2.本の聖域『本の虫屋』
結局、あれから出来たことと言えば、少女に名を付けることだけだった。
名前がないと会話が不便だ。今日一日だけの付き合いだとはいえ、女性に対して適当な名前を付けるわけにもいかない。少し考え、ラドゥーは“エルメラ”と読んでみた。
「エルメラ…。いい名前ね、凄く気に入った」
その名を噛み締めるように繰り返すと、少女はこちらが面食らうほどに、美しい花のような微笑みを浮かべた。
そんなこんなで、ラドゥーは予定通り、ある店に向かった。あんな目(チンピラに絡まれた)に遭った後なので、さっさと家に帰ろうかとも思ったけれども、もうすぐそこまで来てし、奴らの為に予定を変更するのも癪だったので、何故か付いてきたエルメラと共に、目的地である『本の虫屋』までやってきた。
この店は貸し本屋だ。しかも本を借りるだけでなく、買うこともできる店だ。幾つかの約束事にサインして、この店の会員になればだが。条件は本好きにしてみれば拍子抜けするほどに易しく、そうでないならちょっと面倒だ。そうして会員になれば本は制限無く借り放題、どうしても手元に置きたければ購入できる。
店にはあらゆる分類の書物が揃っている。児童書向けの絵本や大人向けの小説、珍しい古書、研究文献や論文などなどなど…御伽物から小難しい学問まで何でも置いてあるので、本好きにはまさに天国だ。この店が本の聖域と呼ばれる所以であった。
店自体はそれほど大きい建物ではない。錆びた茶色の煉瓦造りの古い造りであるが、古臭くても寂れた印象を感じさせず、どこか厳かでさえある。ラドゥーは初めて来店する人なら、手にかけるのを躊躇う重厚な門を慣れたように開け、その先の扉の取っ手を捻った。
キィィ――と蝶番が擦れる音と共に樫の扉がゆっくりと開かれた。
その先には本独特の匂いが染みついた、視界いっぱいに広がる本棚がラドゥー達を出迎えた。
「貴方、よくここへ?」
エルメラは店内の薄暗く、ひんやりとした空気を心地良さそうに吸った。
「そうです。一冊読み終える度に通ってますから」
自身が気に入っているこの店を、この少女も気に入ったらしく、興味深げにあたりを見渡している。そんな様子を見てなんとなく嬉しくなったラドゥーは、先程までの一線引いた態度を幾分和らげた。
「ちょっと本を返してきますね」
好きに見てて下さい、と断って、奥のカウンターに向かって行った。
その後ろ姿をエルメラがじっと見つめている事に気づかずに…。
ラドゥーはいつもの如く、カウンター脇にある会員認証機に登録し終えた後、やはりいつものように読み終えた本をカウンターに預けようとしたが、誰もいないことに気づく。しかしこれも時たまあることなので、気にすることなく本をカウンターに置いたまま、さらに奥の窓際へ進む。
薄暗い室内において、窓から真っすぐに零れる日の光に照らされたところだけ、とても明るい。スポットライトのようなその光の下に、ロッキングチェアに揺られて気持ち良さそうに眠っている老人がいた。この店の主である。ここの窓際が定位置で、いつ来ても、ここでまどろんでいることが多い。
そしてこの老人、年齢不詳の御仁としても有名であった。ラドゥーの祖父によれば、祖父がまだ若かりし時代、既にこの老人は老人であったらしい。よってこの老人を老若男女問わず店の客は皆“おじじ”と呼んでいる。
おそらく途方もなく年を重ねているこの御仁をして、人と呼んでいいのか。寧ろ仙人と呼んでやりたい。御先祖様でも良いだろう。とにかく暢気にコクコクしている可愛らしい老人の耳元にそっと、しかし大きめの声を上げた。
「おじじさん、寝てるとこすみませんが、アビス知りません?」
すると、ゆっくりと瞼が持ち上がり、上目づかいになったかたちでラドゥーと目が合った。
「ん…おぉ、おやおや…ゴルグの倅のラゥ坊かね。久しぶりじゃのぅ」
皺だらけの顔に埋まる、限りなく澄んでいるその瞳が優しげに細められた。
「…おじじさん、俺はゴルグの倅の倅ですよ」
それに、常連のラドゥーとは三日と空けずに顔を合わせている。なのに何で久しぶりなんだ。
しかし、ここで自分家の家系図を思い出す。
ゴルグという名は実は先祖に何名もいる。何故ならゴルグという名は我が家の初代当主の名であり、この街がを王国として栄えてさせた王の名前でもあるだからだ。彼は戦で数々の功績を挙げた猛将でもあるので、その勇敢さにあやかろうとよくつけられるのだ。
そしてラドゥーという名もまたしかりである。知己に富み、戦時には参謀役、平時は行政管理に才を発揮した天才がかつて一族にいたのだ。それがゴルグの息子にして二代目を継いだラドゥーである。この二つの名を持つ者が親子関係にあるのはこの一組のみ。そう、その初代当主と次代の一組だけ。
………いやいや、さすがのこのおじじも500年も前から生きてるわけないし、やっぱ寝ぼけてるだけだ。そう思い直し、再びコクコクし始めたおじじに再度話しかけようとした。
「――――ここにいます」
深い声音がラドゥーの後ろから上がった。
振り向くとチューリップハットを目深に被り、紙袋を抱え、いかにも買い物帰りといった出立ちの人物がそこにいた。ラドゥーが探していたアビスだ。
「買い物に行ってたんですね。返却する本をカウンターに置いときましたから、お願いします」
ラドゥーはおよそ愛想というものをそこらに捨ててきたようなアビスに気にする事無く話しかける。果たしてアビスはそっけなく頷き、カウンターの方に向かうアビスを見送った。
この店は店主のおじじと店員のアビス二人だけで運営されている。アビスはおじじの身の回りの世話も兼ねており、奥が住居になっているこの店でおじじと共に暮らしている。高齢のおじじに代わり、この店の雑用は全てアビスが担っていた。そんな働き者のアビス。実はおじじ並に謎に包まれている。
およそ全てが謎なのだ。身元も年齢も本名も、性別さえ。
そんなわけあるか、と言いたいところだが、まぎれもない事実だ。
まず、アビスはおじじが何処からか、そしていつの間にか連れてきた子だった。当時すでにこの店に出入りしていたラドゥーは名を訊ねたが、待てど暮らせど答えが返ってこない。結局彼(?)の粘り勝ちでその名を知ることは無かったが、代わりとして、彼を深海のように静寂な雰囲気を纏うことから、“アビス”と付けた。
以来、街の人達もなし崩しにこの名をこの子の名前として認識し、今に至る。正確な年齢が分からないのも、おじじが知らない内に連れてきたからである。だが、何故性別も不明なのかというと、単純な話で、アビスはあまりに中性的で男女とも区別がつかないからだ。顔立ちは整ってはいるが、女性らしい、あるいは男性らしさという特徴がない。全くない。体格も、小柄とも大柄ともいえない平均的なもので、身に纏う服装も、男女どちらでも着られそうなものばかり。普通成長と共に性差が表れるものだが、アビスはその法則を無視してどっちつかずな風体のままであった。
ここまで徹底してくると、なんだか意図的に隠している様にも見えてくるため、あえて何も訊かないできたから、結構付き合いが長いくせに、未だに性別さえ知り得ないできてしまった。
謎は、謎のままが面白い。だから惹かれるんだ。
店そのものも不思議で満ちている。
例えば、建物の規模に反して内装はとても広々としている。奥行きがあれ?と思うほどあるのだ。しかも見上げると天井がかなり遠く、その天井まで本がびっちりと詰まっている。上の本を取るにはそれはそれは長い梯子がいるから建築の遠近法などでは無いのは明らかだ。
そう、明らかにおかしい。どう考えてもこんな広い空間はとっくにこの建物のキャパシティ超えてる。縦にも上にも長いこの空間はどういう仕組みなのか。全く、店が店なら店員も店員である。しかし、ここまで謎だらけだと、もはやそんなものだ、とこの店の常連は深く考えることなく受け入れている。ラドゥーも、不思議いっぱいのこの店を、そこにいるだけで不思議の世界に迷い込んだ気分を味わえるので、解き明かす気は無い。
読書に興味の無い者は最初から近づかない。本を好きな者だけの楽園。それが本の聖域『本の虫屋』なのである。
ラドゥーは口に小さく笑みを浮かべ、新たに借りる本を探すため踵を返した。