14.グリューノス家
部屋にやわらかな日差しが差し込み、ラドゥーの目覚めを促す。
彼がぼんやりと意識が浮上した頃を見計らって、傍付きが部屋に入り朝の挨拶をする。
主が自分で身支度を始める間に目覚ましのお茶を淹れる。
淹れたてを一口含み、朝食をとるために部屋を出る。
家族の決まりで、一日一度は皆で食事をとることになっている。
既に揃っている家族に挨拶を済ませ、食卓につく。
これらの流れは、目を瞑っていてもこなせる毎朝のお決まりの習慣だった。
朝食の席では、たいていその日の予定や、昨日の出来事、社交界を巡るありきたりな噂等々、そんな他愛のない会話しかないが、今日は少々違っていた。
「舞踏会?」
ラドゥーは話題を持ち出してきた母を見た。少女の様な母はうきうきとしていた。
「そうなの。ギータニア帝がね、来月の建国記念式典祭を機に、近隣諸国の有力者達を集めて親睦を深めようと今度開かれるんですって」
ギータニアとはグリューノスとムノア砂漠という砂漠地帯を挟んで南に位置する大国だ。それはさておき、三児の母であるはずの彼女は、未だその美貌に衰えは見えず、寧ろ年々若々しく桃色に染まっている。
「母様、それが何か………ああ、そういえば皇帝には年頃の王女がいましたね」
心当たりを見つけ、ラドゥーは心持ち、声を低くした。
「うふふ、話が早いわ。さすがあたくしの息子! まあ近隣の有力な若い子を呼んで、自国の貴族の姫も交えて大々的なお見合いパーティーしましょってやつよ。それでね、」
「嫌です」
ラドゥーはパンを齧った。
「まだ何も言ってないじゃない」
「何を言いたいのかは分かってます。その舞踏会に行けって言うんでしょう。嫌です」
「そう言わずに、お母さまのお願い」
手を組んで首を傾げた母は、潤んだ瞳でラドゥーを見つめた。やたら様になるのが憎たらしい。そんな母を無表情に冷めた目で見つめ返した。
「母様のお願いは年がら年中でしょう。俺は試験が終わったばかりなんです。解放感に浸る俺にそんな鬱陶しいところへ放り込まないで下さい」
先日の事件のお陰で勉強時間が大幅に削れたラドゥーはその巻き返しにここ数日は寝不足だった。成績の維持はさほど難しくないが、それでも疲労感は否めない。
休みたい。朝から元気一杯な母の相手だってしんどいくらいだ。
「それに、忘れたんですか? 俺は今は市井に混じって生活している身です。それと公の場に『我が家の嫡男』が出る意味が分からない訳じゃないでしょう? 間違っても学校の者達に素性を知られたくありませんし、そういうのはどこから漏れるか分かりませんからね」
一族の分家共にでも知られたらどうすんだ。こちらの方が厄介だ。
「でもぉ…」
「どのみち、一領主の息子に過ぎない俺など、帝国の大輪の花達は見向きもしませんよ」
「そんな事無いわっ。うちは半分独立国家みたいなものだし、豊かで安定した街だもの。きっと最有力候補とみなされてるに違いないわ!」
母は指を鳴らした。心得たようにしずしずと使用人が銀の盆をラドゥーに差し出す。
盆の上に一通の手紙。それは仰々しく綴られたラドゥー宛の舞踏会の招待状だった。
帝国の紋である、馬に蛇の巻きついた刻印が蝋で押されているのを見てラドゥーは溜息をついた。母に言われずとも、うちが有力な家というのは百も承知だ。統一されるまでは実際独立国家であったし、領地の面積も殆ど変わっていないのでそこらの小国よりよほど大きい。さらに今もある程度自治権を認められているため、他の街とは少し立場が違うのも確かだ。
宝石を特産としていて財政も潤っているし、街の統制も行き届いている。あちらはうちを取り込む気満々なのは手に取るように分かる。
「うちを征服したダンクルは、この招待状が来たのを勿論知ってるんですよね?」
「さあ、知ってるんじゃない?」
手紙にはダンクルの認可印がどこにも押していない。
他国の書状を相応の権力者が受け取る場合は、その前に王またはその代理の認可がいる。それは、秘かに他国と誼を結び、王家に背かないようにするための処置なのだが、それがない。
ということはつまり、ダンクルの王都へ、つまり王の目を通さずに直にここへ届けられたということだ。相手が勝手に送ってくる分には違法ではなくとも、勘ぐられる恐れはある。
ギータニア側の意思が露骨過ぎて笑えない。
「…仮にも俺達がいただくあの王にお伺いを立てるべきでは?」
「いいじゃない。あたくし達の他にも貰っている家があるみたいだし」
ラドゥーは溜息をつ吐いた。他はともかく、家の場合、下手をすれば密通の疑いもたれかねない。我が家は特別だから、他のどこよりも気を遣う必要があるというのに。
「…じい様」
「うむ、問題ない。既に知らせてある」
流石じい様、箱入りの母とは違う。
「ならいいんです。では、そろそろ登校の時間ですので」
引き止められる前にと、さっさと席を立ち、スタスタと扉に向かったラドゥーに母は見逃さなかった。
「ラゥっ、まだ話は終わってないわよ!」
テーブルに手をついて勢いよく立ちあがる母を、それまで隣に座って静かに会話を聞いていた父が止めた。
「ルミネ、ラゥがもし王女様のお婿さんに選ばれたら、僕たちと離れ離れになってしまうかもしれないんだよ? いいのかい?」
位置的に見上げられるかたちとなった母ルミネは、夫の視線にたじろいだ。
「そ、それは…」
「僕たちの愛の結晶を、狡猾なギータニア帝にとられてしまうなんて、そんなひどいこと僕は堪えられないよ…」
「ダン…それは私も同じよ。あたくしは王女じゃなくて、それに出席する貴族の娘が目当てなのよ。そんな悲しい顔しないで。あなたがそんな顔をしたら私は何もできなくなってしまうわ」
「いいんだよ、僕は君の全てを肯定するから。いつだって味方だ。思うようにすればいいんだよ」
「ダン…」
「ルミネ…」
その場には、当の愛の結晶は既にいなかった。
愛の結晶は慣れた手つきで使用人の手から鞄を受け取り、開けられて通られるのを待っている玄関に立つ。
「行ってらっしゃいませ、若君」
玄関口で見送りの者達がそろって頭を垂れる。
「ああ、行ってくる。病弱な若君の世話を頼むよ」
したり顔で使用人たちが微かに口の端を上げる。
「かしこまりましてございます」
そうして、ピンピンしている若君は玄関の戸をくぐった。
登校したラドゥーは、早速友人らと他愛無い会話に花を咲かしていた。
「みんな席に着けー、出席取るぞー」
担任が教室へ入ってくるのを合図にばらばらと皆が席に着く。ラドゥーも席に着き、呼ばれるのを待つ。
この学校は成績順にクラスも名簿順も決められる。ラドゥーは真っ先に呼ばれた。
「ムークットーー」
「はい」
「ファルデー」
「はぁい」
「ウォールー」
返答はない。
「ウォールー?クリス・ウォール〜?」
教師が名簿から顔を上げ、目当ての生徒の顔を探す。
「休みかー? 誰か知らんか?」
すると、その生徒の友人の一人が手を挙げた。
「先生ー、クリスは家庭の都合で一時故郷に帰ったそうですー」
「そうかー、じゃあ次いくぞー。ハニカー」
教師のやる気のない出欠確認の声を聞きながら、ラドゥーは今朝のやり取りをぼんやりと思いだした。
クリスという女生徒。彼女はついこの間彼に告白をしてきた子だ。彼女は留学生としてここに籍を置いている。
確か、故郷はギータニアだった。
向こうが積極的に話しかけてくるので、それなりに彼女のことは知っていた。立ち居振る舞いやふとした言葉づかいから察するにそうといに良い家柄だということも。今朝と言い、今日はやたらギータニアとは縁がある。
「…やぁな予感」
舞踏会など煩しい。見合いなど以ての外だ。なのに母はやたらとその手の話題を好む。今日に限らず母は隙を見ては縁談話を持ち込む。
やれ、どこそこの令嬢の誕生会だの、さる伯爵家のお花見だの、共通するのは行き先全てに、ラドゥーと歳が見合った女性がいること。
最近大人しかったから油断していた。よりによって帝国の王女だと? 御免こうむる。
まあ、いつものようにのらりくらりと躱せば済むことだ。
さっさと思考の海に沈めるに限る。
一日一日は、その時には永遠に感じられるのに、終わってしまえばあっという間に感じるものである。
本日最後の授業、ミセス・リリスの授業――ヒステリスタイム――の終業の鐘を聞いた途端、クラスの皆は解放感に溜息を吐き、身体を伸ばした。
教科書を仕舞って帰ろうとすると、ドア際に、そこには先程まで教鞭をとっていたミセス・リリスがラドゥーを手招きして呼んでいた。
「ミセス、何か?」
今日は何事もなく授業を全うできたはずだ。
「アナタの担任のグック先生に頼まれていたのを渡しに」
そういって差し出してきたのは一通の手紙。
「これは?」
受け取りながらも心当たりはない。ミセス・リリスも首を傾げている。
「さぁ。あたくしもよくは知らないわ。頼まれただけだもの。それに、グック先生にしても、ただ頼まれた口みたいだし」
それじゃあよろしく、と大福…いや恰幅のいい身体を翻して去っていった。
「何をよろしくされるんだか…」
裏返すと小さく自分の名前が書かれていた。流麗な字とまではいかないが、読みやすい字だった。線の丸みからしておそらく女性の筆跡だろう。封筒は質素だが、教養のある字。それが余計に不安を煽る。
また、何やら変なことに巻き込まれる嫌な予感が…。
「…おじじの店に行こう」
あの店はラドゥーにとって、ある意味自宅より落ち着く癒しの場でもあった。
『本の虫屋』は貸本屋。貸し出しもしているし、購入も出来る。
しかし、借りられるなら何もお金を払って買う必要などないと思うかもしれないが、ここの客は揃いも揃って本好きばかり。それも、本という物そのものを愛している人種ばかりである。なので、借りるだけでは満足できず、好きな本は手元に置いておきたいと思う者が多いのである。実際、ラドゥーも『ガルド・バリューの冒険』を始め、ファンの著者の本はいつも購入している。
逆にいえば、そうでない者は常連客になることは少ないともいえる。別にそこまで本狂いにならないといけないとは言わない。けれども、少なくとも書物に敬意を払わない奴は、この店に来る資格を失う。
一度目は入れるが、二度目はどうあっても店の戸は開かれない。どうやら店のブラックリストに載るらしい。
例えば――これはラドゥーが偶々その時居合わせて偶然知ったことだが――ある日、ある学生が店にやってきた。レポートのためか何なのか、目当ての文献や書物を借りてさっさと帰って行った。貸出期間は二週間。ところが、その学生は期限が近付いてきても返しに来ず、延滞手続きにも来なかった。
けれど貸出期限の日から翌日、当の本はそっくり店に戻ってきていたのだ。
理由を訊くとおじじは苦笑した。
「マナーが悪かったようじゃの」
当時まだ幼かったラドゥーは首を傾げた。本が戻ってきた原因でなく、その仕組みを知りたかったのだが。
「本だって生きておる。大事に扱ってくれない者の許にいたくなかったのじゃろ」
「でも、俺だって帰す日遅れたことあるよ?」
しかし、その時はこんな現象は起こらなかった。ちゃんと自分で返しに行った記憶があるから確かだ。
「あまりに返す日が遅れたらそうなるかもしれぬのじゃが、ラゥ坊はきっと本を読むのに夢中で、返すのが遅れただけじゃろ?」
ラドゥーは頷く。年齢の割には分厚い本を借りていたのだ。難しい言葉も出てきたが、それでも面白くて、一生懸命読み進めているうちに返却期間が過ぎてしまったのだ。
「そうやって一生懸命読んでくれる人には本は懐く。じゃからの、そんな人には自分から離れたりはせんのじゃよ」
分かったような分からないような。
「えっと、じゃああのお兄さんは大切に読まなかったの?」
「そういうことじゃろうな。契約が切れた途端、すぐに出戻ってきたくらいじゃからの」
ラドゥーは、やれやれと呟くおじじを見上げていた記憶を不思議とよく覚えている。不思議なお話を読み聞かせられているようで、ついつい聞き入ってしまったあの日。
そしてそれ以来、その学生は二度とこの店に足を踏み入れる事はなかった。
それはともかく、その不思議な店の扉を開けて中に入ったラドゥーは、本の整理をしていたアビスと遭遇した。
「こんにちは、お久しぶりですね」
無言。
「そういえば、予約してたレネ・ボッホの新作届いてます?」
無言と肯定の(わずかな)頷き。
「そうですか、ではそれ今日買います。お会計して下さい」
無言。
しかしただの無言ではないのは、そこそこ長い付き合いであるラドゥーはすぐ気付いた。
その視線がラドゥーの顔を凝視していた。いつもしゃべりかけてくる者の顔を凝視して怯えさせるアビスだが(多分アビスに他意はない)、なんだか探るような眼をしている。
「何か、顔についてます?」
無言。
まあ返答を期待して言ったわけでない。しかし、驚いた事にアビスは口を開いた。
「闇に属するやつに気を付けて」
耳を澄まさなければ聞き逃してしまいそうな、小さな声。
「闇?え、どういうことです?」
もうアビスはラドゥーの方さえ見ていなかった。無言でカウンターの方へ向かっていく。
会話のキャッチボール。アビスに限っては壁打ちと変わらない。
それでも全く気にせずかれこれ10年、このやり取りをしているラドゥーは、その後ろを付いて行った。
本を購入後、そのまま帰らず、店の隅の机に着きミセス・リリスから渡された手紙を出した。
「これ自体は何の変哲もないただの茶封筒なんですが…」
見覚えがあると思えば、これは学校が常備している封筒だった。つまり差出人は学内の誰か。
ミセス・リリスに頼んだというグック先生も頼まれてということらしい。
グック先生に確認するなり、とっとと開けて内容を確認してすっきりしたりしないのは、読んだら引き返せないようなそんな予感がするのだ。ひしひしと。
「まさかラブレターではないでしょうね」
誰もラブレターを学校の備品で賄ったりしないだろう。よく貰う手紙はたいてい女の子らしい桃色や青や黄色の便箋だ。茶封筒の恋文なんて見た事も聞いたこともない。意外性という意味ではアリかもしれない。
「開けるしかないでしょうね」
何故かいつものように開けずに捨てることも、放置も出来ない。封筒が訴えてくるものがあったからだ。
ますます開けたくなくなってきた。
一度深呼吸をして、覚悟を決めて封筒を開けた。
呆気なく開いた封筒には一通の手紙。筆跡は封筒に書かれた字と同じ。
そこにはこう書かれていた。
〈親愛なるラドゥー・ムークット様
突然のお手紙をさぞ驚かれている事でしょう。
担任の先生に頼み、さらにミセス・リリスに渡して貴方のもとに届けるようお願いしたのは私です。
私はこの度故郷に帰る事になりました。もうこの学校に戻ってくる事はないでしょう。
けれど、それは私の意志ではないのです。父が独断で無理に決めたことです。
私は、留学がこんな風に終わってしまうないかと、常々予感していたことですから、今更驚きはしませんが、怒りを覚えないわけではありません。
学校の事を諦められても諦められない未練があるからです。
それは貴方です。
私は、見合いの為に連れ戻される。でも、私は愛してもいない者と結婚などしたくありません。
貴方の御心が私にない事など知っています。けれど、私を哀れに思って下さるなら、私が自由になるために力をお貸しいただけませんか。
私は今度開かれるギータニアの舞踏会に出席します。どうか貴方も出席して頂けませんでしょうか。
招待状は同封しておきます。
敬具 クリス・ウォール〉
「…………………」
しばらく無言だった。
下手なラブレターよりも質が悪かった。
「この舞踏会って…」
十中八九、今朝母が持ち出した例の舞踏会だ。手紙と同封されているのは今朝見た招待状と相違ない。
落ち着け、俺。be cool be cool。
そう、少しずつ情報を整理していこう。
まず、差出人は今日欠席をしたクリス・ウォール。この少女はつい先日ラドゥーに告白して玉砕。
その少女の欠席理由は家庭事情。実質、お家問題。そして彼に手紙を寄越し招待状を同封。
彼女はその舞踏会に不本意ながら出席する。
そして問題は、何故ラドゥーに助けを求めたか、だ。
茶封筒を見る。恐らく、迎えの者が突然やってきた。もしくはやってくる気配を察知し、急ぎ学校でこの手紙を書いたのだろう。
彼女の本意は、ラドゥーへの想いに未練があるから、その舞踏会に来て、自分を攫いに来い、ということだろう。
さらに封筒を探るとご丁寧に切符も入っていた。切符は隣町のミティ経由のギータニア首都直通列車(一等席)だった。
「…お膳立ては万全、ということですね」
乾いた笑いがラドゥーの口から洩れた。
「結構高額なんですが、まあ御令嬢の金銭感覚なら納得です」
手紙の内容も、腰を低くしながらも、切々と自分の主張を頑迷に訴えている。いかにも思い通りになることが当たり前に育った令嬢な文だ。
「切符をくれるくらいなんですから、俺がまさに、グリューノス家の後継ぎとして、この招待状を受け取っているというのを知らないんでしょうね」
それなら、彼女は庶民に助けを求めたことになる。
ギータニアは未だ身分意識が根深い国だ。そんな土壌で育った令嬢には相当な覚悟だろう。
そもそも名門といえど、庶民にも広く門徒が開けられている学校に留学生としてやって来たのだ。貴族が中心の学院だっていくらでもあるのにも拘わらず。この令嬢はその中に、どんな事情か知らないが単身飛び込んだのだ。根性があるというか何というか。
「思いつきで書いたにしては、よく考えて書かれている。書こうと思った矢先に迎えが来たとしたら、学校でしか書けなくなった、という筋書きですかね?」
家では書けない。便箋の中身を確認されるのか。いくら厳しい家でもそこまで私的な部分にまで踏み込まれるとなると、親の過干渉は寧ろ病的でさえある。
「…貴族のお家事情に首を突っ込んで良いことないんですけどね」
勘弁してほしい。自分のことでも手一杯なのだ。
「舞踏会、どうしましょうか」
はっきり言って迷惑だ。彼女に何の感情も持ち合わせていない自分には、彼女を舞踏会から連れ出す理由など無い。
それに、仮に連れ出したとして、その後どうしろ言うのか。
彼女は庶民だと思っているラドゥーに救いを求めた。
貴族に庶民が立てつくとなると、その貴族が手の届かない場所まで逃げるくらいしかない。
つまり駆け落ちだ。
実際は庶民でないラドゥーではあるが、それを知らないあのお嬢様は分かっているのだろうか。
「分かっていないんだろうな…きっと」
好きな相手が周りの男共を押しのけて颯爽と連れ去る、まるでどこぞの三流恋愛小説のような展開を期待しているのだろう。
その後にある苦難など知らず。駆け落ちで幸せになるのは、相応の当てがある場合か、双方共にどんな苦難も吹き飛ばせるど根性精神のあるカップルくらいだ。
ところが、今回その相手であるラドゥーに彼女に対する気持ちさえない。それを知っていると書きながらこうして助けを求める。
それはラドゥーがこの切符と招待状を手に自分の許に駆けつけてくれることを疑っていないからだ。
「なんて甘ったれた思考回路ですか」
それほどまでに彼を求める彼女に心打たれて彼女に思いを寄せられるとでも?
吐き捨てながら、何故自分は学校の都合を付けているのはどうしてなのか。それはきっと、その手紙が震えを堪えて書いたような跡を見つけてしまったから。
「…自分がこんなお人好しとは思いませんでしたよ」
仕方ない、気は進まないが舞踏会の出席はしよう。
「俺への想いを断ち切る手伝いぐらいはしてあげますよ」
ラドゥーは気付かなかった。
自分が、他人が見たら底冷えするだろう、冷たい顔をしていたことを。