54.遠い昔に交わした賭けごと
緑玉の少女は、目を開けた。
瞼の幕が上がれば爽快な蒼空が目に映った。ぶつかるような風が髪を容赦なく嬲る。あの時と同じような風だった。
「泣いているの?」
彼女は西から東へ流れ、刻々と形を変える雲から目を離さず答えた。
「泣いてなどないわ」
「涙の有無を聞いてるわけじゃないよ」
「…」
「で、君は泣いているの?」
「さあ」
「つまり、君は自分が分からなくなるぐらいに悲しいんだね」
「は?…あんたに私の何が分かるっていうの?」
「でね、僕は君に泣き止んでほしいと思ってる」
「放っといて」
「どうしたらいいだろう?」
「どうもしなくていいわよ」
「そういうわけにもいかない。僕は君が他の男を想って泣く姿なんか見たくない」
「勝手にすれば?」
「ああ、君の心を捉えるのは、世界征服するよりずっと難しい」
「今世界を騒がせている、独立戦争を勃発させた男が、実はこんなへたれだなんて知られたら、敵さんに侮られるわよ」
「侮られるようなことはしてないよ」
「それもそうね。あんたは街をひと呑みするってんで、グリューノスの大蛇って云われてるくらいだし」
「君のおかげでもあるんだけどね」
「お蔭で何度も窮地から救う羽目になったわ。私を何だと思ってんの? この無鉄砲」
「うん、そこなんだよ。どうして君は僕を助けてくれるの?」
「ただの気まぐれよ。あんたとは違って時間を持て余していると、どうでもいいことでも、ついその気になったりする時もあるのよ」
「…その気まぐれが、君に思わぬ幸運を招くかもね」
「…どういう意味?」
ほんの少しだけ興味を惹かれ、エルメラはやっと彼を見た。彼は心なしか嬉しそうだ。
「もし……もしだよ? もし、この先、僕らが勝利を収め、独立を果たせたら、きっと僕の血脈は延々と受け継がれていくよね」
「上に立つ者の血ほど、こぞって根絶やしにしようとされるけどね」
「よし、そうしよう。僕はこれから先、子孫を残していく」
少女の皮肉を流し、彼は突然宣言した。
「…は?」
思わず呆けた顔を晒してしまった。
「僕の子孫が百年でも二百年でも存続するように僕は国を創る」
「いきなり何よ」
「たとえ僕が死んで、君のことを知る者が誰もいなくなったとしても、僕の国に君の足跡を残そう」
「そんなことしてどうするの」
呆れた。独立戦争を起こした理由は、“仕えている王が気に入らないから”。そんな男に何をする意欲も期待出来ない。
「自分の痕跡がある所なら、きっと君は覚えてる。そうしたら、ちょっと気が向いた時に立ち寄る気になるかも」
「だとしても、何百年も後よ。私の足跡なんか化石化しちゃってるくらい後」
「そして、気まぐれに訪れたその先で、思いがけず君の運命と再会する」
彼女は絶句した。次いで、可笑しくなった。これだから一つの世界しか知らない視野の狭い人間は。
「教えて上げるわ。『世界』なんて無数とあるの。その一つに過ぎない“ここ”に、私の“探し物”が生まれ出る可能性は限り無くゼロに近いわ」
「良かった。ゼロじゃないんだね」
「人間の寿命はたいてい七十年が精々。旨く“探し物”が生まれて来てくれたとしても、僅か七十年の間に私が来て、そして出会える確立はもっと低い」
「良かった。ゼロじゃないんだね」
「…だから、どれだけ天文学的確率だと」
「でも、それは他の『世界』でも条件は一緒だろう? 何処かに生まれるのなら、そこがここではいけない理由はない」
「………」
彼女は言葉に詰まった。目から鱗とはこのことだ。あの人の魂が何処かで生まれるのは確実なのだ。
…自分が、捩じ込んだ。
「よし、賭けをしよう」
「賭け?」
「僕の創る国に、君の運命が生まれて、そいつと君が出会えたら僕の勝ち。どうだい?」
「随分あんたに部が悪い賭けね」
「別に良いだろう? 君には有利なんだから」
「勝つ気ないでしょ」
「いや、負ける気は更々ないよ」
「その言葉が本気なら、あんた相当頭イカれてるわ」
「戦なんてイカれてるヤツしかやらないよ」
「道理ね」
「君が勝ったらの時は好きにして良いよ。言い伝えとして“夢の旅人”の望みを叶えよ、とでも言い残しておくから」
「…あんたが勝ったら?」
「僕が勝ったら―――」
エルメラは目を開けた。灰色空間が視界に広がる。風はなく、艶やかな風は背に流れたままだ。
「やぁ、木漏れ日の君」
態々振り返って見なくても分かる。エルメラを木漏れ日の君と呼ぶのは昔からただ一人。
「あんたの顔なんか見たくないんだけど、“調律師”」
感情を排した声にトップハットの紳士は動じない。
「手直しは順調?」
「こんなに働いたのは久しぶりよ。全く…」
エルメラは夢と現を引っ繰り返した後、その後始末にかかりきりになった。本来関係のない道筋まで歪めてしまったので、早急に修復するためだ。作業は単純でもエルメラの身は一つ。流石に骨が折れた。
「これなら“審判”も納得するだろう。良かったね」
いつだって涼しげで飄々としているこいつ。人だった時も。夢の住人となった今も、全く変わっていない。
「…あんたはとっくに天寿を全うして、次の人生歩んでいるんだとばっかり思ってたわ」
エルメラの言葉を意外に思ったように紳士は首を少しだけ傾けた。
「君が話題を振ってくれるなんて」
「…もういい」
「いやいや、折角君とまともに会話する希少な機会を逃す手は無いよ」
すかさず“調律師”はとりもって会話を続けた。
「大丈夫、ちゃんと真っ当に生きたよ」
エルメラが顔を背けたままであったが、“調律師”は気にせず続けた。
「でも、やっぱり気になってね」
“調律師”と呼ばれ、ラドゥーに“夢屋”と名前を貰ったこいつ。
「…本気で勝つんだから…本当に勝負運だけは強いヤツね」
「お褒めにあずかり恐悦至極」
紳士然としたお辞儀にエルメラは顔を顰める。
「…人をおちょくる性格は変わらないわね」
「ああ、僕の性格を把握してくれていたとは思わなかった」
嫌みを喜び、エルメラの神経を逆なでする。本当に変わっていない。
「まさか“調律師”なんてものになるとは思わなかった」
「絶好の立場だろう?」
不干渉、高みの見物、でも少しだけちょっかいをかけてくる“調律師”。確かにこいつの天職だ。
つい最近まで、こいつが“調律師”だということを知らなかった。しかも…
「…はぁ」
エルメラは溜息を吐いた。疲れる、けど嫌な気分ではなかった。少し機嫌を直した彼女は口を開いた。けれど、会話の返答ではなく。
「切り裂け―――――鎌鼬」
風の刃は紳士のトップハットを巻き込みながら彼の背後へ迸った。
「随分な歓迎だね、レディがはしたないよ」
トップハットが舞い落ちた地点から誰もいないのに声がした。
「いつもいつも“陽炎”を纏って隠れるからよ。盗み聞きなんて見果てたヤツに言われたくないわ」
「それは仕方ない。盗み人というのは人目を忍ぶのが常だからね」
切り裂かれた空間から現れたのは“怪盗”だった。以前エルメラとぶつかったばかりだった。純白のスーツに葉巻を燻らす姿は相変わらずだ。いけすかない。
「ごきげんよう、“姫”。ご機嫌麗し」
「いわけないでしょ」
精神的な疲労の所為で再び機嫌を損ね、少々気が立っているエルメラは普段より割増しで冷淡に応じた。
「おや、“怪盗”じゃないか。良いお宝は見つかったかい?」
一方“調律師”は至って友好的だ。“怪盗”の方もにこやかだ。“審判”の眷属である“調律師”と仲良くしておいて損はない。
「ええ、お陰さまで。『導きの灯』は手に入れ損ねましたが」
足元のトップハットを片手に近づいてきた“怪盗”に、そのまま和やかな会話をされてはたまらないと、エルメラは口を挟んだ。
「何の用?」
「用が無ければ会いに来てはいけなかったのかな?」
「当然よ。あんたに割く時間が勿体無いもの」
「冷たいね。折角、君の大事な…なんて名前だったかな」
エルメラははっとした。
「………ラゥのこと?」
「そう、彼だ。彼について、オレが知っていることを教えてあげようと思ってたのに」
効果は覿面だった。崩れない人形のように整った顔が歪んだ。
「ラゥが…何?」
「教えてほしいかい?」
もったいぶられ、癇癪を起しかけたエルメラだが、寸前で押さえた。
「教える気がないなら用は無いわ。今から彼の所に行けばいいんだから」
「彼は彼の世界にはいないよ」
背を向けかけた彼女に“怪盗”は言った。エルメラの足が止まる。
「…何ですって?」
「彼は彼の世界にいないと言ったんだ」
「なんでそんなこと知っているの? まさか…」
“怪盗”がラドゥーに何かしたのかと疑いの念を抱く。しかし、彼は肩を竦めて否定した。
「彼がいないことを知っているのは、彼が別の世界にいたのを知っているからだよ。オレが何かしたわけじゃない」
「何故? ラゥが一人で“道”を渡れるわけ…」
「でも、いたんだ。しかも一人で。確実な情報だ」
「ど、うして?」
「何故なら彼がその世界で一騒動起こしたから」
騒動、と聞いてエルメラの心がざわめいた。
「その時、たまたまその世界にはオレもいた。そしたら、噂が流れてきたんだ。ちょっと興味を惹かれて覗いてみたんだけど、いや、全く、たった一人の少年が起こす騒ぎにしては凄かったね。なんせ街を一つ潰してしまったんだから」
手をぎゅっと握る。“怪盗”自身が見たというのなら、その情報自体が嘘でない限り、彼の話は真実だろう。
「…それで?」
「それで? いや、これで話は終わりだ。彼は見かけただけで直接会っていないし、彼自身もすぐに何処かに消えてしまったようだしね。でも、少し彼を見直したよ。前に会った時は、君の背中に隠れているだけのただの軟弱者だと思ってから。でも、君の連れなんだ。凡人なわけなかったね」
エルメラは唇を噛んだ。人ならば噛み切った傷口から血が流れるほどに。
「情報をどうもありがとう。それで? 報償として何が欲しい?」
夢の世界での無償ほど信用ならないモノは無い。
「じゃあ…君の口づけを頂戴」
エルメラは剣呑に目を細めた。しかし、素早く彼の頬に唇を押しあてる。
「釣りはとっときなさい」
言うなり、エルメラは彼を探しにその空間から出ていった。
「…本当にくれるとは思わなかった」
少し茫然としたように呟いた“怪盗”は暫く頬を押さえて彼女が消えた場所を見つめた。
「それだけ、彼が大事ってことだろう」
トップハットを受け取った“調律師”は、埃を払う仕草をした。
「複雑だね。他の男を想っての口づけ程、味気のないものはないよ」
「別にいいじゃないか。あの“姫”の人形の様な無表情を崩せただけでも表彰ものだよ。『名前持ち』だからと言って、そうそう出来るものじゃないさ」
「はっ…“調律師”に慰められるっていうのも貴重な体験だ」
“怪盗”は頬を撫でた。それは、まるで彼女の感触を沁み込ませるかのようだった。
「君、結局何のために来たんだい? 本当に善意で来たのかい?」
「オレがいつも利益の為に動いているとでも言いたげだね」
「実際そうだし」
“怪盗”は笑った。
「……たまには、見えない宝というのも、いいかもしれないと思ってね」
それを最後に“怪盗”もその場を後にした。
一人になった“調律師”は、やれやれと溜息を吐いた。
「現実でも、夢でも、人というのは勝手に生きるものだね」
そして自分も。好きなように生きて、死ぬ間際、片時も忘れなかった賭けをどうしても見届けたい衝動にかられた。
そして、衝動のままに“審判”に掛け合って夢の世界に踏み入れ、そして手に入れた、彼女と同じ“夢の旅人”の虚ろなる身。“審判”の使い走りとしての立場故に普通の“夢の旅人”とは勝手が違うけれど、“夢の旅人”である以上、夢は己の属する世界となる。
己の目的を果たせば夢から解放され、人の世に帰れる。
“調律師”の場合は、彼女との賭けを見届けること。
「でも、出会うだけじゃ足りないんだ」
彼が夢の世界から解放されるには、彼女達が出会うだけでは、足りない。けれど、それはあの子次第。
「頼むよ?……僕の末裔」
トップハット被りなおす寸前の紳士の容貌は、何処となく、ラドゥーに似た顔立ちをしていた。
解説広場です。どうぞ↓
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「今回ちょろっと出ていた陽炎ってなんですか?」
「あの白ハットね。あいつ炎系だから、その系統の力を使うわけ」
「(魔法の使用は当たり前っていう前提なんですね)…はい」
「陽炎っていう、向こうの景色がゆらゆらする幻があるでしょ? あいつの陽炎は、ゆらゆらと揺れて、自分を周囲の景色に溶け込ませて姿をくらませる術のこと。あいつも上位だから、風で切り裂くか、陽炎を起こせないくらいに水で周囲の気温を下げるかしないと解けないから、結構万能よ」
「要するに、自然に発生する陽炎の条件を潰せば、彼もその術を使えない、というわけですね。空想的な話をしているくせに嫌に物理的ですが…なんだか普通に話しているので見過ごしてしまいそうなんですが、やっぱり、この本などに書いてあるように属性というものがあるんですか?」
「あるわよ。人はみんな違うけど、性質っていうのはある程度分類できるからね。相性のいい属性は最初から巧く扱えたりするけど、逆は一生使えないことも珍しくないわね。まあ、そんな個人の得手不得手や属性の相性も、この本編じゃ流してくれて構わないわ」
「混乱しますしね」
「ところで」
「はい」
「その本って何処の本?」
「そりゃあおじじの店で借りた本ですよ。ええと…『魔術師入門(上)』という題です」
「そう(やっぱりね)」
「それが何か?」
「ううん。何でもない。あ、そうだ」
「なんでしょう」
「こないだ言ってた花火。丁度よく納涼祭りやってる所があるから、今度行きましょうね」
「あ、本当ですか? 楽しみですね」
「うんうん、期待してて。特等席用意しとくから」
「ありがとうございます」
「障害物なんか何にも無い、ずっごい良く見えるところだからね」
―--------折角の裏設定。そして花火。特等席とは、とどのつまり空中。(ラドゥーピンチ)