17.恋と闇と令嬢達との攻防戦
一目惚れだった。
あの日、彼女は留学先の学校へ、まずは挨拶の為に赴いたが、困ったことに道に迷ってしまった。
彼女は特に方向音痴というわけではない。ただ、自分家より小さい学校だったから、初めての場所であるにも拘らず、大丈夫だろうと油断していたのが敗因だった。
誰かに聞くという選択肢がはなから頭に浮かばず、歩いているうちに見覚えのあるところまで戻れまいか、あわよくば教員室に着かないだろうかと期待し、とりあえずうろうろしていたら…余計に迷ってしまった。
さすがに焦ってあたふたしていると、後ろから声がを掛けられた。振り向くと服を着崩してへらへら笑っている数人の男達がこっちを見ていた。
この学校は名門という話だったのだけど、所詮は庶民の学校だったってことかしら。
眉を顰めて後ずさる彼女に、彼らは気にした風もなく、馴れ馴れしく話しかけ、彼女の肩に手を置いた。彼女は何処かに遊びに行こう、とにやにやされたまま誘われて、思わず引っ叩きそうになった。そんな下心丸見えの顔で安心してついて行けるわけがない。力一杯その手を振り払うと、男達はむっとして、力に訴えようと私に向かって手を振り上げた。
反射的に頭を庇い、次の瞬間に来るだろう衝撃を待った。
…数秒待っても衝撃が襲ってこないことに気付いた彼女は、恐る恐る顔を上げた。彼女に見えたのは一人の男の子の背中。状況が飲み込めず、ただ呆然としていると、男の子がこちらを振り向いた。
思わず息を呑んだ。
その男の子はとても綺麗な顔立ちだった。肌の白い、繊細な作りの美しい少年。それでもなよなよしい印象を抱かないのは、彼よりもずっと大きな男達の間に立っていたから。彼がこの男達をのしたと考えるのが自然だが、俄かには信じ難かった。
お礼を言おうにも、口が開閉するだけで音が出てこない。もどかし思いながらもじっとしていると、その男の子はこちらに向かって手を差し伸べて立ち上がらせてくれた。この時初めて自分がへたり込んでいたことに気付く。
掴んだ手がかすかに震えているのに気付いた男の子が、安心させるように少し首を傾げる。
「もう大丈夫ですよ」
丁寧な物言いは外見よりずっと大人びていた。その一言が涙を誘発させ、まもなく私の顔は水浸しになった。
望んでやってきたとはいえ見知らぬ地。知らず知らずのうちに緊張して気を張っていたことを知る。
変な男達にからまれ、それを助けてもらったことで緊張の糸が切れ、その反動で涙が零れ落ちるのだと、当時の彼女に思い至る余裕はなかった。けれど羞恥心は忘れていなかったので、きっとひどい顔をしていると恥ずかしくなって、俯いた。
男の子は涙を拭うことこそしなかったが、手を離す事もせず、暫くさせたいようにさせてくれた。そのさりげない優しさが嬉しくて、その手に縋りつき、気のすむまで泣いた。
漸く落ち着いた頃、伺うようにそろそろと顔を上げると、泣き腫らした目に、先程と変わらない態勢でじっとしている男の子がいた。ばっちり目が合い、反射的に顔を背けると、それまで無言だった少年がぽつりと呟く。
「…教員室なら、この道をまっすぐ行ってつきあたりを右です」
驚いて顔を上げると、既に少年は目の前から消えていた。慌てて周りを見渡しても、その少年はどこにも見当たらなかった。
幻だったというにはいままで握っていてくれた手の暖かさは本物で。
きっとこの学校の生徒だ。この学校にいる限りまた会えるはず。ほんの数秒前まで彼と繋がっていた手を、もう一方の手でそっと包み込む。じわじわとその温かさが身に沁みて、唇も自然と綻んだ。
そして、数年後、念願の男の子との再会を果たす。同じクラスになった男の子は、あの頃よりずっと背が伸びていて、その美しさに凛々しさも加わってさらに素敵になっていた。
少年への想いが何なのか分からなかった頃は、他の女の子達が少年に近づくたびに、形容しがたい胸のうずきを持て余し、遠くから眺めているしかなかったが、ある日、胸が黒いもやもやでいっぱいになるこの想いの名を自覚した。
あの少年が庶民でもかまわない。あの人の隣にいるためなら、何でもやるわ、何だって捨てられる。
そう思うのに時間はかからなかった。
そして、彼女は恋を知った。
人間身の危険を感じたら、とる行動は一つだ。
手段は違えど、目的は同じだろう。
「それが俺の場合は、雲隠れだったというだけで」
決して逃避などではない。輝かしい明日へのための名誉ある撤退だ。
「栄誉あるグリューノス家の若君がこんなとこでこんなことをしているなど、世間に知られたらいい笑い物ですよ」
「お黙りなさい。お前だって俺と同じことをしているくせに」
「わたしは若君に追従しているだけですので」
「嘘言いなさい。セナンだって獲物認定されたの、知らないとでも思っているんですか?」
「…若君。例えばいたいけな子羊が、獰猛な肉食獣を前にしてとるべき賢い行動は何だと思います?」
「立ち向かうのは愚かの極み。逃げるのみです」
セナンはしっかりと頷いた。
「なら、わたし達もとっている行動は最善にして崇高なものでありますね」
ラドゥーも頷き返した。
「その通りです。だからこそ名誉ある撤退なんです」
そんな会話はごくごく小さな声で交わされている。
そう、生垣の影で。
「若君〜? どちらへいらっしゃいますの?」
甲高い、年若い女性の声がごく近いところから聞こえてくると、ラドゥーとセナンは身体を強張らせて会話を打ち切った。
「わたくし達と楽しくお話しいたしましょう」
「ぜひ二人っきりでお話したい事が…」
「コックにナッツ入りのお菓子を焼かせましたの。お好きだと窺ったものですから…。一緒にいただきませんか?」
さらにぞろぞろと何人もの女性の声が近付いてくる。
「なんて勘のいい…」
ラドゥーは舌打ちを我慢する。行儀云々というより、女性達に気付かれるのを恐れて。
この女性達はいずれもファンデルン侯爵の縁者だ。孫、従姉の娘、姪っ子はまだいいとして、何故従兄の妻の兄弟の娘まで…。果てはどう考えても嫁き遅…独身を貫いている高潔なご婦人もまじっていた。
ラドゥー達は何故この女性達とかくれんぼしているのか? それには深い深い事情があった。
あれから、ガーヴェより王都の近くに屋敷を構えるファンデルン邸に移った。釘も刺したし、ちょっと取引もしたのでいくらか安心して屋敷に赴いたのがいけなかった。
待ち受けていたのは十代になったばかりの少女から、ラドゥーの母親と同年代にしか見えないご婦人までとりどりの花々がラドゥーら一行を出迎えたのだ。いらないと言っておいたのに、あれよあれよとラドゥーを取り囲んで世話を焼こうとしなだれかかってきた。
面白くないのは、主人の世話役の立場を揺るがされたサラだ。
初めのうちはなんとか当たり障りなく笑顔で女性達をあしらっていたのだが、サラの牽制にもめげず、彼女達の行動はだんだんエスカレートしていき、ついにラドゥーは先程の雲隠れを余儀なくされたのだ。本当に女性の力は男のそれに劣らない。
その決定打は、ある婦人が、ラドゥーの寝室に忍び込んだのがきっかけだった。当初それを刺客かと思って咄嗟にナイフで敵を突こうとしたが、侯爵の縁者と気付き、慌てて引っ込めた。
女性に用を尋ねると、色々な女性を知ってみませんか、と艶美な視線を向けられ、ベッドに誘われた。ラドゥーだって健全な男子だし、興味がないわけでもないが、この婦人のような女性には何ら食指は働かなかった。ここまでやるのか、と嫌悪と呆れしか感じなかったのが正直なところだ。
侯爵の手前、名誉を傷付けられたと感じさせないように丁重にお引き取り願おうとしていると、ラドゥーの部屋にセナンとサラが飛び込んできた。
「若君!ご無事ですか!!」
セナンは瞬時に状況を飲み込むと、女性を部屋に送って行こうとしたが、サラに先を越された。
「ダフィネック子爵令嬢! 何をしてらっしゃるのです?!」
「あら、若君の…。お早いお帰りね」
「私を撒いて若君の寝室に忍び込むなど、教養のあるレディがなさることですの!?」
二人はやいのやいのと言い合いを始めてしまった。
会話の内容からすると、サラはご婦人たちの中に善からぬ企みをしている婦人らがいるのを早々に察知していたらしく、彼女達をマークしていたのだが、いかんせん数が多すぎた。彼女らの侍女達の妨害もあって、ついにその一人のこの婦人の寝室の侵入を許してしまったらしい。
一応ここでも病弱を装ってはいるが、本気で頭痛がしてきた。
「申し訳ございませんっ! あたしの能力不足です。どうぞ、如何様にも罰をお与えください」
婦人を追い出したあと、跪いて謝罪してきたサラにラドゥーは気にするなと許した。
「それにしても、なぜこんな突拍子もない事を…」
「さあ…“そういう”お世話も兼ねていると漂わせたのが裏目に出てしまったんでしょうか?」
「…何言ったんです?」
「いえ、大したことじゃありませんわ。ただ、あたしに若君の事を訊いてきた御令嬢に『ラゥ様はあたし以外の女性はお傍に置きませんわ。その…お分かりになりますでしょう?』みたいな事を言っただけです」
「「……」」
二人は押し黙った。
確かにそういうのは大して珍しい事ではない。貴族の中では気に入りの女を侍女として傍に置き、閨に侍らす者も少なくない。
ラドゥーもサラをそういう意味で傍に置いているのだと向こうが勝手に勘違いし、それなら自分にもチャンスがあるとでも思ったのだろう。
「今回は未遂で済んだからいいものの、これは新しい対策を考える必要があるみたいですね」
そんなわけで、今の状況に至るのだ。
「若君にはある意味必然の事態ですが、どうしてわたしまで…」
心底うんざりした様なセナンに何を今更と返す。
「その若君の懐刀たるセナンだって優良物件です。一応貴族だろう」
「一応とはなんですか。わたしは由緒ある家柄ですよ。これでも。全く、令嬢の熱意には負けます。貴方を望めないならその次ってわけですか…」
珍しく表情を露わにしているセナンをラドゥーは物珍しげに眺めた。
実はその夜這い未遂の夜、サラはともかく部屋に下がらせたはずのセナンまで駆けつけたのが不思議だったのだが、例えばセナンも同じ目に遭い、自分がこうなら、と思い至って慌てて引き返したというのなら納得だ。
セナンはその経緯を詳しく語ろうとはしなかったが、どうせ真相はそんなところだろう。
深く追求するのはやめておいてやった。きっと、俺の時より遠慮がなかったに違いない。
同じ貴族でも、ラドゥーは彼女達よりもずっと立場は上である。ラドゥーが拒否すればそれ以上手は出せない。
しかし、セナンは、貴族でも彼女達もそれは同じ、身分は同等。寧ろ、ラドゥーに仕える立場にいる分、不利だ。主人の面目もあるため、セナンは彼女達に下手な真似は出来ない。
まさにそこに付け込んできた令嬢を振り切ってあの場に駆けこんできたセナンは、それからはラドゥーに常時ひっついている。そしてラドゥーと共に、生垣の影や、女神像の背後に隠れたりして彼女達を撒く日々だ。
「全く、サラもどうせならわたしに近づいてくる人も撃退してくれればいいのに」
セナンはサラに実際言ったのだが、「あたしが守るのはあたしの認めた御主人様だけですわ〜」と薄情にも言い渡されてしまった。彼女達がラドゥーの配下に目を向けるのは予想範囲内だ。だが、サラは女性だから除外、ギルは老年、グランはあの強面だ(令嬢の中には気絶してしまった者もいた)。結局令嬢達が射程範囲に入れる対象は限られてしまった。
「グラン、結構可愛い性格しているんだけどね」
「趣味、お菓子作りですものね」
彼は見た目で損しているタイプだ。中身は強くて逞しくて、何より優しい。お兄ちゃんタイプだ。細かい気配りはセナンに引けをとらない。サラの面倒もよく見ていてくれる。なのに令嬢達はグランを遠巻きに見るだけで近づきもしない。グランが秘かに傷ついてのをラドゥーは知っている。可愛くて小さいのが好きなのだ。グランは。それはともかく、令嬢達の標的は、ラドゥーとセナンに集中した。
けれど、ラドゥーは首を傾げざるを得なかった。射程範囲内にいる護衛はもう一人いるからだ。
若くて顔よしのラドゥーの配下。主治医の助手に扮した美青年リオ。
普段全く喋らないから存在感は無いが、リオもたいていラドゥーの傍に控えているのだ。当然令嬢たちとも顔を合わせているはずなのに、彼が追いかけまわされている様子はない。
ラドゥーも大概奇麗と言われるが、リオのそれはもはや美貌の域だ。美人はよく冷たい印象を持たれるが、リオの纏う雰囲気は柔らかなそれで、まさに女性の心をぐっと掴むストライクゾーンのはずなのに、どうしてリオにラドゥー達と同じ災難が降りかからないのか。
「…彼はどうして無事なんでしょうか」
「さあ…役割柄、リオは気配消す玄人だからじゃないですか? 煙に巻くのは巧そうだ」
あの柔らかな雰囲気は曲者で、いつの間にやら姿を消しているのだ。今度、秘訣を教えてもらおう。筆談で。
そんなことを思っている間に、なにやら令嬢達の雲行きが怪しくなってきた。
「まあ、お菓子ですって? 若君には抜け駆けをしないと誓い合ったではありませんか」
「どれほどの方がそれをお守りになっていらっしゃるのか疑問ですわ。貴女こそ若君と二人になりたいなどと、よっぽど抜け駆けではありません?」
「若君はお身体がお弱くていらっしゃるのですよ? 私達が気遣って差し上げなくてはなりませんのに」
「寝室にまで忍び込んだ貴女には言われたくございません!」
「まあ、なんてはしたない。貴族としての誇りはございませんの?」
「所詮母親は平民。娼婦まがいなことをしてもなるほど当然といえますかしら?」
失笑と共に吐き捨てる。クスクスと言い合いに交わっていない令嬢の方からもさざめきが聞こえる。
「なんですって!? 貴女の家こそ家計が火の車だと噂、聞きましてよ?…ああ、それでなのかしら、財産目当てで清純な若君をたぶらかそうと…卑しい物乞いと何が違うのかしら?」
陰険な言い合いがエスカレートしていき令嬢達は今にも掴みかからんと身を前に出す。傍にいる使用人達に止められていなければ、今すぐゴングが鳴りそうだ。審判はラドゥーがしよう。
「流石は、身分が全てのものをいうギータニアですね」
ぽつりと呟くセナン。ラドゥーは懸命にも何も言わなかった。誰も聞いていないにせよ、ラドゥーが隣国の悪口を言うのはよろしくないので。
「セナン、今がチャンスです。ここから離れよう」
セナンを引き連れて、コソ泥よろしく身を屈めてその場から脱出した。
ちなみに、式典までの一週間、この貞操をかけたかくれんぼは延々と続いた。