37.“姫”の約束の人
逝かないで、と懇願する少女を、もはや霞んで使い物にならなくなった目で見上げた。
頬に、ほのかに温かいものが降り注ぐ。
泣くなよ、似合わねぇと言いたかったが、口は動けど声にならなかった。腕を持ち上げて涙をぬぐう重労働など言うに及ばず。
笑顔をもう一度見たい。それさえも、もう叶わない事に彼は寂しげな笑みを浮かべた。
じゃあな、と怪我で引き攣った、けれど紛れもない笑顔で別れを告げる彼に少女は唇を噛み締める。
泣くのは嫌いだ。弱味を曝け出すことだとずっと思ってきたのだから。けれど涙は自分の意志の外。壊れた蛇口の如く止めどなく溢れて止まってくれない。
逝かないで、という言葉にも彼は寂しげに笑うだけ。膝元の命が消えていくのはもう止められない。
彼の瞳が閉じられる間際、ついに少女は禁忌を犯す。
「また…逢いましょう」
一瞬だけ、驚いたように彼の瞳が開かれた。しかしすぐにその意味を悟った顔になった。
そして、必ず、と彼の口がかたち作った。声にこそ出してはいないが、確かに彼女の言葉に応えた。
これで、彼の魂が破棄される事はない。
彼女は笑った。嬉しそうに。無意識に既に息をしていない彼の頬を愛しげになぞった。
――――さあ、旅を始めましょうか――――
眩しい…
ラドゥーは目を手で覆って光を遮った。
さっきまでオドロオドロしい暗い森にいたのが、一変して今度は明るい森にラドゥーはいた。
瞳孔がついていけず、過分に光を取り入れた眼は、ちかちかして視界が戻った後もその光景を目の当たりにするのに少し時間がかかった。
これぞ楽園って感じだ。キグとは似ても似つかない。
それが極彩色の花々が咲き乱れ、木々から熟れた果実が垂れ下がり、茂った瑞々しい葉の隙間から洩れる日の光が眩しい森を見上げた時の感想だった。
こんなさわやかな森ではあるが、あの樹海から一瞬で来てしまった事実を踏まえた上で--夢に耐性のあるラドゥーは別として--素敵な森だと言えるのはよっぽど暢気な奴か肝が据わってるかのどちらか…
「わぁ素敵ぃ」
「ファルデさん…」
アルネイラに限ってはその理論は通じない。分かっていたさ。ほんとに期待を裏切らない彼女に畏敬の念さえ抱いた。
「え…えぇと? な、何ここ…? え、何処?」
対照的に地べたにへたり込んだまま茫然と見上げるテリーを見て少し安心した。やはりラドゥーとアルネイラだけでは普通の反応というものがどういうものなのか忘れてしまう。テリーには是非とも真っ当な精神を持ち続けていてほしい。
「今って夜じゃなかった…? 何で太陽が…」
「ん? ここはお主達の世界ではないからな」
「…どういう意味ですか?」
テリーは呆けた顔でケンさんの方に首を巡らせた。
「お主らにとっても決して無関係ではないが、同時に遠い世界だ」
ラドゥーにはもはや――慣れたとは言えないが――馴染みの世界。夢だ。
「ここに皆がいるかもしれないんですよね?」
「その筈だがな。『キグの樹海』はここ『豊穣の森』と繋がっている。キグからここに入る場合はこの森を通る。ここの何処かにはいるはずだ」
キグの向こう側は砂漠だ。そして砂漠に辿り着く前に樹海と呼ぶに相応しい暗いくて深い森が立ち塞がっている。肝試しの道筋を考えると、森の本格的に深くなる地点まで距離がある。やはり何らかのきっかけで扉が開き夢の世界に迷い込んだと考えるのが自然だろう。
テリーが首を傾げていたが、夢に通じた現実世界のものは夢の扉だと納得のいくように説明している暇はない。
「じゃあ、早速行くとし」
ラドゥーはケンさんが言い終わる一瞬前に後ろを振り返った。
カ ッ コ―――――――ンッッ!!
テリーは大きな音に飛び上がって音のした方向を振り向いた。
ケンさんが頭を抱え込んで悶えていた。蹄が動揺したようにパカパカと足踏みしている。
「え、え?…どうしたんですか? 何が起こったの?」
ラドゥーは遠く離れた所に拳大の堅そうな木の実が凹んだ状態で転がっているのを見つけた。間違いなく凶器はあれだ。
「…ドロテア」
頭を上げ、呻いたケンさんは涙目だった。なんでここに、という彼の小さい呟きを、ドロテアと呼ばれた女性は聞き咎めた。
「あら、御挨拶だわね。私の夢に私が何処にいようと勝手でしょ?」
女性の外見は二十歳をいくらか過ぎたくらいで、ワインレッドの緩やかな巻き毛が女らしい色気を醸し出している。切れ長の目はともすればきつい印象を与えるものだが、双方を飾る紅玉の瞳はくるくると色彩を変え、好奇心旺盛な光を纏っていた。澄ました美女というよりは、茶目っ気のある姐さんという感じだ。
「…いや…そういうわけじゃ…しかし…」
しどろもどろなケンさんは、もごもごと何事か呟いていたが、ドロテアに一蹴された。
「で、あんた何してんのよ?」
睨まれたケンさんは言葉に詰まった。
「私の許可もなく、ここに人の子を連れてくるなんて、どんだけ無責任な事か分かる?」
「それなんだが…」
「すみません。俺達がケンさんに無理言って連れてきてもらったんです」
ラドゥーがケンさんを擁護する形で割って入った。
「何よ、今私が話してんでしょ…」
ラドゥーの方へ険しい顔のまま振り向いた彼女は、ラドゥーの顔を見た瞬間、顔を輝かせた。
「あら! 久々の美少年! 美味しそう」
「…」
「……」
「………」
「いや、その少年はだな…」
「黙らっしゃいっムサケンっ! そのもさい髭と髪をどうにかしてから私の前に立ちなさいといつも言ってんでしょっ? ねぇねぇキミ年幾つ? うっそ17? やだピッチピチィ」
ハイなドロテア姉さんは凹むケンさんを無視して、ラドゥーのほっぺをプニプニしたりすべすべしたりベタベタしたりした。
「あのですね…」
「理知的な藍色の瞳って素敵ねぇ。髪も茶色は茶色でも深みのあるダークブラウンだし。うんうん全体的に落ち着いていて上品なコね」
聞いちゃいねぇ…。しょうがないと溜息をつき、ラドゥーはドロテアの手を掴んだ。至近距離で目を離さず手の甲に口づけを落とした。
「お話を…聞いていただけますか、レディ?」
ドロテアは一瞬で堕ちた。ついでにテリーも頬を染めてもじもじした。
そんなわけで、無事に話をさせてもらえた。
かくかくしかじか…
「ふぅん…お友達がねぇ…」
「そうなのぉ。だから連れて帰りたくてぇ」
「それらしい子は見なかったけど…いないとは言えないわね。ちょっと別なのがいるっぽいし」
「別?」
「黒ぉいのがね。闇を纏う嫌ぁなのがいるっぽいのよ。……っこのっ私のっテリトリーでっ!」
するとふつふつと怒りが沸いたようだ。ドロテアの口調が荒くなった。
闇?
不愉快そうに鼻を鳴らしたドロテアをケンさんは何か気付いた様に見やった。
「だからか…ドロテア」
ドロテアはちら、とケンさんの方を見て頷いた。
「そう。私が村から出てきたのもその所為よ」
部外者のラドゥー達には要領を得ない会話だが、とにかくよろしくない状況らしいのは分かった。
「よく分かんないけど…お姉さんも皆の居場所は分かんないってこと?」
「残念だけどぉ、そういう事みたいねぇ」
「ごめんねぇ…貴女達の大事なお友達を助けてあげたいのは山々なんだけど、こっちも忙しい時なのよ」
少し寂しげに笑ったドロテアはふと瞼を伏せた。
「―――――――――」
「え? 何か言いました?」
テリーが聞き返した。
「んー? ちょっとね」
ドロテアは首を振って答えなかった。ラドゥーは目を眇めてドロテアを見つめた。
「…………」
「とにかくね、その黒い奴の所為で、その子達の居場所も分からないの。だからそいつをどうにかするまで、待っててちょうだい」
さっさとラドゥー達の元から去ろうとするドロテアの手をラドゥーは掴んだ。
「待って下さい」
一泊置いて、にっこり笑顔を作ったドロテアは振り向いた。
「…なぁに? 美少年クン。綺麗な子と手をつなげてお姉さん嬉しいけど、今は離してちょうだい」
「…その黒い気配を探す手伝いを、俺にさせてくれませんか」
声を潜めてドロテアに囁いた。
「黒い奴…というのに少し興味がありまして」
ラドゥーの脳裏に黒い大鎌が翻った。
「だめよ、人の子。危険なことに首突っ込んじゃ。ここは現じゃないんだから。生身の体じゃこの世界では私の様なモノの庇護下にいなくちゃ危険なのよ。今は招いたケンの馬鹿がいるから君はこうしてしゃんとしてられるけどね。だから、気持ちは嬉しいけど…」
「…俺が、既に誰かの庇護下にあるといったら?」
ラドゥーはケンさんに示したように腕輪を翳した。ラドゥーの腕に当然のように居座って揺れるそれを見て、ドロテアは顔色を変えた。
「それ…」
ドロテアは目を見開いた。次いで、探る様な目をラドゥーに向けた。
「…誰に、貰ったの?」
食いついた。
ラドゥーは微かに口の端を吊り上げた。
「誰だと思います?」
「そんな桁ハズレな力、そんじょそこらの“夢の旅人”じゃあり得ないわね。知り合いがいるなんて道理で冷静だと思った」
ラドゥーの表情は動かない。
「…当然“名前持ち”ね。それも、とびっきりの。…信じらんないけど“姫”レベルの」
「まあそれなりに強い方だとは思いますよ」
「“姫”には会ったことはないけど、力の程は聞き知ってるわ。誰もが知ってる最格位の“夢の旅人”。それに比肩する者なんているとは思わなかったわ」
ラドゥーは否定も肯定もしなかった。
「驚いたわね…いくら守護する魔具だといっても…離れた状態にもかかわらず、夢の“まどろみ”から完全に遮断してるなんて」
「どうやら、俺の予想は当っていたようですね」
エルメラに渡されたエメラルドグリーンの腕輪。彼女の髪を素に創られた代物。彼女がウォンバルト殿下の一件で何気なく渡してくれた物だが、過去の事例を色々挙げてみると、思い当たる節が出てきたのだ。
例えば、ラドゥーの呼びかけにすぐに応えたりだとか。
例えば、ラドゥーが彼女がいなくとも“道”で彷徨う事がないだとか。
例えば、夢の世界で正気を保っていられることだとか。
奔放な行動の裏に隠れている、ラドゥーに対する絶対的な守り。
それをエルメラは何も言わずにラドゥーに与えた。当然の様に。だがラドゥーは何も返せない。その事が少し、悔しい。
「女性に庇われるのは非常に複雑なんですが…」
微かに苦笑するラドゥーを見て、ドロテアは厳しい顔をしたまま問うた。
「生身の人間のくせに自由に動けるのは分かったけど…黒い奴ってのに心当たりでもあるのかしら?」
「無いこともないというだけですが」
「…誰?」
「ドロテアさんこそ、心当たりでもあるんじゃないですか?」
「残念ながら無いわよ。夢魔とか餓鬼あたりがちょっかい出しに来たのかもって思うくらいで…」
「“奇術師”」
「え?」
「ご存知ですか?」
「知ってるも何も……まさか君はそいつが黒い奴の正体だとでも言いたいの?」
「まあ、勘ですけど」
「そいつを知ってるの?」
「一度だけ、遭遇したんですよ」
「あんな危ないヤツ相手によく生き残れたわね」
全くだ。鎌とナイフの殺り合い。今思えばかなりの無茶をした。
「危ういところをこの腕輪をくれた方に助けていただいたんです」
「そりゃね、そんな力の持ち主だもの。滅多な事は起こらないでしょうよ」
ドロテアは肩を竦めた。
「それで、連れていってくれるんですか?」
「いいわ。…と言いたいところだけど、私も私でそいつの居場所を知ってるわけじゃないの」
「え、そうなんですか?」
自信満々に去ろうとしたから手っ取り早くその黒い奴に会えるかと思っていたのに。
「闇はね、広がるのよ」
ドロテアは上を仰いだ。
「闇は何処にでもある。どんな隙間にも入り込み、どんな形にだって変化して見せる。だから、そいつの気配も分散しちゃって、ここって特定が出来ないのよ」
なるほど、厄介だ。
「でも、その黒い正体が“奇術師”であれ、何であれ、友人の捜索の邪魔になるなら潰すまで」
「あはっ。ただの優等生じゃなさそうね、美少年クン」
ラドゥーは口元を押さえた。闇の気配が濃いと、注意していないとラドゥーの大公爵家の跡取りとしての無情な一面が覘きそうになる。ここには彼を唯の学生として知るのみのテリー達がいるのだ。気を付けなければ。それでなくとも友人の失踪にらしくなく動揺しているというのに。唯のラドゥーでいられる居場所を見失って冷静でなどいられない。もし、彼らの失踪に“奇術師”が関わっていたらただじゃおかない。
「ねえ…君。その他人の為に頑張ろうとする気持ち、忘れないでね」
ふいに呟いた彼女の顔を見た。老成した、年月を感じさせる表情に魅入った。
「…人っていうのは、愚かで、可愛いくて…私、大好きだから」
…先程のドロテアが声を潜めて呟いた言葉を、ラドゥーには届いていた。
〈――私が、消える前に…――〉
彼女は夢の住人。夢の住人は消えることがあるのは知っている。けれど、ドロテアはジャックの夢で見たような狂った夢人には見えない。意志の力が弱まっているとも思えないが。
「ドロテアよ、わたしもその不届き者を成敗する手助けをしよう」
突然ラドゥーとドロテアの間にケンさんが顔を突き出してきた。すかさずドロテアの鉄拳がケンさんに下された。
「そのもじゃ毛を整えてから顔を出しなさいっていつも言ってんでしょうが――――!!」
ア ッ パ ー
ラドゥーが見守る中、綺麗なカーブを描き、涙が虹を創り、ケンさんは50メートル先まで羽ばたいていった。
「私はムサイのが一番嫌いなのよ。いい加減学習なさいっこの馬! この鹿!」
つまり馬鹿と言いたいのか。
ドロテアは拳を腰にあてて叱り飛ばしたが、ケンさんにはきっと聞こえていないだろう。
ラドゥーの目から見るとケンさんは特別毛深いわけでもない。確かにケンタウルスなだけにつるつるとは言えないが…女性の目は厳しいらしい。
…下半身が馬の巨体を易々と吹っ飛ばせるドロテアを尊敬してしまったのは秘密だ。
「で、君を連れてくのは良いとしても、女の子達はどうするのよ? ケンの馬鹿に任せるにしても、奴は馬だからね、興奮すると前しか見えなくなるわよ。もし敵と遭遇してしまったらきっとこの子達を放って突進していっちゃうわ」
「そこが問題なんですが」
ケンさんにアルネイラ達の傍を離れられてしまったら彼女達はたちまち夢の“まどろみ”に捕えられて身動きが取れなくなるだろう。ここに“奇術師”がいる可能性がある以上、それは危険すぎる。
かといって友人達を探すことにやる気満々の彼女達が、安全な場所で大人しく留守番なんてしてくれる訳もなく。
ラドゥーが考え込んでいると、不意に闇の気配が濃くなった。
はっとしてラドゥーがあたりを見渡す。
この…気配を気配とも言えぬ、感触…
「――――――離れて!」
ドロテアを突き放してラドゥーも後方へ跳んだ。
鈍い音が、した。
「あれ? ボクの獲物がいないヨ?」
朴訥な口調、しかし纏う空気は底の見えぬ深淵の闇。悲喜の仮面を被り、あり得ない程の細身で長身、道化のような奇抜な衣装。
地に突き刺さっている黒い大鎌を自在に操る殺戮のピエロ。
「“奇術師”…」
誰かが叫ぶ声がする。しかし、ラドゥーは目の前の異端物から目を離せなかった。
“奇術師”はぐいんと顔を上げて、ラドゥーの方を、向いた。
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「解説広場、今回は“死した夢”についてですが」
「“死した夢”は専ら主のいない夢の事ね」
「夢の主が捨てたり消滅するとなる夢ですね」
「そうよ。たまに空っぽの夢を他人が貰うことによって復活する事もあるけど、稀ね」
「そうなんですか?」
「だって、他人の夢を見て何が楽しいのよ。殆どの夢なんて低俗な妄想で塗り固められたものなんだから」
「デートで色々な夢に連れて行っていただきましたが、そんな夢ではありませんでしたけど」
「…そりゃ私が選りすぐったから(ぼそっ)」
「ところで、夢は消えるとどうなるんですか?」
「そのままよ。消える。それだけ」
「何処からも、ですか?」
「そうよ。現からも、夢からも。夢の死は忘れられる事だもの」
「そうやって人は前に進んで行くんですね」
「でも、人って面白くてね。ある地点まで辿り着くと、今度は古いものを掘り起こしたりするのよ」
「…ああ、温故知新という言葉もありますし」
「そう。流行は繰り返すじゃないけど、一度は死んだ夢が復活することもある。とはいえ、全く同じものじゃないけど」
「そうなんですか?」
「そりゃそうでしょ。その夢を創るのはただ一人。同じ人間なんていやしないのよ」
「新しい形となって生まれ変わることは悪いことではないでしょう?」
「まあね。より良くなることもあるしね」
「ところでエルメラ」
「なぁに?」
「今本編では出てきてませんが、何処にいるんですか?」
「さえ、何処にいるでょう? 貴方の近くにいるかもね」