26.森の外は、悪夢でした。
ちょっと残酷な描写が出てきます。
じわじわと灰色が滲み、ぼんやりとした空間が、ラドゥーの前に現れた。これが彼らの言う灰色空間なのだろう。どくんと一つ、ラドゥーの心臓が跳ねた。その先には行きたくないと、本能の訴えを無視して、未知の空間へ足を踏み入れた。
「いらっしゃい、待ってたわ」
一人の女が彼らの前に立ちはだかった。女は、灰色の世界の中にあって、鮮やかな色を纏い、満面の笑みで迎えた。
誰だこいつ。
ラドゥーとエルメラはほぼ同時に思ったが、ジャックはこの女性の出現に怯んだように固まった。
「“姫”…」
なんだって?
ラドゥーはジャックを振り返った。エルメラは彼女の顔を凝視した。彼らが何も言わないことに、女はにこりと笑った。
「ええそうよ。あたしは“姫”。そのあたしが、わざわざ迎えに来てあげたんだから、光栄に思いなさい」
ラドゥーは天を仰ぎたくなった。物語では一番盛り上がる最後に彼女の様な大物が出てくるのが常識だ。序盤から遭遇なんて反則だ。これだから予定通りにいかない現実は嫌なんだ。…ここは夢だけども。
ラドゥーは“姫”と名のる女性をとくと観察した。
縦巻きの黄緑の髪に、そこそこ白い肌。髪は色っぽく高く結えており、うなじが魅惑的に男を誘っている。身体の線がはっきりと見えるワンピースドレスを身に纏う華やかな女性だ。
気の強い女王のような高圧的な雰囲気を醸しているが、先程さんざん聞いた、“姫”像と結び付かなかった。なんというか、それほど恐れられるような力を有しているようには見えないのだ。
尤も、一般人のラドゥーの判断など、当てにならないが。
「彼の“姫”がどうしてこんな所まで?」
“姫”はラドゥーに顔を向けた。そして少し首を傾けた。
「貴方…見ない顔ね。ここに新しく来た子? ならあたしに挨拶してくれなきゃ」
その物言いは、最早この夢が自分のものだと言いたげだ。ジャックは流石にそのセリフが癇に障った。
「挨拶? まだここは“姫”のものではないだろう」
「近いうちにあたしのものになるわ」
ジャックの怒気を孕んだ声にも怯まず、嘲笑った。
「…決して渡さないと言ったはずだ」
空気がピリピリとしたものに変わりつつあった。
「貴方じゃこんな大きな夢、手に負えないでしょう? あたしが代わってあげると言っているのだから、つまらない意地なんて張ってないで、素直に渡せばいいのよ」
この女性がこの夢を乗っ取ろうとしているのは間違いない。さしずめ、二人の関係はハイエナと獲物。違った。王と侵略者。猿と蟹の関係のはずだ。うん。間違ってないはず。
ラドゥーはそんなことを思っていると、“姫”は再びラドゥーに顔を戻し、彼の容姿に惚れ惚れした。
「貴方、キレイな顔してるのね。可愛い男の子は大好きよ。ねぇ、あたしの取り巻きの一人にならない?」
「は?」
突然のお誘いにラドゥーは目を点にした。取り巻き?
「どう? あたしの側につけばイイ思いさせてあげるわよ?」
ズイッと上半身を乗り出してラドゥーの顔を覗き込んできた。こちらを誘惑するように上目使いに見つめてくる。危ない胸元がラドゥーの方に押し出される。
「いや、俺は別に…」
「あんたにこの人はもったいないわよ」
いいです。と言いかけたラドゥーを遮り、それまで沈黙を守っていたエルメラがいきなり撥ね退けた。
「…なんですって?」
険のある表情で“姫”はエルメラに目を向けた。
「あたし、女に興味ないの。だからごめんなさいね? 貴女の声、よく聞こえなかったわ」
エルメラは馬鹿にしたような笑いで応えた。
「そう、じゃあ私は親切で優しいからもう一度言ってあげるわ。あんたに彼はもったいない。役不足よ。一昨日おいでなさい」
おまけを付けて繰り返したエルメラに、今度こそ“姫”の瞳は怒りに煌いた。
「…お口には気をつけなさい。あたしが誰だか分かっているの?」
「あんたの正体なんか興味ないわよ」
エルメラのどうでも良さそうな態度にカチンときた。“姫”を取り巻く空気がどす黒くなる。
「……ふん、あんたの様な小娘一人、相手にするまでもないわ。今すぐあんたを塵と化してもいいのよ?」
「やれるものなら?」
“姫”がエルメラに身を突きだして威嚇したが、エルメラはその場から一歩も引きはしなかった。顎を上げて彼女を見下ろした。
「…あたしは貴女を相手に出来るほど暇じゃないの。運がよかったわね」
“姫”は屈辱に身を震わせたが思い直し、何とか気を静めてくれたようだ。ラドゥーは内心ほっと息を吐いた。
目の前の女性は強大な力を持つと恐れられる“姫”。その“姫”に力をふるわれたら、どれほどの被害か想像もつかない。ラドゥーの隣で軽く肩を竦めるエメラルドグリーンの少女が、それを知らないはずはないのに、お構いなしで“姫”を突いた。
寧ろ、暴れさせてみようというように挑発的だった。
…クリスともガチンコを一戦やらかしてから早々、第二ラウンドに突入するつもりか。
意外と好戦的だ。危ない道化に対しても一歩も引かなかったことを考えると、ラドゥーの気が重くなった。喧嘩することにではなく、彼女の身に憂慮して。
「……ここで立ち話もなんだわ。ついてきなさい」
ぎらりとエルメラを睨みつけてから“姫”は踵を返した。ラドゥーは争わないに越したことはないと、素直についていこうとしたら、つぎはぎがぴょんぴょん跳ねてやってきた。
「なあなあ、あのねぇちゃん誰だ?」
ぴょいっとラドゥーの肩に飛び乗る。ラドゥーは落ちないように支えてやった。
「この夢を乗っ…いえ、ぜひ譲り受けたいと申し出ている“姫”という方ですよ」
「へぇ」
「夢の世界では有名らしいんですが、つぎはぎも知っていますか?」
エルメラ曰く脳みそ綿毛類のぬいぐるみじゃ分からないかな? と、大して期待せずに聞いてみると、つぎはぎは明後日の方向を向いて鼻をひくひく動かしていた。既にラドゥーの話など聞いていなかった。
…コノヤロウ。
「…ふぅん。あのねぇちゃんも“姫”って名前なんだぁ」
ぽつ、と呟いてラドゥーの肩から飛び降りた。
「………も?」
取り残されたラドゥーは首を捻った。
“姫”の後について灰色空間を進んでいくと、まもなく違和感に気付いた。
「…?」
目を擦ってみる。視界に変化はない。
「…目が」
「どうかしたの?」
エルメラが彼を見上げて顔を覗きこんだ。
「いえ、ちょっと目の調子が、おかしいみたいで」
エルメラは思い至り、軽く頷いた。
「ああ、全然大丈夫。目は正常よ」
「そうですか? なんだか、視界が霞んで、ぼやけてるんですが」
「だって灰色空間だもの」
それが答えだと言わんばかりだ。ラドゥーは確認するように、ぐるりとあたりを見渡した。
灰色空間と呼ばれるここは、文字通り全体的に灰色っぽい。けれど、一面霧みたいに灰色以外何もないのかというと、そうではない。
見えるのだ、一応。
地面や、家屋、壁、ラドゥーの世界では見た事のない面白い物などが、ちゃんと見える。ところが、それが全て、灰色がかって薄ぼけ、全貌が伺えないのだ。
まるで―
「―存在が消えかかっているみたいに」
そのものが、消滅しかけているみたいに。見えるもの全てが薄いのだ。
霧のせいで見えにくいのではなく、霧そのものに転じているような。その霧が晴れた時、それも一緒に煙に溶けて消えてしまいそうな…。
エルメラは頷いた。
「それが、灰色空間よ。当たり前に存在していたモノが薄れて消えていく場所」
ゆっくりと、しかし確実に。
「薄れて…」
息を吹きかければ、簡単に風に押しのけられてしまうくらいに希薄に。
「ここは、元々ちゃんと主の力が行き届いていたところ。今うっすらと見えてるのは、その名残」
鮮やかな森に今までいただけに、この薄さはいっそう際立った。エルメラはさしてどうとも思ってなさそうにラドゥーと同じものを視界に入れた。
「大分、進んでるわ、崩壊が。これじゃあ、あの人達がかぼちゃ頭さん家に乗り込んでくるのも無理ないわね」
夢人は、主のいない世界では耐えられないのだという。少しずつ、狂っていくのだと。
その理由が分かった気がした。
不安になってしまうのだ。この世界は。ここに立っているだけで、心もとなく、胸がざわめいてしまう。長い期間、こんな落ちつかない場所にいたくない。
薄まっていく世界に。徐々に崩れて行く自分の足場に。自分達ではどうしようもない、刻一刻と迫る自身の崩壊に。人は不安を増大し、やがて荒んで狂いだす。
その原因は、ジャックにあるのだと。そう思い至った時、主であるジャックへ牙を剥いてしまうほどに。そして、それはジャックの責任でもあって。
「どっちが正しくて、間違っているのか分からなくなってきました…」
助けて、と男達の嘆きが、耳に木霊する。ジャックが大人しく渡していれば、確かにこんなことにはならなかったかもしれない。だが、ジャックのみに非があるとも思えない。
「この世に正しいと認められるのは勝者だけよ。勝った方に都合よく歴史を書ける権利が貰える。どちらが正しいのかなんて答えは無いわ。当事者からしたら自分こそが正義に決まってるし」
正しいことは、正しい行いのことだ。
…その立場の人間にとって。歴史は、勝った者が創りだしてきたように。
ジャックにはジャックの、“姫”には“姫”の、彼らには彼らの都合がある。
だからこそ、諍いが起こり、その被害が住人に及ぶ。
灰色の奥深くに進むにつれて、周囲から声が聞こえるようになった。
甲高い女性の声や、野太い、男の声。老若男女問わず、いろいろな声がそこかしこで響き渡る。いづれも、嘆ぎ、悲痛、絶叫、慟哭…負の感情による叫びだった。
すぐに声だけでなく、その光景が、ラドゥーの目にもはっきりと映った。
「………」
悪夢だ。阿鼻叫喚の図とはまさにこのことなのかと。これまで体験してきた過去とは比べ物にならないほどに、凄惨だった。
腕がもげる、脚が、首が、胴体が。
噴き出す血潮、流れる赤い川。その匂いはラドゥーの元まで。
しかし、人々のそれらはすぐに、くっついていた。
中心にいるのは一人の夢人。
自分や、周りの夢人達にあたり散らすように武器を奮い、訳のわからない事を喚き散らし、狂ったように踊りまわり、己や人々の身体をもぎ取っていた。
千切れても、もげても、元に戻るから、死なない、死ねない、終わらない、終われない。
絶句しているラドゥーの耳につぎはぎの暢気な声が聞こえてきた。
「あー、なんかすごいことになってる〜」
目の前の光景と、つぎはぎの底抜けに明るい声はひどくちぐはぐだった。
「あ~あ、また一人、手に負えないほどに狂ったやつが出ちゃったわね」
しょうがないな、というように“姫”は溜息を吐いた。
何の冗談だろう。この光景を前に、誰も彼もが世間話でもするように…。まるで、動揺している俺の方がおかしいみたいじゃないか。
じわじわと滲み出る黒いモノが胸から湧き上がってきた時、両脇から白い腕が伸び、ラドゥーの視界を遮った。
「だぁれだ?」
悪戯な恋人が戯れるようにラドゥーの目を覆った。
「…何してるんですか。今はそんな場合じゃ…っ!」
さすがにむっとして、エルメラの手を振り払うと、人だかりから血が消えてなくなっていた。視界いっぱいに広がっていたはず血の海が、きれいに消えていたのだ。
夢人は、いる。荒れ狂う夢人の暴走がなくなった訳でもない。現に、新しくまた血が溢れてきている。
しかし、視界が途絶えた一瞬だけ、綺麗に、血や、匂いまで、無くなっていた。灰色が純白に見えるくらいに真っ赤な血が。
「あ…れ?」
「ムークット君にいいこと教えてあげる。ここは夢よ」
「知ってますっ! そんな事…っ」
ラドゥーの唇にエルメラの指が添えられた。ひんやりとしていて、まるで体温が感じられない指。
その冷たさに一瞬で頭が冷えたラドゥーは、険を含んでいた目を解き、ぱちくりとさせた。満足そうに頷いて、エルメラは指をはずした。
「ここは、夢よ。実体のない夢人に生命の象徴の血液が流れてる訳ないじゃない」
何処か、子供に諭すような口調だった。
「貴方が見たのは、貴方に染みついた常識の見せた幻。怪我を、したら、血が、流れるってね」
一句一句区切って言い含めるかのように言うエルメラの目は何処までも澄んでいた。
「でも、実際はそうじゃない。夢人に生きる資格はない。だから貴方が見た幻は、見えなくなった時、解けたでしょう?」
ラドゥーはもう一度、今度は自分で目を閉ざした。
そして開けて広がった光景。まだ、狂った人は踊って、男の人の腕が飛んでいたけれど。視界が途切れた瞬間は、赤いものなど何もなかった。それでも、すぐに新しい血が吹き出るのだが、最早何処か遠くでものを見るような現実味のない感覚を覚えた。
「引き摺られないで」
声が耳朶を打ち、ラドゥーは少女を見る。
「今、らしくなく苛立って、声を荒げたでしょう? 引き摺られかけてたわ」
そう言えば、目の前の光景に、つぎはぎ達の反応に、心がいつになく、ぐらついた。ラドゥーだって、感情はある。怒りも覚えるし、怨む感情も知ってる。
だけど、今の目の前の光景に対するように、形容しがたい、どす黒い感情に胸中を支配されそうになる事はなかった。
そうなる前に、いつもなら肩の力を抜く事を、いつの間にか覚えていたから。
「…闇の気配が濃いんでしたっけ」
疲れたように問うラドゥーにエルメラは頷く。
「分かったでしょう? 夢人が強力な主を求める原因」
ラドゥーは頷いた。灰色空間は人の心に不安をもたらす。その不安が決壊した時夢人は狂う。
そして、狂った人を見て回りも不安が増幅する。そして闇が濃くなっていく。
見事な悪循環、だ。
知らぬ間に引き摺られかけていたラドゥーはその威力に身震いした。知らない間に心が荒み、気付く頃には手のつけられない所までいってしまったら。
感情の抑制に慣れているラドゥーでさえこうなるのだ。感情豊かだと言われる女性のクリスは尚更だろう。まして、生きることを諦めた夢人が、どれだけこの空間で耐えられるか。
「……あの人はどうにか出来ませんか?」
「あの暴れているやつ? あの夢人はもう無理よ。狂って狂って堕ちるとこまでいったら、後は、消滅するだけ」
無情な宣告が突然“姫”の口から発せられた。
「あの光景を止めたいだけなら、出来ない事もないのだけど…」
その続きを引き継いだのはジャックだ。
「……あの夢人を、壊せばいい」
ラドゥーがジャックに首を巡らせると、彼は静かに、惨状を見つめていた。
「あの夢人もそれを望んでいるだろう。一刻も早い終焉を」
“姫”からクスクスと笑いが漏れた。
「貴方がこの光景を生み出した癖に、それを言うの?」
「………」
ジャックは答えない。ただ、光景を見つめているだけだ。じっと、まるで、己の罪をかみしめるかのように。
どうして、夢を放っておいたのだろう?
力がなくても、無いなりにやりようもあったのではないのだろうか。ラドゥーは単にかぼちゃ頭さんが怠惰で夢を放置していたとは思えなかった。
「周りの夢人達はあんなになっても狂った夢人から離れない。きっと本来は慕われる人だったんでしょうね」
エルメラの呟きにラドゥーは、はっとなった、そう言えば、周りの夢人は狂った夢人を囲うように集まっていて、逃げる様子はない。
だから、あんな切られ放題な光景が出来上がる訳だが、それは、狂った夢人に目を覚ましてもらおうとしているのなら。
「でも、もう無理よ。一度狂ったら、二度と元には戻らない」
エルメラは一瞬でも救えるかもしれないと希望を抱いたラドゥーの思考を打ち切った。エルメラは彼を見た。まるで、どうする? と訊くように。
元に戻そうと必死になっている人達から、あの人を奪うのは躊躇われた。かといっていつ終わるとも知れない狂気の中に、あの人を長く置いておきたくない。
「………あの周りの人、たくさん傷ついてますが、大丈夫なんでしょうか」
「まあ、痛くないことはないけど、それは大丈夫。でもあの狂気にずっと晒されていたら、それに誘発されていづれ第二号が出てきちゃうわ」
また、この悪夢が繰り返されるということか…。
ラドゥーは狂った男を見た。笑っている。高らかに。楽しそうに、解放されたように。
けれど笑いながら凶器を振るうその男は、泣いているようだった。
少なくとも、ラドゥーにはそう見えた。待ってる、自分を消してくれる誰かを。
そう思ったから、だから……
「彼を…消して、ください」
絞り出すように、しかしはっきりと口にした。
「分かったわ」
エルメラは軽く応じた。ラドゥーは拳を握りしめる。
――――――――――瞬間、風が、巻き起こった。