13.時を刻む秒針の音
「なあ、ちょっと課題見してくんね? 次当てられるから――」
「じゃあ、ひとっ走りジュース買ってこいよ―――」
「パシリかよっふさけんな―――」
「いなくなってた人が戻ってきたって親戚の人が言ってたわ――」
「ほんと? 良かったね。―――」
「でも、いなくなってた間の記憶がないみたいで―――」
「あー、新聞でもそんなこと書いて…。結局犯人は何だってこんなこと―――」
昼休み。教室の開いている窓から聞こえてくるざわめき。気まぐれな風が屋上にいるラドゥーの耳まで声を届ける。ごく普通のありふれた日常の音。けれどそれは全く同じものではない。似たり寄ったりではあるが、同じではない。
ああ、単調な生活がこんなにも新鮮に感じられる日が来るなんて…。
しみじみ思うラドゥーは背を石畳に付け青空を見上げた。
あの後、気が付くとラドゥーは学校の正門に立っていた。どうやって帰ったのか思い出せない。いつの間にか自室にいた。
ラドゥーがエルメラに連れられて夢へ行った時と同じ時間帯だった。その日の内に戻れたのかと期待したが、甘かった。
玄関口に立ったラドゥーを、出迎えた者はまるで幽霊を見てしまったかのように、目をまん丸にし、一拍後、大騒ぎを始めた。その内母が玄関まで走ってくる始末。抱きしめられ、喚かれ、実はそっくりさんなんじゃないかと疑われた。何とか本人と納得してもらえた途端、ど叱られた。
結論から言うと、丸三日、ラドゥーは行方不明だったそうだ。
前回とは違い、時間の流れは現実とさほど変わらなかったらしい。油断した。彼が過ごした三日はそのまま現実にも適応されていた。
幸い、休日をはさんでいたので、学校や世間には伏せられていたが、祖父のゴルグルドは軍警共には見つかるまで草の根分けても探し出せ、極秘裏に脅していた。帰ってきたラドゥーに事情を伺いにやってきた軍警達は、死に物狂いの捜索をしていた痕跡をありありとその身に刻んでおり、その原因のラドゥーはさすがにちょっと同情した。
誘拐だ、新しい失踪事件の被害者だと、さんざん心配し、探しに探して、それでも見つからなかった。なのにラドゥーは、青少年にありがちな短期間家出の様に三日後、何事もなかったかのようにひょっこりと帰ってきた。家族や使用人らは安堵の表情を見せた刹那、ふつふつ沸き立った憤りが表面化し、それが全て説教に変わった。彼らの気持ちも分からないではないので、それを半日、甘んじて受けた。
とりあえず、どこに行っていたのかという問い詰めには、無難に、何も覚えてないと言い張った。
あの不思議な世界での出来事は、どう説明したって、実際その場に居合わせていなければ、到底信じられるものではない。下手をすればラドゥーは、精神病院に通わされる。
攫われた人達も、何処にいて何をしていたのか殆ど記憶にないらしい。ぼんやりと嫌な悪夢を見た、程度にしか覚えていない。覚えていなくて良かったと思う。人はそこまで強くない。心が壊れてしまう。
そして
ラドゥーは目を開けた。
皇子を刺した手を空にかざした。数秒見つめ、ラドゥーはその手を握りしめ、額に当てた。
説教から解放され、やっとのことで部屋に帰ることができたその夜、エルメラはいつぞやの様にラドゥーの机に座って待っていた。
「お疲れ様」
ひらひらと手を振って彼を出迎えた。
「…仮にも女性が夜、男の部屋に訪れるものではありませんよ」
たしなめはしたが、エルメラがここにきた理由も察しがついていた。
「で。何しにここに? と聞いてあげましょうか」
「ありがと。質問受付を設けてあげるわ。気の済むまで答えてあげる」
いつも通りの明朗な口調だったが、かすかに殊勝さも見えた。
「…それはどうも」
そう言いつつも、ラドゥーは暫くソファに座ったままじっとしていた。エルメラも急かしたりはしなかった。沈黙が続き、棚のぬいぐるみが少し傾いたのを契機に、ラドゥーは口を開いた。
「…あれ以外に手はなかったのですか?」
「そうね」
「どうして」
「夢の主である皇子が、既に生きている人でなかったから」
意志を持つ夢は、現に生きる人間が創り出す夢。脆いその夢は、主が目を覚ざめれば弾けて消える。通常ならば、ウォンバルト殿下を目覚めさせば、夢は消え、扉が開き、捕らわれていた人達はいづれ自然と元の世界に戻っていく。
「でも、皇子はとっくに死んでいる人でしょ。生前に未練を残し、その執着心で夢を創りその中で存在し続けた霊のようなもの」
思念が夢の世界で形を成し、夢を創ること自体は珍しくはない。人間の思いとはそれだけ強いのだ。その他の動物にはない複雑な感情をもったヒトは。
「とはいえ、所詮死者が創るもの。生きた人間の方がその存在力は大きい。だから死者の夢は一般的に規模が小さくて、より脆い」
また、死者の思いは一つのものに執着し、それだけの為に存在するのだから夢の形は顕著に偏っているものだ。よって他人がその夢に入り込む隙もない。
「なのにあの皇子は違った。もう分かったでしょ? あの夢の異常さ」
ラドゥーは曖昧に頷いた。皇子の夢は、どこまでも現実に忠実で平和で広くて、何より明るかった。時が繰り返すことと、彼の最期の瞬間を除けば、あまりに平凡な夢。街の人々は、現在を謳い、過去を笑い、未来を祝っていた。皇子を知らぬ他人が見ても、彼の懐がどれほど深いのかが窺い知れる。あの夢を壊すのは忍びなかった。壊さずに済ませられるなら、そのままにしておきたかった。彼の目を覚めさせ、人を攫うのではなく、受け入れる場所として、あの夢を存続させて…
しかし
「死者が主の場合、目覚めさせる手段がないのよ」
目が覚める身体が無いから。
「あそこまで強い夢は、生きたヒトの夢でもあんまりないのよね。夢は思いが強い程、確固たる形をとるのは基本。まあ主が目覚めても、忘れられない夢っていうのもあるけど。覚えていれば、夢は消えない。それでも、主がいない夢ほど脆いものはないから、強制的にでも目を覚まさせてしまえばこっちのものだったのだけど」
ウォンバルト殿下は死者だった。穏便に夢を捨てさせることが出来なかった。死者となった彼にとって、夢は唯一の居場所。夢を捨てた瞬間、皇子は消えてしまう。
死者は、思いに執着し消えそこなった魂の残滓とも言える。だから簡単に夢を手放すわけがない。自然に消えるまで待つにしても、皇子の場合、強すぎて時間がかかりすぎる。攫われた人はそれまで保たない。
だから
「夢を壊すしかない、ですか。『継ぎ目』を見つけて。どうしてそれで夢が壊れることになるんです?」
「日常でも使うでしょ、現実を突きつけられて夢を壊された、とか。それってつまり大なり小なり自分の信じてた夢を否定されるわけよね、そう、壊されるの」
エルメラはラドゥーの瞳をひたと見つめた。
「夢の世界では自分の夢を壊されるのは死活問題よ」
その思いこそが世界を形作っているのだから。存在意義そのもの。どれだけ矛盾していようと、間違っているものとしても、信じていれば形となる。そして夢を形作る柱を崩されれば、夢は存在出来なくなる。
夢の崩壊
けれど、ラドゥーは皇子の信じていたものを否定したわけじゃない。
「貴方が『鍵』を開けたからよ」
「『鍵』…」
「夢には扉があるの。扉は二種類。玄関口と勝手口。私達がいつも通るのは勝手口」
「人様のお宅に勝手口から上がるのはどうかと」
「だって玄関口は鍵がかかってるんだもの」
「それは、勝手に自分の家に入られるのは嫌ですから当然じゃないですか」
「まあ、だからそういうことよね」
「は?」
「鍵は内鍵。主が自分で開けるか、勝手口から入って来た他者が力尽くで開けるかしない限り開かない。"奇術師"が言っていたゴール。皇子が許可すれば扉が開かれ、元の世界に帰してもらえるはずだった。でも、他者によって開けられた場合は…」
「それが夢を壊すということですか」
最も触れられたくない部分を突く、という理由では納得だ。
「『鍵』は夢によって様々。物であったり、今回みたいに何かをこなしたり」
『鍵』は、通常簡単に見つけられないようになっている。
けれど今回はすぐに見当がついた。そこだけは脆い意思を持つ夢らしいといえばらしい。
「時が止まってた日はどんな日だった? そして夜に夢がリセットされたのは?」
ラドゥーは前髪を乱暴に掻き上げた。
「…最初から、分かっていたんですか?」
「そんなことないわよ。ただ、あの世界の時が止まっているのに気付いた時、もしやとは思っただけ」
時が止まる原因など限られている。進むことを拒否したのか、進みたい未来を閉ざされたのかぐらいだ。
「扉が時計だったことからして、時にどれだけ縛られていたかが伺えるわね」
時計。彼らの結末をずっと見続け、時を止め続けていた時計。あれだけが、何度も繰り返す夢の中で唯一、何者にも動かされぬ確固たる門だったのだ。
「ま、縛られていても、それでもなお屈しなかったのは称賛に値するわ」
皇子は強い人だった。けれど、その思いの強さが仇となり、余計に彼をあの夢に縛りつけてしまった。
自力で、抜け出せない程に。思いの強さが絶望を深くして、少しずつ彼を蝕んでいった。
「そこを、あの“奇術師”に付け込まれたのね」
“奇術師”の行動を知らないにしても、何かしら感じるところはあったはずだ。それを黙認し続けて、ついに、帰らぬ人を出してしまった。
「でも、さすがは聡明と謳われた皇子ね、貴方の訴えに応えてくれた」
同じ、いずれは一つの国や街を束ねる後継者同士だったから、その思いは自分達が一番知っている。
違う形で会えたなら、もっと語り合えたかもしれない。
「どうして分かるんですか? 扉が時計だと」
「知らないわよ。ただ聞こえたから」
明日を告げる音が。
「…そうですか」
「ふふっ、貴方こそ扉が時計だなんておかしく思わないの?」
「それぐらい普通に受け入れらるぐらいには、貴女に毒されてしまったようです」
今までの体験を思えば些細些細。
「……ウォンバルト殿下は俺に言いました。躊躇うな、と」
突然切り出したラドゥーに、エルメラは不思議そうな顔をする。
「何の事を言っているのか、言われた時は分かりませんでしたが…すぐに気付きました」
彼がこちらを向いた時、こうする以外にないと。
皇子の胸に刃を突き立てたその刹那、皇子が微笑むのを見て、彼の言葉は幻聴ではないことを知った。
すまぬな、と。
それだけ口にして、あの皇子は砕けてしまった。砕ける間際、彼は何を思ったのか。
「まあ、全ては済んだことです。だいたい納得も出来ましたし」
「そお? なら良かった」
エルメラは微笑んだ。しかし、エルメラにも分からないことはある。
「それにしても、あの皇子はそんなに王様になりたかったのかしらね?」
「…多分そうじゃないと思いますよ」
首を傾げるエルメラは、何が鍵で、どうすればいいのか知っていても、あの経緯を知らないらしい。
「…いつの世も、人生を狂わせるのはいつだって恋なんでしょうかねぇ」
「なあに?」
「……いいえ」
ラドゥーは首を振った。
「ところで、軍警に訊いたのですが、失踪していた人達は全て帰ってきたようですよ。犠牲者がいたんじゃなかったんですか」
「ああ、貴方の世界には最近手を出し始めたばかりだったみたいだからね」
よかったわね、と笑う少女を凝視する。
「何?」
「…いえ」
まだ、『その事』は認められそうもない。
ラドゥーは目を開いた。エルメラの顔が脳裏から消え、絵具を溶かしたような青空が眼前一杯に広がった。
「精神衛生上…彼らの事を少し調べてみましょうか」
ラドゥーは身を起こした。
業後、おじじの店“本の虫屋”に訪れたラドゥーは、ここに来て、初めて調べる取っ掛かりがない事に気がついた。
名前が残らない王族など腐るほどいるし、そもそも彼の国の名前を知らない。どうしようかと思いあぐねいていると、コツ、コツと棒を突く音が、ゆっくりとこちらに近づいてきた。
振り返ると、杖をついて歩いてくるおじじがいた。
「どうした、ラゥ坊。何か調べものかね?」
穏やかな物言いは、ラドゥーに言うつもりのなかった夢の事を漏らしてしまう威力があった。
こんなこと言ってもおじじは分からないだろうと後悔したが、予想に反しておじじは納得したように何度も頷いた。
「ああ、『タムス』の国の話じゃな。その国に『冠なしの王様』というお話がある。そのモデルとなった皇子の事じゃよ」
おじじは手近な椅子に座ると語り始めた。
昔々、あるところにとても立派な皇子様がいました。
その皇子様にはとても仲の良いお妃様がいました。
皇子様の国は少し前に隣国との間で大きな戦争があり、不幸にもお父上である王様が亡くなり、皇太子であった皇子様が戴冠することになりました。
しかし戴冠前にすでに王の仕事をこなしていたので、急ぐこともないだろうと、国が安定したのを見てから、戴冠式を行うことになり、式は延び延びになっていました。
そのお妃であるお姫様も並んで皇后に立后することが決まっていました。
戴冠式の準備も滞りなく進み、やっと執り行われる皇子様の戴冠を国民は心から喜び、街中、いえ国中がお祝い騒ぎでした。
しかしその前日夜、皇子様とお妃様は突然お亡くなりになられてしまいました。
寄り添うように眠るお二人を臣下の一人が見つけ、お城は騒然となり、それが民にも伝わり国中は一転して悲しみにくれました。
戴冠式は当然取りやめになり、代わりにお二人のご葬儀が行われることになりました。
けれど、悲しみ暮れるこの国に、再び隣国が攻めてきました。
隣国の貪欲な王様は、立派な皇子様さえいなければ、この豊かな国を手に入れられると欲を出したのです。
完全な不意打ちで、敵軍は味方の軍の必死の抵抗をことごとく打ち破って、とうとう王都にまでたどり着いてしまいました。そんな敵軍を前に王都の民達はあの立派な皇子様に祈りを捧げました。
〈ああ、どうか我らをお救い下さい。我らが頂く王は貴方様だけです―――〉
大臣様も、将軍様も同じようにお祈りしました。
するとどうでしょう。晴れ渡った空が急に曇り出し、瞬く間に嵐が起こりました。それも、その敵軍の周りだけです。
これを奇跡と言わず何と言うのでしょう。
これを皇子様のご加護だと皆は信じました。
こうして、力を取り戻した民は混乱した敵軍を打ち負かし、皇子様の国を守り切りました。
民達は噂しました。皇子様はきっと人間の王冠では小さすぎて、天上の御位に就かれるために天に召されたのだと。
そして奥方であるお姫様も、それにご一緒したのだろうと。
その話は国中に広まり御二人はいつしか『天王』と『天后』と呼ばれるようになりました。
そうして、皇子様はお妃様と共に神様として神殿に祭られ、今もなお皇子様達はの国をお守りになられているのです。
めでたしめでたし―――。
「―――というお話なんじゃ」
「…それ、真実なんでしょうか」
あの修羅場は一体。
「ほ、ほ。これは事実を知らぬ民衆が史実とまじ合わせた作り話じゃよ」
「本当にあったのもあの中に?」
「ちらほらとな」
おじじは一息つくように溜息をついた。
「あの二人は戴冠式前日に亡くなったのは事実じゃ。じゃが、皇子は妻の手にかかり、妻は自らの手で命を絶った」
レーリアと呼ばれた女性の、思いつめたあの顔。
「実はな、あの二人は異母兄妹だったんじゃ」
ラドゥーは思わず顔を上げた。まじで?
「しかも二人の母親達は実の姉妹じゃった。それと近親相姦は認められていない国じゃ。それにお互い、母親の仇でもあった」
おじじは少々の哀れみをこめてその内情を語った。
二人の母親達は下級貴族出で、大変仲が良かった。しかし幼い頃、姉妹の妹の方が攫われてしまった。
必死の捜索虚しく月日は立ち、やがて姉の輿入れが決まった。王の側室として後宮にあがり、皇子を身籠る。
それに平行するように当時の王は、きな臭くなりつつある隣国の情報を得ようと、自ら国を見まわっていた。
その際に、気まぐれに娼婦を買った。それが、実は幼い頃に攫われて売られた妹だった。
そして、一夜限りの寵愛で妹は女児、レーリアを身籠る。
自分一人食いつなぐので精一杯だった妹は、産んだ赤ん坊を孤児院に預ける。
しかし忍びなかったのか、幼い頃攫われた際に身につけていて、人買いから死守した高価なブローチを授けていた。
やがてレーリアは成長し、美しさをかわれて子供のいない貴族の家に養子に出された。
彼女にしてもブローチを手掛かりに自分の出生を知りたかったのだと思う。
同じように逞しく成長した皇子は王に似て頻繁にお忍びで街や地方に出奔した。そして何の因果か何も知らない二人は出会い恋に落ちる。
最初は密やかな恋だったが、やがて皇子はこの少女を城に連れ帰り、正妃とした。周りの反対を押し切り二人は結ばれる。
それでめでたしとなるのはお伽噺の中だけだ。
歯車は無情にも周り、悲劇が起こる。
引き金は皇子の立太式だった。
立太出来る年になった皇子とその母親である姉と、妃である少女が公の場に姿を現すその式に妹であるその人が偶々気が向いて式を見にきた。そして遠目からでも分かってしまった。あの栄華に輝く美貌の王の妃が自分の姉であることを。
もともと無欲な性格だった妹だが、姉と自分の境遇の違いに絶望に落とされ、姉とその息子に嫉妬し憎んだ。自分は娘を手放さなければ生きていけない境遇にいるのに、姉は息子と共に最高の位に就こうとしている。同じ姉妹なのにこの違いは何なのか。
自分の幸せと引き換えにあの栄華があるとしか思えなくなった。
そして、その嫉妬に狂うまま、王城に忍び込み、姉を殺し、近くにいた皇子も手にかけようとした。しかし、相手は少年といえど男でそれなりに訓練を受けている皇子である。その狼藉者を返り討ちにした。
その時、外套をかぶり見えなかったその反逆者の顔を妃が偶然見てしまった。
自分とよく似たその顔を。
妹の方も気付いた。身につけたものに比べれば質素に映るかつて自分のものだったブローチを胸元に付けた妃の事を。
母娘の邂逅は一瞬で終わる。そうとは知らないまま、皇子は反逆者を殺してしまった。
娘である妃の目の前で。
皮肉にも王の妃である姉と娼婦として底辺で生きていた妹はこのおかげでようやく再会し、同時に同じ場所で息を引き取る。
事実を確認したレーリアは母への思慕と皇子への愛に揺れ動く。
皇子は妻のそんな様子に気付いたがまだ原因は知ることはなかった。
そんな中、危惧していた隣国との間についに戦争が勃発してしまった。
皇子の父王は戦争に参加し、戦死してしまった。急遽後を継いだ皇子に妃を気遣う余裕はなく、戦争の終結と事後処理に追われた。
その間、妃が一人でどんな思いでいたのか知りもせず。
そして、ようやく国が落ち着いたころ今更ながら皇子は未だ正式に玉座についていない事に気づき、妃と共に戴冠式を挙げようと臣下に令を発した。
皆の浮かれる気持ちとは反対に妃は沈んでいった。
母を殺した愛する夫と至高の位に就くことが母への裏切りのような気がして、とても喜べなかったのだ。
皇子が母を殺したのが身を守るためであり、やむを得ない事であったことはその場にいた自分がよく分かっているが、割りきれなかった。
そして、その母も、皇子の母を殺した事で、自分は仇の娘ということになる。
この時はまだ母親同士が姉妹ということを知らない。
一方、皇子も、妃の浮かない様子の原因を晴らそうといろいろ調べた。その過程で自分の母と母を殺した女が姉妹であることをついに知った。
その事実に驚いた皇子は、妃にもそのことを話してしまう。
その事実は、妃を追い詰める結果になってしまった。
自分達は異母兄妹で、しかも、かなり血が濃い。皇子は父親似で、自分は母似だったため、まったく似ていないが、まぎれもなく自分達は兄妹だ。
妻の様子にさすがにただ事ではないと思った皇子は、さらに調べてみた。
そして皇子も、ついに真実を見つけてしまった。
それぞれ真実を知ってしまった二人。
そして、とうとう戴冠式前日、運命の日がやってきた。
皇子は予感していたのかもしれなかった。戴冠式前日だというのにいつものように街に繰り出し、街を丹念に見て回った。
妃もお気に入りだった花園をいつもより時間をかけて散策した。
そして、その夜―――
「もう…いいです」
そこまで聞き、ラドゥーは止めた。
その夜、自身で見たあのやり取りがあったのはもう分かっている。
「…メロドラもびっくりな愛憎劇ですね」
ラドゥーは肩の力を抜くように、深く息をついた。
「おじじさん、その後は昔話にのようになったんですか?」
「そうじゃな…戦が起きはしたが、その時に奇跡が起こったかどうかは定かでない。じゃが、二人が神格化されて祀られておるのは事実じゃ。…二人についての真相は、後に真実を突き止めた皇子の忠臣たちによって伏せられた。二人の仲は疑いようがなかったからの。本来ならば妃は弑逆者であるが、皇子は妃と共に葬られるのを望むだろうと、皇子の為に共に祀ることにしたのじゃ」
「どうしてそう思ったんでしょうか。もしかしたら皇子は妃を憎んだかもしれないじゃないですか」
「…二人が冷たくなって発見された時、皇子の腕は妃を抱くように回されておったらしいからの」
ラドゥーは黙した。あの場を見たラドゥーにとって、皇子が最後の力を振り絞って妃を抱きしめたのは想像に難くなかったから。
「…あの街が妙にリアルだったのが納得できましたよ。自身が直接目に写し、覚えていたからなんですね」
皇子は愛した街を、最後に見ておこうと思ったのだろう。あの賑々しさを、今夜にも死ぬかもしれないと、皇子はどんな思いで。
いつの間にかおじじは去っていて、周りに誰もいなくなっていた。シンとした図書室独特の静けさは、今のラドゥーにいつにも増して優しい。
自分は今、どんな顔をしているんだろう。少なくとも同情した辛気臭い顔ではないと思う。皇子は皇子なりに事実と闘った結果なのだから、第三者がとやかく言う資格は無いし、可哀想だなんて思うのは以ての外だ。
皇子は最後にこう呟いたのだ。
《すまぬな、だがこれで、ようやく妻のもとにいける》
「…ああ、そうか、そうだったんですね」
唐突に理解した。皇子は戴冠式を目前に時を止められたから、夢に縛られたんじゃない。
自分が死ぬ間際、自らに刃を突き立てた妃を目にしたくなくて、妃が自刃する前の、自分が刺された瞬間までに留めたんだ。
あの時、言っていたのだから。君の無残な姿は見たくない、と。己が妻に。
本当は待っていたのかもしれない。夢を壊してくれる誰かを。
あの“奇術師”を受け入れたのも、それが引き起こした今回の事を黙認したのも、もしかしたら。
もう、今となっては永遠に分からない事だし、犠牲者を出した事は決して許されるものではないけれども。
「…ご自分でも言っていたように執政者としては褒められることではありませんが、一人の人間としてはその覚悟はあっぱれですよ」
あの世でも来世でもいいから、二人が再び出会う事を祈る。悲劇で終わった舞台に救いは無い。けれど、死した後に台本は無いのだから、ようやく解放された今の二人なら、好きなように演じられる。とびっきりの幸せだって描ける。
「今度会う時は、砂を吐くくらいの惚気話でも聞かせて下さいね、皇子」
カチ、カチと店の時計の針が刻む音が耳に響く。
とりあえず、時間が規則正しく進んでいる事に越したことはないな。
そんな事を思いながら目を閉じて、しばらくその音に耳をすませた。
ところで、
「『タムス』ってどこだ…?」
そんな国、ラドゥーの世界には、ない。
そしておじじはなぜそんなことを知っているのか。
時の止まった皇国編・完