を傾げた。何処かで聞いたことのある題名だ。名前からして子供向けの本の様だが。
「将来に向けて童謡でも読むおつもりですかぁ?」
「馬鹿。違うわよ」
アルネイラを軽く小突くふりをしたが、顔は笑っていた。
「多分、閲覧禁止欄にあると思うけど、私のおつかいって言えば大丈夫でしょう」
「分かりましたぁ」
きちんと着替え終えた麗しの公爵夫人はアルネイラを振り返り、含みのある笑みを送った。
「よろしくね」
『本の虫屋』は、古くからある貸本屋で、その建物は厳かな雰囲気を漂わせている。しかし、本の購入も可能な便利な店で、アルネイラの雇い主であるラドゥーだけでなくアルネイラも常連だから、アルネイラは重厚な扉を気軽に開いた。
店内に入るなり古臭い本の独特の匂いが鼻をついた。インクと紙の匂いは、本好きにとって、とても落ち着く香りだ。アルネイラも骸骨男爵の次に好きだ。
「ごめんくださぁい」
と言いつつも店員が出てくるのを待たずにずんずん前に進んだ。店主の定位置目指して。この店の店主の名は知らない。気が付けばおじじと呼んでいる自分がいた。その事に何の違和感も持てないのだ。誰もが、自分も含めて、皆そんなものだと思ってる。
それってとても不思議じゃなぁい?
アルネイラはそんな不思議もひっくるめてこの店がお気に入りだった。
「おじじさぁん。いらっしゃいますぅ?」
この店に入ったところで、一つ思い出したことがあった。
『いじわるおばあさん』の名前。
あれは、自分も知っているお伽噺だ。今の今まですっぱり忘れていた。しかも、思い出しはしたが、内容は未だにさっぱりなのだ。
何でだろう。記憶力には自信があるのだけど。
意地悪なおばあちゃんが村人に悪さをしていたんだっけ。最後は村人が幸せに終わったような気がするけど、おばあちゃんはどうなったんだったか…。
「見ぃつけたぁ」
温かい窓の下。陽光が窓の太さの筋となって老人に降り注いでいる。目当ての老人だ。
「おじじさぁん。ちょっと起きて下さいなぁ」
揺れる椅子の傍に寄り、しゃがんでおじじを見上げてみた。
待つこと十分。
アルネイラも一緒に寝ようかと思い始めた頃、身動ぎしたおじじがぱちりと目を開けた。
「ん…? おお、ファルデのお嬢ちゃん、久しぶりじゃな」
「ええ、ちょっとここ暫くぶりだったかもしれませんねぇ」
アルネイラは目を擦り、互いにとろんとした目で微笑みあった。
「それで、何か用かの?」
「そうなんですぅ。『いじわるおばあさん』っていう本を探しててぇ」
おじじの眉が少し上がり、普段は皺で隠れて殆ど見えない瞳が少し見えた。
「それは…グリューノスの奥方の言いつけかの?」
「あら、大正解ですぅ。お借りしてもよろしい?」
「ええよ。禁止欄にあるからの。そこに入るのを許そう。ランプを持って行きなさい」
「ありがとうございますぅ」
あっさり許可が降り、アルネイラはのんびりと立ち上がった。
閲覧禁止欄とは読んで文字の通り、通常は入ることを禁じられている箇所である。貴重な文献や、保存状態に気を付けなければならない古いものなどが主として納められている。
他の棚と部屋が分けられており、そこは店の最奥にある。光が入らない様に黒いカーテンが締めきられているのでとても薄暗い。昼間なのにランプに火を灯さねばならないくらいだ。建物そのものの古さも相俟って、オドロオドロしい。床をコツコツ叩く足音の響き具合もいい感じだ。
アルネイラはその不気味さにうきうきしながら、目的の本を探し始めた。
「…広ぉい」
探し始めて一刻経った。
一部屋が丸々禁止欄の区域なのだ。書物には童謡欄という区分など無く、時代別に分けられている。題名は思い出したが、どんなお話か思い出せないアルネイラには、いつの時代を探せばいいのか分からない。なし崩しに探すしかなく、取り敢えず古い順から辿っているのだが…何分、本棚は天井まで届いているのだ、一々梯子を上り下りするので、時間がかかった。
「…あっ」
すぐ見つかると高をくくっていたが、見つからない。あんまりゆっくりもしてられないし、戻っておじじに聞こう。そう思いながらも、やっぱりこの薄気味悪さを楽しんでいたら、年代未詳欄の棚に、目当ての本を見つけた。
「あったぁ」
本を引き抜き、題名を確かめる。間違いない。しかしアルネイラが本を捲ったことで、その喜びは消えた。
「なんで…何も書いてないのぉ?」
がっくりと徒労感が襲ってきた。何も書かれていない本にどんな価値があるというのだろうか。確かに古そうな本だが、保存状態も悪くない。この程度なら禁止欄に入れておく必要があるのか。これなら廃棄されたって仕方ないのに。
「どうしよぅ。読めない本を持って帰ってもいいのかしらぁ?」
本を借りて来いというからにはその本を読みたいはずだ。なのにその本は白紙。これでは持って帰れない。
「…んん」
しかし、虫食いや日に焼けてインクが薄れているのではなく、最初から何も書かれていないように何かが書かれていた形跡さえない。
もしかしたら、元々これは白紙だったのだろうか。何か特別な方法を用いれば読めるようになる仕掛けがあるとか?
ここは『本の虫屋』。しかも閲覧禁止欄の書庫。不思議な本の一つや二つ、あっても全然おかしくない。
俄然わくわくしてきたアルネイラは、何処か座って、ゆっくりこの本を調べられないかと、あたりを見渡した。
「あら……あんなところに扉なんてあったかしらぁ?」
アルネイラの立つ列の端。真っ直ぐに伸びる本棚の果てに、飴色の簡素な扉があった。ここは薄暗いので、気付かなくて仕方ないことかもしれないが、何度かそちらに目を向けたのに、その扉が目に入らないなんてことがあるだろうか。
「………ふふ」
無性に開けたくなった。
好奇心が疼きだしたアルネイラは、その欲求に素直に従って扉に近づいた。
近づいて改めて調べてみると、扉には何処にも鍵穴はなく、南京錠も付いていない。どうやら鍵はかかっていないようだ。禁止欄に鍵もかけずにそのままにしておく扉なんて、大して重要でない物が放り込まれているだけの倉庫かもしれない。
けれど怖い物が大好きなアルネイラは、別の部屋を期待した。
「暗黒書とかぁ、黒魔術とかぁ」
今は廃れてしまったが、ほんの五十年前まではいわゆるそういうモノが流行っていた。実際の効果はともかく、その歴史を経て呪いめいた研究が随分進んだ。その手の本も、結構残っている。アルネイラ自身、それらの本を集めるのが趣味だったりした。
「ちょっと御拝見」
ドアノブを握ると、簡単に回った。
扉が開き、金属が擦れる微かな音と共に、アルネイラは暗闇に飲み込まれた。




