9.夢の主
目的地は決まった。エルメラは時が惜しいとばかりに、夢のとはいえ人様の家の屋根をぴょんぴょんと跳び移り、それに付き合わされたラドゥーが目を回しているうちに、あっという間に城門まで辿り着いた。
命綱無しで三階建以上の高さを跳び渡った経験は、きっといい思い出になるだろうと皮肉気に思った。
城門には厳つい門番。その門番を素通りし、門をさっさと通り抜けて城を目指した。
「こうしてみると、まるっきり現実世界と変わりませんね」
『ガルド・バリューの冒険』の夢は、主人公を演じて夢見心地でいたのもあって、何となく作り物めいていた。
「きっと実在していた世界を模ったんでしょう」
「この世界が、ですか?」
「夢は主の想いの結晶だもの。己を取りまく環境が一番自分の中に影響を及ぼすわ。でも、これだけ確固とした形があるなんて…何かに、とても強い執着を持ってるんでしょうね」
「執着…ですか?」
「珍しくもないわ。人間なんて、何かしら固執していないとつまらなくて死にたくなる生き物だから」
「どうしてそこで人を攫うという選択肢がうまれるんですか」
「人にはいろいろな事情というものがあるのよ」
それから暫く二人は黙って歩いた。道中の中ほどまできたあたりで、エルメラは口を開いた。
「一つ、訂正しておくわ」
「訂正?」
「あのね、恥ずかしくて言いづらいのだけども」
恥じらう様子は可愛らしい。
「何を間違えたんですか?」
「急かさないの。恥じらううら若き乙女を気遣いなさいよ」
軽く一世紀分、ぬいぐるみとちょっとした遊びに費やせるくらいの時を過ごしているくせに。
「何よ、その『は? うら若いなんてどの口が言う』みたいな顔は。三ケタ数えたあたりからめんど…ううん、私は永遠の17歳よ」
ラドゥーは聞かないふりをした。女性の年齢を聞かない礼儀くらい弁えている。
しかし、一体何を間違えたかは知らないが、先程から本題に入ろうとしない。話が進まないので、今もまだぐだぐだ言っているエルメラの出口を塞いだ。
「それで、何を間違えたんですか?」
エルメラはちょっと詰まったが、漸く腹をくくったのか真面目な顔になった。
「まず、結論からいえば、これは誰かの夢ね」
「最初からそう言ってましたよ」
しかし、エルメラはフルフルと頭を振る。
「あのね、大きく分けて夢は三つ分類できる」
三本指を立ててラドゥーに見せた。
「生きた夢、死した夢、そして、意志を持つ夢」
指を一本一本指を折り曲げていく。
「第一の生きた夢は、夢の住人―“夢人”がいる世界のこと。そこでは皆が思い思いに過ごしてる。次に、死した夢は、夢の創造主が消えたか、捨てられたか、あるいは忘れらたりして自然消滅待ちの夢。そして三つ目。意志を持つ夢は、文字通り、意志のある世界。眠っている時に見る夢はこれね。たいては、ほんの一瞬しか存在しないけれど。ちなみに本の夢もこっち」
夢人とか、生きた夢とか…未知の単語だらけでよく分からない。
「ここら辺は、まあ現時点では置いておいて。ともかくね、私は最初ここを、生きた夢だと思ったの」
生きた夢はエルメラのような“夢の旅人”にとって、一番身近だ。人にとっての現実と言い換えてもいい。現実世界に居場所を失った者達が、存在し得る場所。
昨日は、身を隠そうにもエルメラの力を無効化するラドゥーがいたため、ラドゥーを巻きこみ、意識して姿を消した。
「でも、そもそもそれが無駄だったのよ」
なにやら悔しそうだ。ラドゥーは首を傾げながらも、ともかく黙って彼女の話を聞いた。
「どの夢にも、創造主はいるもの。本の夢なら著者。生きた夢なら強い意志を持つ者。主がその夢を放棄しない限り、夢には必ず主がいる。人ごみにまじって、その主を探ってやろうと思ったんだけど」
「誰かに訊けばよかったんじゃないんですか?」
「主の情報は訊いて貰えるものじゃないの。基本的に、主は自分の情報を隠すから。…諸々の理由でね。まあ、そういうわけだから、彼らの会話から割り出せないかと思ったんだけど」
「結局、分からなかったんですよね」
「…何か違和感は最初から感じてたの。喉に小骨が引っ掛かってるような。今日、その違和感の正体を見つけたわ」
エルメラは小骨が取れて、すっきりとした満足げな笑顔だった。
「ここは生きた夢じゃなかった。意志を持つ夢よ」
意思を持つ夢。ヒトが夜に夢見る、世界。己の為だけに在る夢。
「どうして間違えたんですか? それほどそれらの夢に、明確な区別がないとか」
「そんなことないわ。寧ろ、滅多に間違えたりしない」
エルメラは語気を強めた。
「でも、じゃあどうして」
「最初の直感を信じればよかったのよ。貴方だって最初にこう言ったじゃない。『ここも夢の世界なんですか? とてもそうは見えないですが』って。そんな感想、生きた夢くらいでしか抱けないわ」
「つまり、ここは生きた夢に近いってことですか」
「かなりね。現実を模ったことを差し引いても出来すぎ」
その完成度の高さに、エルメラは一種の感動のようなものを覚えたほどだ。
「ただ、時が止まっているという異常を除いては」
それが生きた夢ではないという証だ。唯一にして最大の欠点。生きた夢は主がいる限り、永劫の時を得る。
「だから、この世界で無駄なことをしていた自分のまぬけ加減に穴を掘って入りたくなったのよ」
昨日、ラドゥーとぶつかった男は、彼を視界に入れていなかった。単純に、そういう夢だと思ったのだ。あの男が幻だとは、愚かにも疑いもしなかった。
「え、どういうことですか」
「意志を持った夢に実質存在するのは、原則その夢の主一人だけ。他人は入る余地なんかないもの。だから、今目に映っている景色も人も全部、虚像。幻なの」
「でも、あの市場の人達は…」
時が止まり、同じ日を繰り返しているとはいえ、あれだけ活気に満ちていて、生き生きとしている街の人達は。
「あの人達も、よ。青々と茂る木々も、前にそびえるご立派なお城も、向こうに連なる山々も、全てこの夢の主が作り上げた幻」
ラドゥーの動揺を、知ってか知らずか言い切った。
「でも、幻なら触れないはずです」
そうだ。市場でぶつかったのだ。ぶつかったということは触れたのだ。その感触はしっかり残っている。幻なんかじゃない。
「触れるわよ。ここは夢。幻が形成す世界だもの。そもそも今この足をつけてる地面だって幻じゃない。触れないなら、すり抜けて底なし沼だわ」
現実に存在し得ないものこそが、存在する世界。
残酷なまでに、活気ある市場の声がラドゥーの耳に木霊した。ここは実在した世界を模ったという。しかし、ここは夢の世界だ。それを意味するものは、つまり…?
「“夢の旅人”にとって夢の世界は自分の庭。夢の本質を見抜いて自由に行き来できる旅人だもの。自分の庭で迷うバカはいないでしょう? それを狂わせて惑わしてみせたのよここの主はっ。だから貴方に警戒心を植え付けるためにも、恥を忍んでこんなに長々と話したんだから」
エルメラは一気に捲し立て、一仕事終えたように息を吐いた。
「これから行く所が安全とは言い切れないことは分かりました。…分からないままのことも変わらずありますけど」
ここの、夢の主とは、何者なのか。何が望みなのか…。
「喋ってるうちに城が見えてきたわ」
エルメラの指の先に大きな観音開きの扉が待ち構えていた。
城の周りの池掘りに下ろされた渡り橋を越え、ついに城の内部に辿りついた。
ラドゥーの屋敷も結構な大きさだが、この城は比べ物にならない。流石一国の主の城だ。ガルド・バリューの夢で見た白薔薇城よりも大きかった。
城で忙しそうに働いている、騎士や役人や女官は堂々と目の前を歩いているラドゥー達に気付きもしない。それでも彼らは―幻だと教えられても―俄かには信じがたい程に存在感があった。
「この夢が模ったという国は相当栄えていたようですね」
勢を懲らした調度品や彫刻に、思わず洩れてしまった溜息に、しかしエルメラからは何の反応も返ってこなかった。
「…? どうかしたんですか?」
そういえば、橋を渡ったあたりからエルメラは無言だった。彼女は顔を上げて、思案げな表情を見せた。
「…何か、嫌な気配がする」
「確かに、いないように振る舞われるのはいい気持ちはしないですけど」
「そうでなくて。…何だろう、黒いものが頭をちらつく…」
「?」
エルメラは意を決したように頷いた。
「うん。ちょっと見てきた方がいいかも。悪いけど、暫く別行動をとりましょう。もうこの人達には気を配らなくてもいいし。二手に分かれて主を探しましょう」
またも置いて行かれそうになって、ラドゥーは焦った。そんな不安なセリフを吐いておいて、それはないだろう。
「でも…俺はその主の顔も俺は知りませんよ」
「私だって知らないわよ。大丈夫、主なら私達を見たら何かしらの反応はするでしょ。その人には見えるはずだから」
「なるほど、主だけは幻じゃないんでしたね…」
結局、置いて行かれた。
太陽が沈む前にまた、別れた場所で落ち合うことだけ決めて分かれたあと、ラドゥーは城を少々探索した。
「どうやって探しますか…」
城は広い。一日まるまるかけても一周できるかどうか。城の者達に不審人物として追っかけられる心配はなくても、それは同時に道を尋ねることも出来ないということでもある。エルメラの呟きも気になる。
仕方なく、主の候補者に挙げられたウォンバルト殿下なる人物のいそうな場所を考えた。
殿下というのだから王族だ。
それなら王族の居住区、もしくは執政の為の区画にいるはずだ。
そして皇子なら、執務室あたりが可能性としては高い。
そして偉い人は高いところが好きだ。
というわけで、上階のひときわ立派そうな部屋を目指した。うろうろ迷いながら階段を見つけては上り、見つけては上り続けた。落ち合い場所に戻れるよう目印はちゃんと印しておいた。
「それにしても…右も左も分からない人を、平気で放り出す人がいますか」
現実とは違う夢の世界。不慣れな人間を置いてさっさとどこか行ってしまった少女。薄情者。ひとでなし。
それとも、何か考えがあるのだろうか。何を考えてるかさっぱりだが、ラドゥーを窮地に追いやるようなことはしない。驚愕すべき事実だが、あの少女を信用しつつある自分がいる。その所為か、不安になってもいいはずなのに、不思議と落ち着いている。
「…あの少女を信頼するに値するものが何処にあったというのでしょうねぇ」
始めて夢の世界に連れ込まれたところからして無理矢理だったというのに。たとえ、その後で思いの外楽しんでしまったとしてもだ。
今みたいに姿を消すわ、これからあの話は面白く展開していくところだったのに、その直前で現実世界に帰すわ。さらに今回は、行方不明者の救出に付き合わされる羽目になった。試験が近いのに。ラドゥーの街が関わっているのは確かなのだが。
はぁと溜息を吐き、はた、と気付く。
「待てよ。そうだ、そもそもここに来たのは行方不明者の為で」
エルメラから、夢の解説を聞いているうちに隅に追いやられていたが、こっちこそが本来の目的だ。
「主を探すのも、連れ去った人のことを訊く為…」
“夢の旅人”たるエルメラが間違う程完璧に近い夢。
エルメラの呟きにあった“黒いもの”。
ここに連れられて来た大勢の人間。
夢の主と思われるのは戴冠を控えた皇子。そして、その世界は時が止まっている。
―――何かが、繋がりかけた。
そこまで考えところで、足を止めた。いつの間にか最上階に来ていた。ここの階には、扉は一つしかなかった。
「これかな。立派で分厚い扉ですし。…この部屋にいてくれると話は早いんですが」
金で出来た取っ手を掴み、扉を開けようとした。
うなじが、逆立った。
ラドゥーは勘が命じるままに横に跳びのいた。
一瞬前まで、ラドゥーの立っていた床に、何かが突き刺さった。
鎌。艶やかな黒々とした、大きな鎌。
何なんだこれは。まるで絵画によく描かれる死神の鎌のような…。
「残念、まっぷたつにし損ねちゃったヨ」
状況を掴みかねているラドゥーの耳に、いやに陽気な声が届いた。
声は陽気でも、中身は物騒だ。ラドゥーは声の主を振り返った。
「……なっ」
目に映った姿に、ラドゥーは呻いた。
天井に届かんばかりの長身に、針金のように細い身体。色々な濃淡の黒でモノクロに彩られた奇抜な衣装。
昔、街に興行に来た旅のサーカス団の道化役のピエロを彷彿とさせた。けれど、あちらはもっと明るい色で、滑稽ながらも温かく柔らかい印象であったのに対し、こちらはおぞましく、禍々しい。
鎌を前触れもなく脳髄に叩きこむ人物をして、禍々しく思わないわけもないけれど。
顔は分からなかった。仮面をかぶっていたから。面の真ん中を境に悲しみと喜びの表情が分かれている奇妙な仮面。
「……誰だ」
険しい顔のラドゥーを無視し、道化は独りで喋り続けた。
「おっかしいなあ…なんで避けられちゃったのかな…気配なんて読めないはずなのに…腕がなまっちゃたのかな…毎日ちゃんと狩ってるんだけど…もっと狩らなきゃだめなのかな…そうなのかな」
小さくて聞き取りづらいが聞こえる単語を繋げると、不穏な内容なのは分かった。
鎌を振り下ろしたままの体制で、ぶつぶつと呟き続ける様子は、はっきり言って不気味だ。ラドゥーは空恐ろしくなったが、逃げ出すような真似はしなかった。逃げた方がいいと分かってはいても。
「――ねえ、どうしてボクの鎌を避けられたの?」
突然道化はぐいんと顔を上げ、問いかけた。ラドゥーに。
落ちつけ。あからさまな不審人物を前に隙を見せるな。
「さて…どうしてでしょうね」
自分でも避けられたのは奇跡としか言いようがないが、おくびにも出さず、冷やかな笑みを湛え、余裕の表情を作った。しかし、道化には通じなかった。
「君、生身の人間だよね?…ボクこんな人連れてきたっけ?」
今、何と言った?
ラドゥーの表情に気付かず、また独り呟く。
「こんな人連れてきたっけな…そんな覚えないけど…でも顔なんていちいち覚えてないし…ここにいるのは連れてきた人だけだし…そのはずだよネ」
連れて来た…
「…お前が、人を攫ったのか」
黒い道化は呟きを止め、再び顔をこちらに向ける。
「そうだよ」
それが何? といわんばかりだ。
「…狩る、とはどういう意味だ」
「そのままの意味だヨ。その人達を追いかけて捕まえてちょん切る。でも、すぐに狩るのはつまらないし、暫く放って様子を眺めるんだけどネ」
感情が急速に冷えていくのを感じる。
「ねえ、それよりよく君はこの城に気付いたね。ほんとにボクが連れてきた人?」
まだ何かを拘っているのかしつこい。
「…いいえ、俺は別口で来たんです。貴方が招待した人達を迎えに来た者ですよ」
「ええっ、だめだよせっかく苦労して連れてきたんだから。じゃあ…そっか、どうやって来たかわかんないけど、どうでもいいや。邪魔するならとっとと死んで」
大きな鎌をまるで軽い棒っきれのように軽々持ち上げた道化は、前触れもなくラドゥーに襲いかかった。
覚悟していたとはいえ、あまりの速さに避けるのが精一杯だった。殺気さえ、感じ取れない。
「…貴方は誰なんです」
懐に常に隠し持っている護身用のナイフを服の上から触って確認する。あの大鎌に対抗するにはいささか頼りないが、やるしかなさそうだ。
「今から死んじゃう人が知ったってしょうがないヨ」
「冥土の土産にでも教えて下さいよ」
お前のな。と胸中で付け加える。なんとか時間稼ぎをしなければ。
「しょうがないなあ、教えてあげるよ。なんて優しいんだろう、ボク」
そう言いつつも鎌を振るのはやめない道化にこめかみが引きつる。こんにゃろめ。
容赦のない鎌の応酬に、ラドゥーは紙一重でかわしていると、このピエロの肩越しに、女官がこちらに歩いてくるのが見えた。幻だと聞いていたくせに、冷静に考えられる状況でないため思わず、危ない、と叫びそうになった。
しかし、その前に振りかざした鎌が女官の頭を直撃してしまった。
けれど、息を呑んだラドゥーの目に映ったの光景は予想外のものだった。
女官の身体が鎌に合わせてぐにゃりと歪んだ。しかし、またすぐに元に戻り、何事もなかったかのようにしずしず歩く女官がいた。
…幻の産物だと、心から納得した瞬間でもあった。
そして、その一瞬が隙を生んでしまった。女官に構わず鎌を振りあげた道化は、一瞬動きの鈍ったラドゥーの頭の上に振り下ろした。
しまった。避けきれない。一か八かナイフを取り出そうとした。その時、
「―――守風」
聞きなれた奇麗な声。目の前には静止した鎌。
道化の肩越し、女官が歩いてきた方向から、エメラルドグリーンに輝く髪の少女はやってきた。
ラドゥーは気取って言った。
「約束の時間は過ぎてしまいましたね。待たせてしまいましたか」
「いいえ、今来たところよ」
エルメラは艶やかに微笑んだ。