29.――VS“怪盗”
「全く…ノーラ、これだから君は未熟なんだ。たとえ小さなぬいぐるみだろうと、“姫”がれているうさぎだよ? 警戒しない方がどうかしてる」
弟子の失態を呆れた様子で眺めていた“怪盗”は、ノーラにダメ押しした。
「うぅっマスター…だってぇ…」
「君が自力で呼べる精なんて、低級が精々なのに。無理して中級を呼んだのがそもそもの間違いだったね」
とはいえ、元々エルメラと戦わせようと呼んだのだから、出来るだけ強いモノを出そうとしたのは当然と言えば当然である。
「マスター…どうすればいいでしょう…」
弟子が甘えて縋るような視線を送った。
「君の勝手な判断が招いた事だよ。自分で何とかしなさい」
師匠の返答はそっけないものだった。情けない声を出すノーラをもはや相手にせず、“怪盗”はエルメラに向き直った。
「情けないもの見せてしまってすまないね」
「全くだわ。もっとマシな奴いなかったの?」
「生憎ね。でも、オレとの戦いはきっとお気に召すのではないかな」
「そぅ。それは楽しみね」
少女は物騒な笑みを浮かべた。
――風を帯びた闘志と、燃え盛る業火がぶつかり合った。
「吹き荒べ――――――竜巻」
「炎牙」
上位の“夢の旅人”が同時に呪を紡いだ。
獅子を取り巻く竜巻と、炎の渦を込めた牙が激突する。
「うっ…」
「きゃあ!」
ズドォンと轟音の一瞬間が開き、ラドゥー達はその余波をまともに食らい、吹き飛ばされた。
「…」
牙の威力と拮抗していたエルメラの風が、徐々に炎に押されていた。風の威力が軽減していくのとは反対に、獅子の炎の勢いが増す。
やがて風が完全に掻き消え、獅子を中心に周囲に火柱が立ち上っていた。
「火なら風で消えるけど、炎はかえって勢いを増すものだよ」
ぶつかった衝撃で葉巻が吹き飛ばされた“怪盗”が、胸ポケットから新しい葉巻を懐から取り出しているのが揺らめく炎の向こうに見えた。
彼の言うように火の勢いが増した獅子の鬣が眼前に現れた。
「確かに少しは楽しめそうね」
エルメラは赤い唇をぺろりと舐めた。
一方、身体ごと吹き飛ばされたラドゥー達は離れた所で身を起こした。
「すごい…ぶつかった衝撃でこの波動ですか」
とっさに受け身を取ったお陰で、ラドゥーに怪我は無い。真っ先に体勢を立て直した。
「すげぇすっげぇ〜大合戦だぁ」
ラドゥーは傍にいたつぎはぎも抱えたので、つぎはぎも無事だ。そうでなかったら軽い分、もっと遠くまで吹き飛ばされていただろう。ぬいぐるみは元気に脇の下で彼らを観戦中だ。
「…だから言っただろう。強者同士の衝突は避けたいと…」
何気なくジャックの方を見たラドゥーはぎょっとした。
「あの…顔が後ろ向いてますけど」
「…問題ない」
ジャックは何事もなかったかのようにズレた頭を前に戻した。
「……」
ラドゥーはとりあえず頷いておいた。
そういえば、とサイが入った穴を見ると、そこには何も無かった。何処に消えたのだろう?
「いったぁ…って、ああ! ミーシャが消えちゃった!」
腰をさすりながら背中を起こしたノーラも、自分の呼んだサイがいないのに気付いた。
「そんな…衝撃の余波だけで精霊界に戻しちゃうなんて…」
セイレイカイなるところとは何処かなど深く考えまい。サイは故郷に帰ったのだ。
茫然と穴の底を見つめる彼女にラドゥーは手を差し伸べる。
「怪我は?」
ラドゥーはノーラを助け起こした。
「何よ、あんた。敵に情けは無用よ」
助け起こされながらも不機嫌そうに顔を背ける。
「それとも、何? 負けたヤツに同情? 馬鹿にしないでよ」
ホントに勝気で喧嘩っ早いんだな…。ラドゥーは苦笑する。
「いえ、そうではなくレディを助けるのは男の権利でしょう?」
「なんっ…」
唖然として徐々に顔を赤くしたノーラは、慌てて顔を背けた。
褒め言葉を言うのに何の躊躇もないラドゥーは、ジャックの視線に気付き、振り返った。
「何か?」
「…」
「…」
「…自分の顔を鏡で見た事あるか?」
「何言ってるんですか。そんなの当たり前じゃないですか」
「……そうか。ならもういい」
「はい?」
ジャックはこれ以上は言っても無駄とばかりに口を閉ざした。そのまま放置して“姫”達の方を見やった。
目に映るは風と炎。緑と赤の覇気。肌で感じる力の波動。
「……………」
…せめて、風穴くらいで勘弁して欲しい。
「炎舞」
“怪盗”の命に呼応して、獅子の周囲に炎が円を描いた。その円は歪み、まるで天の羽衣のように獅子に密着した。獅子がエルメラに向かって吠えた。
「まーステキ」
炎を避けるエルメラに焦りの色はない。腕に炎が巻きついても、冷静に振り払った。
「獅子だけに獅子舞ってカンジ?」
自分で言ったその表現が気に入ったのかしきりに頷いている。
「…気に入らないね。君はさっき君の中で最も強力な術を打ち破られたんだよ? 悪い事は言わない。強がってないで素直に降参するなら、君と君の連れには手出ししないと約束しよう」
エルメラは鼻で笑った。
「降参? この私が? 冗談じゃないわ」
「…じゃあ、残念だが、君共々葬らせてもらうよ」
「やれるもんならやってみなさい」
一瞬の静寂の後――
「大 炎 門!」
「切り刻め――――――神風!」
翼の形に広がった炎が挟みうちにしようとエルメラを囲った。炎を蹴散らそうと幾筋もの旋風がエルメラの周囲に出来上がり、一斉にその放射状にを広がった。
“怪盗”はふっと笑った。
「さっきの竜巻とどう違うんだい? ただ数が増えただけじゃ、この炎はびくともしないよ」
「聞くけど…」
「?」
「私がこうして風ばかり使っているのを見て、疑問に思うことはない?」
「何言って…―――っ!」
訝しげな顔をした直後、“怪盗”の顔が強張った。
「気付いた? 手加減されているのよ貴方は。相性の悪い風で……ねっ!」
旋風が炎と激突した。絡まり合った箇所から炎が切り刻まれるように霧散していく。風は衰えることなくそのまま獅子の、ひいては“怪盗”の方へ向かっていった。
「くっ! …炎楼っ」
炎の障壁を築く。しかし、旋風はそれさえも切り裂いた。
風の刃が“怪盗”に届く寸前、獅子が“怪盗”を庇うように立ち塞がった。
「――ライーシャッ」
瞬く間に獅子は切り裂かれ、その場から風と共に姿を消した。
…一体、どれだけのヒトと出会っては別れてきただろう。
永劫の時の中で、幾人もの人が壊れては消えていった。現実世界でも夢の世界でも。様々な死を見てきた。その中で、安らかに逝った人よりも無惨に消えていった方が多いと思う。
その人達の顔も名前も碌に覚えていない。目前で悲惨な最期を迎えた人も、老齢で眠るように逝った人も。エルメラにとっては一緒だ。どれも遠い過去の一つに過ぎない。改めて思い返しても、紙に書かれた史実を読み上げるように他人事のように感じるだけだ。
そんな時に思い知るのだ。何ごとにも心が動くことがなくなった自分は、既に人ではないことを。
自分では変わったつもりはない。感情だって完全に失くしてはいないし、元々冷めた目線で物事をとらえがちだったから。だから、人であろうが“夢の旅人”であろうが、自分は自分だと、そう思っていた。
けれど、原型を留めていないヒトだった塊が、血も乾かぬうちに捨て置かれていても、大した感想を抱かなかった自分は、やはり何処か変わってしまったのだろう。いや、歪んだ、というべきだろうか。
エルメラは上を見上げた。白とも言えぬ灰色の空を。
厳密には空ではない。夢の世界で未来のある宇宙など広がってはいない。あるのは果てのない“道”だけ。
“道”
始まりも、終わりもない、ただそこに横たわっているだけの黒。何処にでもあるけれど、何処にもない空間。それを人は『無』という。
夢の世界に未来など無い。
閉じた輪。
辿り着いたと思えば、そこは入り口だった。
メビウスの輪。
表は裏で、裏は表だった。
出口という名の救いはなく、与えられるのは棄権という逃避だけ。私には、それさえ用意されていないけれど。
“夢の旅人”となることを選んだことに後悔はない。けれど、どうしようもない孤独がふとした時にエルメラを襲う。森で男達には夢人は生きた夢に寄生しているだけとは言ったが、“夢の旅人”にも、生きた夢の主になって夢人を住まわせることで得るものがある。夢人に安住の地を約束する代わりに、一時の孤独を埋めるのだ。そこに帰ればいつでも迎えてくれる居場所を。探し物に疲れて、休みたい時に、本当に求めているものの代替品として。
「…化け物!」
怯えた叫び声が耳に届いた。甲高く耳障りな女の声だ。名前は…どんなだったか。
化け物。聞き飽きた言葉だ。弱いヒトの心は、どうあっても敵わない力に対して、直視することを避け、存在そのものを否定し、己が領域から締め出そうとする。見えなくなれば存在しないことにはならないのに。
恐れられてどうこう思う時期はとうに過ぎた。
なのに、ラドゥーの顔にどんな表情を浮かべているのだろうかと思うと、怖くて後ろを振り替えれなくなったのは、どういう訳だろう。
「さすが…“姫”だね。最上級精でもこれが一杯一杯か」
“怪盗”は連続で大術を行使したせいか、酷く疲弊しているようだ。それでも、最後の矜持として、背を伸ばししっかりと地に足を付けてエルメラと向き合った。
「マスター! 大丈夫ですか!」
我に返ったノーラが主人の許へ駆け寄った。
「三十年近く狙ってきた獲物を諦めるのは癪だが、負けた以上、見苦しく足掻くのはオレのスタイルに反する。今回は潔く引くとしよう」
ノーラに対して何の反応もせず、エルメラに背を向けて歩き出す。
「あ、待って下さい」
ノーラも彼を追いかけ、立ち去った。
ジャックはその場に立ち尽くしていた。
何というものを見てしまったのか。ほんの数分の出来事。けれど永遠にも感じられる数分だった。
力の規模が桁違いだ。しかし、それでもその力は“姫”にとってはほんの一部。そんな印象を受けた。ノーラと同じ恐怖をジャックは感じていた。
「………」
ラドゥーは慄くジャックを横目に見ながらエルメラを見つめた。
確かにこの力は尋常じゃないと、魔法に疎い彼にも分かった。過ぎる力は時として恐怖しか与えない。ノーラの反応はごく普通のものだ。手に負えないものを人は恐れる。
けれど、不思議とラドゥーには恐怖が沸きあがってこなかった。それは、その力が自分を傷付けないものだと分かっているからかもしれない。
エルメラは、彼に背を向けているのでその顔は見えない。背中に流れるエメラルド色の髪が未だ残る風に乱されてうねっている。その姿さえも美しい。ラドゥーは数瞬、瞳を閉じた。
「エルメラ」
銅像の如く突っ立っているジャックにつぎはぎを押し付け、引き止めようとする彼を制して足を踏み出した。
口にしてみて気付いたのだが、自分で彼女に名を付けておきながら、その名で呼んだことがあまりなかった。口したら何だか照れくさかった。
エルメラの肩がピクリと動く。ラドゥーはもう一度呼んだ。
「エルメラ。こっち向いてください」
エルメラは返事をしない。彼の顔を見るのを恐れるように。
「エルメラ」
少し、言葉を強めた。
すると、そろそろとエルメラがこちらを振り向いた。その顔にいつもの笑みはなく、白磁の人形のようだった。何の表情も浮かんではいないのに、怯えているように見えるのは気のせいだろうか。
「…ありがとう」
虚を付かれたように瞬く彼女に少し笑う。
「この夢を守ってくれた事ですよ」
「……怖くないの?」
ラドゥーは言われた意味を理解しているが、敢えておどけてみせた。
「おや、心外ですね。女性を恐れるような情けない男に思われているなんて」
それでも、エルメラに笑みは戻らない。ラドゥーはエルメラの頬に両手で挟んだ。まるで体温の感じられない肌。けれどエルメラはここにいる。確かな存在感をもって。
添えられた手が震えていないのを知り、エルメラの瞳に少しだけ、感情が戻った。
「…名前、初めて呼ばれたわ」
「そうでしたか?」
あまりどころか、初めてだっただろうか。
「貴女は“エルメラ”でしょう? それ以外の名前なんて俺は知りません」
彼女は目を見開いた。ややあって、じわじわと彼女の顔に明るさが戻ってきた。ラドゥーの手に自分の手を重ねる。
「……ありがとう」
小さな呟きを、ラドゥーは聞こえないふりをした。
「…さて、あの人達も追っ払ったことですし、次はこの夢を何とかしなければいけませんね」
あの人達を追っ払っただけでは終わりではない。その後の夢の修復が待ってる。ラドゥーは先程の狂った夢人を思い出した。彼も被害者だ。主であるジャックの宝を盗む為に、この夢を狂わせたヤツらの。夢の世界の住人は自分の目的の為なら手段を選ばない。そしてその被害を省みる事は無いのだろう。そのことが今回の事でよく分かった。
「……彼らがいなくなったなら、もう問題はない」
ジャックがいつの間にか近くにいた。
「そうなんですか?」
「ああ。ずっとかぼちゃを作っていたからな。もう量は足りている」
なら安心だ。ジャックの力を補えるだろう。ジャックはエルメラに向き直った。
「この夢を救ってくれたこと、主として御礼申し上げる」
深々と頭を下げる。エルメラに一瞬でも感じた恐怖に対する謝罪も込めて。
「私は、彼に従っただけよ。御礼ならこの人に…」
「ラゥ」
「え?」
突然口を開いたラドゥーにエルメラは首を傾げる。
「俺の呼び名です。…貴女も俺の名前を呼んだこと、なかったじゃないですか?」
「…そうだったかしら?」
エルメラは考える仕草をした。エルメラには彼とかこの人とかしか言われたことがない。お互い様なので、これでチャラだ。
「ラゥって呼べって?」
「嫌ですか?」
「……いいえ。嬉しいわ。…ラゥ」
心の底から嬉しそうな笑顔だった。
ジャックは二人の様子を眺めた。灰色の空間に甘い色が漂うのは気のせいだろうか。
「…で、森に戻りたいんだが、いいか?」
「あ、はい。良いですよ?」
別にラドゥーらの許可など取らなくてもいいではないかと首を傾げる。
「…」
「…」
「……」
「……?」
「…………もう、いい」
何はともあれ、三人と一匹は森に戻る事にした。
「おかえりなさいませ」
森に戻ったら、即座にリンが出迎えに来た。ジャックは軽く頷いた。その様子を見てリンが安堵したように問う。
「では…滞りなく?」
「ああ、彼らは去った」
「それはようございました」
リンの口調には万感の思いが込められたいた。
「では、畑の方に」
「ああ」
庭に向かったラドゥー達はその光景に目を見張った。
「凄い…」
一面かぼちゃ畑だった。見渡す限りの畑に、様々な品種のかぼちゃが植えられていた。見たことのない形をしたかぼちゃもあった。
「これ全てジャック様のお手によるものです」
リンが誇らしげに胸を張った。
「いろんな世界のかぼちゃを取り寄せて、一番適したかぼちゃの研究もしていてな」
その様子を見ていたかぼちゃ頭が言った。いろんな世界という単語は今は流すことにする。
「ランタンを作るのに、ですか?」
「…それもある」
「糖度が高くて、料理やお菓子に適したものという意味でもあります」
リンが答える。
「へぇ…クッキー美味しかったです」
最初に言っていたように、ジャックの畑は趣味を兼ねているのも本当だったようだ。
ジャックが橙と緑の畑に足を踏み入れる。その中央で立ち止り両手を広げる。
「――――さあ、夢を始めよう」
ジャックが宣言した。
その瞬間、景色が劇的に変わった。畑の橙が柔らかい光を帯びて浮かび上がったのだ。
「素敵」
エルメラを真似てあたりを見渡してみると、見る見る間にかぼちゃのランタンの灯りが深い森を優しく照らした。
「これが、ジャック・オ・ランタンの力…」
ラドゥーも感嘆と感動を伴いながらその様を眺めた。
「これなら、彼の森は灰色空間を追い出して、彼の領域も広がるでしょうね」
ランタンがふよふよ飛んでいくのを眺めながらエルメラが呟いた。
主の力が及ぶ夢でなら夢人は狂うことはない。迷いそうな深い森。けれど、橙色の優しい導きの光があれば決して怖くない。見る者を安心させる、奇跡のような美しい光景。
幻想的な光景に魅入っていると、遠くからジャックの名を呼ぶ声が聞こえてきた。
「主様っすまねぇ! この通りだ」
「俺達を追い出さないでくれ!」
ジャックに武器を向けた男達が駆け寄り、身を投げ出してジャックに次々土下座をした。
ジャックは黙ったままじっとしていた。男達がその沈黙を怒りと受け取り、なおも謝罪しようとしたその時、ジャックの声が遮った。
「……何を言っている?」
「な…何って…」
「これからお前達がしなければならない事は山積みだ。貴重な働き手を手放すわけがないだろう?」
男達が頭を上げ、期待に目を輝かせる。
「じゃ…じゃあっ」
「まずは、土を現実世界から調達してきて、それらをここに敷き詰め、耕すことからだ。かぼちゃは生物だぞ。定期的にランタンを変える必要がある。かぼちゃはわたしが育てねばならないが、その他の手伝いはしてもらう」
「は…はいっ! 喜んで」
男達が感激して再び地にすり頭を付けた。
「一件落着ね」
その様子をラドゥーらは少し離れた場所で眺めていた。
「これで、もう心配はないでしょう」
「そうね。少なくとも、一度失敗した取り物を未練がましく狙う真似は奴はしないでしょうし」
なら本当にもう心配はない訳だ。そうと分かれば、もうラドゥーは何の気兼ねもなく自分の都合で動ける。
ラドゥーが今からすることに対して、申し訳ないと思うほど美しい景色を視界に収めながら、エルメラの名を呼んだ。
「エルメラ」
「なぁに?」
「今から貴女を利用します。…そう言ったら怒りますか?」
エルメラが面白そうな顔をしてラドゥーの顔を覗き込む。
「どう利用するの?」
ラドゥーはおもむろにエルメラの腰に腕を回し引き寄せた。
「こうするんです」
エルメラの唇に自分のそれを重ねた。
エルメラは突然のことに驚いたようだったが、抵抗はしなかった。大人しく目を閉じる。
エルメラの唇はやわらかく、ひんやりとしていた。
時間にしてみればほんの束の間の出来事。ラドゥーはそっと唇を離した。
「これが利用?」
「ええ。ありがとうございます」
ラドゥーは笑顔で礼を言った。後ろで女性が駆け去る気配をその背に感じながら。
エルメラも気付いていたようだ。ラドゥーの顔を見上げる。
「悪い人」
しかしその顔には咎める色はなかった。
「悪い男は嫌いですか?」
「貴方なら、大歓迎よ」
悪戯の共犯者のようなそんな顔で微笑んだ。
「こんな綺麗な光景には申し訳なかったですが」
「彼女に、じゃないんだ」
「申し訳ないと思っていたらこんなことしませんよ」
彼女の国は未婚女性に対して貞操観念がとても強い。口づけ一つでふしだらと後ろ指を指されかねない程に。彼の帝国において年若い女性の口づけの相手は婚約者とみなされる。
これですっぱりと諦めてくれるといいんだが。少なくとも牽制にはなっただろう。何とか当初の計画通りに運びそうで、ラドゥーの方も肩の荷が下りた気分だ。
ラドゥーはもう一度、空を見上げた。先程の灰色とは全く違う、黄昏時の鮮やかな藍色の空を。
遠くで、夢人達の歓声が聞こえてくる。
森に目線を戻すと、木々の間に様々な形のかぼちゃのランタンが浮かんでいた。
―――藍色に、橙色のランタンの明かりが美しく映え、優しく灯る。