52.廃墟とカフェ
暗闇を抜ければ、そこはメルヘン街道だった。
「また、変な所に…」
ラドゥーが立っているのは、レンガが敷き詰められたおしゃれな道。その両脇には、きちんと並べられた同じ素材で作られたレンガの花壇があった。植わっている花も等間隔に並べられ、明らかに人の手によるものだが、あたりに人影はない。花壇の間に立つ街灯は落ち着きのある濃茶で統一され、灯の部分は煙ガラスで、ぼんやりと温かい灯りを演出するのだろう。今は灯りは灯っていないから想像だけども。
それだけなら、おしゃれな街に迷い込んだだけなのだが、花壇を挟んだその向こうに広がる景色はなんと畑。色々な形の葉が列をなし、列ごとに看板が立てられ、何やら書いてある(読めない文字だが、恐らく作物の名前だろう)。後ろを振り向けば今度は田圃があった。
「……よく分からない状況に置かれるのには、慣れてきましたけども」
都会の街並みか長閑な田舎か、どちらかにしてほしい。流石に予想外だ。改めて周囲を見渡す。
「それに…今は夜の筈なんですけど」
ノルメを出た時は確かに星空がラドゥーの頭上で瞬いていたのに。太陽はないが、ここはとても明るい。屋内というわけでもなさそうなのに、これはどういうことか。ラドゥーは目を細め、明るさに慣れるまで暫しじっとしていた。
……よし、とりあえず、人を探そう。花壇や畑があるのだから人はいるはずだ。
歩き出そうとして、なんだか脇がくすぐったい事に気付く。
「……ん?」
ラドゥーは問題の箇所、自分の脇腹あたりを見下ろした。
その時のラドゥーの衝撃は、きっと体験した人でないと分からない。
「~~っ! ~~っ!」
薄汚れた襤褸切れが、独りでに動き、ジタバタともがいている。
「?!」
抱えていたぬいぐるみが、いきなり動き出したら誰だって度肝を抜かれる。だから、ラドゥーが咄嗟にぬいぐるみを地に叩きつけてしまっても責められないだろう。
「―――ぶふっ!」
顔面をレンガに叩きつけられたそれはぷるぷると震えた。しまった。流石に叩きつけたのは不味かったと後悔し、慌ててぬいぐるみを抱き上げた。
「……だ、だいじょ」
「あー疲れたっ」
ところが、ぬいぐるみは晴れ晴れと前足を万歳して体を伸ばした。ラドゥーが案じるまでもなく、ピンピンしている。
「………」
「おんなじかっこうは疲れるんだよ。たまには寝かせてよ」
「………」
喋った。またもやラドゥーは驚いたが、同じ轍を踏む失敗は避けられた。
「君は…」
「おいらか? おいらつぎはぎ! 人呼んで“ずたぼろの罠師”!」
「…そうですか。カッコいいですね」
「だろ?」
得意げに前足を振り回して体操(らしき仕草)をする様を何となく眺める。
――っていうか、なんで俺普通に会話してるんだ?
動いて喋るぬいぐるみを気味悪く思う気持ちが全く湧き上がってこないこの不思議。それどころか、このぬいぐるみが動くことに何の違和感も感じない。
まるで、これが正しいのだと心が既に了承しているかのように、ラドゥーはぬいぐるみの無邪気な行為に口元を緩めさえした。
「そういえば…俺は、前から君のこと、ちゃんとつぎはぎって呼んでましたね」
そう。自分はずっと呼びかけていた。このぬいぐるみに。答えが返ってくる筈もないくせに、日夜一言二言語りかけた。心の何処かで期待して、その度に落胆して、滑稽な事をしていると自覚しつつも、毎日、かかさず。
「…良かった」
とても奇異な体験をしているのに、とても気分が落ち着いていた。やっと返ってきた反応に安心し、ラドゥーは軽く深呼吸した。
「つぎはぎ、俺はラドゥーといいます」
「ラド?」
「ラドゥーです。ラ・ドゥ・ウ。伸ばしてごらん?」
「ラドー」
ぬいぐるみには小さい“ウ”は難しいだろうか?
「…ラゥでいいです。ねぇ、つぎはぎ? 君は…」
「ラドあそぼ!」
定着されてしまった。そして話を聞く気はなさそうだ。良いさ良いさ。好きにすればいいよ。
「…まずここが何処だか分かってからにしましょうね。つぎはぎ、ここが何処だか分かりますか?」
「さぁ?」
「…でしょうね」
まぁ期待はしていなかった。ラドゥーは当初の予定通り歩きだした。
…それから、どれだけ歩いただろうか。
ラドゥーの体内時計を信じるならゆうに三時間は経つ。行けども行けどもレンガの道に花壇という景色が続くので、最初は可愛いと思っていた景色はいい加減、飽きてきた。
「あそぼ~あそぼ~」
「はいはい、またあとで」
幼児の様に抱かれているつぎはぎの相手にも疲れてきた。
「……埒が明きませんねぇ」
ずっと同じ景色が続く所為で意識を明瞭に保つことが難しくなってきた。自分は何処にいるのか、本当に進んでいるのか、実は同じところをぐるぐる巡っているだけじゃないのか、とかなんとか可笑しな妄想に浸り始める。無我の境地に達するまでそう時間はかからないだろう。
少し休憩しようかと立ち止りかけた時、レンガの道の果てが見えた。
しかし、喜んだのもつかの間、ラドゥーは愕然とした。
「…ぅえ?」
道の向こうには何もなかった。
オレンジ色とも桃色ともつかない、明るい色がぼんやりとラドゥーの視界の先に広がっているだけだった。景色らしい景色も無く、本当にそこで途絶えているのだ。花壇も畑もそこで終わりだった。
「………行き止まり?」
漸くここまで来て、これ? いやいや、何かあるはずだ。
「この向こうには何があるんでしょうね、つぎはぎ」
手を伸ばしても壁がある訳でもなく、行こうと思えば行けそうだ。しかし、この先に何が待ち構えているのか分からないだけに、足を踏み出すのは躊躇われる。とはいえ、今の状況を打破するには別な行動を起こさないことにはどうしようもない。逆方向に進めば良かっただろうか。しかし、引き返してまた延々と歩くのは、勘弁したい。
どうしようかと、決めかねるラドゥーだったが、しかしすぐにその必要はなくなった。
「そっち行っちゃダメ―――!!」
突如、背後から猛然と近づいてきた気配にタックルを食らわされたのだ。ラドゥーはぶつかった衝撃で前につんのめった。
「あ」
「え」
で、ラドゥーは靄の中へ。
「…たくっ…誰だ」
つんのめって、浮遊感を感じたのは一瞬。その一瞬後には確かな硬さが足元を支えた。
「…また、景色が変わった………」
知らない土地にうろたえることはなくなった。いちいち位置確認をするのが面倒ではあるが。
「…あれ? つぎはぎは?」
今まで脇にあった柔らかい感触が無いことに気付き、足元を探した。しかし石畳には小石しか見当たらない。
「さっきの場所に落としたんですかね…」
何となく腕が寂しい。同時に子供の様にぬいぐるみを抱くことで、幾分安心していたことに気付いたラドゥーは、ちょっと気恥ずかしくなった。
「……まぁずっと抱っこしてましたし、慣れてしまっただけですって」
誰にでもなく言い訳を吐き、取り敢えずぬいぐるみのことは頭から追い出すことにした。
頭を切り替え、冷静さを取り戻したラドゥーの目に、はっきりと周囲の景色が広がった。
「―――――」
自分が出す、地を擦る音を聞き、ラドゥーはこれが幻でないことを知る。
「……滅びし都」
ラドゥーは屋根を失った柱に、そっと触れた。
ラドゥーは都の大通りを歩き、建物を一つ一つ覗いて回った。もはや原形を留めていない瓦礫であったが、壁には薄れてはいるものの精巧な彫刻が、街の中央には腰から下しか残っていない彫像が確認出来た。そこかしこで見られる痕跡が、都の繁栄ぶりを示している。
だが、
「…盛者必衰か」
一際大きな柱を軽く叩きながら呟いた。壊れた調度品や美しかったのだろう噴水跡を見ていると、かつて盛大に盛り上がっていた時代の声が今にも耳に響いてくるようだ。ざわざわと人の行きかう市も目に浮かんでくる。
ラドゥーはグリューノスやギータニアで開かれる世界でも有数の巨大市場を思い出した。現在栄えている街と今目にしているこの光景との落差が、いっそう都の静寂を浮き彫りにした。どれほど栄華を極めても、その栄光は必ず滅びる現実を、まざまざと見せつける。
吹き抜ける風の音が、無念に呻く人々の嘆きに変わった。
――悔しい。虚しい。侘しい。寂しい。哀しい。渦巻く負の感情がラドゥーを取り巻く。黒い靄がラドゥーに纏わり付く。ラドゥーを巻きこまんと手を伸ばす。ラドゥーはその靄を睥睨した。
「……どんな理由であれ、滅びの切っ掛けを作ったのは自分達だろう?」
ラドゥーは黒い靄を腕を払って蹴散らした。
ラドゥーの国にも、かつての栄光を懐かしみ、縋りついて前を見ようとしない人間が少なからずいる。彼らが見る未来は自分の輝かしく美しい夢だけ。待ち受ける敗北の未来を認めず、過去に固執して自滅していく者達のなんと多いことか。
爪先に当たった物を、膝をついて手に取り、顔の高さまで持ち上げた。
「…貴方も、ここを守りたくて頑張ったのでしょうか?」
白く、ところどころに穴のある丸い石。白骨して久しい躯からはどんな想いも汲み取れない。白い残骸はこれだけではなく、ラドゥーが歩いてきた道のりにも、あちこちに散らばっていた。中には細くなった指が、錆びた武器を手にしたままの形で残っているものもあった。
彼らも必死だというのは分かる。このまま時代が動けば自分達は敗北者となり、時代の中心から排される。それを阻止したい思うのは自然なことだ。
過去を振り返るのはいい。過去を顧みず、ただ突っ走るのは無知で無鉄砲な愚か者だ。だが、進もうとする流れに逆らい、塞き止めるのは不可能だ。それを弁えず抗う者は、結局己が潰されて終わる。
過ぎてしまった時間は取り戻せないように、同じやり方では、かつての栄光は二度と取り戻せない。一度は出来たからといって再び叶う訳ではないことを、彼らは知らない。
なんて滑稽。なんて愚か。けれど、見えぬ未来より明確な過去を見据える方が簡単で、人は未知なるものを恐れるものだから、そちらに向かいたい気持ちは分からないでもない。
でも、とラドゥーは思う。
「…俺なら、跡片もなく壊したくなりますけどね」
それにしがみつくのは大切だからだ。己にとって何よりも守るべき宝。けれど都が廃れるように、いつかは失われてしまう。
誰かに壊されるのだ。人は他人の宝を、自分の都合で、破壊するのだ。
ラドゥーは大切なものを誰かに侵されるのは許せない。だから自分だって敵が現れれば、死力を尽くして守るだろう。
でも。そう、だからこそ。どうしても終焉が避けられないというのなら――
「誰かに壊されるくらいなら、いっそ―――」
言い終わる前に、突然頭がかち割れる程の痛みを感じた。この短い間に幾度も体験した頭痛。この痛みを感じる度に、パズルのピースを手に入れてきた。まるでピースが仕舞われている錆びて開けられなくなった扉を、無理矢理こじ開けようとするような。今の痛みは、これまでとは比べ物にならないものだった。
ラドゥーは為す術もなく、そのまま意識を闇へと放り込まれた。
殺してやる
楽しいネ
全て壊れてしまえ
今まで人の世に紛れていながら、大した事も起こさずよく生きてこれたネ
奇麗な平原がぼこぼこになっていく。自身もずたずたになって、それでも止まらない自分。
迫りくる黒鎌。闇を切り裂く真空の刃。ざらりと崩れる不気味な道化。嗤う、闇。
きえ・ナイ・きえ・ナイ・きえ・ナイ・きえ・ナイ・きえ・ナイ・きえ・ナイ・きえ・ナイ・きえ・ナイ・きえ・ナイ・きえ・ナイ・きえ・ナイ・きえ・ナイ・きえ・ナイ・きえ・ナイ・きえ・ナイ・きえ・ナイ・きえ・ナイ・きえ・ナイ・きえ・ナイ・きえ・ナイヨ…………ヒトが・死・ニタエルマデ・ネ
大地と同じ様にぐしゃぐしゃになった少年達。あれは…俺の…――
――大丈夫
大切なものを壊され、闇に沈みかけた自分を、此岸に繋ぎとめた声。
――全部夢にしてあげるから。
やめてくれ。君を夢にしないでくれ。顔も名前も分からない君だけど、自分の中から消えてしまった感触だけが残ってる。それを取り戻すにはどうすればいい?
君の、名前は――
「“―――”」
ラドゥーは腕を伸ばすと同時に目が覚めた。
「…はっ…はっ…」
先程まで見ていた映像が掻き消え、代わりに目の前に現れたのはチョコ色の天井だった。
「……ここ……は」
動悸の激しい胸を押さえて、どうにか呼吸を整える。しかし起きあがるにはラドゥーは体力を消耗しすぎていた。
「目、覚めた?」
頭上からかけられる女性の声。前にも同じ事があったな、と思いながらラドゥーは顔を覗きこんできた者と目を合わせ、驚きに目を見開いた。
「……貴女は…」
歳の頃は十ばかりの、可愛らしいエプロンドレスの女の子だった。プラチナの髪と瞳の色は、彼女の可愛らしい顔を繊細な輝きに彩っていた。
「パティ…さん?」
「ええ、お久しぶりね」
カフェ『ドこんじょ☆パフェ』の店主“パティシエ”は微笑んだ。
「ごめんなさいね、勢い余ってド突き倒しちゃって」
レンガ畳みの道の果てで、ラドゥーに突進し、あまつ靄の中に突き落とした犯人はパティだった。己の過失によって、ラドゥーがあそこに行ってしまったので探しに出たが、見つけたらラドゥーが倒れていた。慌ててパティはラドゥーを引き摺って店に戻り、今に至るらしい。
「ホントはもっと早く向かえに行くべきだったけど、お鍋かけっぱなしだったから、一旦戻ったのよ。遅くなってごめんなさいね」
「…はぁ」
どうにか起きあがったラドゥーは温かいミルクを頂いていた。美味しい。
「あの、つぎはぎは?」
「うちのシルバーボーイ達に遊んでもらってご機嫌だから、暫く放っといても大丈夫」
「そうですか、良かった」
パティは顔を引き締めてラドゥーを見つめた。
「あの…聞きたいんだけど。身体、なんともない? 気分が落ち着かないとか、ちょっとむしゃくしゃするとか、ない?」
「え? ええ、少しだるいだけで別に何とも…」
なにやら不穏な質問だ。正直に答えると、あからさまにほっとした顔をされ、ラドゥーは訝しく思った。
ここと、あの廃墟は隣接しているらしいが、可愛らしく、瑞々しい葉が広がる畑の隣に、白骨死体が山と積まれた廃墟という組み合わせは、どう考えても不釣り合いだ。
「あの廃墟は、何なんですか?」
パティは少し考える仕草をして、まぁいいか、という風に話し始めた。
「“姫”には余計なことは言わなくていいと言われたけど…別に隠してるわけじゃないしいいわよね。あのね、廃墟が不自然じゃないのよね。世界にとっては、ここの方が異分子なのよ」
「どういう…意味…」
「あそこはね、人が滅んだ世界なの」
ラドゥーは息を詰まらせた。
「そういう世界は病原菌の他に、怨念が溜まっちゃってたり、餓鬼の溜まり場になったりしてるから、人間が行っちゃ危ないところなの」
「は…い?」
あまりにさらりと言われてラドゥーは反応に困った。
「誰もいないのよ。あの廃墟の中にも外にも。生き物が全部滅んじゃった世界」
「でも、ここには貴女がいるじゃないですか」
パティは笑った。
「やだ、忘れたの? 私は“夢の旅人”だもの。人の括りに入らないわ」
「……“夢の旅人”?」
「生きた夢について“姫”から聞いてない? ここはね、完全な夢の世界じゃなくて、現実世界にくいこんでいるの。つまり、私達は共存させてもらってるわけね。誰もいない現実世界って夢の住人にとって、態々隠れる必要もなくて都合がいいし」
「どういう…意味」
「私の方こそ、聞きたいわ。ねぇ“姫”は何処? 貴方がここにいるんだもの。近くにいるんでしょ? 彼女は何処に行ったの?」
「あの、」
「もしかしてはぐれちゃった? そっか、そうよね、彼女がいるなら、廃墟なんて危ない場所行かせる訳な…」
「――さっきから、姫、姫って、誰の事を言っているんですか?」
冗談でなく真面目に訊いてきたラドゥーに、パティは愕然とした。
「はっ? 誰って、そんな、言うまでもないでしょ? 何言って…」
「俺はここに一人で来ました。色々あってここに辿り着きましたが、誰かが傍にいた時は無いですが」
傍にいたのは物言わぬぬいぐるみだけだ。
「そんなはず…」
パティははっとしたように、ラドゥーの顔を覗きこんだ。
「ねぇ…じゃあ、聞くけど、さっき言った夢の世界のことは分かる?」
「それは…」
ラドゥーには以前ここを訪れた時の記憶があった。パティの事も、その時食べたケーキの事もちゃんと覚えている。可愛らしい内装も記憶のままだ。
けれど、そこに夢の世界なんて空想じみた言葉は関わってこない。
「…確認までに聞きますが、ここはミティにあるカフェですよね?」
ラドゥーは、ミティという農業が盛んなグリューノスの隣町に、幼い少女が活気ある年配達と営む評判のカフェ店を、知り合いに紹介されて友人と訪れたと記憶している。
「…違うわよ、全然。貴方の世界にお邪魔した事もない。…これは確定的ねぇ」
しかし、返ってきたのは予想だにしない言葉。悩ましげに頭を抱えた彼女に、ラドゥーの方こそ途方に暮れた。
『こん☆パ』にいるというので、てっきりミティにいるのだとばかり思い、帰って来られたと安心したラドゥーだが、実はそうではなく、かつその外は荒涼とした廃墟。おまけに人はいないという。
自分の記憶が信用出来ない事を認識し、己を支えていた地盤が崩れる音を聞いた。
ラドゥーはこの店を誰かに紹介された。
――でも、紹介した人を思い出せない。
夢の世界なんて知らない。
――なのに、扉の向こうの世界なんだと、容易く理解出来た。
“夢の旅人”なんて夢物語でしか聞いたことがない。
――それでも、パティの言葉を疑う思いが浮かぶことさえない。
混乱する筈の未知の単語を、自力で噛み砕いていけるのはどうして。
それは、誰に教わったのか。
何かを取り戻そうと、当てもなく彷徨い、手に入れた情報を隙間に埋めて、絵を完成させようとしてきた。衝動に衝き動かされるままに。
そして、今回新しいピース。“姫”という言葉。
「…俺は何かを忘れているようなんですよ」
未だ悩むパティにラドゥーは切りだした。
「何一つ忘れてはいないのに、何かが足りないんです。少しずつ記憶が食い違っているんです。さっきみたいに、何かが変わってる。だから…どうにかその原因を突きとめたいんです」
「………」
「貴女は先程“姫”は何処だと聞きましたね。俺も知りたい。会った事もないのに、どうしても気になる。彼女は誰なんですか? 貴女の知る俺は、その“姫”と一緒だったんでしょうか?」
「………“姫”については、私だって多く知ってる訳じゃないわ。たまに来るお客さんの一人ってだけだし……」
パティは思い悩んだかと思うと、ぱっと晴れやかに笑った。
「そうだ! 今丁度彼がいるの。あの人に頼めばなんとかなるかも」
思い立ったが吉日とばかりに、さっさと出て行こうとしたパティをラドゥーは引きとめた。
「何で…そこまでしてくれるんです?」
“夢の旅人”はそこまで優しい存在ではない筈だ。謂れのない親切に警戒心を抱いた彼に、パティは当然の様に答えた。
「理由はあるわよ。だって、貴方にはお礼しなきゃって前から思ってたの。だって、今まで手が出せなかったジャックさんの極上のかぼちゃのパイプを作ってくれた人だからね」
ラドゥーの反応を待たず、ちょっと待ってて、と言い置いて部屋を出て行った。
数分後、パティは一人の男性を伴って戻ってきた。
「紹介するわ、彼はダイパルソン。天災魔具職人よ」
「………」
「………」
ダイパルソンとラドゥーは暫し無言で向かいあった。パティは気にせず続けた。
「対価を払えば色々な道具を作ってくれるのよ。私も彼に調理器具を頼んだりしてるの。全く貴方、運が良いわ。滅多にここに来ないのよ、彼」
パティの言葉を聞きもせず、ダイパルソンはラドゥーを見つめ、ぽつりと呟いた。
「君が、“姫”の――かね」
「何ですって?」
ダイパルソンの視線は、正確にはラドゥーの手首に注がれていた。
「なるほど…確かに“パティシエ”の言葉は真実の様だ」
そこに煌く緑玉の輝きを認め、傍目には分からないほどの微かな笑みを浮かべた。
「…やれやれ、たまには上手いコーヒーでも飲もうと気まぐれを起こしたのが間違いだったようだ。とんだことに巻き込まれた…」
ラドゥーも彼を見つめた。やたら老人くさい話し方だが、外見は案外若い。三十超えてるかどうかだ。しかし、ぼさぼさな髪、窪んだ目のせいで彼をぐっと老けて見せている。しかも身なりなど全く構っていないのが丸分かりの、如何にも適当な服を着ていた。ラドゥーもノルメで着ていた簡素な服装だが、彼に比べればずっと洒落ている。
「彼、記憶を取り戻したいんですって」
「ほう」
「何か良いの無い?」
「あるとも。脳の奥底に眠っていた記憶の全てを掘り起こすものがね。ただし、都合よく思い出したい記憶だけ呼び出すことは出来ない。要領を超える情報は脳を破壊することもあり得るが、それでもいいかね」
淡々と呟く彼は、別にラドゥーが廃人になっても構わないと思ってる口ぶりだ。事実、そうなのだろう。
「それじゃ駄目よ。その薬ってあれでしょ? あれ飲んで狂った人、何人か知ってるわ。もっと他に何か…」
「構いませんよ」
ラドゥーは躊躇わなかった。
「いい加減宙ぶらりんの状態には辟易しているんです」
ダイパルソンはたいして感銘を受けた様子もなく、そうか、とただ一言呟いた。
「でも、貴方が壊れちゃ本末転倒だわ」
「まぁ、あの“姫”の連れなんだ。そう悲観する事もあるまい」
ダイパルソンはラドゥーの手首を見つめながら、よれた懐から小さく透明な小瓶を取り出した。中には、灰色の丸薬。何が原料なのか非常に気になる。
「これが、記憶を呼び覚ます薬。“思ひ出ほろほろ”という。面白い位に記憶がほろほろ零れてくるからな」
…なんか何処かから捩ってきた様な名前だなと思いながら、それを受け取った。
「…対価は?」
「お前のポケットに入っている――の硬貨を全て」
一部聞き取れない部分があったものの、ラドゥーはここに来る前に滞在していたノルメの街で流通している硬貨をいくらか所持していたから、予想はついた。
「これですか?」
「そうだ」
「薬代にしては、些か足りない気がするんですが」
「金額なんぞどうでもよい。その硬貨が欲しいだけだ」
およそ二日分の生活費程度の金額だったが、本人がそれでいいというならいいのだろう。金額を釣りあげられては今のラドゥーには支払えなくなる。ラドゥーはポケットの有り金を全部彼に渡した。
と、その時、俄かに扉の外が騒がしくなった。
バタンと、ラドゥーのいる部屋の扉が開けられ、つぎはぎが上機嫌で部屋に入ってきた。
「あそぼ~あそぼ~!」
ラドゥーを見つけたつぎはぎは、今まさに薬を飲もうとしているラドゥーに向かって真っ直ぐに…真っ直ぐに、跳んで来た。
「ああ! 駄目よ、つぎちゃん。今彼に触っちゃダメ!」
「……え?」
パティの制止も虚しく、ラドゥーが丸薬を嚥下すると同時につぎはぎは彼に跳び付いた。
「…しまった」
ダイパルソンの、やはりどうでもよさそうな呟きを最後に、再び意識が遠のいていった。
解説広場です。どうぞ~↓
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「とうさま、今日はどんなお話をきかせてくれるんですか?」
「そうだなぁ、今日は『かちかち山』のお話を…」
「それは三日前に聞きました。新しいのを聞きたいです」
「あれ、そうだっけ? ラゥは記憶力がいいなぁ」
「………とうさまがうっかりしてるだけ」
「ん? なんだい」
「いいえ、何でも。それより他にお話はないんですか?」
「うーん、うーん……あ、そうだっ」
「?」
「ジ〇リのお話は聞かせたかな?」
「いいえ、とうさま」
「あのね、僕がいたせか…国には、子供に太平洋級の大きな夢を与える物語を沢山世に送り出してるスタジオがあるんだよ」
「スタジオ?」
「あーうんとね、物語の絵を描いてるお仕事をしてる人達のことかなぁ?」
「僕に聞かないでください。あと太平洋ってなんですか?」
「僕の故国の隣の世界最大の海のことだよ」
「世界最大の海はシャンバル南海でしょう?」
「あ。…うん、そうだったねぇ。うんうん」
「とうさまの故郷は海の向こうの幻の大陸なんですか?」
「……すんごい遠いってのは一緒かな」
「それで、ジ〇リってどんなお話なんですか?」
「それがお話の名前じゃないんだ。そうだね…まずは一番有名な『隣りの〇トロ』にしようか」
「はい」
「なになに、お母様も一緒に聞きたいわ」
「じゃあ、ルミネ。ラゥのお布団に入りなよ」
「はぁい。あぁん、ラゥってあったかい」
「苦しい…」
「それじゃ、始めるよ。昔々、あるとても仲のいい家族が空気の奇麗な田舎に引っ越してきました――…」
――――――ほんの少し昔、両親に抱かれて眠りについた思い出。……………………そんな事情から、ラドゥーは意外にこっちの話が通じたりする。