30,5間章〜ある時、あるところに、ある世界で〜
―――広がる世界に焦がれた、ある少年のお話。
その国は、妖精がごく普通に存在している国だった。
その世界にとって妖精はごくごく当たり前の隣人で、また、奔放な彼らがたまに起こす問題の為に妖精博士の存在が不可欠だった。何故なら妖精が当たり前にいたとしても全ての者が妖精と意思疎通が出来る訳でないからだ。
国の全人口の内、半分は妖精の姿さえ見る事が出来す、そのさらに半分は妖精の声が聞こえず、そのまたさらに半分は妖精と対話が出来ない。そうして残った一部の姿が見えて、声も聞けて、対話も出来得る存在をさらに篩いにかけ、残った一部が妖精博士を名乗れる。
その選び抜かれた中にあってより優れた者が王室顧問の妖精博士として抜擢され、国中の妖精博士の頂点に立つ。
よく晴れたある日、数年前に王室顧問の妖精博士に任命されたばかりの彼は、王城のすぐ近くに立てられた豪奢な屋敷の一室で、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
妖精博士は妖精により近い存在の為か、人間から見れば奇行とも言える言動をとったりするが、彼の場合、凍える真冬の夜に夜着一枚で庭の大木の下で寝たり、魚の住まぬ池で三日三晩釣り糸を垂らしたりと、その奇行は甚だしい。敬われてはいるが、それ以上にあまり関わり合いたくない変人として周りに認識されていた。
そんな彼の屋敷には唯一の家政婦を除き、誰一人家人はいなかった。彼には血縁者もいないので、文字通り、天涯孤独。その家政婦と二人暮らしをしていた。
二人で住むには広すぎる屋敷だが、別に彼は気にしていない。家政婦も新しい使用人を雇えなどと小言も言わず、日々精力的に働いていた。
彼が窓を眺めてから大分経ち、太陽が山の向こうに隠れようとする時刻、床からガコンという音がした。
「あらあら、こんなとこにいらっしゃったのですか。お昼も食べにいらっしゃらないので探してたんですよ」
部屋の唯一の出入り口である床の戸が開けられ、そこから唯一の家人の家政婦が這い出てきた。
彼らがいるそこは屋根裏部屋である。ただの屋根裏ではない。隠し扉(鍵付き)を見つけて、さらに暗号を解き、数ある罠を潜り抜けていかないと辿りつけない、無駄に危険な隠し部屋だった。
さらにいうなら、今の時刻は昼食どころか既に夕食の時刻である。家政婦は午後いっぱい冒険に費やしていたことになる。
「やあ、それはすまなかったねっ。すっかり夢中になってしまったようだ」
彼は明るい笑顔で謝った。絶対申し訳ないなどと微塵も思っていない満面笑顔。けれど、家政婦は呆れも怒りもしなかった。
「あらあら、それは充実した一日をお過ごしになられたのですね。良いことです。そうそう、今日はお天気もよかったのでお布団干しときましたからね」
「素晴らしい! 今夜は素敵な夢が見られそうだよっ。流石は一流の家政婦だね」
二人の会話はいつも通りだ。
「でも、ずっとお外を眺めてらしたのですか? 何か面白いものでも?」
「まさか。人間が勝手に飾り立てた庭なんて見てもどうしようもないじゃないか」
国一の庭師が丹精込めて造り上げた庭をしてそう言い放つ。
「この屋敷の、そのさらに向こうを見ていたんだ」
その顔は変わらずの笑顔。けれど、何処か遠いところに思いを馳せているような顔だった。
「街を、ですか?」
「いや」
「では、この国を?」
「いや」
「では…この世界を?」
「いいや。…この世界の、いや、この次元の、外を」
家政婦は黙った。首を傾げて彼の言わんとしている事を察っしようと考える。
彼は彼女に構わず懐かしむ様に目を閉じた。
―――ある降りしきる雨の中、共に降る血潮が作る水溜りの中に自分はいた。
〈―――君は死神かい? 僕を迎えに来たのかな?〉
〈…あんたの命なんかに興味なんか無いけど〉
そして出会った。彼女に―――。
「――……実はね、僕は以前、素晴らしいことを教えてもらったのだよ」
開かれた目に映るは何処までも純粋な好奇心。その心は真っ直ぐに興味の方角へ。妖精と接している時の目だ。
「この世界の外は真っ暗な闇が広がっていて、その道中、そこかしこにシャボン玉のような綺麗で脆い夢が沢山散らばっているらしい。そしてその先には別の世界が―――」
〈―――あんた、私が見えるのね。珍しい人間〉
〈―――人ならざるモノを見るのは得意でね。寧ろそういう存在こそが僕の良き友人さ〉
彼の目は家政婦など映していない。興奮に大きく見開かれた目に宿る光は、無邪気な子供の様でいて、狂人の様でいて、賢者の様でもあった。
「僕は今まで、この世界が自分の世界の全てだと思っていた。でもそうじゃないことを知った。あらゆる歓喜が、恐怖が、願いが、狂気が、弛まぬ好奇心が、尽きぬ絶望が。その全てがそこにある。全てを承知した者のみに開かれる、夢への扉。僕はそこにずっと憧れを持っていた。もはやこの世界は僕には狭すぎるんだ」
〈―――この死体の山の原因はそのお友達がやったの?〉
〈…そうだね。この人達は僕を殺そうとしてきたから〉
家政婦は黙って耳を傾けていた。彼女は知っている。彼の奇行には全て意味があることを。
寒い星夜に寂しがり屋の、老木に宿る妖精に添い寝してやったり、誰も遊びに来てくれなくて、へそを曲げた水棲妖精の為に、池に釣り糸を垂らし、居もしない魚釣りをしながらおしゃべりの相手をしてやったりしているのをその隣で見てきたのだから。
何時まで経っても子供の様な彼。彼自身がまるで妖精のよう。
…いつ、そんなことを教えた者と出会ったというのだろうか。護衛兼世話係を兼ねる彼女は、常に彼の側にいたのに。彼は常に命を狙われる身だ。この国を狙う近隣諸国に、王室顧問の座を狙う同業者に、身勝手な依頼を断られて逆恨みした者達に。
護衛というのは建前で、彼女の任務の真の目的は彼の見張りだった。妖精に守られたこの国を守るために、妖精と交渉し動かせる妖精博士を他国へと流さないように見張っているのだ。彼も気付いている。ここは豪奢な牢屋であることを。
だから、本来の彼女の任務を思えば、今の発言は、彼を戒めて警告すると共に上に報告する必要のある言葉だった。しかし、家政婦にはそのつもりなどなかった。
「この世界の外にも妖精はいるんだって。この世界にいる妖精も、ここにはいない妖精も沢山! 僕はいつかその世界へ行きたい」
〈…僕は殊更妖精に好かれる性質らしくてね。頼まずともこうして僕を守ろうとしてくれる〉
〈いいんじゃない? 誰かの命を狙うなら自分の命も賭けるのは当たり前でしょう? あんたはそれに勝っただけの話。こいつらの死は当然の報いであんたに非は無いわ。だからそんなシケた面私に見せるんじゃないわよ。鬱陶しい〉
一通りしゃべり尽くして満足した彼に、家政婦は朗らかに微笑んだ。
「あらまあ、それはとても楽しそうな話ですね。それはどなたに聞かれたのです?」
いつ、誰に、教えられたというのか。そんな夢の様な話を。
「美しい女だったよ」
〈―――…そう、思っていいのかな?〉
彼は再び窓の外を見上げた。既に日も山の向こうに姿を消し、一等星が藍色の中で瞬いている。
「他の誰が話しても眉つばと断じてしまいそうな話をされても、それでも信じてしまいそうなくらい…そっけなくて、冷めた目をしていた、それはそれは美しい、星の様な少女だったよ」
〈好かれすぎて周りに害が及んだとして、それによって村八分にされたって、それはあんたを受け入れる度胸のない器の小さい人間達のせいで、あんたの責任じゃないでしょうが〉
彼の瞳は彼女を映しているのだろうか。何もない空を崇めるように見上げていた。
「もう一度…願わくば、もう一度だけ彼女に会えないものか…―――宝石の様に綺麗な緑色の髪と瞳を持つ神秘の少女に」
家政婦はうわ言の様に呟く彼を暫く黙って見守った。こうして近くにいるのに彼の顔が暗くて見づらくなったころ、妖精に好かれすぎて人に交じれない彼に漸く話しかけた。
「…いつか、会いに行きましょうか」
彼は振り返る。笑顔でない顔は久々だ。彼はいつも笑っていたから。…どんな時でも。
「あれ、…信じるのかい?」
家政婦は微笑む。
「貴方は嘘など仰いませんでしょう?」
否、言えない。彼はより妖精側にいる妖精博士なのだから。言霊に、より縛られる者。だから、人の世では生きづらいのかもしれない。
「…君もついてきてくれるのかい?」
意外そうな声に、朗らかな声が応えた。
「ええ、何処までも」
何処までも、ついていきましょう。夢の果てまでも。
彼女はとうに彼に忠誠を誓っているのだから。
――これは、ある時、あるところに、ある世界で生きていた、ある妖精博士と、ある家政婦が夢の世界の住人になる前のお話――