30.手土産を片手に
「なあ、君は鯛焼きを何処から食べる派?」
それが、この夢の創造主との出会いだった。
ジャックがまだとある現実世界にいて、日課になっていた縄張りの森で迷っていた旅人を、出口に導いてやった後のこと。
「ジャック・オ・ランタン、…って、迷っている人を見つけたら余計に彷徨わせるんじゃなかったのかい?」
一人歩いていたジャックの背後で突然声をかけられた。
ジャックは飛び上がった。久しぶりに誰かに声をかけられた。いや、待て。きっと気のせいだ。妖精は普通の人間には見えない。自分に話しかけられる訳がないのだか…
「…。……」
しかし、どうしても気になって恐る恐る振り返る。気分はホラー映画の主人公。結局、一度も観に行くことなく死んでしまったけれど。
「何をそんなにビビっているのかな? むしろ君が怖がられる側だろう? 普通の人間に妖精と幽霊の区別なんてつかないし」
気のせいであってくれという願いも虚しく、背後の顔と目が合ってしまい、ジャックは飛び上がった。
「……っ……っ」
ジャックは元々無口だが、この時は驚愕に口が開かなかった。妖精でも息が詰まるのだと初めて知った。
「博士、あらまぁそんなに近づかないであげなさいまし。驚かれていらっしゃるではありませんか」
さらにその後ろ、朗らかな声とともにふくよかな女がゆっくりと近づいてきた。ジャックの状況判断が追いつかない。
…こいつらは何処の誰で、どうして妖精が見えるのか。
「博士、ほらほら、人に会ったらまずは自己紹介ですよ」
一見どこにでもいるような年嵩の女。服装も、街に行けばごまんと溢れているようなありきたりな格好で……夜の森を歩いているのだ。迷いの森では、普通であることは異常なのだ。そしてその女も、ジャックが見えている前提で、会話を交わしている。
「やあやあ、それはすまなかったね。慣れていないものだからさ。でも、名乗ろうにも自分の名前は捨ててしまったんだ。しょうがないから“妖精博士”と呼ぶがいいよ!」
「“妖精博士”…」
エルメラがその名に反応した。
「知ってるんですか?」
今は、灰色空間から帰って来て、一先ず落ち着こうと家の中でお茶をいただいているところだった。かぼ茶(リン開発)が美味しい。
「“名前持ち”の“夢の旅人”の一人よ。比較的新しい名前だけど、度々名を聞くわ」
エルメラはやっと得心がいった。格の高い妖精のジャックを以てしても、網羅できない程の巨大な夢。その創造主とは何者なのか、ずっと気にかかっていた。
「あれでしょ? いつもどう見ても観光客にしか見えないって言われてるヤツでしょ?」
ジャックは深く頷いた。
「……誰だ?」
ジャックは当然警戒した。
「今名乗ったじゃないか」
「……それは職業名であって人名ではない」
“妖精博士”なる存在はジャックも知っている。昔は時折妖精博士が森に顔を出していたものである。しかし、時代を経て、すっかり廃れてしまった。
「そうとも! この名は僕の職業にして『称号名』だからね!」
目の前の男は年齢層がよく分からない容貌だった。二十代にも、四十代にも見える。はたまた十代であると言われても、それはそれで納得できるだろう。明らかに染められた茶髪に、くりくりの丸い目。黄色い瞳の色が酷く印象的な中肉中背の男。身体に特徴らしきものは瞳の色以外になかった。すれ違っても気付かずそのまま通り過ぎてしまうような男だ。だが、それを打ち消すのが彼の纏う衣装だった。黄色のTシャツに青い短パンという目立つ格好。深い森だというのに何とも身軽な恰好である。首には望遠鏡がかかっており、片手には何故か食べかけの菓子。
一体何処の観光客が迷い込んできたのかと…。
ジャックの沈黙をどう解釈したのか、不審な男は自慢げにTシャツを摘まんだ。
「これかい? ナイスなTシャツだろ? 土産物屋で売ってたんだ!」
聞いてない。だが、つられて見ると『おいでませ、古都、京都へ♪』というプリントが。
「何て読むんだ…?」
ジャックは当時、読めなかった。彼の世界の文字ではなかったから。
「ここに来る前に立ち寄った世界の国の文字ですから、読めなくて当然かと」
朗らかな声音にこの時は内容を聞き流してしまった。生八つ橋おいしかったよ! という声も聞いていなかった。
「…で、何の用だ?」
「夜、この樹海で迷うと、何故かご丁寧に出口まで連れてってくれる火の玉妖怪が出ることがあるって噂を聞いたんだ。そんな親切な妖怪がいるなら是非会ってみたくてね。それ、君だろ?」
妖怪ではなく、妖精だ。あんなげへげへ笑うしか能のない奴らと一緒にされるのは不愉快だ。
「…………帰れ」
この森は磁場が不安定なのか人間の曖昧な方向感覚など当てにならない。目の前の男女が何者だか知らないが、人間なのは変わりない。わざわざこんな所までやってくる気違いだが、嫌な目に遭ってもらっては目覚めが悪い。なぜなら…
「己が最期の地に留まり、迷いし者を森から安全に出すのは、ここにいる本物の怪物から守るため。そうだろう?」
背を向けたジャックの足が止まった。
「君自身がそれに食われちゃって、こんな暗い森で妖精になってしまったのに、理不尽な恨みを募らせることもせず、自分の二の舞にならないよう守ってるなんて君、なんて優しいんだろう。僕ぁ感動したよ」
「…………」
「何故分かるのか、かい? かぼちゃの被り物をしていても、優しげな雰囲気までは隠せないさ。そもそも僕に分からないことなんてないしねっ」
「………………」
胡散臭さが倍増した。彼らから一歩下がったジャックに気付いた女がすかさず援護した。
「大丈夫ですよ、正気ですから。博士はいつだって本気です」
余計に性質が悪い。
「それと、貴方が迷子を守る必要もなくなりました。先程私共が片づけてきましたから」
夕飯の献立を問うかのような軽やかさで言われ、一瞬何の事か理解できなかったが、背筋が冷えた。
「………バジリスク、を…?」
茫然と呟く。俄かには信じ難かった。
「そうだね! 世界中と比較しても指折りの化け物だ。こんなとこにいたなんて僕も驚いたよ」
「元の棲み処から“道”を渡って、ここに腰を落ち着けたのでしょうね」
「…嘘だ。あれは…見る者全てを石に変え、牙に猛毒を持つ獰猛な…」
「ええ、承知しております。でも私達も人間ではなく、死ぬことはありませんから、なんら問題はありません」
朗らかな女の声。しかしその内容は朗らかとは程遠い。その女から無造作に放り投げられたどす黒くくすんだ赤い塊に身が竦んだ。石になってなお忌まわしい気配を纏うそれ。女が無造作に持っていたのを信じられない思いで彼女を見つめた。
「……何者だ?」
核の瘴気を封じ込めるときつく握りしめた。警戒の念が持ちあがる。
「さっきも言ったじゃないか。あ、そうか、リンの紹介を待っていたんだね、それは失礼した! 彼女はリン。“家付き妖精”だからリンというんだ」
「それ、博士が勝手に付けた『仮名』ですけどね」
「『仮名』? なんのことだ…」
「まあ、何はともあれよかったじゃないか! この森から解放されるのだよ、君は」
確かにバジリスクがこの森からいなくなったのなら、ジャックがバジリスクの牙から村人や旅人を守る必要はなくる。ここはもともと迷いやすい森ではあるが、さほど危険な獣が生息しているわけでもない。気の実も豊富だ。ジャックがどうこうしなくとも何とかなる。しかし…
「……それが何だ」
それが彼らと何の関係があるというのだろうか。ここは生前暮らしていた森。妖精となっても故郷は特別な意味を持つ。
「夢の世界に興味ありませんか?」
夢? 今更な話だ。人としての生を終えてなお永らえた自分の魂は終生夢を見続ける様なものなのに。
「違うよ。本当の夢の世界だ! ここは現実世界だろう? この次元と別の次元の狭間である夢の世界。何処にでもあって何処にもない世界さ」
「……頭でもイカれたか」
「夢の世界はイカれた者でも受け入れてくれるところさ」
話が平行線になりそうだと察したリンが口を挿んだ。
「要は、私達は夢の世界を創ろうとしているのですが、それを貴方に強力していただきたく参った次第です」
要はって…何処をどう要訳したらそうなるというのか。この男の話と今の言葉の何処に繋がりが?
「それでだ!君に一つ大切な質問がある」
不意に真剣な顔をした男に顔を向ける。ようやく真面目な話が出来るかと思った。
が、片手に握った食べかけのそれをズイッとかぼちゃ頭の前に突き出して一言。
「なあ、君は鯛焼きは何処から食べる?」
……全く関係の無い質問に、ジャックは項垂れた。
なんだかんだ言いくるめられたジャックは、夢の世界に連れて行かれ、“妖精博士”の夢に夢人を呼ぶ手伝いをすることとなった。
「懐かしいですねぇ。もう100年も前になりますかしら」
「138年前だ」
事も無げに言う彼ら。138年前というとラドゥーの祖父の祖父の父あたりの世代にあたるか。エルメラ達の一世紀の隠れ鬼といい、夢の住人は時間規模が違う。
「へぇ、主様と創造主様の馴れ初めは初めて聞きました」
何故か同じ茶の席についている男達は感心したように頷いていた。ついさっきまでやさぐれていて、ジャックに刃をむけ、ラドゥーにのされたのだが、すっかりもとの彼らに戻ったようで、ラドゥーに対しても穏やかだ。今日の敵は明日の友ってやつだろうか。
その男達がクッキーを摘むのを見て、何気なく問うた。
「夢人も食べ物を食せるんすね」
実体がない夢人にも食べることが出来るのかと感心して呟いたラドゥーに、男達は顔を見合わせ、少し寂しげな表情をした。
「ああ…食べられるよ。存在するために必要な活力を多少は取り入れられる。だけど………味はしないんだ」
実体が無い。つまり内臓もないという意味だ。形はあるそうだが機能はしていない。だから身体に取り入れた食物は内臓の機能によって処理されるのではない。どのような処理をされるのかは分からないが、味を楽しめない男達にとって、食事が単純に活力だけを取り入れる作業となってしまって久しい。
「オレ、甘い物が好きだった筈なんだ。なのに、それがどんな味が好きだったのか分からない。人間だった頃の感覚が、どれほど人生を楽しくしてくれていたか思い知ったさ」
生きていた頃の記憶を頼りに、味わった味を思い出そうとしても、何となく、こんな感じなのだろうかとほのかに思える程度だ。目隠しをされてしまえば何を口に入れられても判別できない。
「でもさ、その記憶だって年々忘れていっちゃうんだ。どうしたってこのクッキーの本来の味を味わえない」
ラドゥーは灰色空間に行く前に交わした会話を思い出す。ジャックが夢人達が食物を食べられるくだりで口ごもったことを。
生きることを諦めた夢の住人。その代償の一つ。しかし、これはほんの些細なものなのだろう。
「なあ、君。君は生きているんだろう。だったら教えてくれ。このクッキーはどんな味がする?」
生きている、か。そうだ。ラドゥーの生きる場所は夢じゃない。夢よりも狭くて恐ろしくて楽しくない現こそが自分の居場所。ラドゥーはクッキーを眺め、一口齧ってよく味わった。
「そうですね…かぼちゃの味が生きている上品な甘さで、何処か懐かしい味です。かぼちゃそのものというよりも、貴方達の故郷を思って食べればきっとそういう味になるんじゃないでしょうか」
故郷の味。何でもいい。母親が作った味でも、行きつけで食べた味でも思い出せば。それが本来の味になるだろう。
男達は目を見開いた。懐かしいものを見たような、久々に、実家に顔を出したような、そんな顔。
「そっか…それがこの味か」
今はもう失われた味。思い込みでも構わない。今だけはかつて自分が味わった思い出を、食べさせて。
お茶もお開きになった頃を見て、ラドゥーはホワイトハウスを後にした。深い森の中、橙のランタンの灯りが導くその先に、かぼちゃ頭さんの本来の家があった。
「これが、かぼちゃ頭さんの…」
「可愛いわね」
エルメラと二人、ノーラに占拠されていたジャックの家を見上げた。
かぼちゃの形をしたそれはランタンと同じように顔が彫られていた。目が窓で、大きく開かれたギザギザの口が観音扉の玄関口になっていた。ヘタののところが煙突になってるのを見つける。
「………創造主の趣味だ」
ジャックにぴったりだと思うが、彼にしてみれば不本意らしい。
ラドゥーはまた夢心地の状態になってしまったクリスを横抱きにして一緒に連れてきていた。舞踏会仕様の服装も相俟って、二人はまさに絵に描いた王子様とお姫様だった。
ここにはラドゥー達が帰るために来ている。だからクリスも一緒なのだ。それは分かっているが、エルメラは面白くない。鼻を鳴らしてつぎはぎを抱えなおした。つぎはぎは遊び疲れたのかくるまって大人しかった。
「“扉”はここにある。そしてその“鍵”は…これだ」
ジャックは自分を指す。正確にはかぼちゃの頭を。
「ずっと持ってたんですね」
「ジャック・オ・ランタンは誕生と同時にこのランタンを得る。“怪盗”が狙っていたのもこれだ」
「………それを狙ってどうするつもりだったんでしょう?」
“怪盗”は珍品コレクターなのだろうか。それを手に入れるために三十年も費やしたヤツの気がしれない。しかしエルメラは納得したように頷いた。
「ランタンの正体は宝石だって話は本当だったのね」
「…正確には石ではないが…まあそういう事になるな」
「“怪盗”は綺麗な物しか狙わない。宝石や絵画なんかをね。だからジャックさんの石は格好の獲物だった」
ジャック・オ・ランタンのランタン頭。それは命に等しい。奪われたら力を全て奪われるだけでなく、消滅してしまう。それを狙われていたが故に、ジャックは身動きが取れなかった。万が一、このランタンが奪われていたら夢は崩壊した。夢人は“迷宮”に放り出され、誰一人救われない。ぎりぎりで保っていたのだ。
ラドゥーは家の中に入り、ずらりと燭台が並ぶ廊下の奥、少し広めの部屋に案内された。
黒と橙が基調の、なかなか可愛らしい内装だった。色合いが全く違うので印象が違うが、森の白い家と似ている。きっとリンの采配によるものだろう。
彼はおもむろにかぼちゃ頭を脱いだ。素顔が見られるかと期待したが、ラドゥーには背中を向けてしまったので顔は分からなかった。残念。ジャックの手にはいつの間にか拳程の橙色の宝石が収まっていた。
それは、宝石を見慣れているラドゥーですらも溜息を零す程の美しさであった。命の輝きそのものの美しさ。“怪盗”が魅入られるのも分かる。
「…さぁ、“扉”を開くぞ」
その宝石を燭台の一つに置いた。すると、どのランタンよりも強く美しい輝きが燭台から溢れだした。ラドゥーは身体がその灯りに包まれていくのを感じた。この灯りが出口にまで導いてくれるのだろう。
「じゃあ、またね。今度会う時にはとびっきりのデートプランを立てとくから」
夢の世界から出る間際、エルメラの宣言に思わず振り返った。
「は? 何です、急に」
「何って、旅行してたんでしょ? もう、水臭いわね。私に言ってくれればいくらでも楽しくて愉快な旅をさせてあげるのに」
「ちょっと待ってください。俺は別に旅行がしたくてギータニアまで行った訳じゃ…」
最後まで言い切る前に、ラドゥーはジャックの夢から姿を消した。
「…うん。ちゃんと帰れたみたいね。良かった。」
ラドゥー達が無事に帰ったのを感じ取り、エルメラはほっと息をついた。腕の中のつぎはぎを見下ろす。
「そういえば、元はと言えばあんたがラゥの世界に落ちた所為でこんな事になったのよ。どうして現になんて行っちゃったの」
「耳引っ張んなぁ! 知らないよっここで遊んでたらかぜがぶわぁあぁああって吹いておいら吹っ飛ばされたんだからっ」
「風? 夢の世界であんたが吹っ飛ぶほどの強風なんて……―――ぁ」
何かに気付いて口を噤んだエルメラに気付かず、ランタンを被り直したジャックは思い返すように顎に手をやった。
「そういえば…さっきあの男達が、知り合いが灰色空間のせいで荒れて見慣れない者にちょっかいをかけようとしたら、やたらおっかない者に出くわしてしまったとか言っていたな…」
「そうそう! まるでひめのちか…もがっ」
つぎはぎの口を塞ぎ、エルメラはいっそ聖母の様な笑みを浮かべた。
「つぎはぎ」
「むぐ」
「帰ったらメアリーに抱っこしてもらいなさい」
つぎはぎは飛び上がった。
「…プヘッ……メアリーの抱っこはおいらのふわふわのからだが千切れるからイヤだっ」
「でも、元はと言えば、缶蹴りほっぽって遊びに行ったつぎはぎが悪いのよ? 大丈夫。ちゃんとつなぎ合わせてあげるから安心して千切れなさい」
「いや〜!!」
「…?」
首を傾げるジャックに適当に手を振り、エルメラも間もなくここを後にした。
その頃、常夏の島の様な場所に二人はいた。
「どうして、あんなにあっさりと身を引いたんです? もう私悔しくて悔しくてっ」
ノーラは“怪盗”と“道”を通って手頃な夢に辿り着くや、不満をまくし立てた。
「不機嫌だね。ノーラ」
当の“怪盗”は紫煙を揺らしながら苦笑する。
「当たり前です! あのままやっていればマスターは勝てたかもしれないのに…。だってまだマスターも全然全力出してなかったじゃないですか!!」
「そうだね。でもそれは“姫”も同じだったよ」
「マスターは悔しくないんですかっ? あっさり引いた腰ぬけとか思われたかも知れないんですよ! 宝石の中でもっとも優しく、美しいと言われる『導きの灯』まで諦めて!」
「相手の力量を見極めて引き際を悟るのも実力のうちだよ」
ノーラは黙った。その顔には不満がありありと浮かんでいるが。
「…“姫”の力はあんなものじゃない。今回は風しか使わなかったが…それでもあの威力だ」
「でも…」
「もちろん、オレもこのままで引き下がるつもりはないよ。ただ、立て直す必要があるからね。彼女の力は風だけじゃない」
「“姫”は複数の力を使うという事ですか?」
「彼女の本領は―――…」
その答えを聞いた時、ノーラは目を見開いた。
「う……うぅん」
クリスは目を開いた。そこに映るはうっそうと茂る木々。ああ、まだ自分はあそこにいるのか。ギータニアではない、かぼちゃ頭の男がいる森に。
「大丈夫ですか?」
視界にラドゥーが入り、クリスは咄嗟に起きあがった。
「ムークット君!」
「おっと」
つんのめりそうになったクリスを優しく受け止める。クリスは顔を赤らめるも先程見た光景に身体を強張らせる。
「どうしたんですか?」
首を捻るラドゥーからは何も読み取れない。
「…あの女性は?」
クリスは問う。ここがまだあの森なら、彼女らは何処にいるのか。
「何のことです?」
「何って…私達はかぼちゃ頭さんの森に…」
「かぼちゃ? 夢でも見たんですか?」
「…え、だって、ム、ムークット君が…ここはあの人の森で…怖い所に行くって」
「よく分かりませんが…ここはギータニアの首都から西にある森ですよ?」
「そんな…」
クリスは今度こそ絶句する。だって、人形の様に綺麗な女の子とか白いおしゃれなお家とか…。言い募る彼女にラドゥーは困ったように首を傾げる。
「ほ…本当にここはギータニアなの?」
「そうですよ。刺客に襲われて、応戦している内にこんな所まで来てしまいました」
クリスにはそのあたりのところの記憶が曖昧だ。
ホントに…夢を見ていたの?
ラドゥーとエメラルド色の少女とのやりとりを思い出す。優しく腰を引き寄せて、彼は…。それ以上は思い出したくなくてギュッと目を瞑る。
「どうしたんですか? 具合でも?」
彼からは気遣う気持ちしか伝わってこない。
「何でも…ない」
本当に夢だったのかしら…。あまりにリアルで、夢でもラドゥーに手を伸ばすのを躊躇ってしまう。
「立てますか? きっと皆探してます。すぐに帰りましょう」
複雑な気持ちのまま、クリスはラドゥーの手を取った。
五日間、行方知れずだったギータニアの王女とグリューノスの若君が何故か近くの森で発見された。
「若君ーー!!」
サラは飛びつかんばかりの勢いでラドゥーに跪いた。
「もうっもうっ心配したんですよ! 何処行ってらしたんですっ?」
「ただいま、皆。心配かけたね」
五日間もの時間が現実世界では経っていた。ラドゥーにしてみればほんの一日だというのに。夢と現実の時間感覚は必ずしも同じではないとエルメラに聞いている。
サラの尋常じゃない様子にちょっと申し訳ないと思いつつも、努めて穏やかに皆の出迎えに応えた。
サラと同じように膝を付いたその他の四人を見渡す。
「セナン。今俺達の立ち位置はどうなっている?」
「刺客は王女が狙いで、それに巻き込まれつつも王女を庇って下さった若君という流れとなっております」
「なるほどね。…お前の筋書きか」
セナンは口元だけで笑った。たとえガーヴェで置いてきたヤツの手のものだとしても、そういうふうにとられるならそれに越したことはない。
「それと、この失踪自体が極秘でしたので、これを知っているのは王妃陛下等のごく一部だけです」
ラドゥーは頷き、セナンを労う。どうして失踪したのか。その間何処にいたのか。当然そんなことを問われたが、適当な事を言っておいた。そう、森の中で悪者と戦ってましたよ、と。嘘じゃないので堂々と言ってしまえば向こうに非がある以上、これ以上追及できない。なんせ、巻き込まれたのは、ラドゥーなのだから。
「もうこれ以上学校を休むわけにもいきませんしね。いい加減帰りますか」
帰り支度の準備を命じて彼らが退出した後、最後まで残ったセナンを見た。
「何だ?」
「最初に言ってらした…同級生の方の自立でしたか。それは果たせたのですか?」
「ああ。目的は果たしたよ」
ラドゥーは腹の見えぬ笑みを浮かべた。
「王妃陛下」
イザベラがサロンの一室でお気に入りの庭園を眺めながらお茶を楽しんでいると来客があった。
「あら、タッ君」
現れたのはファンデルン侯爵だった。王妃とは古馴染みだ。
「タッ君はお止めください。人に聞かれたらどうなさいます」
あまり咎めていない顔でたしなめた。
「いいじゃない別に。ほらほら二人の時はベラって呼んでよ」
「……お前は昔から変わらないな…ベラ」
侯爵は懐かしみを込めた苦笑を顔に浮かべる。イザベラは満足げに笑った。
「それより、今回はご苦労さま」
侯爵にお茶を注ぎながら労う。
「いや、中々面白かったよ」
ベラの向かえに座り紅茶の香りを楽しむ。
「…でも、さすがはグリューノス家。一筋縄じゃいかないわぁ」
「やり込めたつもりでやり込まれてたからな」
「刺客に関しても結局こっちに全面的に責任があるように持って行かれちゃったし…あーあ、折角クリスの初恋を成就させてあげようと思ったのに」
頬をふくらます。あどけない仕草はとても彼女らしかった。
「やはり恋は周りがあれこれするものじゃないのだろう」
「説教臭い事言っても誤魔化されないわよ。自分だって楽しんでたくせに」
片棒をバッチリ担いだ彼をジロリと睨む。
「青臭い若者を見て楽しむのは年配の特権だぞ?」
悪戯を企む様な顔で言う。その顔も侯爵の本来の性分をよく表していた。
「それに、お前だってグリューノスの若君が当のクリステレ様の想い人だと教えてやらなかったじゃないか」
「ふふんっ。クリスはわたくしのかわゆい娘だけど、甘やかしてるわけじゃないのよ。何事も公平にいかなきゃ。まあクリスの初恋は実らなかったけど、それもあの子が彼に勝てなかっただけの話。それを無理矢理くっつけても幸せな結婚に成りえないわ」
クリスの母親はすでに亡い。彼女はイザベラの侍女だった。輿入れ前から仕えていてくれてた古株で、侯爵とも面識があった。帝王の手がつき、クリスを産んでも彼女との関係は壊れなかった。代わりに帝王に痛手を負わせてやった。
そしてクリスの母が病に倒れ、彼女の枕元で約束したのだ。クリスを幸せにしてみせると。
「さぁて、今頃執務室の隅でうだうだしてる王に追い打ちかけてこようかなぁ」
「……慰めるんじゃないのか?」
「あのツンデレ王に慰めなんて必要ないわ。娘をなるべく近場に嫁がせたり、本当に娘を求めてくれる人に嫁がせたりしてるくせに、娘達には政略結婚だとか抜かすあいつに」
娘煩悩のくせに当の娘達には全然伝わってない、ダメダメな王を思い浮かべる。本当は、王は早くに母親を亡くしたクリスをいっとう気にかけていた。だからなるべく早く後ろ盾を与えようと躍起になってたのだ。グリューノス家という最大級の後ろ盾を。保険もかけてたようだが、それもクリスには王の野望のために有利な嫁ぎ先としか思われなかった。不憫。
「一言、お前は大事な娘だとかなんとか言えばいいのに…」
「まあ、男親とはそういうものだ」
そうして二人は王をつつくためにサロンを後にした。
「この林檎茶にタックァは最高にあうね!」
帰宅の前に、ラドゥーが帝都の店を見回りながら家の土産を物色していると、お茶屋さんからそんな声が聞こえてきた。
お茶か…ギータニアはミティに次ぐ茶の名産地だったな。
その店を覘くと、よく響く声の主がこちらを向いた。
「なあ、君はタックァを何処から食べる?」
突然そんなことを尋ねられた。
「このタックァさ、名前は違うが鯛焼きそのものじゃないか。この世界にも鯛焼きがあるんだと僕は今感動に打ち震えていたところなのだよ!」
彼の手にはタックァが食べかけの状態で握られていた。もう一方の手には袋いっぱいに詰まっているそれ。
見知らぬ人間に、いきなりそんな事を問いかけられたら普通なら怪しがるところだが、ラドゥーには何故か彼と初めて会った気がしなかった。だからだろう、気押されることなく答えた。
「俺は…そうですね、頭からですかね」
「なんだよ、普通だなっ」
食べ方に奇抜も何もないと思う。
「じゃあ貴方は何処から食べるんですか?」
「僕は尻尾さ!」
ラドゥーと同じくらい普通で有り触れた食べ方だった。
「そうですか」
まあ、人それぞれだ。
「たまには里帰りでもしようかと思ってさ。良い土産を探してたんだが、良いものが見つかったよ」
「お土産がタックァですか?」
大量のタックァ。そんなに配る人がいるのだろうか。
「そうだよ。特に、このかぼちゃあんのタックァなんて最高だね! あいつの喜ぶ顔が目に浮かぶよ」
かぼちゃ、と聞いてラドゥーは彼を思い出す。
「そうですか。きっと喜ぶでしょうね」
彼の顔を思い浮かべながら。このタックァを彼に差し入れたら喜びそうだ。
「そんじゃ冷めないうちに行くよっ」
「実家はここから近いんですか?」
冷めないうちに辿り着ける所なのか。そう問いかけたラドゥーに意味深な笑みを向けた。
「そうだなぁ…遠くて近いところかな。“道”に距離なんかないし」
「“道”…」
ラドゥーは男を見つめた。
年齢の分かりずらい中肉中背の男。染めたと分かる茶髪に黄色い目が印象的だった。ギータニアの土産物屋に売ってる様な服を纏っていて、何処にでもいそうな観光客。
しかし、彼の中に潜む、この世界にあらざる気配を僅かに感じた。
「貴方はまさか…」
しかし、男はラドゥーが全てを言い終わる前に目の前から綺麗に消えた。
人ごみの中に紛れてしまったのだろうか。
「若君? どうなさいました?」
セナン達がラドゥーに追いつき、突っ立ったままの主人に問いかけた。
「…いいえ。何でもありません」
振り返ったラドゥーはいつもの彼だった。
「あ、そうだ。セナンこれからタックァを大量に買い込んできて下さい。皆へのお土産にします」
「え、タックァですか? なんでまた急に」
「何となく食べたくなったんです。帰りがてらも食べてくんで、全部包んでもらってきちゃだめですよ?」
サラの化粧品を見てはしゃぐ声、グランのたしなめる姿、ギルの薬草売りとの値切り交渉、リオの穏やかな微笑み、そしてセナンのタックァを買いに行く足音。それらは人ごみに紛れて、何がどの音かもう分からない。
そんな光景は、いやでもラドゥーに現実を実感させる。ラドゥーの居場所だと。
ラドゥーは空を見上げた。今日はちょっと雲が多い。明日あたり雨が降りそうだ。夢の世界とは違って、同じ一瞬など、二度と訪れない。
ああ、生きた者達の世界なんだな。―――そう、思った。
ラドゥーの最初の目的…。読者様は忘れ去っているのだろうな。この章、とても長かったので。
『かぼちゃのランタン』編、完。