3.夢の旅人
本を借りた後、エルメラと共に店を出たラドゥーは、沈みかけた太陽を見上げ、さぁ家に帰ろうと足を踏み出しかけたが、何となく気になって、隣を歩く少女に訊いてみた。
「…俺はもう帰りますが、貴女はどうするんです?」
空から落ちてきた少女の素性など何一つ知らない。今更ながら不審な少女と僅かな時間といえど行動を共にしてしまった事実に驚く。自分はそんな不用心ではない筈なのに。エルメラは空から視線を外してこちらに向き直った。
「そうねぇ…実は、元々は探し物をしてたところだったのよね、私」
探し物をしていたのか…。とてもそうは見えなかったが。何を探せば階上から落ちてくるという結果になるのか。
どうしようかな、と呟く少女を胡乱気に思った。しかしそんなことは億尾にも出さなかった。
「すぐに見つかりそうですか?」
何を探していたのかは聞かない。一緒に探してと言われては困る。ラドゥーは空から飛び降りる趣味は無い。
「多分ね。手がかりは掴めたし…貴方のおかげでね」
ふふっと少女は笑った。どこか艶を帯びていて、ラドゥーは少し怯んだ。
「…そうですか。何かした覚えはないんですが…。ともかく良かったですね」
笑顔は、保った。
郊外の分かれ道で、ラドゥーは彼女を振り返った。
「俺はこっちの道ですが、貴女は」
「私はあっち」
彼女は二つに分かれた道のどちらでもなく、その周辺に生い茂る原っぱを指した。ラドゥーはきょとんとした。
「…え、でも、道なんか」
「道なんて創ればいいのよ。敷かれた道なんてただの線。何処にでも、色や形で区別しなくとも、ちゃんとあるんだから」
そう言って、エルメラは原っぱへと、足を踏み出した。
「……はぁ」
ラドゥーは訝しげに思ったが、少女とはどうせ今日限り。もう会うことはないだろう、と思い直し、何も言わなかった。
「それでは、お元気で」
数歩歩いたところで、背を向けた彼に、声がかかった。
「また後で会いましょう。ラドゥー・サフィア・ムークット」
弾かれたように振り返ったラドゥーの目に映ったのは、夕日に照らされ、黄金に波打つ草だけだった。
「…………はぁ」
自室で本を開いていたラドゥーは溜め息を吐いた。
折角借りた本の内容がさっぱり入ってこない。ページが一向に進まないのだ。ラドゥーは諦めて本を閉じた。
先程の事を思い返して、ラドゥーは虚空を睨んだ。
動揺を隠せないまま家路に就いたラドゥーは、心配する家人達をあしらい、さっさと自室へ引っ込んだ。夕食、入浴、就寝の支度もいつの間にか終わっていた。習慣とは便利なものだ。しかし、同じように習慣となっている読書は、いつも通りに進めることが出来なかった。
理由はただ一つ。
「どうして…俺の名前を知っていた?」
自分はラドゥーとしか名乗っていない。
ラドゥー以外には見えないらしい不思議な少女は、どうやって自分の氏名を知り得たのか。それも、普段使わないミドルネームまで。ムークット姓だけなら別に驚きはしなかった。ほんの短い間だけ行動を共にしただけではあるが、何らかの形で知る機会があったかもしれない。ところがミドルネームとなると話は別だった。まずあり得ない。なぜなら、そのミドルネームは身内の、それもごく一部の人間しか知らないのだから。
ラドゥーの街は良質の鉱物、特に宝石が豊富に採れる事で、ここが国であった時代から栄えてきた。その影響力から、王侯貴族にはミドルネームに宝石を由来とした名を付ける慣習があった。好きに付けられるわけではなく、然るべき占者にみてもらい、守護石を定め、その宝石に因んだ名を生まれると同時に祝福されし名として贈られるのだ。
ラドゥーの場合はサファイアだ。そしてサフィアと付けられた。他にもサフィールやサファルとか候補にあったのよ、というのは母の言だ。
現代においても――大分薄れたとはいえ――身分というものは依然存在している。古来、名を教えるのは懇意にしている者――友人や恋人――であり秘匿するべき名前だった。それは、陰謀渦巻く貴族社会において、私は永遠にあなたの味方です、という誓いのためであり、誠意だ。裏切らない証にミドルネームを人質として差し出すのだ。昔は魔術やら呪術やらが当たり前のように信じられていたので、ミドルネームを掴まれるという事は、それだけで命を左右されかねない事を意味していた。
さすがに今となっては、そこまでミドルネームに重きを置かれてはいないが、やはり名残として普段より名乗るのは避ける傾向にある。名乗るときは普通は名前だけ。公式の場でも、家名まで。ミドルネームはよっぽどの事がなければ明かさない。昔のような意味はなくとも、ミドルネームを持っていること自体、一種の特権階級を示すものだから。
ラドゥーは流石に件の少女を不審に思った。いや、最初から思ってはいたのだが、美少女であることと、絶対近寄ったらいけない不審者の雰囲気は感じなかったので、あえて深く考えていなかった。
しかし、そういう訳にはいかなくなった。あの少女にもう一度会って問い質さなくては。しかしどうやって? 探す手立てなんか無いのに。
「なにせ、突然消えたんだから…」
原っぱには身を隠せる場所なんか無い。ほんの数秒、目を離しただけで見えなくなるほど遠くまで移動できるわけもなし。
キツネにつままれたような気持ちで、暫くあそこで立ち竦んだ。あれだけ混乱したのは実に久しぶりだった。
そして懸念はまだあった。少女は消える寸前、意味深な台詞を言い置いていったことだ。
「『また後で会いましょう』か…」
何故だろうか。探し物をしているというエルメラは、しかし手がかりを見つけたとも言っていたのに。後は探すだけの彼女に、ラドゥーに用はない筈だ。にも関わらずまた会うと言った彼女。
「…。……。………これ以上は考えてもしようがないな」
そちらから来てくれるというのなら、問い質す気でいるラドゥーには好都合だ。彼女が訪ねてきたら、その時はその時でまた考えればいい。今日のところは諦めてもう寝てしまおう。
ラドゥーはランプに手を伸ばした。
「こんばんは」
室内に響く第三者の声。しかも聞き覚えのある声であった。はっとしてそちらを向くと、やはりというか、たった今まで考えていた少女、エルメラが、机に腰かけてこちらに笑いかけていた。
「……こん、ばんは」
自分の部屋も断りもなく侵入してきた者に対して、いつからここに!? とか、どうやって入った!? とか色々詰問する前に、まずはきちんと挨拶を返すあたりラドゥーの育ちが見える。
「ええと、突然の訪問ですね。家の者に何か言われませんでした?」
少々皮肉をこめた言葉だったが、エルメラはさらりと流す。
「玄関からお邪魔したわけじゃないから会ってないわ。どうせ、見えないし」
そうだ。少女は人の目には映らないのだった。
「…ここは三階なんですが」
窓からは入ってこれんだろう。三階の高さを飛んだとか言われたら、本格的に少女に畏怖を覚えそうだ。例え姿は見えないとしても、屋敷の敷地内に易々と入ってこられるはずはない。厳重な戸締りをしている上に、屋敷の周囲は高い壁で囲まれているのだ。
「私には物理的な障壁なんて意味ないもの」
いっそ無邪気な少女はけろっとしている。どう見ても厳重な警備(役に立たないとしても)を潜り抜けた不法侵入者に見えない。
「どこから入ってきたんですか?」
「どこだと思う?」
小首をかしげて問い返す様も可愛らしいことこの上ないが、今はそんな事に構っている余裕はない。
「質問に質問で返すのは失礼というものです」
「ふふ、それは失礼いたしました、殿下?」
「……」
今の一言で確信した。ラドゥーは目を剣呑に細める。
「…名前の事といい、やはり俺のこと知ってるんですね。今日会ったことも仕組んだことだったんですか?」
対立している派閥共の間者か、本家に取って代わろうとする分家の一つかもしれないと警戒心を呼び起こす。
「いいえ、出会ったことは本当に偶然。…でも、それだけに、運命を感じたわ」
ラドゥーの威嚇もどこ吹く風だった。どころか、清楚な雰囲気から一変、どこかうっとりとした少女は妖艶でさえあった。
「言っている意味が分かりかねます。貴女は誰です? 何が目的なんですか」
返答次第では人を呼ぶ心づもりで身構える。
「そんなに構えないでよ。捕って食いやしないわよ」
さっきから問いをはぐらかされて具体的な事が何も分からない。いい加減、不安から苛立ちに変わってきた。
「…何者かと訊いている」
普通の人間なら竦む威圧を前に、それでもエルメラは怯まない。寧ろ笑みを深くした。
「焦らないでよ。ふふ、私の正体? ええ、教えてあげるわ。私は…―――
――夢の旅人」
その一言はラドゥーの、滅多に揺らがない表情を変えるのに十分な威力をもっていた。
「何だって…」
“夢の旅人”とはこの街のみならず、この世界の誰もが知る存在である。だがそれはみな伝説上のものだ。言い伝えでは、現世から離れることを拒んだ人がなるといわれており、かつ盲執に囚われた霊とも違うという。妖精や精霊、妖怪などからも画される神秘の化身で、絵画やお伽噺の題材として多く取り上げられている。また、時に夢の中に人を引き込むといわれ、その手の話も枚挙にいとまがない。その“夢の旅人”だと、少女は言うのだ。
けれど、冗談だと一笑に付すなどできない何かがこの少女にはあった。黙るラドゥーにエルメラと名付けられた名もない少女は続ける。
「それと、どこから来たのかって?私は“道”を通ってきたのよ」
「…“道”?」
「夢と夢、夢と現を繋ぐ糸。切れることのない確かな絆」
まるで詩を朗読するように朗々と語る。
「そう、夕刻に言ったわね。道など何処にでもあると」
「何処に」
「夢に属するなら何処にでも」
答えを貰っているのに余計混乱するのはなぜだ。
「…つまり貴女はどこから来たんです?」
「そこの本棚の本から」
エルメラは机の横の本棚を指した。
「本や思い出の品、骨董類、その他人の思いの込められた夢の眷属。例えば、この玻璃のオルゴールとかも」
机に置かれた精巧な天使のオルゴールをそっと撫でる。
「そんなこと…」
「そういえば、何の用で来たのか、まだ答えてなかったわね」
オルゴールから目を離し、真っすぐな眼差しが、ラドゥーを射た。
「私には、昼間探してたのとは別の探し物があるの。私が見える人を探してたの。だから、いらっしゃい」
ラドゥーは何処へとは訊かなかった。訊く気もなかった。その目に魅入られたようにラドゥーの身体は動けない。
少女は滑るようにこちらへ手を差し伸べてきた。何処に行くのか、何故か漠然と理解した。少女の言う意味を解かったわけじゃない。少女の言葉に納得したわけじゃない。ただ、ああそうなのかと思っただけだ。その感覚はまるで…
「夢、だ」
ラドゥーの中にはその手を取ること以外の選択肢はなかった。
そして迷いなく手を取った瞬間視界が暗転する。
目の前には真っ暗な深淵の闇が広がった。まとわりつくようなその闇は、何故か不思議と怖くはなかった。少女に導かれるままに先へ進む。
その先にあった、淡く光る重厚な造りの扉が、ラドゥー達を待っていたかのようにゆっくりと開いた。
そして二人はその扉に吸い込まれるように入って行った。
“夢の旅人”は“ドリーム・ウォーカー”と読みます。