40.闇と向かい合う少年
世界はそれを受け入れるだろうよ。
たとえ、秩序が渾沌と化し、殺人鬼が英雄と呼ばれ、悪が正義を駆逐しようとも、それが必要な生贄であるのならそれもまた然る道。
無能なる支配者は“全て”が選ぶ選択をそのままに受け入れ、一顧だにしないのだから。
暗い暗い淀んだ瞳。そんな目が容赦なく主である自分に突き付けられているこの状況に、ドロテアは愕然とした。
人魚の子達はあんな荒んだ、睥睨する様に見つめたりするような子達じゃなかった。ケンに悪戯をしょっちゅう仕掛けていた困った子達だけど、それは愛情の裏返しで、二人ともケンを慕っていた。ケンが一旦現実世界に行ってしまえば、滅多にこちらに戻らないから、構ってほしくてつい手を出してしまうだけ。本当に牙を向けていたわけではない。
人魚達は闇にも耐性があるはず。ドロテアの庭の五人きりの住人はいずれもそれなりの格を持っている。森と湖と草原、それぞれの番人としてその地を守ってきたのだ。人魚達は妖精。それも希少種である。そんな彼らに宿る力は、そんじょそこらの“闇属”ではどうこうできる筈もない。
仮に、灰色空間に百年漂ったとしても、闇に絡めとられることなく、正気でいられる筈なのに。
なのに…
あの“奇術師”とかいうふざけたピエロ。
……“あれ”は、“何”だ?
目の前に突如現れた黒。得体の知れないその存在に背筋がスッと冷えた。これは関わってはならないものとして、ドロテアの中で警鐘が鳴った。
灰色空間より余程闇の濃度が高い危険物。近づくだけで弱い者は闇に引き摺られてしまう。
藍色の瞳をした少年はこの存在を知っていた。どころか、一度遭っているらしい。遭っていて、それでも彼は自分を保ったままでいる。
あの綺麗な人の子は、分かっているのだろうか。人魚を歪ませた存在の力に晒されてなお、己を保つその意味を? 齢二十もいかない、幼い子供が。
そもそも、何故少年は夢に通じていたのかも不思議だった。どうやら夢の住人と関わりを持っているらしいが、そんなこと滅多にない。
夢の住人に守られるには、その夢の住人にとって重要な人物である事が必須条件だ。つまり、彼はその夢の住人にとって失えない大事な人。
夢の住人が“夢の旅人”なら、間違いなく“探しもの”である。力が強いほど、闇の濃いヤツを引き寄せやすい。おそらくその“夢の旅人”を通じて“奇術師”と遭ってしまったと考えれば辻褄はあう。が、桁はずれな力をもつ“夢の旅人”に守られているからといって、闇の囁きに耳を貸さず、正気に踏みとどまれるかは別問題だ。
何故なら、闇はおよそ全ての生命が持っているものだからだ。
闇と向き合うということは、自分の中にある後ろ暗いものと向き合うという意味だ。どんな強敵に向き合うよりも、自分に勝つ方がどれほど難しいことか。
先程少女の一人が、あっさり引きずられてしまった。感情が豊かな少女は闇に捕らわれやすいものだが、ケンに庇われていたはず。その身が守られても、自分の心まで庇われるわけではないといういい見本だ。だからラドゥーという少年が、それを撥ね退けられたことが驚きだった。
闇は広がる。何処までも。自分の心にまで、確実に忍び込んでくるのだから。
“奇術師”は固形化した闇そのもの。闇で創られた人形にドロテアは見えた。自ら動いて人を嘲笑うことが可能になった、意思を持った闇。
“あれ”の噂はたまにやってくる通りすがりの者達から幾度か聞いていたから知っていた。興味無かったから耳半分で聞き流していたけども。
現実世界にも色々とちょっかいをかける相当やばい奴と評判だった。
生身の人間を“こっち”に連れ込んで、彷徨わせて狂わせて、その様子を存分に眺めた挙句放置、なんてぞっとしない噂も聞いた。
でもこんな人口も少ない辺鄙な夢にそいつが来るなんて夢にも思わなかったから、ずっと忘れていた。その時の自分を叩きのめしたい気分だ。うかうかしてた自分のせいで、大事な家族を闇に差し出してしまった。
「なんということだ…」
ケンの肩を諦観を促す様に叩く。ずっと現実世界にいたからケンは“奇術師”の毒牙にかからずに済んだ。そうだ、まだケンがいる。
「何とかこっちに引き戻しましょう」
ドロテアは目を人魚達に向けた。
おいたをする彼らにお仕置きをしなければ。
うっすらとドロテアの紅い口唇が三日月の様につり上がる。正気に返った後、この私に刃を向けたことを地にのめり込むほど後悔するがいい。
私は、人間以外には優しくないのよ。
…なんだかおかしな事になってきた。
ラドゥーは他人事よろしく目の前の展開を見守った。
やさぐれている二人の人魚が、ケンさんに向かって殺気立った水泡をぶっ放し、ケンさんへの罵詈雑言のオマケを付けた。全ての被害はケンに向いたことになるが、おかげでラドゥー達は無事だ。ケンさんには悪いが必要犠牲として甘んじてもらおう。
ケンさんは濡れそぼった身体を、犬みたいに身体を震わせて水を飛ばした。
…馬ってあんな動きするっけ?
馬を洗ったことがないから確信は持てない。ケンさんの豊かな髪が緩やかなウェーブを描き、野生的な肉体に張り付いて色っぽい。テリーが少しトキメいている。
黙っていれば精悍ないい男で通るのに。ドロテア達にかかれば唯の熱血漢らしい。残念。
「お主らっいい加減にせいっ!」
流石のケンさんもそろそろ忍耐の限界らしく、眦を吊り上げて背に背負った弓矢をつがえようと手を伸ばした。
きりきりと弓の張り詰める音がし、二本の矢が二人の人魚に向かって放たれる。ただし、ただの脅しだろう。
遠国では、弓の音は邪を払う力があると信じられているという。それが本当かは知らないが、今の状況ではなかなか悪くない選択だ。
「…なんと」
しかし、その矢は二人が立ち上げた津波に呑みこまれ、いともたやすく防がれた。
「わたしの矢は、覇気が詰まっているというに…」
驚愕したように呟くのをラドゥーは聞いた。
「ケン、今あいつらは闇に染まってんのよ。あんたみたいに如何にも体育会系なヤツじゃ相性が悪いわ」
ただの人間のラドゥーらには理解しがたい励ましを、ドロテアはしょんぼりと項垂れるケンさんに送った。闇という如何にも冷徹そうなものと、ケンの溢れんばかりの熱血では、相容れないという意味だろうか。
ラドゥーは、懐にしまってあるナイフを取りだそうかとして、諦めた。
ここからの距離ではナイフの威力は無いに等しい。ケンさんの弓矢でもこの通りだ。
どうしたものか、と悩むラドゥーは何気なく湖を見下ろした。
水の底に何かが揺らめいているのを見つけた。
「…!」
“それ”が何かを理解するやラドゥーは目を見開いた。
「…リ、リリー!!」
同じように湖を見たテリーも気付いた。彼女の友人の名を叫ぶ。他にも十人ほど水底に漂っていた。中にはラドゥーとよくつるむ顔もあった。空恐ろしくなるほどに澄んだ水のなかで目を瞑ってじっとしている。生きているのかも分からない。
「リリィィーー!!」
悲痛な叫び声を上げて湖に飛び込もうとした彼女をラドゥーは留めた。
「離してっ! リリーが…皆が! 助けないと!!」
「落ち着いて下さいっ。今飛び込むのは危険です」
冷静に考えて、今その行為をするのは自殺行為だ。きっと、あの人魚達はラドゥーらに危害を加えるのになんの躊躇いもない。人間を溺れさせることなど人魚には朝飯前だろう。
それに…
「テリーちゃん。私達はここにあるものに触れてはいけないって言われているわよぉ?」
アルネイラが湖から目を離し、テリーを諭した。流石と言おうか、アルネイラは未だ冷静さを保っているようだ。ドロテアに念を押されたことも忘れていなかったらしい。
「でも…リリー達がっ」
テリーはラドゥー達の冷静さが癇に障った。再び顔を険しくして、感情に限りを捲し立てた。
ラドゥーはその様子を冷めた心持ちで眺めた。ただし、その冷えた心の先は、彼女ではなく自分に向けて。
テリーの反応は普通のものなのだろう。大した危険もない平穏な日常に生きる者は、危機に対して意識があまりないものだから。知っているつもりで分かっていない。それを、甘いと一蹴する自分がいる。
テリーが今湖に飛び込んだら状況は悪化するだけであり、冷静に理屈で判断できないのは感情で動いても許される環境で生きてきた人間だからと、軽率と眉を顰める気持ちがあった。
大事な者が目の前にいて、脇目も振らず駆け寄ろうとする様の何と美しく愚かな行為か。感情より、理性を優先するラドゥーにはとても真似できない。
それを、声にして窘める気は無い。そういう人もいる。それだけだ。羨望する気も、また微塵もないけれど。
「…ただ、自分に呆れるだけで」
誰に聞かれるともなく呟く。隣のアルネイラには聞こえたかも知れないが、どうでもいいことだった。アルネイラはおそらくラドゥーと同種だから。
とはいえ、なんとか彼らを救出しなければいけない。ドロテアに顔を向けた。彼女は一連の会話を聞いていたらしく、すぐに目があった。ラドゥーの言いたい事が分かっていたのか軽く頷いた。
「この湖に触れてはいけないわ。よく我慢したわね。偉いわ。こいつらは私が何とかするから」
小さい子供に向かって言う様に褒めて、ドロテアは皆を後ろに下がらせて、一人湖に近づいた。
「ロジェ、ロジャー」
軽く二人を呼ぶ。呼んだだけなのに、二人が微かに揺らいだ。
「この私に毛を逆立てて、お仕置きなしに済ませられるとでも思っているのかしら?」
自分に向けて言われたわけでは無いケンさんがそれを聞いて何故か顔をひきつらせた。
「ロジェ。ロジャー」
いっそ甘く優しく呼びかける彼女に、ついに二人の人魚が怯えだした。
「《平伏しなさい》」
命じる声。その声は普段の声と何ら違いはなかった。けれど、与えられる圧力は桁違いだった。問答無用で頭を押さえつけられるその声は絶対権力者のそれ。
その圧力を向けられた人魚は、バシャンッ! と大きな音を立てて、水面に叩きつけられた。
人魚がまるで飛び込み初心者みたいに腹這いになって水面にへばりついている。何とか顔を上げようともがいているが上手くいかず、かえって溺れそうになっている。
「あはっ、人魚が溺れるなんて、河童が川に流されるのと同じくらいあり得ないことね」
けらけらと心底愉快そうに笑うドロテア。見れば分かることを態々口にして晒しものにする。
一方、屈辱にまみれた人魚達はなんとか目だけを上げる事に成功し、ドロテアを射殺さんばかりに睨みあげる。その目に堪えた様子も無く、ドロテアは鼻であしらった。
「宿主に向かって刃を突きつけるなんて、消されても文句言えないのよ。誰が闇に飲みこまれていいと言ったの?」
笑みを引っ込めた彼女の冷たい、温度などまるで感じないその声音に、言われていないはずのケンさんやテリーはブルリと身体を震わせた。
「でも、今までの年月に免じて許してあげるわ。感謝なさい。ただし…」
親指を立てて、それをくいっと下に向けた。
「人魚にとって最大の恥辱を受けてからね」
人魚が水面から姿を消した。派手に水しぶきを立ててもがいている。今度が完全に溺れている。
「…人魚が…まさか」
甲高い悲鳴を上げてもがき苦しんでいる人魚達を見て、テリーが茫然と呟いた。
「人魚は水中ではえら呼吸でね、そのえらを閉じれば呼吸は出来ない。ついでに手足の自由を奪っちゃえば、水上にも出られない。溺れるしかないでしょう?」
腰に手を当てたまま当然とばかりに説明した。
ただ一言、命じて意のままにその身体を操る。先程、テリーにしたように。
「…貴女は何者なんですか?」
ラドゥーは問いかけた。ドロテアは目線だけをラドゥーに寄こす。
「“夢の旅人”ではないのですか?」
「いいえ」
ドロテアは肩を竦めた。
「“探しもの”を探す為に夢に在るのが“夢の旅人”。夢を自由に行き来するあいつらだけど、所詮ヒトだったモノ。私みたいな者からすれば、個人的な理由で夢にずかずかやってきた新参者が、原住民無視して好き勝手やっているようで気分良くないの。…いつか現実に帰るためだというけど、実際帰れる者なんて殆どいない。でも、私にとっては最初から夢こそが生きる世界。…私は魔女なの」
「魔女…」
それに反応したのは、やはりというかオカルト好きなアルネイラだった。
「魔女ってぇ…あの魔女ぉ?」
こんな現実離れをした会話にもすんなり入っていく。瞳がキラキラしていた。
「ええ、そうよ。ちちんプイプイと杖振って魔法を操っちゃうお茶目な魔女さんよん」
ドロテアは片目を瞑ってみせた。杖を振る真似さえした。
「素敵ねぇ…後でゆっくりとお話聞かせて下さいな」
うっとりと陶然とした目を魔女に向ける。テリーはアルネイラの陰に隠れて気味悪げにドロテアを伺った。
「じょ…冗談でしょ? アルネも…どうしてすんなり信じちゃうかな?」
テリーにとっては正気を疑う発言だったのだろう。警戒心が再熱したようだった。
「ここには嘘しかないし、本当しかない世界だもの」
ドロテアはテリーとしっかり目を合わせて言った。テリーはますます後ろに隠れる。
「ま、テリーちゃんとやらの反応が一番普通の反応よ。この二人がおかしいのよね。気にしないでいいわ」
揶揄する様にラドゥーとアルネイラを交互に見る。ラドゥーもアルネイラを不思議そうに見た。
「だってぇ、わたし、こういうのにとっても興味あるんだものぉ。不思議な事は疑うより、信じた方が楽しいじゃない」
心底楽しげに、うっとりとした笑顔で語る。オカルト好きもここまでくれば表彰ものだ。
「―――ドロテア!!」
和やかだった空気が突然ケンさんの叫びに吹き飛ばされた。
気の緩んだ隙をついて人魚達が反撃に出たのだ。今までのより数倍も大きな波を立たせた。まるで生き物の様にうねる水壁は曲線を描いてラドゥー達に迫る。
ケンさんがドロテアを背中に乗せ上げた。ラドゥーもアルネイラ達を反射的に脇にやった。それから自身も避けようとした。が…
「ムークット君!!」
叫んだのは、テリーだったか、アルネイラだったのか。あるいは両方だったのか。
何かがラドゥーの背中を突き飛ばした。
頭が真っ白になる浮遊感。後ろの気配が分からなかったなんてどんだけ不覚だ情けない。自身に舌打ちする間もなく、このままじゃまずい。そう思うのに、腕の痛みが頭部にまで及んだように脳が脈打って思考が定まらない。
時間の進みが遅くなり、周りの音が遮断される。
そういえば、まだエルメラとのデート、途中だったな…
湖に身体が叩きつけられる直前、何故だかそんな事を思った。腕の緑の輝きが彼女を思い出させたのだろうか。
水の衝撃を覚悟して、目を瞑った。
しかし、十秒目を瞑り続けても、自分の身に何ら変化は起きなかった。
「…?」
「やぁ、危ない所だったね」
頭上から予想だにしなかった声が降りかかり、驚いて、勢いよく振り向いた。
「“奇術師”と遊ぼうだなんて君、どんな神経しているの?」
“それ”は漆塗りの艶やかなステッキを斜に構え、シルクハットをキュッと被りなおした。
「いろいろ…事情がありましてね…」
見覚えのある人物に、とりあえずラドゥーは余裕ぶって冷静な口調でそう返してみせた。
そこには、いつぞやの“夢屋”と名付けた夢紳士がいた。
今回は少し番外編っぽく↓
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「そういえばこのぶっちゃけトークコーナーってぇ…」
「ちょっと待って下さい。ここは解説広場じゃなかったんですか?」
「だから解説広場でしょ?」
「………まあ、なんでもいいですが」
「このコーナーって一応夢っていう不確かで曖昧で一見何でもアリな世界の補足としてのコーナーじゃない?」
「そうですが?」
「お客さん呼ばないの?」
「お客さん?」
「これまでの出てきた人物とか」
「ジャックさんとかですか?」
「そう」
「構いませんが…ジャックさんしゃべってくれるでしょうか?」
「リンとかいう家政婦も一緒に連れてこればいいじゃない」
「そうですが…どうやって呼ぶんですか? こちらから出向きますか?」
「かぼちゃ頭さんから何か貰ったんだっけ?」
「ええ。ジャックさんが改良に改良を重ねた煮物にもお菓子にも最適なとっても甘いかぼちゃの生る種です。今家の庭師に栽培させてますが…」
「庭師に畑仕事させてるの?」
「ああ、はい。家の庭師は実家が農家らしくて、快く引き受けてくれましたよ」
「ふぅん…」
「で、そのかぼちゃがどうかしました?」
「それだけかぼちゃ頭さんと縁の深いかぼちゃを通してなら彼と通信できそうね」
「え! そんな事出来るんですか?」
「まあ、出来るわよ (私なら)」
「そうですか…今はまだ実る前なんですが大丈夫でしょうか?」
「んーやっぱ実の方が確実かも。熟す前ので良いから何か無い?」
「それじゃもう少しで小さく実が付きそうですので、そうしたらお願いします」
「分かったわ」