25.プチ修羅場
風が渦巻く。
緑玉の髪が弄られるのを、俺は後ろから茫然と眺めているしかなかった。
全ては一瞬の出来事。
ああ…。
俺は納得する。
強すぎる力は恐怖しか与えないというのは、本当だったのかと。
彼は瞳を閉じた。
修羅場の定義を考えてみた。
修羅場とは一般に、血しぶき迸る激戦の戦場を形容する時に使われる言葉だ。
今、この状況では血など一滴も流れていないし、凄まじい剣劇が繰り広げられているわけでもない。
けれども目の前の状況を評価するにあたって、ラドゥーの語彙に、この言葉以外にぴったりくる言葉が見つからなかった。
両親のくだらない理由で突如勃発する痴話ゲンカなど目じゃなかった。
逃避といわれても構うものか。
「貴女、ムークット君の何なんですか?」
「答える必要あるの? お嬢ちゃん」
「なっ…おじょ……貴女とどれだけも違わないわよ!」
「軽く1000年は違うわよ」
ラドゥーは、とりあえずリンが淹れなおしてくれたお茶を啜りつつ、火花が弾ける様を眺めていた。何故こうなってしまったのか。ラドゥーはもう一度おさらいしてみることにした。
転がた男達に粗方の情報は訊き出した後、家の中に戻ろうとした。
先に気付いたのはエルメラだった。
「あら」
ラドゥーは彼女につられて戸口に目を向けると、部屋の中で寝かしておいた筈のクリスが、玄関口を塞ぐようにして立ち、こちらをじっと見つめていた。恨めしげに。
ラドゥーは浮気現場を目撃された亭主の様な心境を味わう。無論、エルメラともクリスとも、そういう関係ではないのだが。
「…ムークット君が外に行ったって、あのおばちゃんから聞いたんだけど…」
覗くつもりじゃなかったと言いたいのか、言い訳のように呟いた。
別に、エルメラと何してた訳ではないが、普段ラドゥーは女性と進んで二人きりに、それも気易く話すタイプではないので、年頃の少女(しかも絶世の美少女)と一緒にいるという場面は、予想外に彼女に衝撃を与えたようだ。
「あら、貴女」
エルメラはクリスを上から下へと目を移してまじまじと見た。ドレスを纏い、少々崩れてはいるが、綺麗に化粧を施された彼女が、こないだラドゥーにアタックして、見事に玉砕した女の子だと気が付いた。
にやりと口の両端を上げるエルメラに嫌な予感しかしなかった。
エルメラはおもむろにラドゥーに腕をからめた。首を傾げて肩に乗せ、ぴったりと身体が寄り添う形になる。
「御機嫌よう。お姫様。ここの森は散策にうってつけよ。貴女もお散歩してきたら?」
まるで、たった今までラドゥーとエルメラが、仲良く散歩に出ていたとでもいわんばかりだ。
男女が並んで散歩に出かけるのは、よほど親しい間柄だということを暗にしてしている。特にクリスの国では、男女が二人きりになるのを許されるのは、間柄が婚約者か、配偶者である場合のみだ。
エルメラは知っているのかいないのか、結果的に、そういう間柄であるとクリスに示した。
「………」
クリスに何と思われたところでどうという事ではないが、男の反射というべきか、疚しくないのに焦ってしまうのはどうしようもない。
硬直し、怯んだかに見えたクリスは、ところが意外なことに気を持ち直して反撃にでた。
「ごきげんよう。彼とはさっきまで舞踏会でご一緒していたのよ。さっきも一緒に夜の庭で散歩をしていたの。疲れている彼をまた散歩に連れていくなんて、気遣いのない人ね」
鼻で嗤ったクリスに、しかしエルメラは余裕だ。
「ふぅん? まだ彼を諦めていないのね。振られたくせに」
直球。
ラドゥーは目眩と息切れと動悸にくらくらした。ラドゥーは女性同士のガチに割り込めるほどの勇気はない。母親のおかげでその恐ろしさと面倒は骨の髄まで教え込まれている。
とどのつまり、エルメラにくっ付かれたまま、大人しくしているしかない。
しかし、大人しく腕を組まれているラドゥーの態度はクリスの嫉妬心に拍車をかけた。かっと顔を赤らめたクリスは、わなわなと唇を震わせた。
目の前の女が二度と立ち直れないような罵倒を浴びせたいところだが、恋する彼がいるせいで、それが出来ない。歯がゆさに怒りが増長した。エルメラは彼女の心情などお見通しだ。小さく笑う。
けれどクリスは簡単にエルメラに勝利を譲る気もなければ、大人しく引っ込むたまでもなかった。
「覗き見なんて、いやらしいご趣味をしていらっしゃること。お里が知れますわね?」
単身外国に留学するほどガッツがある王女様は、己れ以上の美貌の前にも引き下がらなかった。
エルメラの絡めた腕の力が強まった。ついでにラドゥーの産毛は逆毛立った。うろたえはしなかったものの、年下の女に噛み付かれるのは面白くなかったらしい。
「ねぇ、どうしてこの子も一緒にいるの?」
エルメラがラドゥーを見上げた。いちゃいちゃしてたんじゃないだろうな、みたいな。
「…いえ、何というか、成り行きというか」
「彼と、“二人っきり”でお散歩してたからよっ!」
勝ち誇ったように声を上げるクリスに、一言申そうとする前にエルメラにがっちり腕を捕獲された。
「そう。しかも夜に…それは詳しく聞かなきゃいけないわ。ねぇ?」
エルメラの笑顔に背筋が凍った。
そんなこんななやり取りは、なんとか二人を家に戻した後もしばらく続いた。
家で待ち構えていたおばちゃんが、心なしかウキウキしていたのが、妙に気になった。
「……じゃあ、ここは、ギータニアじゃないのね…?」
「どころか、貴女の生きてる世界でもないわよ」
一時休戦条約締結後、ここが何処で、どうしてしまったのか説明すると、クリスは首を振った。
「ここが、伝説の“扉”の向こうだなんて…信じられない」
もっと素敵な所だと思ってた、と小さく呟いた彼女の気持ちはラドゥーにもよく分かった。
ラドゥー達の暮らす世界で認識されている“扉”の向こうの世界とは、女神や善良な精のいる『妖天界』か、怪物や鬼を封じる『鬼獄牢』と呼ばれる地獄とかが存在する御伽の世界が一般的だ。
他にも様々な説があるにせよ、間違っても何処にでもいそうなおばちゃんや、かぼちゃを被った変人などが存在している説はない。
「夢を壊してしまったようで申し訳ないけど、事実だから。諦めなさい。それと、これからちょっと出掛けてくるから」
ちょっと隣の八百屋まで、みたいな軽い口調だったため、クリスの反応が一瞬遅れた。
「ど…何処に行くの?」
クリスはエルメラに続いて出て行こうとしたドゥーに縋るように見上げた。やはり、そのまま大人しく行かせてくれそうもない。彼女には説明も面倒だったので“姫”云々は伝えていない。ついていくと言われても困るし。どう納得させたものか。
「森の外です。」
「森の外? 街でもあるの?」
「街ではないかと思いますが、ここで暮らす方達がいるところです」
「ど、どうしてそんな所に?」
「帰る為ですよ」
「何しに行くの? どうしても行かなきゃダメ?」
「ええ。お茶のお礼もしたいですし」
何故行く必要があるのかという説明になっていないが、クリスに気付く余裕はなかった。
「わ、私も行くっ」
「やめといた方がいいわよ、お姫様」
あしらうような言い草にクリスはきっ、とエルメラを睨んだ。
「どうしてよっ! 貴女も行くのに。そりゃ街に出ればこの格好は目立つけど、ムークット君だって一緒じゃない」
ラドゥーが舞踏会仕様の一張羅なら、彼女も舞踏会用のナイトドレスだ。しかも王女なだけに一際豪華だった。しかし、問題は服装ではない。森の外は、人が凡そ想像がつかない未知の灰色空間だ。
「そうじゃないわよ。貴女まで守る余裕がないかもしれないからよ。大人しくここにいて」
恋敵(?)に言われて憮然としたが、エルメラは真剣な表情で、好敵手である自分を出し抜く気ではなさそうだ。確認するようにラドゥーを上目使いで見つめた。
「…そんなに、物騒なの?」
「分かりません。ですが、安全かどうかも分からない場所に貴女を連れて行けません」
「…大分やられてると思うし」
エルメラの言葉は、クリスには届かなかった。
「でも…ムークット君と離れたくない…不安なの。傍にいて」
甘えるように擦り寄られたが、ラドゥーもクリスには大人しくしていてもらいたかった。優しくだがきっぱりと彼女の肩を押した。
「すみません。どうしても行かなくては」
「…」
「不安なのは分かります。ですが、少なくともここは安全です。大丈夫。俺を信じて。危険な事は男に任せて、貴女はのんびりお茶を飲んでいてください。貴女が危険な目に合うかも知れないと思うと、気が気じゃないんです」
その一言でクリスは不安そうな顔から一変、頬を染め、夢見る乙女に変貌した。
「ムークット君がそう言うなら…」
うっとりとしたクリスは、またまどろむ様にぼんやりとし始めた。好都合だ。リンにクリスを任せ、その時、家に戻って来たかぼちゃ頭さんに笑みを向ける。
「では、行ってきますね」
「何を言っている?」
ところが、ジャックに首を傾げられた。
「何って…勿論これから“姫”の所に行くんですが…」
「わたしも行くに決まっているだろう」
そんなの初耳だ。なのにエルメラは最初からそのつもりだったように頷く。
「そうね、かぼちゃ頭さんにも来てもらった方が何かと便利かもね」
「何言っているですか。彼も言っては向こうの思うツボ…」
「でも、かぼちゃ頭さん家にいるんでしょう? その困ったちゃんは。なら案内役がほしいじゃない」
「それはそうですが…」
そもそも彼が“姫”に対抗する力が無いから、こんな事態に陥ってしまったんじゃないのか。なのに、その場にかぼちゃ頭さんを連れて行くのは些か不安だった。
「大丈夫よ。彼はね、力がない訳じゃないの。向いてないだけで」
エルメラは全て分かっているようだった。言葉を求めて彼女に目を向けるが、彼女は教えてくれる気はなさそうだ。
向いていないとはどういう意味だ。
「おいらも行く!」
ラドゥーの思考はつぎはぎに遮られた。暫く静かだったから忘れていた。
床を見下ろすと、ラドゥーのズボンの裾を掴み二足で立っているうさぎが、やけに嬉しそうに前足を上げてブンブン振っていた。耳がピコピコしている。
「そうねえ、こういう時なら、つぎはぎも役立つかもね」
エルメラはにっこり笑って同行許可を出した。ラドゥーの不安は加算された。
「では行くとするか。…リン」
「承知しております。何があってもこの家もお姫様も守りきって見せますから」
背筋を伸ばした彼女は何処か武人を思わせた。見た目と態度がすごいギャップだった。
「リンは元々、創造主の護衛だったからな」
ラドゥーの疑問に気付いたかぼちゃ頭さんが事も無げに言った。
「そうでしたか。道理で…」
最初に会った時、ラドゥーらを見る目が一瞬警戒する眼をしたように感じたのは、どうやら勘違いではなかったようだ。あれは、敵か否かを判断する眼だ。
襲撃してきた奴らを縛りあげる時も、やけに手慣れていた理由も納得した。
あの類の眼をするヤツをラドゥーは知ってる。もしヤツと同じなら、リンおばちゃんは相当できる。
何処にでもいるおばちゃんは、実は実戦部隊長並のお人だった。
「何をしていた人なんだ…」
このおばちゃんがまさか軍部に所属していたとは思えないが。ラドゥーと目が合ったリンは、朗らかに笑った。
「ジャック様をよろしくお願いしますね」
おばちゃんはきりっと一礼した。あながち、そうなのかもしれない。
そうして、笑顔で見送られた三人と一匹は、家の外へと踏み出した。
「私は女の子に含まれていないの?」
森の中、唐突なエルメラの言葉に、ラドゥーは何の事が一瞬分からなかった。
「え、ああさっきの事ですか? ついてくるのを諦めてもらうのに咄嗟に言ってしまっただけですが。気にされたのなら謝ります」
「ふぅん、いいわよいいわよ。所詮、本物のティーンエイジャーには敵いませんよぉだ」
どうやら拗ねてしまったようだ。
「それは失礼しました。でも貴女も怪我などしないか心配なんですよ」
「…」
「本当です。そりゃ、心配とか言いながら頼りにしてしまっていますが…」
事実、エルメラが来たことで、“姫”に対する不安は薄らいでいる。警戒は解いていないが、何処か安心感もあった。ラドゥーは女性に頼っている自分を情けなく感じた。
エルメラは片目だけでラドゥーをちら見し、ラドゥーのハの字に下げた眉を見てクスッと笑った。
「冗談よ。大人しくお家に籠ってるお嬢様なんて柄じゃないわ。頼られる女の子ってのもなかなか素敵だし?」
からかわれたのだろうか?ともあれ機嫌を直してもらえたようだ。ラドゥーはほっとした。
女の子の癇癪はあまり好きではない。正論を言い聞かせても、感情のままに受け入れてもらえなくなるから、煩わしいと感じる時もある。特に、貴族の令嬢の半分は我儘で出来ているので尚更だ。
なのに、エルメラに拗ねられたら、それどころではなくなった。
煩わしいなど、ちらとも思わなかった。ひたすら機嫌を直してもらおうとそれだけだった。
どうしてだろう?
内心首を捻っていると、エルメラがこちらをじっと見ているのに気付いた。
「何ですか?」
「あの子、クリスだっけ? その子の事なんだけど」
さっきの軽い雰囲気とは打って変わって、真剣な顔つきだった。ラドゥーは姿勢を正した。
「彼女が何か?」
「彼女、闇の色が濃かったわ」
「闇、ですか?」
一体何の話だ。
「魔に引き摺られやすい状態だったってことよ」
「普通に見えましたけど?」
元気よくエルメラとガチンコファイトしていた様子を見た限りでは、そんな危険そうな様子ではなかったように思う。
「ねえ、どうして現実世界に犯罪が起こるのかしら?」
エルメラは唐突に話題を変えた。
「それは、世の中悪い人もいますから…」
「悪い人と良い人の区別って?」
「それは…普段の素行とか性格とか…」
「それでいくと、世に溢れかえっている犯罪は全て“悪い人”の仕業なの?」
「それは…」
ラドゥーは言葉に詰まった。
犯罪は時になんてことのない日常から発生する。ごく普通の家庭内の中で惨劇が起こる場合も珍しくない。
「誰もが持ってるわよ、影の部分なんて。もちろん貴方にも。それが普通だから、負の感情を持っていたって悪いわけじゃない」
聖人じゃないのだ。誰だって、普段優しい人であっても全く持っていない筈がない。
事を起こすかどうかは、ひとえに、理性で制御しきれるか否かにかかっている。つまり、負の感情の囁く、身勝手な甘言に打ち勝てる人が、外から見て良い人に分類されるだけで。
腹の内など誰も知る由もない。
「だから、何だっていうんです?」
先頭にいたジャックは、彼らの不穏な気配を感じておもむろにつぎはぎを持ち上げた。
「何すんだよかぼちゃっ」
上機嫌で歩いていたつぎはぎは不満そうに抗議した。
「…別に」
「最初、つぎはぎが原因でこっちに来ちゃったって思ってたけど、彼女を見たら、彼女の所為でもあることが分かったわ」
「彼女は王女の身分こそあれ、普通の子ですよ。それに、今まで夢の世界とは無関係でした。貴女のように魔法が使えるわけでもなく、策士でもない。彼女も巻き込まれたんです」
「いいえ、現実世界と夢の世界は表裏一体よ。誰だって無関係でいられないわ」
「かもしれませんが、彼女に会ったのは偶然でしたし、こっちに来たのも突然でした。本当に偶然なんです。それに、こっちに来てから彼女はずっと眠ってましたし」
「眠っていた訳じゃなくて…まあ、これは今はいいとして…。あのね、一つ訊きたいんだけど、こっちに来てしまう前に彼女、何かした? もしくは言ったとか」
ラドゥーは首を傾けてちょっと考える。
そう言えば…
「何処かに行きたいとか言ったような」
その前に情熱的なセリフを言われてしまったが、今は関係ないだろう。エルメラは頷いた。
「そう、逃避を願ったのね。本気で。貴方と、何処かに行きたいと」
ラドゥーのいないところにいたくない。確かに言った。
「それが何か問題でも?」
「そうねぇ…怖いのはね、逃げたいと思う人は、闇の甘ぁい囁きに堕ちやすいの」
人間誰しも、目の前の障壁から逃避したくなる。いつだって全力投球、壁は高いほど闘志が燃えるとか言う熱血野郎ばかりではないのだ。逃げたい気持ちそのものは当たり前の気持ちだし、全然害など無いのだが。
「囁きに耳を傾けた人は、衝動的で向こう見ずな行動に出る場合があるわ」
当たり前に逃避を人は願う。それだけ闇は身近に。
「でも、今の彼女には、そんな暗い感情なんてない筈…」
「あら、あるじゃない。最も厄介で自由にならない“恋心”が。その感情によって、数多の世界で歴史上どんな事件が起こってきたか。恋は盲目とはよく言ったものだわ。綺麗なばかりじゃないのよ? 恋ってのは。恋する思いは純粋でも、それにもれなく付いてくるのが、嫉妬。マッチ程度の火だと思っていたら、次の瞬間には業火に転じていてもおかしくない起爆剤」
嫉妬。最も醜くて、最も人間らしいと言える感情。何かに執着する人間は、嫉妬という感情から逃げられない。
「それに加えて彼女は逃避を願った」
逃避を願いながらも、それでも人は時間に攻め立てられて、どうにか壁を乗り越え成長していく。しかし、その時間さえ拒絶して、その願いを叶えようとして、実際叶ってしまった時、人は時間の軸から外れる。
夢への扉が、開く。
「でも彼女は口にしただけで…」
口にしただけで夢の世界に行けてしまうなら、現実世界の人間は行方不明者だらけだ。
「ええ、それはそうよ。そんな簡単に行けるわけないわ。どんだけ魂の雄叫びを上げても、普通なら夢に逃げられない。人はそう簡単に、時の流れからはずれる事が出来ない。ただね、間合いが悪かった。だってつぎはぎがいたから」
「つぎはぎ?」
「夢に属する、夢の住人」
つぎはぎは最早普通のぬいぐるみではない。夢の世界が居場所となって好きに跳び回れるぬいぐるみなのだ。ラドゥーの世界に偶然落ちてしまったが、夢の世界に帰るタイミングを待っていた。
「加えて、実際人を夢に渡せるだけの力の源があった。この腕輪がそうよ」
必要な物が揃った場に、彼女の強い願い。それが恋という、理屈では説明し難い、強くも理不尽な思いが願いの根底にあったから、簡単に、扉は開いてしまった。
「クリスさんが原因として、それがなんだというんです? 何が言いたいんですか」
「恋で高ぶったまま、夢に来てごらんなさい。貴方、最悪無理心中させられてたかもしれないのよ」
「な…んですって」
「今から向かう所は灰色空間。長くいると気が狂ってしまう所。貴方は私がいるからいいけど、何者にも守られていないあの子は、数分保たない」
言葉が出てこない。相手と共に死のうとするのは、最早愛ではなく、そのなれの果て。
狂気の世界。
「ウォンバルト殿下もそうだったでしょう?」
夢の世界。心の在り方がより顕著になる空間。願いが心を支配した時、それは魂を縛って暴走する。自分ではどうしようもなく、望みをかなえようと手段を選ばなくなる。
傍にいたいというクリスの願い。その願いが、間違った方向へ流れ、行き着くところまで行ってしまったら…。
相手を引き止めたい。相手の時を、止めてしまえば、離れる心配はなくなる。そう思いついて、さrない実行しようとしたら?
「―――――」
クリスがまだ生身の人間で、すぐにまどろんでくれたから、まだ正常でいられただけで、実はかなり危ない状況だったのだ。
「辿り着いたここだって、安心とは言えない場所よ。そんな闇が生じやすい所に辿り着いたのも、多分彼女の闇が無意識にここに引き寄せられたから。…気を付けて。闇は闇を呼ぶ。森の外は闇の気配が濃い灰色空間。引き摺られないで」
その言葉は、少し前に言われた言葉を思い起こさせた。
〈闇に属するやつに気を付けて〉
いつかのアビスの言葉だ。この件とは関係ないはずだが、引っ掛かりを覚えた。俯いた彼に彼女はまた言った。
「とはいえ、まだ、それほど深刻でもなかったんだけど。私を見たときの目に、暗いのがチラついてね、ついつい応戦しちゃったのよね。だってライバルがいるうちは感情の矛先がそっちに向かうでしょ? 負けたくないっていう、嫉妬並に強い思いが作用するから。だから、貴方には純粋な恋する気持ちだけ向けるだけで済んだ」
あのガチファイにはそんな裏が。
「その予兆を見せた彼女を、これから行く灰色空間に連れて行けるわけないでしょう」
「…そうですね。お気遣い、ありがとうございます」
クリスの同行を止めたのは、単純に、“姫”を警戒してのことだったのだが、エルメラはもっと別のこと見ていた。
「……話はもう終わったか?」
少し離れたところでかぼちゃ頭さんがつぎはぎを抱えて待っていた。
「すみません。もう終わりました。すぐ行きます」
足早に追いつくと、ジャックはくいっと顎で森の先を示した。
「ここから先が森の外だ」
「え? でも、まだ森が続いているように見えますが」
「そう見えるだけだ。ここに境界線がある」
まあ、主がそう言うのならそういうものなんだろう。
「開くぞ」
ジャックが手をかざす。
一瞬、光が目を焼き、次第に戻ってくる視界には、一面に灰色の空間が広がっていた。