24.夢の境界
彼女は眠っているわけではなかった。
ただ、頭がぼんやりして、身体全体が重くて、まるで風邪の様なだるさが彼女を支配し、まともに立っていられなくなっただけだ。
そんな彼女を隣室に寝かせて、ラドゥー達は何やら隣部屋で話をしているのは、何となく分かった。
でも、大きい声で話しているのでもなかったから、話の内容は分からなかった。もとより、意識が混濁している状態だ。意味のある言葉として認識することは困難な状況だった。
暫くして、外が騒がしくなっ。それが収まったかと思ったら、今度は若い女の人の声がかすかに聞こえてきた。
―――何が起こっているの?
思考がおぼつかない中、必死で考える。
そもそもどうしてこんな所にいるんだろうか。真っ暗なところにいきなり来てしまったと思ったら、今度は急に視界が開けて森の中。意味が分からない。
それでも、あの暗闇よりはマシだと、ほっとしたのもつかの間、ボロボロに薄汚れたぬいぐるみと目が合った。奇麗な赤いボタンの目。クリスはキョトンとした。そしていきなり話しかけられて飛び上がった。ぬいぐるみだけでも許容量を超えてしまっていたのに、今度はかぼちゃを頭に被った男と遭遇した。変人と思った割にはちゃんと会話出来てしまったのも違和感を生んだ。
次から次へと襲いかかる想定外の事態に、彼女は言いようのない不安を抱えた。
どうして、彼は側にいてくれないんだろう。彼がいるなら不安も甘い鼓動に変わるのに…。
彼に会いたい…。
強く望むと徐々に意識がはっきりしてきた。クリスは瞼を押し上げた。
「だからっ俺達はただ平穏に過ごしたいだけなんだっ」
「平穏に過ごしたい人は、物騒な物担いで人様のお宅に押し掛けたりしませんよ」
「仕方ねえだろっ、主は姿を隠した。無理矢理にでも境界を突破しなけりゃならねえんだから」
「境界?」
「この森全体がそうだっ」
男は後ろ手に縛られた身体をよじって森を見渡す。
「この森は主の縄張り。主が望まない限りここに足を踏み入れることは出来ねぇ」
「どう考えても招かれていないのに、貴方達は入っているじゃないですか」
「知らねぇよっ。境界が揺らいだんだっ。だからその瞬を狙って森に入ったんだ」
揺らいだ?
口に手を当てて考え込むとと、ラドゥーの背後で土を踏む音がした。
「それは貴方のせいでしょうね」
ラドゥーは振り向いた。エルメラがつぎはぎを抱えてそこに立っていた。
「…俺の?」
「ええ。突如境界内に現れた貴方達を扱いかねて、隙が生じたんでしょ」
よく分からない。
「貴方というより、貴方が身に付けている腕輪。それはあのかぼちゃ頭さんには強すぎたんでしょ。だからちょっと怯んじゃったのよ」
「境界というのも魔法の一種ですか? 結界のような」
「いいえ、ただの夢の境界線。夢と外との境目」
「…その人の夢では主の影響力が一番強いんでしたよね? それで揺らぐんですか?」
夢全てを網羅出来なくても、この森は紛れもないジャックの領域だ。力の及ぶ範囲内にあって大きな力がきたとして、揺らぐだろうか?
「あぁ? お前そんなことも知らねぇのかよ、夢人のくせに」
「俺は生身の人間ですが?」
「嘘吐け。カラダ持ったモンがそんなピンピンしてられる訳ねぇだろうが」
そう言われても…。
「今はどうでもいいでしょ。普通なら、境界と夢の大きさは同じはずで、夢の全てが主の思うがままの絶対領域。でも夢の大きさは、境界の半分もない。壁は立派なのに、肝心の家は犬小屋って感じね」
犬小屋とは酷い表現だな…。
「夢の大きさと、境界線が一緒じゃなきゃ均整がとれない。余地を残すと困るの。夢は均整をとろうとする。だから、貴方がここに来たことで大きな力が入ってきた時、その力を取り込もうとして、膨張した。でも、それが隙になってこのヒト達を入れてしまったってところでしょう」
「受け入れられるんですか? ジャックさんは創造主との力の差が大きいと言っていました。これ以上の力がないからこそ隙が出来てしまうのでは?」
「余裕はあるわ。あのヒトは少し特殊みたいだから」
「…それで? そのまだまだ余っているらしいこの夢の外は、どうなっているんです?」
彼らがいるという場所だ。新しい主の及ぶ範囲でなくても、ちゃんと何かしら在るはずだ。
「何も存在しない、灰色空間」
「灰色空間?」
「“夢の旅人”が創った生きた夢は主がいなくなっても壊れないっていうのは知ってるかしら?」
「かぼちゃ頭さんが教えてくれました」
「そう。それはね、壊れないための骨組みを持ってるから。建築物に例えるとそれを支える柱。夢の骨組みの大きさは、創造主の力の強さで決まる。かぼちゃ頭さんは創造主より力が強くないから、骨組み全てに壁を張れない。隙間風が吹き抜けるあばら家同然。だから、ここの夢全てを網羅出来ないわけ。見ため豪邸なのに、蓋を開ければ犬小屋の大きさ」
つまり、手が回る部分だけ囲っているから、そこから洩れた範囲で“姫”は好き勝手しているのか。
「この森の外は無法地帯。殆ど何もなくて生かされていない。スカスカなの。それが灰色空間。私もさっき見てきたけど、宝の持ち腐れだわ」
「でも、夢は壊れないなら、主の存在で夢の存続に左右されないということでしょう? なら、どうしてそこまで主に拘るんでしょう? スカスカだと何かまずいことでも?」
無法地帯でも、何もなくても、空間があるなら、夢人達でどうにかやっていけないのだろうか。別に食べる必要も、着換える必要もないのだし。
が、それには転がされた男達が反論した。
「はぁ!? 主のいねぇ夢なんざ何の価値があるっ!?」
「常識だろうがっいまさら何言ってやがるっ」
「馬鹿じゃねえのかっ! ちょっと顔が良いからって調子のんなっ」
知るかよ。ラドゥーはこの世界の初心者だ。顔は関係ないだろうが。
「うぎゃっ」
「ぐぇっ」
「………」
「主は夢の世界の安定剤の様なものよ」
喚く男達が急に黙った。首を捻っていると、後ろに立つエルメラが代わりに答えた。
「人には雨風凌げる家が必要なように、夢人にもしっかりとした主のいる夢が必要なの。主がいないと、夢はスカスカで、野ざらし状態になってしまう。柱はあるけど、壁と屋根が無い状態では寒さは凌げない。そんな状態の所に長くいると精神が安定せず、だんだん荒んできてしまうのよ」
精神の安定は自身の在り方を左右する。一度荒んでしまえば中々元に戻れない。負の感情が膨れ上がり、己の欲望のみに囚われ、周りとの摩擦が生じる。
そうなると、死ねない夢人なだけに、一度争いだすと悲惨なことになる。
自分が壊れるまで、その暴走は止まらない。
「それは…」
男達は、まだ荒みきってはいないようだが、武器持って強硬手段に出てきたあたり、危険信号が出始めている。
男達が言っていた。平穏に暮らしたいだけだと。その言葉が、消えたくないと救いを求める慟哭だとしたら。
深刻な問題だな。
“姫”の囁きに縋るのも分かる。
現実世界にも、世情の不安定さから人心が荒み、根も葉もない噂に翻弄され、大量虐殺という事件だって歴史上実際に起こっているのだ。文明人と誇る者でさえ、いざという時迷信に縋る。人は不安を感じると、その状況を少しでも早く取り除きたいという欲求にかられ、冷静な判断力を失う。その焦りが、衝動を引き起こし、簡単に残酷な行動に走らせる。一種のヒステリー状態に陥るのだ。
手段は乱暴だが、差し迫った理由があるだけに、一方のみを責めることは出来ない。彼らにしてみれば正義の行いであるのだから。
けれどジャックも、そう簡単に引き渡せるものでもないだろう。創造主から受け継いだものなのだし、簡単に引き渡せるならそうしている筈だ。
かといってこれ以上この男達を境界外に置いとくことも出来ない。早急に、手を打たねばなるまい。
あの殿下の夢といい、どうして問題のある夢ばかり遭遇するんだろう…。
腕輪ももう少し平和な夢に案内してくれれば…って…―――
―――…待てよ?
「生きた夢はここが唯一というわけではないですよね」
「そりゃそうよ」
「ここから他の夢に移るってことは出来ないんでしょうか?」
もっと大きな夢に移れば、荒む事も、ジャックが主の座を譲ることもしなくていいはずだ。
そう思ったのだが、
「理屈では、そうね、合理的だわ。でも…」
男達が呻いた。数人の男達が怯えたように身を捩った。
「……二度と“迷宮”で彷徨いたくねぇよ」
さっきまでの威勢のよさは何処へやら、洩れた声は弱々しかった。
「“迷宮”? あの真っ暗な“道”のことでしょうか」
男達が頷いた。
「“道”なんて言えるのは“夢の旅人”だけさ。あそこに道なんかねぇよ。あれは何処にでもあって、どこにも存在しない空間だからな。何処へでも行けるが、何処へも辿りつけねぇ。敷かれた道なんざねぇ。導を持たない夢人は、生きた夢から出たが最後、奇跡が起きない限り何処の夢にも辿り着けない。俺達にとっちゃ“迷宮”同然だ」
右も左も上も下もない。深淵の闇。もちろん夢へ続く道など存在しない。導を持たぬ夢人は、途中で諦めて消滅するか、永劫彷徨うか。その前に発狂してしまうか。
どちらにしろ良い結果にはならない。
だからこそ、有能な主を渇望する。
“生きた夢”にいる夢人は、一度はその体験をした者達が殆どだ。身を以て体験した恐怖は、そう簡単にここの夢から出る事を許さない。
そして腕輪が無ければラドゥー達もその目に遭ったのだと、改めて背筋の凍る思いがした。
「だから主に今の状況を改善するか、“姫”にその座を譲るかを談判しに来たんだっ」
「…記憶違いでなければ、問答無用で襲いかかってきましたよね」
図星を突かれた男達は次々喚きだした。
「うるせぇっ!」
「お前に俺らの気持ちが分かるもんかっ無能な主に住む俺らの気持ちがっ」
「怖ぇ孤独の中でやっと辿り着いた楽園だったんだっ! それが力のないやつに譲っちまってこんなことにっ」
「俺達を守ってやると言ってくれた“姫”にすがって何が悪い!」
「俺らはっ…」
「あーあーもう分かったから、黙りなさい」
特に大きな声ではなかった。寧ろ呟きくらいの小さい声なのに、不思議とその場に響いた。
男達は口を噤んだ。彼らの歯が鳴っていた。
「俺ら俺らって馬鹿の一つ覚えみたいに…。孤独? 自分で夢の住人になる事を選んだくせにそのいい訳は通用しないわよ。結局、一人が耐えられないからって己が夢を捨てて、他人の夢に逃げ込んで、そこに寄生してるだけのくせに」
その口調には嘲りがありありと浮かんでいた。
「勘違いしてんじゃないわよ。あんた達が狂おうが壊れようが誰のせいでもないわ。夢はあくまで主の物。あんた達を考慮しなきゃいけない理由もないわ。不満があるなら出て行けばいい」
出て行っても、外では“道”が待ち構えている。出て行きたくても、出て行けない。
慄いた彼らは、叱られた子供のように項垂れてた。
“迷宮”への恐怖より、本能が目の前の少女に畏怖を抱いた。
ラドゥーはといえば、エルメラの意外な一面を見てちょっと驚いただけだった。
飄々としていたと思えば神秘的な笑みを見せ、つぎはぎに振りまわされたかと思えばひどく老成した一面を見せる。少し淡白のきらいがあったが、ラドゥーだって興味のない事柄には言えることなので、どうとも思わなかった。
「お願いだよ…」
「一人ぼっちはもうこりごりだ」
「もう“迷宮”で彷徨いたくねぇよ。今度こそ気が触れちまう」
「身勝手だと分かっているさ…でも…主に境界範囲を広げるよう言ってくれ。もう向こうに気が触れ出した奴も出始めてるんだ」
男達は憔悴しきっていた。なんだかラドゥー達がいじめているみたいであまり気分は良くない。
「だってさ。どうするの?」
エルメラはラドゥーに話しを振った。言うだけ言って判断はラドゥー任せらしい。
「どうすると言われましても…俺達にはどうしようもないことですし」
“姫”を追っ払っても夢の改善はジャック次第だ。その後に関してはラドゥーらが関与することではない。
「まあそうだけど。あのね、夢の住人は基本的に自分の為にしか動かないのよ」
「まあ、見てれば分かります」
「どういう意味よそれ」
「さて」
「……」
「……」
「……まあいいわ。それでいくと“姫”とかいう奴は、とっても胡散臭いのよね」
「…『楽園を築いてやろう』ですもんね」
「普通に考えても胡散臭いことこの上ないわ。世の為人の為、慈善活動大好き聖者様は、そもそも夢の住人になったりしないわよ。自分の為の欲があんまり無いイキモノだから。だから、純粋にここの夢人達の為に夢を乗っ取ろうとしている訳でないなら…」
「他の目的がある…か?」
いつの間にか近くまで来ていたジャックが引き継いだ。
「そう考えるのが自然でしょう?」
夢に慈善な活動を行う者などまずいない。それはこの男達もよく知っているはずなのだが。
「不安定なこやつらを唆すのは簡単だったろうな」
前を見ない者を転ばすのは簡単だ。男達は、“姫”の真意が何処にあれ、それでも縋らずにはいられなかった。それほどまでに切羽詰っていた、ともいえる。
「ま、何が目的であれ、会えばいいんでしょ、会えば」
「そうですね。今からちょっと行ってきましょうか」
「今からか?」
「ええ。善は急げ、ですよ」
ラドゥーは腰を上げた。エルメラもそれに従ってラドゥーの後ろに続く。ラドゥーがジャックの脇を通り過ぎ、エルメラもすれ違った。
その刹那。
「その目的は…貴方は知っているんじゃないの?」
ラドゥーに聞こえないぐらいの声で囁いた。ジャックは答えなかった。
「境界をこれ以上広げないのも、それが一因でしょう。それを取り除いてあげるんだから、感謝なさい」
「…夢の住人は慈善では動かない。そう言ったのは君だろう?」
「私のは彼の望みだからよ」
それっきり、少女は何事もなかったかのように、通り過ぎて行った。