47.ぬいぐるみと迷子の少年
新章スタート。
だぁい好きだよ。
だから――――
「ラゥ様。お茶が入りました」
「これが一段落したら飲むからそこ置いといて」
紙を繰る音、ペンを走らせる音、時折机を叩く指の音。今ラドゥーの部屋を支配しているのはこの音のみだ。
「…ラゥ様? ここ数日根を詰めなさってどうしたんです? そんなに急ぎのものが沢山あるんですか?」
サラの不満げな声にラドゥーは顔も上げずに答えた。
「どうもしない。今調子がいいから出来るだけ面倒事を片づけようとしているだけだよ」
それに溜息で答えたのは後ろで片付いた書類を纏めているセナン。
「若君が調子悪い所なんて幼少の頃以来、見たことがございませんが…ここ三日ほどまともにベッドに入っていらっしゃらないのはどうかと…」
「休息は取っている。――ああ、セナン。それを届けに行くついでにミティの穀物全般の物価状況の資料を貰って来てくれ」
何を言っても無駄そうな主人に内心嘆息し、セナンはサラを伴って退出した。
「ラゥ様…ホントどうしちゃったのかしら?」
セナンと共に退出したサラは心配そうに眉を寄せた。
「あの肝試しからずっとよ? 何があったのかしら?」
「…わたしにも分からない。肝試し自体に何かがあったわけではないらしいが」
「じゃあなんでラゥ様はあんなにがむしゃらなのよ。いつもの余裕たっぷりな若君らしくないわ」
「…若君は…何というか、焦っているようにも見えるな」
セナンとて主人の心配をしていない訳がない。
ラドゥーの生活態度は普通だ。食事も摂るし、会話も普通に交わせるし、別に可笑しな言動を取ったり、使用人を怒鳴り散らしたりしているわけでもない。
学校が夏休みなので、纏まった時間が取れる今、溜まっていた仕事を片付けようと思うのも分かる。
だが、何かが違うのだ。何処が、と聞かれれば口ごもるしかない、微かな違和感。ラドゥーの焦燥がセナンにまで伝わったのか、セナンも何だか落ち着かないのだ。
「仕事に熱心であるようにみえて、ふとした時に心在らずというお顔をなさる」
何かから逃げたいが為の手段に、仕事を用いているだけの様な…
「…何にせよ、お身体を壊さない様に目を光らせて置く必要があるわね」
セナンも頷いた。原因が分からない以上、それしか彼らに出来ることはない。
カリカリカリカリッ……
ペンの音が急に止まった。
「…集中力が途切れたか」
ラドゥーは脱力して、ばすっと背もたれに寄り掛かる。
あれから三日。肝試しから三日。三日も経ったのか。三日しか経っていないのか、ラドゥーには分からない。
「……っくそ」
分からないが、単純に三日という時間が経ったというのに、胸の奥に燻っているもやもやは、小さくなるどころか大きく膨らむばかりだ。
怪我だって三日もすれば大分良くなる。悩みだって時間が解決してくれる。
けれど、今のラドゥーの“もや”は、時間が一層彼を蝕む。
とても眠っていられなくて、仕事に打ち込んだけれど、こうして集中力がいきなり消えては物思いに耽るの繰り返し。疲れは溜まる一方だ。もやもやもいっそう濃くなっていく。
「何なんでしょうか…ねぇ…」
誰かに問うような呟き。誰かが…答えてくれることを期待しているかのような、呟き。
「………」
いつから自分はこんなに独り言をいうようになったのか。
「………」
答えはすぐそこにある気がするのに…おかげで余計に苛立ちは募る。
怒りのままにペンを圧し折る。こんな苛立ちは初めてだ。物に当たる程の怒りなどこれまで感じたことはない。
俺は何かを忘れている。
それは確信。今の自分に欠けているもの。けれど、その根拠が何処にもなく、何故それだけに確信があるのかも分からず、迷子になったかのようにラドゥーは頼りなさげに虚空を見つめる。
何も書かれていない本に、自分は何故あんな物語を描いたんだろう?
どうして、いつもなら埋まっている筈の予定が殆ど入ってないんだろう?
まるで、誰かの約束の為に敢えて空けておいたかのようだ。
そして…どうして、覚えのないぬいぐるみが俺の部屋に鎮座しているんだろう?
ラドゥーは億劫そうに立ち上がり、他の人形も一緒に飾られている棚に近づく。
「こんなぼろぼろなぬいぐるみ、持ってましたっけ?」
ラドゥーは知らぬ間に居座っていたぬいぐるみを持ち上げる。
赤い蝶ネクタイを付けた薄汚れたうさぎのぬいぐるみを。
「…もらった記憶も…拾った記憶も無いのに」
こんな汚れているぬいぐるみ、実際拾ってきたらセナンに「捨ててきなさい」と怒られる。
簡単に想像できて苦笑しかけたラドゥーの身体が止まった。
「なんだ…この違和感」
違う。既視感だ。
自分は前にもそう思った事があったのではないか?
何処で? すぐに思い出せた。
そうだ、ギータニアに、クラスメイトのクリステレ王女の為に行った時だ。
俺は夜会に出て、空気を吸いに庭へ散歩に出て…そこで、ボロボロの雑巾を拾ったんだ。
「……ぅん?」
雑巾?
雑巾なんか拾ったか? その筈だ。王城の、しかも王妃のお気に入りの庭に雑巾なんか落ちているか? だが、ラドゥーの記憶では雑巾、となっている。
流石にラドゥーでも、セナンに叱られるまでも無く雑巾は拾って帰らない。
――まただ。また、掏りかえられたような、矛盾のある記憶。
ぬいぐるみをじっと観察する。
何処で手に入れたか覚えがないくせに、ラドゥーはこれを知っている。
でも、何処で知った? 何処で……
「……」
例えば自分が随分小さい頃に贈られて、最近まで忘れてしまっていたのかもしれない。寧ろその可能性が高い。でも、釈然としないのは何故なのか。
些細なことだが、どうしても気になる。
他にも気になることは、クリスとのその後の記憶が曖昧なことだ。
思いがけずクリスと庭で出会い、二人で歩いた。…そこからが曖昧なのだ。
「そのまま、城に戻ってダンスでもしたんでしたか」
あの夜に踊った令嬢は星の数ほどもいる。いちいち顔なんぞ覚えちゃいない。その中にクリスがいたっておかしくない。
だが…やっぱり釈然としない。
「…何が違う?」
ぬいぐるみに問う。まるで、これが答えを知っているかのように。
「…こんなぬいぐるみに話しかけるなんてどうかしてる」
いよいよ、ヤバくなってきたか?
ラドゥーは己を鼻で嗤った。そして、ぬいぐるみを棚に戻さずそのまま寝室に行き、枕元に置いた。
「ただの気まぐれですよ…君が何だか気になるから、それだけです」
何も語らない赤いボタンの瞳。ラドゥーの知っている瞳は、もっとらんらんと輝いていた気がするのだが…。
ラドゥーは首を振って残りの仕事を片づける為に寝室を出た。
その夜。ラドゥーは三日ぶりに自分のベッドで眠ることにした。
別に、サラやグランやギルにさっさと寝ろと放り込まれたからじゃない。
ペンを圧し折った事でセナンから本格的な心配をかけたからじゃない。
いつまでも抜け出せないもやもやに、いい加減嫌気がさして不貞寝を決め込もう思ったからだ。
眠る、という行為がこんなに気合いがいるものだとはラドゥーは初めて知った。
「しかも不貞寝の御供がぬいぐるみ…」
ぬいぐるみを枕元に置いて寝るなんて何歳ぶりだ。セナンに見られたらと思うと恥ずかしくて溜まらない。
だが、どうあっても頭から離れないぬいぐるみが、このもやもやにケリを着けてくれるんじゃないかという淡い期待が、恥を忍んでのぬいぐるみの添い寝を実行させようとしている。
そしておもむろに、ラドゥーは自分の腕を見下ろす。
そこには、当然のように収まっている腕輪があった。
エメラルドグリーンに輝くそれを、ラドゥーは軽く引っ張っては離す、ということを繰り返した。
これが、一番ラドゥーには引っかかって仕方ない。
何時、何処で、誰がラドゥーに与えたのか……
クラスメイトからの贈り物というわけでもないだろう。こんな高価そうな物くれる訳無い。家族からという線もシロだ。母ならもっと華美で非実用的な物をくれるし、父はこんな洒落た物をくれるセンスなんてないし、弟妹は自分が書いた絵をくれるくらいだし、じい様に至っては腕時計を頂いて以来、贈り物という物を貰った記憶は皆無だ。
そして、なによりも、ラドゥーは他人から貰ったものなど、公の場を除いて、腕時計以外に身につけた事は無かった筈なのに。
あまりにも自然に居座っているもんだから外す気にもなれなくて、仕事の合間に眺めては首を傾げるという事を繰り返した三日間。
ラドゥーはぼろぼろのぬいぐるみを見て、ぽろりと呟いた。
「ぼろぼろで…当て布だらけ……――――つぎはぎ?」
〈―――から〉
「―ッ痛!」
突然、頭痛がして、ラドゥーは頭を押さえた。
〈―――あげるから〉
「…だ……れ…だ」
頭の中で響く声。ガンガンと頭をハンマーでカチ割られてるんじゃないかってくらいの激痛。
〈全部。全部夢だから。夢にしてあげるから〉
誰かがラドゥーの背を撫でる。大丈夫と、彼を安心させるような笑み。
誰だ誰だ誰だ。
俺は忘れてはいけない誰かを忘れているのか。
失ってはいけない記憶を失っているのか。
耐えきれずにベットに崩れ落ちる。
ラドゥーは力を振り絞ってうさぎのぬいぐるみに手を伸ばす。手が触れた瞬間、うさぎの目がらんらんと輝きだしたのは気のせいだろうか。
―――――キミはダレ?
その呟き最後に、ラドゥーの意識は暗転した。
解説広場です。お待たせしました。↓
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「調子はどうです?」
「若君。ええ、順調に成長してますよ」
「もうこんなに大きくなったんですね」
「ええ。荒れた土地にも適応できるくらいに強いかぼちゃです。この調子なら来月あたりに収穫出来そうですよ。それにしても若君、こんないい苗、何処で見つけていらしたんです?」
「…頂きものだよ。ちょっとそのヒトが困ってるのを助けたお礼にって」
「そうですか。こんな品種見たことなかったんで、気になってたんですよ」
「…外国の方だったし。国は分かりませんけど、海の向こうの大陸の方だったのかもしれないね」
「ああ、なるほど。まだ海の向こうには未開の地が沢山あるって言いますからね。一度行ってみたいものです」
「ええ、ほんとに(ニコリ)」
「おや、ラゥがこんなところにいるなんて珍しいね」
「父様。また土いじりしてましたね…」
「趣味だからね。一回ラゥもやってごらん。なかなかハマるよ」
「…そうですね。考えてみます」
「おや。いつもは知らんぷりするのに、どんな心境の変化かな」
「別に、頂いたかぼちゃが気になっただけです」
「他人から貰った物はぞんざいに扱わないまでも、適当に放置しておく君がねぇ」
「それは…油断ならない社交界筋から貰った物の場合です。個人的に貰ったの物は別です」
「ふぅん」
「何です…何か言いたげな顔ですね」
「いや? ただ君は普段むつかしーこと考えてる割に案外単純なトコもあるんだなぁって」
「単純? どこが」
「そうだなぁ例えば君の名前。偽名にムークットって名乗ってるでしょ」
「それが何か?」
「ムークットってここじゃ珍しくもない姓じゃないか。加えてラドゥーという名前。先祖云々でこの名前を付けられる子も沢山いる。両方持ってる子なんていくらでもいるんじゃない?」
「そうじゃないですか? 俺の学校には同姓同名の生徒はいませんが、ムークット姓の子ならいた筈ですし」
「…つまり僕の世界で言う、いわゆる『山田太郎』って名乗ってるのと一緒なんだよね。単純というか…適当にも程がある」
「? 今何て言いました?」
「ん? いや何でもないよ」
―――――少年の自宅。父子の会話。秘かに耕されている畑にて。