58.旅の果て
薄れていく意識と消えていく自我。狭まっていく視界と零れ落ちていく記憶。
それでも最期に想ったのは君のこと。
やっと、君と向き合える。
そして
ラドゥーは階段に辿り着くと、階段が一段だけになっているのに気付いた。これでは階段とは言えない。ただの段差だ。
「…迎えに来た」
一段下にいたのは確かにかぼちゃ頭のジャックさんだった。彼はかぼちゃのランタンを片手に持ち、ラドゥーを待っていた。
「かぼちゃ頭さんが迎えに来て下さるなんて、予想外でしたよ」
「わたしもだ」
「エルメラに頼まれたんですか?」
「いや。“調律師”に頼まれた」
誰だよ。怪訝そうなラドゥーにジャックは首を振った。
「…まあいい。とにかく早く戻れ。“姫”が暴れている。このままでは縁が出来てしまったわたしの夢にも影響が出るかもしれん」
「あいつ…何してるんだよ」
そういえば帰ることは考えていたが、帰る方法を考えてなかった。
「早くしろ。“姫”の夢まで案内する」
「…ジャックさん、そんなこと出来るんですか?」
ラドゥーは自分のことの癖に、何処に行けばいいのかさえ分からない有様なのに。
「何の為にわたしが駆り出されたと思っている。わたしは“ジャック・オ・ランタン”だ」
ジャックは段差を見た。僅か一段。されど一段。決して越えられない境界線。彼は“導き”と引き換えに、列車に乗れないランタン男。
ラドゥーも段差を見下ろし、口を噤んだ。
「皮肉なものだな。迷子が迷子を導くとは」
「……」
「そんな顔をするな。わたしについてはお前には関係のないことだ」
「…はい」
ラドゥーは後ろを振り向き、ウォンバルト殿下と目を合わせた。
「では、俺は行きます。…ありがとうございました」
「わたしに礼を言う暇があるならば、さっさと最愛の者の許に戻れ。わたしの二の舞になる前に」
「そうします。貴方のように奥方の尻に敷かれてしまいますからね。付け込まれる要素は少ない方がいい。ただでさえ俺の彼女は気が強いんですから」
ラドゥーと皇子は同時に笑った。
「……貴方に会えてよかった」
「ああ。…次は、友人として会いたいものだ」
ラドゥーは頷き、ジャックの手をとった。
エルメラはラドゥーが倒れた瞬間、完全に我を失くした。
感情のままに力を使った。まず“奇術師”を粉砕し、自分のモノである夢を撹乱した。その暴力はラドゥーとエルメラ以外を傷付け、吹き飛ばした。
クマ介のことも、つぎはぎのことも、何もかも忘れて荒れ狂った。
何を言っているのか自分でも分からないことを喚き散らした。あたり全てを無茶苦茶にしてもまだ激情が収まらず、ラドゥーを抱きしめ、彼の名を呼び続けた。
どうして、どうして。私はまた目の前で彼を失わなければならないのか!
人に戻ることを望んではいなかった。ただただ、彼の魂の傍に寄り添い、助け、幸せな人生のままに、その生を終えるのを見届けることを望んだだけだ。彼の人生に少しでも関わりたかっただけ。彼の命を危険に晒してまで人に戻りたいなんて思わない。
私達はかつて、人の世で生きることは苦痛とされる思想の世界で生きた。彼にその苦痛を何度も強いることとなった私は、その生に責任があった。だから、その償いに、世界が無くなるまで、人が消えて夢が無くなるまで、私は彼を探し続ける旅をする覚悟だった。
夢の世界は己の精神が剥き出しになる。狂ったエルメラは自分の夢の外にまでその狂気をふりまき、“道”を歪ませ、扉を潰した。
“審判”に捌かれても構うものか。寧ろ、また彼を千年待つ間、することが出来て好都合だ。
それから……どれだけ時間が経っただろうか。長い間ラゥの頭を抱いたままじっとしていた。
「ラゥ…ラゥ…ごめんね」
涙を失った目でラドゥーを見下ろす。どうして自分はこんなに駄目なんだろう。役立たずな自分。千年前と同じことを繰り返して。自分の膝で目を瞑る彼を見下ろして、看取る。
夢と現を覆す力を持つといっても、彼には効かない。どういうわけか、彼に私の力は効かないのだ。肝心なところで無力だ。掻き毟りたい程にもどかしい。
温かい彼が冷えていくのを、為す術も無く見つめることしかできない絶望と失望は、何度味わっても慣れることなく心をずたずたにする。
自分の所為で死ぬのは、彼の定めなのだろうか。そして、彼を看取って、後悔に苛むのは自分への罰なのだろうか。
何度、繰り返せばいいのだろう。
「ラゥ…ラゥ…」
ずっと抱いていたいけど、そろそろ亡骸は現世に戻さなくては。いつまでも夢の世界に置いておくことは出来ない。魂を失った身体は、いずれ夢に鎮座する深淵の闇に取り込まれる。そうなったら、彼をナニモノでもない“何か”にしてしまう。餓鬼や、“奇術師”のように良くないモノに。それだけは避けなければ。
私は再び彼が現れるのを待てばいいだけ。次が百年先か千年先かは分からないけれど。大丈夫。待つのは慣れている。
「ラゥ…今度生きる時は、お爺ちゃんになるまで生を全う出来るようにするからね」
「………勝手に人を殺さないで下さい」
エルメラは、はっとして目を開け彼を見下ろした。幻聴だろうか。彼を悼むあまり、自分に聞かせた声?
「……全く、怪我人を揺らさないで下さい。痛い」
「あ……」
エルメラは絶句した。ラドゥーが身動ぎして、目を開けたのだ。かすれた声で、お世辞にも元気とは言えない顔色だが、生きてる。
何も言わず、穴が飽くほど見つめられたラドゥーは、彼女の心情を手に取るように分かったが、にやりと笑ってみせた。
「何です? そんな大きな口を開けて。いくら美人でもまぬけ面はいただけませんよ」
「…なっ…まぬ…」
顔を赤くした彼女に尚も挑発する。
「本当に俺よりも長く生きてるんですか? この位のことで驚くなんて、案外肝が小さいんですね」
「何ですってっ! どれだけ心配したと…」
目を吊り上げ、ラドゥーに反発しようとしたエルメラの頬を彼に撫でられ、エルメラは固まった。
ラドゥーはエルメラを見上げた。自分は怪我をしていて、さらに彼女に膝枕をしてもらっている。完璧だ。これであの時をやり直せる。
随分、待たせた。でも、漸く君と歩ける。あの時の言えなかった言葉を、今、君に言うよ。
「エルメラ」
「……何?」
ラドゥーは絶世の美少女に、不敵な笑みを向けた。
「全てを捨てて、俺を選べ」
エルメラは唖然とした。
「全部。貴女が人として生きていた時に得たもの、夢の世界で得たものも、全て」
「そ…それで私が得られるものは?」
「俺の隣に座る権利」
充分でしょう? と言い放つラドゥーに、エルメラは拳を握りしめた。
じわじわと、胸にその意味が浸透していく。震えが止まらない。
全てを捨てる。それはつまり、エルメラの力、“夢の旅人”としての地位、今まで築き上げてきたエルメラを構成する全てを投げ打つことだ。
得られるのは、指定席。彼の隣という名のただ一枚の券だけ。なのに彼の表情は、彼女の答えを確信していて、勝ち誇ってさえいた。
全てを捨てろですって? なんて傲慢な台詞なの。なんて自意識過剰な奴なのよ。私が頷く以外の答えなんて考えていない。昔もそうだった。勝手に決めて私を巻き込んで、散々振りまわしてくれちゃって。何度喧嘩したか分からない。
そんな奴の隣なんて……なんて――どれほど、渇望し続けた場所だろう。
エルメラは笑った。いや、笑いたかった。なのに、別の感情が邪魔をして、変なふうに顔が歪んでしまった。
「…馬鹿」
アイツもそういう奴だった。傲慢で、自信家で強引で。その片鱗がラドゥーからも見えて、エルメラは懐かしさに泣きじゃくりたい気持ちなった。けれど、自分はまだ…
そこで、ラドゥーはまだ彼女に名前を返していないことに気付き、彼女に口付け、囁いた。
「ただいま。『――』」
「……お、かえり、なさい」
名を取り戻した彼女から溢れる生の証を見つめ、抱きしめた。それは、今まで見た中で最も美しい光景だった。
「…終わったようじゃの」
ロッキングチェアに座って揺られていたおじじは、『本の虫屋』に突如現れた紳士を見上げた。後ろにはかぼちゃ頭の男を連れている。
「ええ、滞りなく。これから“木漏れ日の君”の後始末をしなければならないのは億劫なんですがね」
「その割には嬉しそうじゃの」
紳士は笑った。
「それはそうでしょう。叶う望みがゼロに近い望みが叶った瞬間に立ち会えたんですから。ましてやそれが僕の望みでもあるんです。嬉しくない筈がないですよ」
「そうじゃな」
おじじは目を瞑り、くしゃりと笑った。
「これから如何します?」
「“姫”の夢に主がいなくなると、人形達は居場所を失ってしまうからの、新しく生まれる魔女に引き継いでもらうとしよう」
「魔女とは、あの?」
おじじは頷いた。
「“姫”の夢じゃからのぉ並大抵の奴には任せられん。新しく生まれるまでもう暫くかかるじゃろうが、五百年でも保つ“姫”の夢じゃ。焦ることはあるまい」
おじじは天窓を見上げた。差し込む光の筋の中に、埃が白く浮かんでいる。
「それに、“姫”と約束したんじゃろ? あの龍をあの夢に招くと。魔女はもう以前の魔女ではないが、かつて最も長く共にいた友と再会出来るんじゃ。新しい主に最適じゃろうて」
「…そうですね」
おじじは頷き、後ろのかぼちゃ頭に目を向けた。
「お前さんも、今回は御苦労じゃった」
「…構わん」
「礼として、一つお前さんの望みを聞こうかの」
ジャックは少し考え、ポツリと告げた。
「なら…この世界とわたしの夢を繋ぐ扉が欲しい」
ジャックは妖精だ。自分の夢を気にしなくてもいいなら、人の世に出入りできる。
「ほっほ。やはり妖精は無欲じゃの。それでいいなら、すぐにでも繋いでおこう」
“調律師”は嬉しそうにジャックを振りむいた。
「自分の子孫が好かれるのは、何だか気分がいいね」
「…そうだったのか?」
驚く彼に“調律師”は続ける。
「実はそうだったんだな。“木漏れ日の君”との賭けを見届けるまでという期限付きで、“審判”の使い走りをしていたんだよ」
「賭け?」
ジャックは首を傾げたが、“審判”に続きを遮られた。
「…それで、お前はどうする。お前はもうここにいる意味は無い」
“調律師”はステッキを床に打ち鳴らした。
「そうですねぇ。僕の場合、人としての生は終わってるので、夢から出るのは、そのまま終点行きということになるんですよね」
それもいいかと思った。魂だって疲れる。そろそろ休んでもいい頃だ。
でも。
「貴方の使い走りも、この店の運営も楽しいんですよね」
頻繁に来る末裔の子。いくらつれなくしても、懲りずに彼に話しかけくるのが楽しかった。
旅が終わると思うと、途端に惜しくなる不思議。
「楽しみがある間は、この店にいますよ。折角僕には居場所があるんですし」
“調律師”は笑った。夢の存在である“調律師”が、現に居場所があるのは、彼から名前を貰ったから。
「馴染みの従業員がいきなりいなくなったら、心配させてしまうでしょう?」
“調律師”はトップハットを外し、代わりに地味なチューリップハットを被った。
そこに現れたのは、ラドゥーがアビスと名付けた中性的な体付きの従業員。
ジャックの視線に気付き、アビスは人差し指を当てた。
「あの子には内緒だからね?」
彼の望みが叶った今、“調律師”の名前を捨てればいつでも終点に行ける。それまでは、もう少しだけ、彼らを眺めていたいと思う。
ジャックは曖昧に頷き、いとまを告げたが、アビスに呼びとめられた。
「今度こっちに来る時は、ここにも寄って行ってよ。評判のかぼちゃクッキーを店主と一緒に食べたいから」
ジャックはかぼちゃの被り物の奥で笑った。
「承知した」
居場所があるのは良いことだ。彼にはリンと“妖精博士”、そして畑作業を手伝ってくれる夢人達がいる。
永遠は寂しいけれど、帰る場所があるなら、夢の世界も悪くないと思った。