番外2.悪夢再び
クリスは溜息を吐いた。夜の窓が白く曇る。昼間と違って今は少し肌寒い。
彼女は冷たい硝子に指を這わせた。
ギータニア帝国第三王女ギータニア・セレナーデ・クリステレは今日という日を呪ったことはない。
同級生が婚約した。
その報せを受け、クリスは衝撃を受けた。婚約そのものは元より、同級生の正体について。
彼女が恋する彼の素性。クリスの脳内では青白くて痩せっぽっちで生気のないグリューノスのお坊ちゃんが、まさか彼だったなんて…。
もし、クリスがあの時知っていたら、と未だに悔やまれる。彼の隣の席を手に入れられたかもしれないのに。
そして忌々しいことに、何故彼らを祝う祝宴会にクリスが参加しなければいけないのか。立候補して無理矢理使者に立ったのはクリス自身だが。
いや。違う。誓って邪な考えがあって義母のイザベラに付いてきたのではない。どんな女か見極め、もし財産目当ての阿婆擦れ女ならまだ私にもつけ込む隙が…ううん、撃退しなきゃムークット君が可哀相だ。
「まあ、そちらが伯爵の――」
「ええ、私の婚約者で――」
「――ですわ。どうぞよろしく」
「まあなんて美しいの。これでグリューノスも安泰ですわね」
そんなことを考えているうちに目の前で交わされる会話が耳を素通りしていく。いけない、いけない。クリスは意識を現実に引き戻した。
今クリスの目の前にいるのは、グリューノス後継者の顔をしたラドゥーと、その婚約者。二人は彼女から見ても似合いの二人で、手に持った扇に力を込めた。
祝宴の会場で彼と再会を果たした彼女は、彼の眩いばかりの凛々しい姿にうっとりとした。けれど、その隣に寄り添う存在に、その陶酔感は消え失せた。
絶世の美貌。ふわりと揺れる結いあげられた髪。甘くもきりりとした瞳。未来の公爵夫人に相応しい優雅な所作。素晴らしい衣装を見事に御した佇まい。全てが完璧だった。そのくせ、近寄りがたくもないのは、彼女の表情が生き生きと輝いていて、彼女の周りが明るいからだ。令嬢にありがちなお高くとまった態度でもなく、満たされた笑みが、彼女の魅力をいっそう引き立てていた。
「私、元々この地の者ではありませんの。だから何か失礼なことをしてしまわないかと、いつも冷や冷やしているんですよ」
彼の婚約者だと紹介されたその少女に、クリスは平静を保つのに、己の忍耐の全てを注いだ。
「まあ、ご謙遜を。とてもそうは見えないわ。生粋のダンクルの姫君にも引けを取りませんわ」
「………」
彼に寄り添われ、その腕を当然のように彼に絡ませ、見るからに睦まじそうな二人の姿。
「ありがとうございます。それもこれも彼が教えてくれるからですわ」
「本当に仲がよろしいのね」
「まぁ王妃様。想いあった末の伴侶と、仲が良くないわけがないではありませんか」
頬を染め、恥じらう姿は女でもクラリとくるほどの絶品だったが、クリスの胸の痛みを助長するものでもあった。胸が痛くて声が出せないクリスの代わりに、イザベラが彼らとの会話を進めてくれた。
「この地の出身ではないと仰られましたが、どちらの出身ですの?」
「ここからずっと遠い、恐らく貴女方もその土地の名を知らぬほど遠い地ですわ」
「遠い地? まさか海の向こうなの?」
「ええ」
「まあ。ではこことは随分勝手が違うでしょう? どのような文化なのです?」
「そうですね。誇る部分は多くありますが、とりわけ、織物の美しさはギータニアのそれにも負けませんわ」
「あら、見てみたいわ」
「いずれ、機会があれば、喜んでお見せ致しましょう」
イザベラは満足げに頷いた。イザベラも女。綺麗なものは大好きだ。
「それで、彼とは何処で出会いましたの?」
「グリューノスで。街を歩いていたら偶然」
「貴族に珍しい恋愛結婚ね。なんて素敵」
イザベラの目が煌めいた。素敵? クリスには最悪だ。彼女だって、彼と出会ったのは偶然だ。しかも、危ないところを助けてもらったという、トキメキ要素付きの出会いだ。街を歩いて彼が私に恋に落ちてくれるなら、クリスは一日中街を歩いただろう。
ラドゥーが到着したダンクル王を迎える為に席を外し、イザベラも何処かの貴族に声をかけられ、少し離れた時だ。
二人で向き合うことになったクリスは、彼女と真正面から向き合った。
「ムーク…シューノレイヤ伯爵も罪な方。婚約者の為にこんなに大きな会を催されるなんて」
祝宴の会場は王都に構えるグリューノス家の屋敷だ。王宮に一番近く、屋敷を一目見ればその権威の程を、どんなに鈍い者でも思い知る。しかも今回の祝宴にはダンクルの王も出席するらしい。幸運な招待客は、この機会に王に顔を覚えてもらおうと、王の周りを取り囲んでいた。
「貴女に嫉妬する令嬢達が見えまして? 貴女を焼きつくさんばかりに目がぎらついていて、貴女の後釜を狙っているわ」
これまで滅多に公に姿を現さなかったグリューノス後継者は、この二・三年で瞬く間に頭角を現した。影で侮っていた貴族は焦り、私利に敏い古里は甘い声で近寄り始めた。その容姿も相俟って、令嬢達の恋愛話の中心は彼になった。
「まあ怖い」
「…余裕ね」
その彼が、何処の有力貴族の令嬢も選ばず、いずこより現れたこの少女を婚約者にしたという話は大陸中を巡った。彼は噂をものともせず、どころか鼻を明かすかのように王さえ招く大きな祝宴を催し、彼女のお披露目を実行した。
そんな彼に選ばれた少女には、グリューノス家以外の後ろ盾が無い。にもかかわらず、心ない中傷や足を引っ張られたりしても彼女は怯まなかった。
「私の為なら、地方の隅々まで幸福の鈴蘭で埋め尽くして、私を紫水晶で作った胡蝶蘭で飾って、純白のドレスにも柔らかな桃色の百合のコサージュを添えよう」
「え?」
「彼が私に言ってくれた言葉よ」
意図が見えず、クリスは瞬きした。
「彼の隣で白いドレスを着る為なら、そのくらいなんてことないわ」
自信に満ちた笑み。今のクリスにはとても出来ない笑みだ。社交界には見せかけの伊達男がわんさかおり、本物を見極めるには目利きがいる。クリスは自分がその目を持っていたことを誇りに思うと同時に、彼が自分を選ばなかったことに自信を挫かれていた。
「…そう。余計なお世話だったわね」
鈴蘭の花、胡蝶蘭、そして百合。縁起の良く、花嫁を祝う花ばかりだ。
ラドゥー以上の男を、クリスは知らない。私はやっぱり彼が好きなんだと再確認した。彼女のように彼に愛されたかった。彼の眼差しを独り占めしたかった。彼の触れる腰が私のものでありたかった。
彼女は敗北感を通り越して、段々と怒りに似た感情が湧き上がってくるのを感じた。妬みによる胸の痛みは、切なさから負けん気にすり替わった。当たって砕けろという捨て身な気持ちになってきた。そう簡単に諦められるものか。
だって好きなんだからしょうがないじゃない。
「ねえ、わたくし、是非貴女と仲良くなりたいわ。この祝賀が終わったらグリューノスに戻り、そこでも内輪だけでお祝いをなさるのでしょう? わたくしも是非お呼ばれされたいわ。お友達として一緒にお祝いしたいわ。迷惑かしら」
「いいえ、是非。私、ここに知り合いは少ないんですの。是非、仲良くして頂きたいわ」
「ええ。喜んで」
怯まない彼女との会話は、仕舞っておいた記憶が呼び起こされ、不愉快な気分になった。
「その髪は、地毛なの?」
「ええ。ありきたりな色で恥ずかしいわ」
彼女の髪は確かに珍しくもない茶色だった。けれど、髪を貶したいわけじゃなかった。髪の色は記憶と違うけれど…
「…貴女、何処かでお会いしてません?」
「夢でも見たんじゃありません?」
彼女は扇をそよいだ。
「…はあ」
あれから、王都からグリューノスに移動したクリスは、ラドゥーの屋敷に客人として招待されて二日、大した収穫もなく、相変わらず二人の睦まじげな姿を見てはそれとなく邪魔をするだけの日々が過ぎてしまった。
彼女の侍女が同級生だったアルネイラだということに驚いた以外は至って平和である。
イザベラは彼女に夜に出歩いちゃダメなどと親らしい忠告をして先に帰国した。何だかんだいって王が恋しくなったのかもしれない。
「…はぁ」
もう何度目か分からない溜息を吐いて肩を落とす。ラドゥーの家にお邪魔したのは良いが、結局自分は何しに来たのか。
なんなのだ彼女は。いくらも違わないくせに、あの世慣れた感はどうしたことか。彼女は、時に年配の重鎮の臣下を相手にしている気分を味わわせた。言葉を交わす度に自分には敵わないと思い知らされる。
ラドゥーと二人きりになることもない。学生として話していた日々が懐かしい。あの日々は、少なくとも互いに対等で、自由だった。
目の奥がつんとして、クリスは鼻を啜った。
彼は年内には結婚、そして自分もそろそろ適齢期、気軽に話すことは、たとえ二人きりになれたとしてもできなくなる。
後悔はしていない。彼に恋したことは自分の誇りだ。身分も財産も関係なく、その人を等身大で見て、好いたのだ。その経験は、きっと王女として城で過ごしていたままだったら絶対に経験できないことだ。
でも、辛くない訳じゃない。
「…もう一度、二人でムークット君と話したい」
将来の公爵位を約束された御曹司ではなく、ラドゥー・ムークットに会いたい。
意を決し、クリスは部屋を出た。
「…どうしよう」
勢いで部屋を出たはいいが、どうやって彼の部屋を訪ねよう。
考えてみれば、彼の婚約者も一緒という可能性もある。それに思い至り、彼女は顔を赤くした。婚前交渉は褒められたことではないが、婚約者となら女の名誉は傷付かないし、あれだけ大事にしている姿を見れば、その可能性は大いにあった。
ぐるぐる考え出した彼女は、遠回りをしようと廊下を曲がり書庫への道に入った。丁度いい。物思いに耽るには書庫は最適だ。使用人は皆寝静まっている。彼らは起こす気はなかった。部屋に返されるに決っている。
書庫は真っ暗だった。夜目に慣れた目でも壁伝いに歩かなければならないほどに。
「灯りを持ってこれば良かった…」
彼女はそろそろと机に近づいた。座って一先ず、彼の部屋に不審に思われない理由を考えようと思った。ひんやりとした空気で彼女の頭を冴え、冷静さを取り戻させてくれるだろう。
しかし、机まで後数歩というところでクリスは物音を聞いた。
「誰?」
使用人だろうか。いや、こんな夜中に書庫の用事など思いつかない。ラドゥーかもしれないと期待して、音のする方へと急いだ。
「あれ…誰もいない」
クリスはあたりをきょろきょろした。人影は何処にも見当たらない。なのに物音は消えない。
「んっんん~♪」
引き返そうとしたクリスの足を止めたのは鼻歌だった。やっぱり誰かいる。クリスは目線を下にした。
「寂れた公園、壊れた聖女、偉い王様は最高の道化~♪」
歌詞の内容よりも、彼女の顔をひきつらせたのは、歌ってる“何か”。
“それ”は机の下で何やらごそごそとしている。彼女は無意識に後退り、椅子に躓いた。
音に気付いた“それ”はくるりと振り向いた。
ぼろぼろのぬいぐるみが。
クリスの悲鳴が屋敷中に響き渡った。
彼女は走った。脇目も振らず書庫から離れることだけを考えて走った。部屋に戻ってベッドに包まれば良かったと気付いたのは、庭で出てしまった時だたった。
走ったお陰で寒くはないが、庭であろうが淑女が夜着一枚で外に出るなど言語道断だ。けれど、一度外に出てしまっては、うさぎのぬいぐるみとの遭遇を恐れ、中に戻れなくなった。
「どうしよう…」
あれは悪夢の象徴だ。彼がクリスの目の前でエメラルドグリーンの美少女に口付けたあの悪夢の。夢だと分かっていても、あの夢は彼女のトラウマだった。
しかも、悪夢の象徴の一人にそっくりな女が彼の婚約者。では動くぬいぐるみなんてあり得ない存在も、もしかしたら…
「こんなところで、何をしている?」
意味もなく夜の庭園をうろうろ歩いていると、後ろから声をかけられた。クリスはほっとした。声の主を寝ずの番の者だろうと思ったのだ。
安堵の笑みを見せながら振り返ったクリスから、表情が抜け落ちた。
目と口の形に刳り抜かれたかぼちゃを被った男。
「…夢なら覚めて」
クリスはとうとう気を失った。
「お待たせしまし…どうしました?」
「いや、この少女が」
「クリスさん?」
何故こんな所に。しかも夜着一枚。ラドゥーは自分が羽織っていた物を彼女に着せた。抱き上げる前に、ジャックにお礼の品を渡した。
「はいこれ。この間リンさんに頼まれていた、グリューノスで一番高級な茶葉です」
「ああ。リンが無理を言ってすまない」
「いえ、お礼を言うのはこちらです。ジャックさんのお菓子は屋敷の者も皆気に入って、瞬く間になくなってしまうんですよ」
「気にするな。我々は時間は余るほどあるからな。あんなものいくらでも作れる」
ジャックはクリスを見下ろした。
「…その少女とは、未だ交流があるのだな」
「え? そうですね。これからも切れない縁があるそうですが」
彼の婚約者曰く、クリスとはこれから仲良くやっていけそうだということだ。ラドゥーらの睦み合いの邪魔はしても、身分を嵩に着て無理矢理彼女からラドゥーを引き離そうとはしなかったクリス。その公平さを彼女は気に入ったらしい。
「幸せになれるわよ。あの子」
なによりガッツも見る目もあるしね、と彼女は言った。
「そうか」
ジャックは彼女を見下ろした。表情は分からないが、被り物の奥で、微かに笑った気がした。
「リンが喜ぶ」
「…あまり、茶々を入れられるのは嬉しくないんですが」
「仕方あるまい。リンには娯楽が必要だ」
彼らの恋愛模様を娯楽扱いされ、ラドゥーは憮然とした。けれど抗議はしなかった。彼らの生きる世界を、ラドゥーは多少なりとも知っているから。
「絶対見たんだから!」
翌日、自分のベッドで目を覚ましたクリスは、朝も早い時間からラドゥーの部屋にかけ込んだ。
「でも、庭にいたのに、目が覚めるとベッドにいたんでしょう? 自分で部屋に戻っていないとすると、誰がどうやって貴女を運んだのでしょう?」
けれど、彼の部屋には彼の婚約者がいた。クリスは仕方なく彼女に事情を話した。
「それは…でも、ちゃんと私は目が覚めていた筈だし…」
「ぬいぐるみが動いて、グリューノスの屋敷に不審なかぼちゃ頭の男? 夢でないなら、何なのですか」
諭され、クリスは納得しそうになったが、そもそもこの少女もクリスの悪夢の要素であるのだ。この事に関して、説得力は塵ほどもない。ぬいぐるみも、かぼちゃ頭の男も、確かに理屈では説明できないが、彼らの存在をただの夢とするにはリアルすぎた。
「…いいわ。夢でも現実でも、どちらでも構わないわ。彼の周りに多少おかしなモノがいたとしても、それが何だというの」
立ち上がったクリスに、対面に座る少女は軽く眉を上げた。
「いいこと? 私は一筋縄ではいかないからね。姑息な真似をして私を遠ざけようとしても無駄ですから!」
クリスは決然と部屋を去って行った。
「…さっすが」
少女は満足げに勇ましい背中を見送り、自分の想い描く未来を確信した。
五年後、ギータニア帝国第三王女はダンクル国王クローガと婚姻を結ぶことになる。ダンクル王妃となった彼女は、既にダンクルで屈指の名家、グリューノス公爵家の女主人とは既知の間柄だった。他愛のないことで対立し、些細な事で言い合い、グリューノス公爵夫人は王妃の喧嘩友達の立場を確立。
さらに数年後、互いに子を持ち、その子らが婚約を結び、成長し、彼女らの手から離れ、さらに互いが前線から身を引いた歳になっても、二人は相変わらずだと、周囲は洩らした。
彼女にも、現に友達が出来ました。