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夢の旅人  作者: トトコ
20/76

18.ぼろぼろのぬいぐるみと…

舞踏会当日、彼女は一月かけて仕立てさせた赤いドレスを身に纏って鏡の前に座っていた。

身を飾る沢山は光に照らされ、とても綺麗だ。が、その煌びやかな装いに反比例して彼女の気分はどんよりと重かった。

「姫様、お美しゅうございますよ」

女官達があれよあれよと彼女を着飾らせ、一通り支度が済むと彼女を検分し、にっこり微笑んでお決まりの賞賛を述べた。今更特に感慨も沸かない。彼女は生返事を返し、鏡に映る物憂げな貴婦人を見つめ続けた。

国をあげての式典も、お見合いを兼ねた舞踏会もどうでもよかった。彼女が気にしているのはただ一つ。


“彼”は、来てくれるかしら…。


強制的に連れ戻される前に何とか作成した手紙。たまたまそこにいたグック先生に頼んだのだが、不安は拭えない。手紙は届いただろうが、彼女の必死さは伝わったかどうか。学校の支給品の便箋と封筒なんかで済ませてしまったのが今でも悔やまれる。

やっぱり、もっと可愛くて素敵なものを用意すれば良かった。尤も、そもそもそれを用意する暇がなかったのだが。

「そうそう、姫様。今宵の舞踏会にはあの、グリューノス家の若君がおいでになられるとか」

俯く彼女が退屈していると勘違いしたのか、いらぬ気を利かせた女官が唐突に話題を振った。

「まあ。あの大公爵家の?」

他の女官が食いついた。目の色が女色に変わった。…素直なこと。

「何でも、ガーヴェの方へお忍びで療養旅行においでになられたのを、ギータニアうちの貴族達がこぞって舞踏会へお誘いなさったんですって」

「その話、知ってるわ。名だたる名家の方々のお申し出も、悉くご辞退なさったって噂。これまで公の場に滅多にお出にならないことで有名だから、猶のこと、この機会にと、いっそう躍起になられて」

「だからこそ若君の情報は流れてこないのだけど、そこがまた神秘的! 妄想を掻き立てられますわ。数年前、ダンクルの舞踏会に出席した方が言ってらしたのだけど、蜂蜜色の御髪に白磁の肌、理知的なヴィーゴの瞳をした天使の様なご容姿だそうよ」

「藍色なんてお珍しい。お会いしてみたいわ。ファンデルン侯爵のお誘いは、さすがに断りきれなかったみたいで、特別にこちらにいらっしゃって下さることになったのよね。もしかしたら一目見る事が出来るかも」

「上手くいけば言葉を交わせるかもっ」

一斉に女官達が色めき立った。彼女はそれを呆れて見つめた。最早ミーハーな女官達の憩い場になりつつあった。上品な言葉を使っても、卑しいその性根は隠せない。


その公爵家の後継ぎは病弱でも有名だった。彼女はその男のことを、きっとひょろくて、なよなよしているに違いない考えていた。身分と顔だけの人より健康的な彼の方がずっと魅力的。蜂蜜色よりも彼のダークブラウンの方がずっと好きだ。

…でも、瞳は彼と似ているみたいね。

あの夜空のような瞳を思い浮かべるだけで胸が疼いた。

「王はグリューノスの若君を姫様の婿にと切望していると専ら噂なんですのよ」

また噂。全く彼女達の興味は確証のない噂ばかりに引きつけられているようだ。だが、愛しの彼を夢想し、恋する乙女になっていた彼女の耳には聞き捨てならない言葉だった。

「何ですって…?」

反射的に顔を上げた彼女を、女官達は感激と受け取ったらしく、良かったですわねと微笑みを浮かべる。これ以上ない良縁だと。彼女は暢気な女官らに苛立った。何処に目を付けているのか。この節穴共。

冗談じゃない。

いくら位が高かろうと、身体が弱すぎて滅多に部屋から出られないひ弱な男なんかお断りだ。もしその縁談が整ったら、と思うとぞっとした。彼女はきっと、夫に付き添って屋敷から滅多に出ることさえ許されなくなる。

好きでもない男と一生狭い部屋で二人きり…。ひ弱な旦那様を押し付けられるなんて堪ったものではない。

それに、何よりも彼女には彼がいた。他の人となんか考えられなかった。彼は来てくれるだろうか。でも、もし来てくれたら、きっと私を見直してくれる。身分ある者が、何もかも捨ててでも自分と一緒になりたいのだと知れば、その想いの深さに感激さえしてくれるかもしれない。だって、帝国の王女に愛されるなんて滅多にない幸運でしょう?


「そろそろお時間のようですわ。参りましょうか、クリス様」


鷹揚に頷いて彼女――クリスは立ち上がり、彼の為に目一杯着飾ったドレスを優雅にさばいて部屋を出た。






つぎはぎは音のする方へふらふらと彷徨った末、重厚な扉の所に辿り着いた。

そこから漏れてくる音楽は、つぎはぎに馴染みのないものだが、楽しげで愉快で不思議と踊りたくなった。ついつい興味に駆られて扉に手(前足)をつくと重そうな扉は見た目に反して、いとも簡単に開いてしまった。

「うわっ」

体勢を崩したぬいぐるみは、その扉の向こうへと転がり落ちていった。






何処にでもあるものだが、ラドゥーの世界でも神話や伝説の類が各地に点在している。上流階級の令嬢はパーティーやお茶会などに出掛ける際に纏うドレスを、その物語の主人公である天使や美しい娘をモチーフにして仕立てることが多い。

ギータニアも例外ではなく、今宵の舞踏会は帝国主催もあってか、まるで物語の博覧会だ。多様な衣装を纏って令嬢達は美しさを競っていた。

「さすがに圧巻ですね…あ、あれは『カレアの涙』の睡蓮の精ですか。隣は鈴蘭の…」

付き人として同伴したセナンは感心したように辺りを見回していた。遠くから見る分には、美しい令嬢は目の保養だ。滅多にラドゥーが公の場に出ないので、セナンは令嬢への適切な態度をとることに慣れていない。彼はもの珍しさに少々興奮気味であった。

「セナン、あんまりじろじろ見渡していると、今宵の相手を物色しているご婦人に目を付けられるよ?」

苦笑するラドゥー自身は、ソファに足を延ばして寛いでいた。既にお疲れムードである。

 つい先程までは、彼は嫌というほど貴族の波に揉まれていた。ここぞと近寄ってくる令嬢達の相手もしたラドゥーは、その際に見舞われた災難を思い出し、向こう十年は社交界に出たくないと心底思った。自分と同じ色や、デザインのドレスを着たライバルを見つけると、何故ああも、火花を散らすのか。


辟易したラドゥーは予定通り、気分が優れぬと仮病を使い、とっとと上階の控室に引っ込んだ。部屋まで押しかけられては堪らないので、衛兵に厳重な部屋の警備を命じ、面会謝絶した。今はセナンが気を利かせて持ってきたレモン水を口に含みながら舞踏会の様子を見降ろしているところだ。舞踏会の間は吹き抜けで、誰と誰が暗がりに身を寄せたかまでよく見える。


ラドゥーにからかわれたセナンは、昨日まで続いたファンデルン侯爵の縁の令嬢達との攻防かくれんぼでも思い出したのか、身震いして慌てて身を引っ込めた。

「若君っ、冗談でもやめてください。わたしは危うく女性不信に陥りそうだったんです」

顔を顰め抗議するセナンは心底嫌そうだった。鳥肌が立っているのか腕までさすっている。

とその時、部屋の戸を叩く音がした。誰何を問うとファンデルン侯爵だった。

「若君、気分はもうよろしいのですか? いやはや、令嬢たちの熱気には、戦場の兵士の気迫に勝るとも劣りませんな。若君はよくあの荒波を泳ぎきったものだと感嘆致しましたぞ」

侯爵がにこにこしながらも、ちょっと困った感じの顔で話しながら部屋に入ってきた。


…この、“ちょっと困った感じのにこにこ笑顔”が曲者なのだ。彼の縁者の令嬢について侯爵に抗議したこともあった。しかし、「わたしが呼んだのではありませんぞ、皆貴方を慕って自主的に集ったのです」と、この笑顔で言われた。ぬけぬけと言われ、憤慨したが、その顔に何故か強く出られなかった。そして彼はそれを重々承知で使うのだから性質が悪い。

結局、孤立無援の中、彼らは自力で逃げ切るしかなかった。

狸め…。

抗議した際、セナンが思わず呟いた言葉を咎めることは出来なかった。ラドゥーも毎日呟いているからだ。

「とんでもない。今宵の花々はどれも負けず劣らず、積極的で愛らしくて、わたしはすっかり見惚れてしまいました。わたしなど、とてもとても彼女達の満足いくようなお相手は務まりません」

仮面を被り直したラドゥーは侯爵を迎えた。

「そうですかな? 先程の立ち居振る舞いを見た限りでは、その気になれば貴方はどのような令嬢も手玉に取れるように思いましたが。絶妙な身の引き方、そして角を立てぬ人のさばき方でありましたぞ」

良く見てんじゃねえか。

巧く立ち回らないと貴族連中につけ込まれる。処世術は貴族社会の中で習得必須技能だ。特に、欠点があれば、尚更。

「…買い被りですよ。必死に場を取り繕うのが精一杯でした」

恐縮したように笑ってみた。

「はは、そうですか、そういうことにしておきましょう」

で、さらりと流された。

ムキになるな。敵の思うツボだ。

「参りましたね」

苦笑してラドゥーは首を振った。坊ちゃんぶりっこはお手の物だ。

ラドゥーは腹の読めない侯爵を見上げた。侯爵は何の目的でラドゥーに近づいてきたのか、未だによく分からなかった。侯爵はラドゥーを取り込みたいわけではなさそうだ。侯爵はギータニアにおいて多大な影響力を誇る。今更グリューノスとの親交を深め、権威を高める必要もないのだから。貪欲な権力欲は侯爵には感じられなかった。

それに、彼は自分の縁者がラドゥーをものしようが、しまいがさして興味もなさそうだった。純粋に、面白いものを見物するように、傍観の立場に徹していた。縁の令嬢達を止めはしなかったが、手助けもしなかったのがいい証拠だ。面白半分にラドゥーをつつきはしても、少なくとも利用、或いは追い落とそうとはしていない。

だから、苦々しく思っても侯爵自身は憎めない御仁だった。食えないじじいとは思っても、何処かで仕方ないな、とも思ってしまう。

かといって、これ以上好き勝手に弄られるのも、面白くないが。

「侯爵、少々彼女らの熱気に充てられたようです。しばし夜風に当たってきますね。心配せずとも断りもなく帰りませんのでご安心を」

ついてこようとするセナンを控室に残し、ラドゥーは一人庭へと足を運んだ。





ラドゥーはようやく息をつけた気分で、さくさくと草を踏み分けて当てもなく歩いた。そこは辺り一帯が雑木林になっており、案外密集した林だったので、城の中だというのを忘れそうになる。

「そういえば、帝妃のどなたかが緑がお好きとか聞きましたね」

おそらくその妃の為にこしらえたのだろう庭を、かがり火を頼りに歩く。


それから、どれくらい歩いただろうか、いつの間にか、篝火かがりびも遠くなった場所まで来てしまった。

幸い林は深くない。夜目に慣れてきたため、歩くのに難儀することもないが、さすがにまずいと思った。

「万が一、こんなとこで襲われたら面倒ですし」

返り討ちにするのは大して難しくはないものの、他国で自分が襲われる、という事態が問題なのだ。踵を返して舞踏会に戻ろうとすると、ちら、と木々や草花以外の物が視界を過った。

「?」

暗くて何かまでは分からなかったが、なんとなく気になったラドゥーはそちらの方に足を向けた。

「……ずいぶんボロボロの布みたいな…」

そっと持ち上げてみると、それはボロボロながらもちゃんと何かを形作っていた。雑巾ではなさそうだ。これは…

「うさぎの…ぬいぐるみ?」


どこかで見た。このボロボロ感、激しくデジャヴだ。


しかしそれは『あの世界』でのことで、ここは紛れもない現実世界のはずだ。夢の存在が現に顕現するなんてあり得るのだろうか。

「それに、動いていないですし」

あの時は元気に動いていた気がする。死んでしまったのだろうか? いや、違うだろ自分。ぬいぐるみは動かないのが普通だ。そうだろ? ぬいぐるみは動かなくて当たり前なんだ。しっかりしろ自分。常識が揺らいだら、なんとなく戻れない気がする。何処に? とか聞かれても答えられないが。


知り合いっぽいせいで、そのままその場に放置しておくわけにもいかず、抱きかかえた。本音は見なかったことにしたかったさ。

「どうやって言い繕いましょう…」

こんな贅の粋を極めた帝国の王城で、こんなずたぼろのぬいぐるみが、こんな所に転がっているわけがない。

セナンに見せたら「何処でそんな汚い物拾ってきたんですか。捨ててきなさい」と言われるのが落ちだ。奴は時々母親的な言動をとる。


悩む彼の耳に女性の声が届いた。

男との逢瀬の声かと思った。こういう林や草陰ではよくあることだ。特にこの立派な雑木林は格好の逢引場だろう。

溜息をついて、素知らぬふりをしてその場を離れようとしたが、再度女性の声が聞こえて足を止めた。

男性の声も聞こえてきたが、どうも甘い一時を過ごす恋人の声らしくない。言い争っているような。痴情の縺れ、という可能背もある。どうしたものか。

女性は助けてなんぼだと両親(特に母親)に叩き込まれた身としては、会話は聞こえないものの、女性が抵抗しているような雰囲気をかぎ取れば無視は出来ない。

そして男女の痴話喧嘩に他の男が横から割りこんできた場合、必ず碌なことにならないのも重々承知している。

数拍悩んだが、結局その場へ駆けつけることを選んだ。むやみに割り込む気はなかったが、もし女性が暴行を加えられそうになった場合を考慮して。


「―――っ! わたくしは―――で、―――!」

「―――ですよ。―――は、―――で―――」

だんだん声が近くなってきて、ラドゥーは気配を殺してそっと窺った。

「―――だからと言って、わたくしがなぜ貴方なんかと結婚しなければいけないのですっ!」

「貴女のお父上、帝王も御承知ですよ。グリューノス家の若君がお気に―――なら我が――家でもいいと」

え、俺?自分の名前が出てきて、片眉を上げる。

「わたくしは心に決めた方がいると…っあれほど…っ」

「そんな男おやめなさい。貴女は一時の恋の熱にうかされているだけです」

会話から察して、身分のない男との恋に身を焦がす女性に言い寄る貴族といったところか。


ん? この設定、何処かで聞いたな。


「そんな軽い気持ちではありません。それでなくとも貴方のような女性の噂が絶えない方などお断りです」

きっぱり言う女性の言葉に堪えた様子もなく、男は強引に女性の腰を引き寄せる。

「それは、いつまでも振り向いてくれない貴女への気持ちを紛らわすためのです。本気ではありません」


パンっ!


男が口付けしようとした時男の頬から小気味いい音が響いた。

「白々しい。女性を懐の重みでしか計れない、下衆な男などに興味はありません」

蔑んだ眼をして言い放って女性は、男に背を向け、その場を立ち去ろうとした。

「このアマ…わたしが下手に出ていれば、いい気になって…」

男が引っぱたかれた頬を抑えて、さっきまでの甘い顔は何処へやら、たっかい鼻っ柱をへし折られて感情を剥き出しにした醜い顔が、夜目に慣れたラドゥーにははっきりと見えた。


出番が来たようだと冷静に判断して、ラドゥーはぬいぐるみを脇に抱えたまま、背を向ける無防備な女性に、振り上げられた男の拳を難なく受け止めた。


「なっなんだお前はっ」

「名乗るほどの者ではありませんよ」

男の拳の威力は大したことなかった。ただの甘やかされて育ったプライドだけはいっちょ前のボンボンだ。

女性も何事かと振り向いき、二人の様子から素早く状況を判断した。貴族のボンを睨みつける。

「わたくしに無礼を働いただけでなく、暴力までふるおうとなさるなど貴族どころか男としての誇りはございませんの!? このことはお父様にご報告いたします。お覚悟なさいませ」

なかなか威勢のいい令嬢だ。その言葉を聞いて我に返ったボンは、「わ、わたしは…」と情けない顔をして言い繕おうとする。が、今の状況ではあまりに苦しい。


この場をどう収めようかと考えたラドゥーは、ふと風が動くのを感じた。その意味を瞬時に察したラドゥーは男を突き放し、女性を庇うように腕を突き出し後ずさった。

タタンッ

その直後、三人がそれぞれ今まで立っていた地に、鋭い暗具が突き刺さっていた。さらに間髪いれずに立て続けに降る凶器がラドゥーらを襲う。


標的は俺か?…それとも。ちらと後ろの女性を見やる。


「ひっ…ひぃぃ!」

腰を抜かした男は這うようにして、その場を離れようとする間にも凶器は迫る。関係ないとしても口封じする気なのだろう。

他人事のように考えて、とりあえず男に向かって飛んできたナイフを叩き落としてやり、無事に逃がしてやった。

姿を見せない暗殺者。しかしその気配はしっかり感じる。上手く消してはいるが、生憎ラドゥーには通用しない。

三人といったところか。

懐から薄いペーパーナイフのような刃を三本取り出して、その気配の方へ投げつける。

「ぐあっ」

「うぐぅ」

複数の呻く声が聞こえて、それきり凶器の雨は止む。

「俺から気配を隠そうとしても無駄ですよ。そのナイフ、それぞれ皆さんの右腕に違わず刺さったことでも分かるでしょう?」

狙おうと思えば心臓にだって可能なのだと言外に告げる。利き腕を傷つけられてしまえば、隠れた地点から正確にラドゥー達を狙うのは至難の業だろう。驚愕する空気が伝わってきた。そして、分が悪いと見たのか、数拍後には三人の気配がきれいさっぱり消えた。


難が去ったこと確認して、後ろの女性を振り返ろうとした。しかしそれは叶わなかった。なぜならその女性がラドゥーの背中に抱きついてきたから。

「もう大丈夫ですよ」

恐ろしい目に会ったのだから仕方ない。背中にひっついて離れない貴婦人に、努めて静かな声を出す。ところが、

「―――ん」

「え?」

「ムークット君」

ラドゥーは固まった。ゆっくり首だけ巡らせると、化粧を施し、記憶にある顔よりずっと大人びているが、確かに見知った顔がそこにあった。

彼女――クリスが頬を染めてこちらを見上げていた。






「ムークット君は本当に強いのね。見直しちゃった。さっきのボンとは大違いね」

なりゆきで二人は共に歩きだした。

「…まあ、学校で一通り習いますし」

当たり障りのない会話に付き合うラドゥーは、正直狼狽していた。

「ムークット君どんな教科だって、いっつも一番だもんね。それにしても髪、染めたの? 綺麗な金色でよく似合ってるけど。そんなカッコいい服着て、ムークット君だってよくよく見なきゃ分かんなかったわ」

ギータニアに赴くためというよりは、グリューノスの若君としての自分を公に出す時はこうして姿を変えている。

「え、ええまあ。単なる気分です。そんなことより、どうしてあんな手紙を俺に書いたんですか?」

少々強引に話題を変える。

「ごめんなさい。びっくりさせちゃったよね。でも、どうしても来てもらいたくて」

目を伏せて謝る彼女の物憂げな様子は、男が十人いたら九人は心をくすぐられる代物だったが、残り一人であるラドゥーにはあまり効果はなかった。

「その事なんですが、俺は貴女が自由になる為の手助けというならば、出来る限り協力はしたいと思いますが、それが駆け落ちまがいのものなら協力できません。クリステレ王女殿下」

変に期待をもたれないように単刀直入に切りだした。

「え…なんでそれを」

「先程の会話、偶然ですが、聞いてしまいまして」

彼女の顔が強張る。

「その会話の中には、貴女がこの国の王女だと、ほのめかすものがありましたので」

「……そっか。ムークット君鋭いもんね。うん、当たりよ。私は王女なんて大層な身分持ってるの。本当の名はクリステレ。クリステレ・セレナーデ・ギータニアというの」

彼女は何故か残念そうな顔をして白状した。まるで、とっときの切り札を無駄にされたように。ラドゥーもその名前ぐらいは知っていた。確かこの国の第三王女。

「一国の王女は、ずいぶん大胆なことをするのですね」

身分を伏せて単身外国へ留学してくるわ、平民と思い込んでるラドゥーと駆け落ちしようと思いつくわ、随分活発なお姫様だ。小さい頃はさぞやじゃじゃ馬だったのだろう。いや、ボンボンへの応酬を見ると今も健在のようだ。

「だって、このままじゃ、好きでもない男との結婚を強いられるんだもん。そんなの絶対にいやだわ。グリューノス家の病弱な若君や、さっきみたいな頭の空っぽなお坊ちゃんとだなんて」

「………」

「お父様は、きっと私が半端者だからお嫌いなのだわ。せめて自分の益になる嫁ぎ先へ行って、役に立ってほしいのよ」

第三王女は、一番身分の低い家柄の側妃の娘と聞いた覚えがある。低いといっても貴族であることに変わりはないが、協力な後ろ盾がなければ、後宮という女の世界では、肩身の狭い思いをするのだろう。

しかも、彼女の母親は小さい頃に他界しているはずだ。きっと、母親もなく、大した後ろ盾もないことをいいことに、他の妃達や子供達にいじめられて…。

「あ、勘違いしないでね。王妃様はとてもお優しいのよ」

「…そうなんですか?」

「よく勘違いされるのだけど、お妃の方々は皆良いお方なの。扱いが冷たいのはお父様の方。今の正妃様のお計らいもあって留学の許可をお父様からもぎ取れたぐらいだし」

意外だった。彼女の顔は無理をして嘘をついているようにも思えない。

「お父様の方こそ、利用価値の薄い私を、さっさとお払い箱にしたがってるの」

珍しいケースだ。実際に血の繋がっていない妃が、とっとと彼女をお払い箱にしようと目論むならまだ話は分かるが、王自身が実の子をそういう風に扱うのか。

野心ある王や貴族間では、娘を使った婚姻による勢力拡大は珍しい話ではない。気分の良い話でもないが。

外戚はともかく、ラドゥーの家族内の仲は大変いいので、余計に眉を顰めたくなるのかも知れない。

「だから、せめて嫁ぐ前に世間を見たいと思って、思い切って外国の留学許可を求めたの。そしたら、お父様は反対して。女が余計な知恵を身につける必要はないって」

ラドゥーを庶民だと信じているから遠慮なく愚痴をぶちまけるのだろうが、こうあまり内情を語られるのは良くない。

「でも、王妃様が取り成してくださって、私は姉姫様のように何も知らないまま、知らない男と婚約させられるのを免れたの」

他の王女も似たり寄ったりの扱いなのだろうか。二人の空気が重くなり、クリスは取り繕うように笑って、ラドゥーに詫びた。

「ごめんなさい。突然こんなこと。でもね、留学を終えたら大人しくどこぞの貴族に嫁ぐことを条件に留学出来たのだけど…実際私もそのつもりでいたけど、私には諦められない人が出来ちゃったの」

彼女はラドゥーに目を向けた。

「覚えてる? 私、グリューノスへ来たばかりの頃、不良にからまれたの。それを助けてくれたのが、貴方」

「あまり、覚えてませんね」

彼女は少し残念そうな顔をした。だが、実のところ、ラドゥーにも心当たりはあったのだが。

明らかに迷子な女の子が、学校でも問題児で有名な奴らにからまれていた。それをたまたま見かけたラドゥーが奴らをちょっと撫でて・・・やった記憶ならある。

「…まあ、かなり前だし、涙でぐちゃぐちゃで顔もろくに見せなかったし…」

何やらぶつぶつ呟き、やがて気を取り直した彼女は再び笑顔をむけた。

「あの時、貴方は泣きやむまで手を握ってくれた。その時から、貴方に惹かれていたの」

まだ女性の扱いを心得ていなかったから、どうすればいいか良く分からないまま、じっとしてただけなのだが、かなり美化されている。

「お父様は、約束を破ったわ。こんなに早く連れ戻すなんて」

「だからといって…」

「私は本気よ。貴方と共にいられるなら、王女の身分だって捨てられる」

彼女はまっすぐな瞳を向けた。


「私を、連れてって」


ラドゥーは困った。心を動かされたわけじゃない。どうあっても、彼女を受け入れる事が出来そうにないと気付いてしまったから。

彼女が自分の正体を知ったなら、驚きはしても、きっと躊躇うことはしないだろう。しかし、ラドゥーの方には、彼女を受け入れる気はさらさらない。


何処かで、彼女じゃないと、思う自分がいる。


何が彼女じゃないのか知らないが、彼女と自分は今後、深い間柄になる事は無いという確信だった。

そもそも彼女の自分への想いを未練なくさっぱりさせるために来たのだから、この告白に困りはしても心が揺れるわけがない。

どう諦めさせるか…。

ふいに、別の女性の顔が浮かんだ。


エメラルドグリーンの輝く髪の少女。


彼女とは暫く会っていない。向こうが会いに来ない限り、会う手段はラドゥーにはない。

なんでだろう。変な騒動に巻き込まれなくていいじゃないか。

脇に抱えたぼろ布を見下ろす。…きっと、このボロボロのうさぎのせいだろう。彼女と繋がりのあるこのぬいぐるみが、彼女を連想させた。それだけだ。

そう自分に言い聞かせ、クリスに向き直る。

「こないだも言いましたが、俺には貴女を受け入れることが出来ません。貴女が王女であるなら、尚更。貴女が代償として差し出すものに値するものを、俺はあげられません」

「……どうしても? 貴方の隣にいる権利がほしいだけ。他は何もいらない。豪華な暮らしも奇麗なドレスも」

尚も黙って首を振るラドゥーに、クリスは唇を噛んで涙を堪える。

「貴方のいないとことでなんか生きていたくない……いっそ、どこかに消えていってしまった方がマシよっ!」


その瞬間、うさぎがラドゥーの脇からすり抜けて俄かに浮かびだした。


ぎょっとした二人は、それを茫然と見やる。

「え、何これ…ぬいぐるみ?」

今初めて気付いたらしい。というか、エルメラと違ってちゃんと人に見えるのだな、とどうでもイイことを思った。

ラドゥーはこの突然の事態に嫌な予感がした。

うさぎはふよふよと上昇し、やがて静止した。とっさにうさぎを掴んで戻そうとしたが、間に合わず、空間が歪み、二人をのみ込んだ。



そして、二人はその場から姿を消した。


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