51.聖火礼讃
――何して遊ぶの?
――隠れ鬼!
窓から差し込む太陽の光がラドゥーの瞼の裏を明るく染める。
「…………朝」
仮眠程度の浅い睡眠しかとっていない身に日の光はきつい。
「んーーっ」
身体をぐん、と伸ばしてほぐした後、のそりと起きあがる。セナンに起こされて朝を迎えるのが日常であったが、ここに来て一月近く、一人きりの朝にも慣れた。
この街で買い揃えた服に袖を通し、本日の予定を確認する。
「ああ、今日はレレティーヌ様が来る日ですか」
そういえば、昨日の掃除は念入りにと指示された。
ラドゥーは元仮眠室現自室を出て手早く朝食をとる。彼は夜勤を務めているので、代わりに朝から夕方にかけては暇を貰っている。時折手伝いはするが、患者の朝食を作る早朝出勤の人と交代すれば、ラドゥーは自由だ。
「今日は市の日だし、街に出掛けようかな」
シュバッセと話をした翌日からも、特別何をするでもなく、ラドゥーは普段通りの生活を送っていた。施設の患者の面倒を見て、ガラムに話しかけ、アイマとの逢瀬を重ね、先輩の同僚達には可愛がられて。
傍から見れば、彼以上に充実した生活を送っている者はいないと思えるほどに。
「おい、どういうつもりだ」
そんな彼に憤る声がぶつけられた。
その日の夜、いつものように就寝前の見回りにやってきたラドゥーを見るや、シュバッセは切りだした。
「何のことですか?」
「とぼけるな。この街を潰すことに協力すると言ったくせに、何故お前は何もしない」
「潰すなんて言ってませんよ。ガラムさんを街から解放したいと言っただけです」
「怖気づいたか」
「まさか」
ラドゥーは薬瓶を開け、カップに移しながら答えた。透明な黄褐色の液体が音も無く下に降る。それをシュバッセに差し出す。
「薬はいらないと……」
「薬じゃないですよ」
「は?」
疑わしげに見てくる彼にラドゥーはしょうがないな、という風にカップを煽った。
「な……」
「これジュースです」
患者に薬を処方しないということは、その分、使用薬の減りも少なくなるということ。定期的に必要な分だけ物資が届けられている為、少しでも減り方に変化があるとすぐに分かる。怠っている人間が、現在一人で夜勤を勤めているラドゥーだと疑いの目を向けられる可能性が大きいのは言わずもがなだ。
だからきちんと計って分量ずつ捨てている。
毎夜患者を観察して気付いたが、薬には依存性があった。
それほど強い作用はないが、日々服薬していれば薬を渇望する、文字通り薬の奴隷と化す。患者の内の何割かは既に末期で、薬が切れると突然奇声を発したり、暴れたり、薬が待ち切れずに職員から薬を奪おうと襲いかかったりする。性質が悪いのは完全に正気を失われる訳ではないので、狂気との狭間に苦しみ、発狂死の割合がぐんと高くなるところだ。
シュバッセを始め、薬の服薬歴が浅い者はまだ症状が軽い。気を紛らわすものがあれば薬に支配されずに済む。だからラドゥーは夜の薬を止めた。
そして、職員の誰もが理解に乏しい子供相手にするように接する患者達と話してみて、患者がまともな感性を持っている事を知った。
正確には、まともな人間こそが、病人として扱われている。シュバッセは外の人だが、患者の殆どは元はノルメ市民。レレティーヌを教祖とするバーム教の元信者ばかりだった。
彼らは言う。この宗教は彼女に従わなければ異端とみなされる、と。
「恐ろしいガキだな」
シュバッセの溜息に現実に引き戻された。
「周りが信用出来ない限り、用心はし過ぎるということはないですから」
ちゃんと与えているという形を見せるのは大事だ。
中身は、ラベルに書いてある、本来入っているはずの薬品に似た色のジュースだ。アイマと街に出掛けた時にたまたまこれを見つけて、試飲したらとても美味しかった。今まで味わった事の無い味だが、変に刺激のない喉越しで素直な味のこのジュースは最近のラドゥーのお気に入りだ。
「で、飲みませんか?」
「………」
シュバッセは無言だったが、かなりの誘惑を感じたのは丸分かりだった。
信用していない相手に食べ物を恵んでもらうのは抵抗を感じるのは当然。しかし、ここでは病人食以外の物は殆ど口に出来ない。
やがて、観念して手を出したシュバッセに、にっこり勝者の笑みを浮かべて新しいカップを差し出した。
「それで、話を戻しますが、何で俺が動かないのかと言いますと、俺がいきなり不審な行動を起こしたらガラムさんの二の舞です。レレティーヌはああ見えてとても疑り深いんですよ」
ラドゥーを気に入って何かと構ってくる彼女だが、その笑みには常に探る光が宿っている。まだ一月そこらの新人、それも外から来たラドゥーだから当たり前だろう。彼の献身的な態度を好ましく思っていても、まだ試験段階なのだ。下手に動けば、折角得られそうな信頼を一瞬にして壊しかねない。
「………それは分かるが、近々俺の仲間が接触しに来る。それまでに何か一つでも報告出来るような情報を掴め」
「密会ですか」
それはラドゥーが来るより前から定期的に行われているそうだが、密会の頻度は多くないという。潜んで来る方も命がけだかららしい。
「外壁には兵士でも詰めているんですか?」
「騎士はいるが兵士はいない。この街にはな。だが、ある意味人間よりもずっと厄介なモノが蠢いている」
「厄介なモノ?」
「毒を持った蛇やら蠍やらがうようよいやがるんだ」
「それくらい駆除出来ませんか?」
「数の規模が想像を絶する。闇に紛れて見境なく人を襲う。食糧も食い散らかされる。どの国の軍も街に辿り着く前に半分に減らされるんだ。街を責めるどころではない。しかもどういう仕組みなのか、その指令を出しているのは蝙蝠なんだ。そいつらが軍の気配を察知して蛇や蠍を動かして襲わせている」
「………それは凄い」
最初の頃シュバッセはレレティーヌを見て蠍女とか称していたことを思い出す。
「つまり、蝙蝠を操って街を守っているのが彼女という訳ですか」
「そういうことだ」
街の外が乱れているのにここだけ妙に静かな訳が分かった。
「だから、俺達の目的は蛇たちをどうにかする事だ」
「…なるほど」
しかし一つ、疑問に思った。
「……どうしてそこまでしてこの街を奪おうとするんですか?」
一月暮らして分かったが、この街の物資は乏しい。街の人口を支えるのに精一杯の資源しかない。政略面から言っても、この街を陥落するのにかかる手間と費用を考えたらこの街を得て得する部分は無いように思える。
「この街はバーム教の聖地だ」
「ええ、そう聞いております」
「だが、バーム教以前は俺達が信仰していた宗教の聖地だったんだ。それを奪還したいと思うのは当然だろう」
「だから隊長さん自ら潜入調査をしているんですね」
その言葉で全てが諒解した。ラドゥーには神様に払う敬虔な心なんぞ持ち合わせてはいないが、信者にとって象徴である聖地を奪われるのは、自身を踏みにじられるが如き屈辱なのだろう。どんな犠牲を払ってでも奪い返したいと思うくらいには。国としてもそういう態度をとらざるを得ないのだろう。体面と言うヤツだ。
「それについては、三日ほど時間を頂けるなら何とかします。……だから、外にいる人もまた三日後に来て下さいね」
「え…」
ラドゥーは窓に近づき躊躇い無く開けた。
「こんばんは。初めましてですね」
下を見下ろせば案の定、一人の男がいた。彼とシュバッセの動揺を余所にラドゥーは笑顔で彼の顔を覗きこんだ。
「命がけの任務ご苦労さまで………す」
ん?
「……なんじゃ、貴様は。何故わしに気付いた? わしの気配消却装置はちゃんと作動しているはず」
「何でじいさんがいるんだ」
この人何処かで…。
「こやつは何者だ」
ラドゥーに構わず男はシュバッセに説明を求める視線を走らせた。
「人の話を聞けよ。……こないだの書簡に書いただろう。新しい協力者のムークットってヤツだ」
シュバッセもいくらか驚いた様だが、気を取り直したように彼らの間を受け持った。
「紹介しよう、ムークット。このじいさんはオイボレー。ムシルカのオイボレーと言えば結構有名なんだが、聞いたことないか?」
「オイボレーさん?」
それはまた、若い頃はさぞ………。
―――まただ。また、あの既視感。
脳裏に閃光が走る。
知り合いなのかと聞く自分に、ちょっとね、と笑う少女。
〈気にいったら今度オイボレーの家に連れてってあげるわ。でも今日はちょっと立ち寄っただけ〉
あの少女は……――――――――――――――
「おいっ、大丈夫か?」
顔を抑えてよろめいたラドゥーにシュバッセは慌てた。
「……ええ、大丈夫です。ただの立ち眩みです」
警戒心むき出しの顔も愛想の欠片も無い態度も記憶にある彼とは全然違うが、確かにその名と声は記憶にあるものと一致した。
ラドゥーはひっそりと笑った。見つけた、と。
「…おかしい。わしの作品は完璧に作動していたはずだ。ここまで誰にも気づかれずにここまで来れたのじゃから。何故……」
そんなラドゥーに興味を失ったのか、ぶつぶつ呟き始めたオイボレーは手に持っていた何かを調べ始めた。
「じいさん、来るなら来ると言ってから来てくれ。もし職員とはち合わせたらどうする」
「何を言う! この気配消却装置があれば誰にも気付かれはせん! この中には…」
「ああ、機械講座はいい。夜が明ける」
そんなやり取りの最中にもオイボレーから目を離さないラドゥーに気付いた彼は胡散臭げに見上げた。
「何なんだ貴様は。不躾にじろじろ見るでない。最近の若造は礼儀も知らんのか?」
「…これは失礼。俺はムークットといいます」
「ノルメを敵に回そうというからには、どんな気違いかと想像しておったに、こんな優男とは」
ぞんざいに鼻を鳴らされた。
「しかも、若造も若造、成人にも達していないガキではないか。何故こんな厄介事に手を出す? 何処かの回し者か?」
「いいえ。この街から友人を出してあげたいだけです」
「友人?」
「この施設で働いていた男だ。本に興味を持ってあの女に排除された」
「で、その憐れな被害者を助けようと? 偽善者め」
「じいさん、初対面相手に難癖付けるなよ」
「ええ、その通りです」
ラドゥーは頷いた。ラドゥーのしようとしている事はとても独善的で身勝手だ。理解した上で動いている。
「どんな理由であれ、この街を戦火に飲み込まれるよう画策しているのは事実ですからね」
彼らはこの街を、レレティーヌを敵として動く国の間者。その彼らに話を持ちかけたからには当然戦の話になる。
例えいつか彼らの手にこの街が落ちる運命にあったとしても、それを早めるという点でラドゥーの罪は重い。
「ふん、分かってるならいい。で? 三日後にまた来ればよいのか?」
「ああ、いえ。その時は一軍も一緒に連れて来て下さい」
「何だと?」
ラドゥーは頭にある攻略の概要を話し始めた。
もう少し時間を置くつもりだったが、ラドゥーがここに来た理由はこの人に会う為だったのだと悟った今、この街に用は無い。
三日後、ラドゥーはレレティーヌに呼ばれて神殿に赴いた。
「ああ、待っていたのよ」
レレティーヌは駆け寄り首に抱きついた。ラドゥーはそれを柔らかく受けとめ、手の甲に口づけを落とす。
「来てくれるか心配していたのよ」
「まさか。待ち切れずに早めに来てしまったのに」
レレティーヌは満足げに笑った。
「ふふ、貴方は一筋縄じゃいかないと思っていたから。見かけに寄らず女性の扱いが上手いから。これまでも結構女を食ってきたんじゃない?」
「心外ですね。お友達以上に親しくなった女性などいませんよ」
「そうかしら」
クスクスと笑いながら唇を寄せる。それに応えるラドゥーは唇が離れた隙にさり気無く聞いた。
「貴女こそ、どれだけ取り巻きを囲っていらっしゃるんです?」
恋人同士の様に身体を絡ませ合う。
「あら、嫉妬?」
「気のある女性に、何人も男の影がちらついては面白くないのは当然でしょう?」
耳元で囁くとレレティーヌは女の顔をして上目遣いでラドゥーを見てきた。
「皆退屈しのぎよ。わたくしはね、ずっと貴方みたいなヒトを探してたの」
「俺みたいな?」
「ええ、そう。――強い人を」
ラドゥーの肩に顔を埋める。
「とっても、美味しそう」
レレティーヌはラドゥーの首筋を唇でなぞった。そして、
「………何の真似?」
「残念ですが、俺は貴女の食事になる気はないんですよ」
レレティーヌの腕を捻り、今まさに突きたてられようとした牙を顎を抑えて引き離した。
改めて見るレレティーヌは、やはり白かった。肌も衣装も純白。何処から見ても儚げな、世俗とは無縁な美女。
ただ、唇だけが男を誘うように紅い。
「食事? 何の事?」
「違いますか? 麗しのヴァンパイアさん」
レレティーヌは笑い出した。
「突拍子もないわね。お伽噺じゃあるまいし」
「これは、ただの勘ですけど。こないだ火刑に処されたガラムさんの不自然な傷を見て不思議に思ったんです」
全身火傷のガラムさんの包帯を取り換えている時に見つけた首筋の傷。焼けただれて、よく見ないと分からなかったが、明らかに火傷以外の傷だった。
「丁度、こんな感じの牙がぴったり収まるくらいの小さな穴二つの、ね」
「それだけで決めつけられちゃ敵わないわ」
「そうですね。じゃあ二つ目、街の外を守る貴女の下僕。凄いですね。あんな蝙蝠の大群始めて見ました」
「………」
「さらに三つ目、この街に銀製の物が無いこと」
オイボレーが持っていた気配消却装置。あれは銀製だった。この世界に銀は存在するのに、そう高価でもない銀の製品が街には一つも無かった。
「そして、最後にこの部屋にある貴女のコレクション」
ラドゥーは足を一歩引いた。
「ここには…―――」
間一髪でレレティーヌの牙から逃れた。
「……危ないじゃないですか」
「貴方何者なの?」
「ただの読書が趣味の学生です」
「読書……」
「禁句でしたか? 迫害対象であるヴァンパイアの記述が載ってる可能性がありますからね」
「…誰に命令されて来たの?」
「俺を従えられる者などここにはいませんよ」
表情の動かないレレティーヌ。ラドゥーは室内を見渡した。
「面白いですね。迫害される側がする側を迫害して火にかける。何かの復讐ですか?」
彼女が何者なのか考えた時、思い浮かんだのは何故なのか。自分でも笑いたくなるような陳腐な答え。だがそれが答えだと奥底にいる何かが譲らなかった。
白く荘厳な教会。異端と呼ばれる者を追う立場であるはずの教会を束ねる聖女。そして排除されるまともな思考を持った人間。
これがレレティーヌなりの復讐だとしたら、これほど痛烈な復讐も無いじゃないか。
「…………ヴァンパイア、と言っても特別な能力があるわけではないわ」
レレティーヌはぽつりと呟いた。
「人には嗜好があって、果実水が好きな人がそれを飲むように私は血の味が好きなだけ。日の光がダメだとか、血を飲んだ人を仲間に出来るだとか、血を飲んでいる限り不死だとかでたらめばっかり…」
レレティーヌは悲しそうに笑った。
「なのに人から血を少しだけ貰うだけで人は嫌悪して、少しばかり動物と心を通わせられるとういだけで怖がって、自分達の目に映らない所に追いやるの」
彼女と目が合う。
「分かる? この理不尽さ、悔しさを。己の権威を高める為に、普通の人間とは違う者を守るどころか、異形と差別して迫害する事を正当化する教会を憎悪する気持ちを」
「……仲間外れにされる哀しさは分かりますよ」
ラドゥーは名家の嫡男として生まれついたが、そうと認められるまでに相当の努力を要した。幼少期は病弱だったため、将来が危ういと、政敵には廃嫡を迫られた。また、味方といえど、心から親しめる者は僅かだった。
彼女の境遇とは違えど、人に交じれない孤独感は共通するものがあった。
「なら分かるでしょう? 普通ってだけで安穏な道を約束されている人間を狂わせることがどれだけ快感か」
「だから火刑や薬漬けを?」
ちゃんと自分で考え、自分の足で歩こうとした者の芽を悉く摘んだのか。火にかけたり、薬漬けにしてまともな思考を奪ったりして。
盲目で従順な市民。それを促した彼女。
「そうよ。何も考えないことがどれだけ罪深いか。“自分とは違う存在”を放逐することがどれだけ非道な事か。善良な市民の皮を被った彼らは気付きもしない」
彼女の歪んだ笑みが不快だった。醜い。
「死して楽園に行けると思いこんでる彼らが事実を知ったらどうなるでしょうね」
知らぬ内に課せられた罪。罪状は無知の罪。
実際刑に処された人ではなく、それを見物していた人こそを刑に処していたのか。
「仲間外れにされてとても寂しかった。だからそれを味合わせた者達にも分かってほしいだけ。貴方も同じなら、私の気持ち、分かってくれるでしょう?」
「分かりますよ」
ラドゥーの答えに会心の笑みが全身にレレティーヌに広がる。
「……けれど、人の自由を、貴女が奪う権利は無い」
レレティーヌが固まった。
「確かに貴女は辛酸を舐めてきたのかもしれません。けれど、やったらやり返していいわけないんですよ」
その寂しさからくる怒りはよく分かる。だがそのやり方は賛成できない。ラドゥーは庶民に身を窶して一般の学校に通う事でそれを克服した。彼女のやり方では余計な軋轢を生むだけだから。
ラドゥーは懐から短刀を取り出した。オイボレーに手配させた銀製の刃。
「……その顔を見ると、銀が駄目なのは真実みたいですね」
銀色に輝く刃を見て怯みを見せた彼女を確認した。
「安心して下さい。これは、ただの護身用です」
ラドゥーはレレティーヌに刃を向けながら後ずさり、窓辺に寄った。
「聞こえますか? 人の叫び声」
彼女ははっとした。今まで気付かなかった。窓に広がる街のあちこちから火柱が立ち上っていた。
「あ……」
「この街は狂ってる。それは貴女によってなされたものだけれど、元に戻すには、もはや手遅れでした」
薬漬けにされていたのは何も異端視された者だけじゃない。この街の全てが少なからず薬の影響を受けていたのだ。
この街はほぼ自活している。つまり自分達で作った者で生計を立てているのだ。月一の大市でしか外と触れ合う機会がない閉鎖的な街。
日々の食卓に当たり前の様に出てくる料理に、患者に差し出す薬とほぼ同様の役割を果たす食材が使われていた。甘い香りのする香草がそれだった。
ラドゥーは一口でその効用に気付き、極力避けていたが、それが難しい程に頻繁にその食材を目にした。食事を抜いた日は一度や二度じゃない。
「ねぇ、レレティーヌ様。俺は別に最初からこの街を害する気ではなかったんです」
例え罪無き者が処罰を受けていたとしても、余所者であるラドゥーがいきなりしゃしゃり出る隙は無い。理不尽な事は嫌いだが、正義感が強い訳ではない自分には、そんなやる気はなかった。
「でもですね。友達になれそうだった人のその未来を奪われて憤らない程、薄情でもないんですよ」
ガラムの肌は一生治らない。跡は残る。でも、ちゃんとした設備の整った病院で治療を受けたなら心は戻ってくるかもしれない。しかしノルメにおいたままではそれは叶わない。重傷のガラムを背負って密かに街を出る事も不可能だ。
道は一つ。それが街を壊すことだとしても、それを躊躇う理由は無い。
そんなことを躊躇い無く考えたラドゥーも、大概狂っているのかもしれない。レレティーヌを弾劾する権利は自分にはない。
窓から聞こえてくる悲鳴に耳を傾けながらそう思った。
「さて、俺はここらでお暇します。ここも安全ではなくなるでしょう。街を出るならお早めに」
ラドゥーは窓に手をかける。
「待ってよ。街を守っていた蛇たちは……蝙蝠は」
「蛇たちに指令を出しているのは蝙蝠。そして蝙蝠に指示を出しているのは貴女だ。貴女を確保しておけば彼らの統率は容易く崩れる。貴女は俺に惹かれていたでしょう?」
所詮動物。人間の小細工をかわす程の知能などない。
「そんな……」
「ああ、無駄な殺戮をする気はありませんから。ちゃんと退路をつくってありますから安心して下さい。市民の皆を火刑に処す気はありません」
茫然とする彼女を放ってラドゥーは窓を飛び越えて消えた。
風に乗ってくる煙の臭いを嗅ぐ。そんなラドゥーに駆け寄る気配があった。
「ラドゥー!」
煤にまみれたアイマだった。
「良かった! 無事だったのね」
何も知らないアイマは安心した様に抱きついた。
「何処行ってたの? 施設にも街の何処の店にもいなくて心配していたのよ」
「野暮用で」
「ううん。そんなことはどうでもいいの。貴方さえ無事なら」
アイマはラドゥーの胸に頬ずりした。
「ねぇ、ラドゥー。ここは危険だわ。早くここらか逃げましょう。いきなり軍隊が押し寄せてきて街は大混乱なの」
「…ええ」
言いながら、一向に動かない彼の顔を覗きこんだ。
「どうしたの?」
アイマはラドゥーの視線の先をなぞった。
「……ひっ」
そこには武装した男がいた。
「や、やだっ。殺さないで!」
ラドゥーにしがみ付いたが、ラドゥーは至って冷静に武装した男に話しかけた。
「お勤めご苦労様です。シュバッセさん」
アイマが驚いて武装した男を振り返った。それは確かにこないだまで患者として接してきた男だった。
「ああ」
「え…何、どういう事?」
アイマを憎々しげに見るシュバッセ。そんな彼へラドゥーは彼女をシュバッセに引き渡す。
「彼女を丁重に扱ってあげて下さいね。彼女は貴重な情報の提供者ですから」
今度はラドゥーを見上げる。見慣れた筈の顔なのに、何故か知らない男を見ている気分だった。
「ラ…ドゥー。何言って……」
アイマの縋る視線に答えずシュバッセと話を続けた。
「ガラムさんは?」
「ああ、約束通り俺の部下に運ばせてる最中だ。心配はいらない。なんなら見に行くか?」
「そうします」
「ラドゥー! 待って! 何処行くの?!」
別方向に歩きだされ、アイマは訳が分からず追い縋る。
「ガラムさんの所です。彼にもお別れの挨拶をしなければいけませんから」
「わ……私も連れてって!」
しがみ付く彼女をそっと離した。
「すみませんが、呼びたい名前は貴女じゃないんです」
アイマの悲痛な涙を優しくぬぐうと、躊躇うことなく彼女に背を向けた。
施設に行く途中で、ガラムさんを連れた一行に合流した。話は通っているのだろう。兵の一人がラドゥーに向かって会釈してきた。
ガラムさんの傍にはオイボレーがいた。
「オイボレーさん…」
「ふん、上手くやりおったな、小僧」
「俺は手伝っただけです」
ラドゥーはタンカに横たえられているガラムを見下ろした。
「……彼は治るでしょうか」
「知らん。わしは医者じゃない。だが、わしの国の医療は随一だ。ムシルカで治せないなら何処の国にも無理だ」
「それは重畳」
ラドゥーは空に舞い上がる炎を見上げた。
「まるで、聖火のようですね。さすが神都だ」
「皮肉か?」
「素直な感想ですよ」
本気か冗談かはラドゥーの顔からは伺えない。ガラムに顔を戻し、暫く何かを考えるように見つめた後徐に立ち上がった。
「では、彼をよろしくお願いします」
「………お前は来ないのか?」
「ええ。ここでお別れです。短い間でしたけど、お世話になりました」
「お前は何処に行く?」
「さあ、何処でしょうね」
ラドゥーの方こそ聞きたいくらいだ。
ラドゥーは一人柔らかな草原を歩いていた。今夜も星が美しい。ラドゥーの街は都会の所為か星が奇麗に見られない。この一月で奇麗な星空は見慣れたが、今宵の星はまた格別だった。
「………っ」
ずきり、と頭が痛んだ。ここへ来る前に感じた頭痛と同じ類の痛み。
「でも…前よりかは、マシ…ですかね」
頭を抱えながら呟く。そして後悔。呟くだけでも頭に響く。
脇には施設に取りに戻ったうさぎのぬいぐるみがあった。その赤いボタンの目が煌めいた様に感じた。
「…また、何処かに行くんですか?」
今ではラドゥーも分かり始めていた。
これは旅だ。失くしたものを探す旅。
その探し物の名前は、記憶。
そして、ここでの目的は果たした。旅は次に移る。
自分の目的が何で、何を探し、何を求めているのは依然として分かっていないけれど、進むしかないと知っているから。
呼びたい名前を取り戻す為に。
ラドゥーは見収めに、と赤く輝く街をもう一度視界に映した。
街の人達はこれからどうなるのだろう。考える事を知らずにこれまで生きてきた人達。
いきなり戦場に放り出されてどれだけの人が冷静でいられるだろう。
まあ…シュバッセは無闇に街の人を害する気はないようだから、そう酷い事にはならないだろう。
今後、あの甘い香りの無い場所で生きていけるかは知らないが。
ラドゥーは首を巡らせた。
一際赤々と燃えている、ハナの家がある方角をしばし眺める。
「…さて、行きますか」
ラドゥーはうさぎを抱えなおす。
「……次は世情がきな臭い所でなければいいんですけど」
苦笑する彼はいつもの彼だった。
そしてその言葉を最後に、ラドゥーはその場から姿を消した。
『破者の暴走』編、完。
それでは解説広場です。どうぞ↓
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「こうして街を歩くのは久しぶりだな、ラドゥー」
「そうですか?」
「そうだよ。そもそも会うこと自体久しぶりじゃないか」
「貴方から送られてくる、たいして重要でない手紙のおかげで久しぶりという感覚が沸きませんが」
「ばっか、お前、実際会うのと会わないのとでは全然違うだろうが」
「……それもそうですね。手紙越しでは貴方の声が聞こえない」
「なんだかんだ言って俺からの手紙を心待ちにしてるんだろ? ん? 素直に俺を案じてると白状してもいいんだぞ?」
「…勝手に言ってなさい」
「素直じゃねぇなぁ、相変わらず。……なぁ久々に寄って行かね?」
「何処へ?」
「男が並んで行くところと言ったら酒場か娼館だと相場は決まってる」
「酒場はいいですが、娼館に行くなら遠慮します」
「つれねぇこと言うなよ。なんだ、女でも出来たのか?」
「酔っ払った親戚のおじさんみたいに絡まないでください」
「俺とお前の仲じゃないか。で、どうなんだ? 女が出来たのか?」
「……そうだと言ったら?」
「誰だよ、紹介しろよ。俺の知ってる女か? 公爵家? 伯爵家か? グリューノスの若様の縁組だ。相当の家柄だろう?」
「違いますよ。彼女は貴族ではありません。彼女は自由で奔放で俺を困らせておいて、月の様な神秘的な笑みで翻弄する小悪魔な娘ですよ」
「お前の目に適うだけある良い女なのか?」
「ええ、それに意外と嫉妬深くて、娼館なんかに行ったら機嫌を損ねてしまうじゃないですか」
「ちっ、惚気てんじゃねぇよ」
「クローガ様も早く良縁を見つければいいじゃないですか。陛下の将来を案ずる老臣の方達などは、日々あの手この手で、何処其処のご令嬢を会わせようとしているらしいじゃないですか」
「……まだ縛られたくない」
「確かに急いで妃を迎えなければいけないほど逼迫した状況でもないですしね。じっくり考るのもよろしいかと」
「俺の気に入る女を連れてこないあいつらが悪い」
「理想が馬鹿に高いですからね、クローガ様は」
「煩い。毎日顔を合わせる女なんだぞ。拘りを持って何が悪い」
「……きっといつか出会えますよ。一生を添い遂げたいと思えるような女性と」
「……その女は? お前にとって、一生を添い遂げたいと思える相手なのか?」
「―――さて、どうでしょう?」
――――――――一国を束ねる王と腹心である若君が二人お忍びで街を散策している時に交わした会話。