32.失われた物語とデートプラン
「泣いているの?」
「泣いてなどないわ」
「涙の有無を聞いてるわけじゃないよ」
「…」
「で、君は泣いているの?」
「…と、いう訳で、こんな計画を立ててみました」
緑玉の髪の少女は、手に持つ冊子をラドゥーへと丁寧に両手で差し出してきた。
「何ですそれ?」
久しぶりに顔を出したと思ったら、いきなり紙束を賞状みたいに差し出されても困る。何が“と、いう訳”なのか是非とも説明が欲しいものだ。
「もう、ラゥの忘れんぼさん。こないだデートプラン考えとくわって言ったじゃない」
えらく上機嫌なエルメラはラドゥーのおでこを軽く突いた。
「…本気だったんですか」
ラドゥーは呆れの溜息を吐き、屋敷の図書室にいきなり現れた少女を見る。エルメラは青いグラデーションのワンピースにクリーム色のカーディガンといういつもの恰好だ。そして相変わらず美しい。デートを期待してやまない花の様な笑みの為にその美麗さは割増していた。ここまで嬉しそうにされると断りづらい。
仕方なく紙面を捲ったラドゥーの眉間に皺が寄った。
「……何だコレ?」
「だから、デートプ」
「知ってます。聞きたいのはその内容です。何ですか、この一日目って」
手渡された冊子。もはや書類の域に達している。軽くパラパラと捲って中身を確認する。最後の頁の小見出し枠には、三十一日目とあった。
「…………どうしてたかがデートに丸々一月かけるんですか」
その内容たるや凄い細かさだった。分刻みのスケジュールである。何処に連れていくつもりなのか、ラドゥーには見た事も聞いた事も無い場所が計画の中に組み込まれていた(というかそれしか無かった)。
「これでも減らしたわよ?最初は三年計画だったもの」
夢の住人の時間間隔を舐めていた。新婚旅行だってそんなにかからない。三年を一月に縮めたせいでこんな過酷なスケジュールになったらしい。
「…暫く顔を出さないなと思っていたら、コレ作ってたんですね…」
一月かけてのデートの計画を。練りに練っていたのだろうというのは想像に難くない。
「頑張って詰めてたら思いの他時間かかっちゃって。気付いたら168時間くらい経ってたわ。それと、つぎはぎを繕…」
「え? 何です?」
「ううん、何でもない。うん。そんなことよりも貴方がそんなに私の事を気にかけてくれてたなんて…エルメラ嬉しいっ」
「勝手に俺の思いを捏造しないでいただけますか」
頬に両手を当ててはにかむ様はとても可憐ではあるが、中身は明後日の方向なのは、ここ最近の付き合いでとっくに悟っている。好きにさせておくと調子に乗るので、適度に冷たい態度をとる。
「申し訳無いんですが、俺にも学校という都合がありまして。学生という身分に試験が付きものなんですよ」
「大丈夫。邪魔しないから」
「…こないだ長く休んでしまいましたから、そうそう行方不明になれませんよ」
「大丈夫。夏休みを利用して行けばいいじゃない。それに、毎日帰すし。二月ある夏休みなら楽勝よね」
ラドゥーの予定をしっかり把握してやがる。
「……しかし夏休みにも課題が」
「……に」
「え?」
何事かをぼそりと呟かれてラドゥーは聞き返した。
「突然口づけしてきたくせに。乙女の唇を弄んどいて詫びの一つも無いなんて…この外道!」
「…人聞き悪い事言わないでください」
しかし口付け云々は本当なので何も言えない。さめざめと泣く(真似)をしていたエルメラはちらりとラドゥーを見上げた。
「…それ、付き合ってくれたらチャラにしてあげる」
どうあってもラドゥーに拒否権は無い。
「……分かりましたよ。喜んで御供させていただきます」
途端、満面笑顔に戻られラドゥーは、諦めの溜息を一つ吐いた。まあ、そう悪い気分でもないが。
「それはそうと、何調べてるの?」
エルメラはラドゥーが手にしている本を覗き込んだ。
「童話ですよ。俺の国でよく読まれる小さい子向けの」
「ふぅん…『いじわるおばあさん』ね」
パラパラと捲って最後を見ていくと、ある頁のところでエルメラは目をぱちぱちさせた。
「続きが無いわ」
「そうなんです。こっちの本はこないだ連れて行った『本の虫屋』の蔵書なんですが、家にも同じ本があるので、それも調べてみたのですが…」
ラドゥーは同じ装丁の本を捲り、最後を見せる。
「これも…」
「おかしいと思いませんか? この物語は結構古いお話で、俺も幼少の頃は寝物語によく聞いたものです。なのに、結末は思い出せない。この、ちょうど途切れたあたりからぱったりと」
ただ昔のことだから忘れてしまった訳ではないと思う。ラドゥーは一度読んだ話の概要は滅多なことでは忘れない。なのにこの物語の続きは、頭の中を絵具で白く塗りつぶしたように、その個所だけ真っ白なのだ。
だから気になって、休日を利用して自宅の図書室に籠っているのだ。
「小さい頃聞いた時はちゃんと最後まで聞いたの?」
ラドゥーはしばし考える。
「普通は最後まで語り聞かせるものでしょう。……でも、そうじゃなかったかも。子供はさっさと寝てしまいますからね。それさえも曖昧なんです」
子供が最後の結末を知らずしてそれを我慢できるだろうか? ラドゥーの様に本の好きな子供なら尚更。知らないままだったらまた次の日にねだるはずだ。なのに親にねだった覚えはない。
やはり、ラドゥーが忘れてしまったのだと思う他無かった。
なんて事だ。この自分がものを忘れるなんて。
「もしくは……」
「おや、ラゥ。こんな所でどうしたんだい?」
エルメラが言葉が声に遮られた。
ラドゥーが振り返ると、温かい茶髪に夜空の様な藍色の瞳。ラドゥーと同じ色合いを持つ者が入り口で立っていた。ただし、その人物はラドゥーより幾分年を経ている。
「父様…」
ラドゥーはぎくりとした。ここにはエルメラが…。
「ここにいるなんて珍しいね。目ぼしいのは全部読んだからって言って、滅多に来ないのに」
ラドゥーの瞳より数段優しげなそれが向けられる。自分のみに。そして思いだす。エルメラは人には見えないんだった。
「父様こそ、珍しく読書ですか?」
父は読書より土いじりが好きな人間だ。よく庭師と交じって作業する姿を目にする。
「いや? 義父さんの手伝いでね。資料を取りに来たんだ」
ラドゥーに近づいてくる。エルメラがラドゥーの背後にまわった。エルメラの姿は見えない筈だ。けれど、見える人の傍では見えない人にも触れられるというややこしい性質がある。万が一触れ合ってしまったらいかな鈍くておおらかな父でも不思議に思うだろう。
「おや、懐かしいね。『いじわるおばあさん』かぁ」
父、ダンがラドゥーの手にある本を覗きこんだ。
「昔はよく読み聞かせしてもらいましたね。母様はよく自分が読むと言って聞かなくて…」
ラドゥーは父に読み聞かせしてもらった。それを見て、真似をしたがった母が読み聞かせをしようとしたのだが、子供を寝かしつける前に自分が寝てしまう始末。結果、ラドゥーは必然的に父に読み聞かせてもらうことになったのだ。
「ははっ、そう言えばそうだね。ルミネはいつも話が終わる前に寝てしまって、ラゥはいつも不満そうにしていたっけ」
懐かしい話だ。それからラドゥーは成長し、弟や妹が産まれてからは、読み聞かせられる立場から、読み聞かせる立場に変わった。
「父様、この話の最後ってどうなるんでした?」
差し出された本を受け取り、ダンはパラパラと捲った。
「いやぁ昔の話だし、よく覚えてないな…おや、最後が抜けてる」
「そうなんです。ついつい懐かしくて手に取ってみたんですが」
「うぅん…力になれなくて申し訳ないけど、僕も最後は思い出せないな。諳んじるほど読んだのに。僕ももう歳なのかな…。もう古びてるし、この落丁の本、処分しとこうか?」
その言葉にラゥは慌てた。
「あ、いえいいです。捨てるつもりはないです」
「そうかい? まあ思い出の品だし、すぐ捨ててしまうのは忍びないよね」
言ってみただけらしい。ぽんと本を返すと、ダンは向かいの棚に向き直った。何やら探しているようだ。
「どんな資料を探してるんですか」
「ん、ああ、何やら鉱山の採掘関係なんだけど。過去の採掘報告書が欲しいんだって」
グリューノスの特産物は良質な宝石や鉱石だ。恐らく、現在鉱山の一つの管理を任されている者に不正の疑いが上がっているので、その関係だろう。
「…それはここの棚ではありませんよ。あっちです」
ラドゥーは奥にある鍵付きの本棚を指した。
「ああ。そうなのか。あまりここに詳しくないものだから」
「それでもここに無いのは分かりそうなものですが…」
ラドゥー達のいる列は童話や小説の分類棚である。お伽噺と政務関連の資料が肩を並べている訳がない。
「その手に持ってる鍵は何のためだと思ってるんですかねぇ…」
そもそもそういう雑用は下の者の仕事だ。父が「いいよ、僕が行くよ〜」とか言って鍵をその者から鍵を貰ってきたに違いない。
いいさ、それでこそ俺の父だ。
「何か言ったかい?」
「いいえ。お仕事お疲れ様です」
笑みをつくり、父に代わって鍵を開けて必要なものを探す。
「えぇと……あ、これかな」
父が手に取ろうとすると、周辺の資料まで一緒についてきた。
その瞬間、バサバサッとダンとラドゥーの頭上に大量の資料が降ってきた。最後のおまけと言わんばかりに、一冊の本の角がダンの脳天に直撃した。
「………」
「あたた…。いやぁ、驚いた驚いた」
痛そうに頭を擦りながらも、へにゃっと笑うダンにラドゥーは毒気が抜かれた。
「そうですね」
きっちりと収まっているものを、無理に取り出そうとしたら、隣も連座でついてくるという当たり前の結果に思い至らないのが父だ。言っても無駄だ。
「ありがとね。それじゃあね」
ダンはにこにことそのまま図書室を出て行った。
「面白い人を父に持ってんのね」
扉が閉じられると同時にエルメラが呟いた。ラドゥーは鍵穴に刺さりっぱなしの鍵を引き抜いた。これもまた、予想通りの結果である、…後で返しに行こう。
「抜けて…いえ、ほのぼのしてる人でしょう? もともと庶民出の婿養子なんで、跡継ぎとしては認められてませんが、それでも内政に深く関わってる人です」
あんなにとぼけた人でもグリューノスの中枢に関わる人物だ。今でこそ本家の姫である母の夫として周りに認められてはいるが、父は貴族ではない。そのハンデはいつまでも付き纏う。つまりそれを補えるだけの実力があるということだ。
当時の親族の反対を押し切って結婚したという件の話は、惚気付きで母にお伽噺と同じくらい頻繁に聞かされた。
素性の知れない流れ者だった父に、母のルミネの方が一目惚れをして、どうしても彼以外と結婚するのは嫌だとゴネて、押しまくって、我が儘を言い張ってようやく父を口説き落とし、周囲にも諦めさせたそうだ。じい様は何故か特に反対しなかったらしい。必ず男子を産むという条件を付けたのみで、親族の反対を跳ねのけた。母は愛の力とか言っているが、結婚にこぎつけられたのはじい様の助力あってこそだ。
グリューノスは比較的身分違いには寛容で、庶民は庶民でも豪商とか学者や官僚を輩出している様な良家ならそこまで親族も反対しなかったろうが、放浪者だった父を認めるにはグリューノスは格式がありすぎた。だからそのしわ寄せがラドゥーにも及んでいる。
「いえ、そういう意味じゃなくて…まあいいわ。どうでもいいことだし」
エルメラは口を噤み、ラドゥーは注意を本に戻す。
「皆、この話の最後はうろ覚えなんですね…」
聞く人聞く人全てが消えた部分から覚えていないという。屋敷の使用人やクラスメイトにも聞いたが結果は父と同様だった。
「じゃあ、今度のデートついでに夢の世界で探ってみる?」
「え?」
「物語は夢の眷属だもの。消えちゃった手がかりが何かあるかもしれない」
「物語は夢に通じているんでしたか」
「そう。特に、長い年月を経て語り継がれた物語は、それだけ夢の世界に染まっているから、見つけやすいと思うし」
エルメラは意味深な笑みを浮かべた。
〈―――昔々、あるところに、とても意地悪なおばあさんがいました。
そのおばあさんは人里離れた寂しいところに住んでいました。
けれど豊かな森、日当たりのいい草原、底が見えるくらい澄んだ湖のあるとても広い土地をおばあさんは持っていました。
ある時、おばあさんの住んでいる近くに数人の人が移り住んできました。
彼らは自分達が住んでいた国を戦争によって失くしてしまってここに流れてきた人達でした。
ある時、人々は食べ物を求めて森に実る木の実や果物を求めました。
おばあさんに山に入らせてくれるよう頼みました。
おばあさんは言います。
「だめだめ。この森の物は何一つ口に入れてはいけないよ」
仕方なく、人々は自分達の住む村の小さな土地を耕して畑を作る事にしました。
ある時、村の人口が増え、人々は耕す畑が足りなくなり、別の土地が必要になりました。
おばあさんに日当たりのいい草原を貸してくれるよう頼みました。
おばあさんは言います。
「だめだめ。この草原に何人も近づくのは許さないよ」
仕方なく、知恵を絞って一つの苗に沢山の実がなるように改良する事にしました。
ある時、全く雨が降らないため、植物が枯れそうになり、人々は水が必要になりました。
おばあさんに湖の水を畑まで引かせてもらうよう頼みました。
おばあさんは言います。
「だめだめ。この水を使う事は許さないよ」
とうとう人々は怒りました。水ばかりは代用が利かなかったからです。
人々はおばあさんを殺しました。
そして、人々はおばあさんの土地の豊かな森、日当たりのいい草原、底が見えるくらい澄んだ湖を手に入れました。
皆はとても喜びました。
―――――――……………〉
「おにいさま」
ラドゥーがそれ以上読もうとしないのを焦れた妹が大きなくりくりの目を向けてせっついた。
「どうしたの? 続きを早く読んで」
ラドゥーは苦笑して本を閉じた。
「あ、ああ、ごめんツェリ。今日はここまでにしよう」
「えぇ、続きが気になって眠れないわ」
ラドゥーはツェリの前髪を上げて額に軽くキスを落とした。
「続きを想像するのも楽しいものだよ。もうお眠り」
「また明日も読んでね」
「……さて、それはちょっと分からないな」
「そんなっひどいいじわるです、おにいさま」
「そう言わないで。お休みツェリ」
頬を膨らました小さな妹に優しい笑みを浮かべた。ツェツィーリエは顔を背けながらも返事をした。
「おやすみなさい」
妹の部屋から出て手にした本を捲る。
「…妹の為にもさっさとこの続きを見つけに行きますか」
ラドゥーは緑色に輝く腕輪を口元に寄せ小さく呟いた。
「…エルメラ。聞こえますか?」