8.時の止まった皇国
「いらっしゃい、いらっしゃーい!」
八百屋の店主が叫ぶ。
「美味しい林檎はいかがっすかあ! ほっぺが落ちないように気をつけろよ!」
歩き売りの少年が威勢のいい声を上げる。
「さあさあ寄ってらっしゃい見てらっしゃい、世にも珍しいマジックをご覧にいれましょう!」
大道芸人がいくつもの球や紐を取り出した。
「そこのお嬢さん、このブレスレットはどうかね、ほら、透けるような青色に輝いて綺麗だろう。これはソルテ産の上等な―――」
「…随分な盛況ぶりですね」
賑々しい市場に降り立った二人は、暫しその光景を前に立ち尽くした。
「そうね」
家屋の屋上から見下ろし、町民らを観察している。あまりにも、当たり前の、日常がそこに息づいている。生き生きとした彼らの表情には、何の後ろ暗さも無い。
「ここ、本当に夢の世界なんですか? とてもそうは見えません」
「ここは、この前みたく本の世界じゃないわよ。誰かが見ている夢」
「誰か?」
「…多分」
自信なさげに首をかしげる。
「誰かのって…眠っている時に見る、普通の夢ですか?」
「そうだけど…よく分からないわ。ちょっと歩いてみましょうか」
エルメラは勝手に決定し、ラドゥーの腕を引っ掴んだ。
「――――――――――――……!!」
声にならない抗議を上げ、五階から落下した。
ラドゥーはそのまま地面に激突…することはなく、気がつけば地面に立っていた。
「はぁ、はぁ…。…?」
「私、こないだも同じことしてたじゃない」
こないだ、とは彼女がチンピラを絨毯した時のことだ。
「どういう仕組みなんですか?」
二人とび下りて華麗に着地なんて…。すると何故かエルメラは瞳を輝かせた。
「私のこと知りたくなったのね? エルメラ嬉しい!」
両手を頬に当て、恥じらうように身をくねらせる。が、今のラドゥーには通じない。心臓に悪い体験のせいで。
「それで?」
冷やかなラドゥーに、エルメラは頬を膨らませた。
「もう、せっかちね。あのね、私は、私が敢えて人前に姿を現さない限り、普通の人には見えないし、触れもしないわ」
エルメラはラドゥーの手を握る。冷たいが、ちゃんと感触がある。
「だから、あの時だってあの人達の上に降りてもすり抜けられるはずだった。でも、出来なかったのは」
「出来なかったのは?」
「それを無効にしちゃう人が通りかかっちゃったから」
それは、つまり。
「…俺?」
「その通り」
エルメラはわざとらしく重々しく頷いてみせた。何処の博士だ。
「だから、“夢の旅人”は現の領域に顕現してしまった。流石に見えるようにはならなかったみたいだけど―昼間だったし―一般人にも触れられるようになってしまったのね」
エルメラは夢の住人。現には存在しないはずのモノ。だからすれ違っても、誰も気付かない。
ラドゥー以外は。
「…なるほど」
「でも、触れても、重さは感じないの。私は現の存在じゃないから」
エルメラは微かに自嘲するように笑い、首裏に手を当てた。
「私が踏んじゃった人は、だから転んだ時の怪我以外は無傷だったでしょ」
どんな華奢で軽い少女の体型をもってしても、落下する際にかかる重力加速度が加り、相当の衝撃をくらう。それがないという事実は、彼女の存在の異質さを際立たせた。
現を無視する、夢。
「無茶苦茶な話ではありますが…実際そうであったのなら、納得するしかないでしょうね。これで、どんなに高いとこからでも降りられる理屈が分かりましたけど、俺はれっきとした人なんですが」
自由落下する質量を伴った人間である。
「私の影響下にあるものなら、一時的に私と同化させられるから。特に、貴方は私の力を無効にしちゃうから、直接触れていないと使えない。まあ、どうせ…」
…今はその必要もなかったみたい。
エルメラの視線につられて、ラドゥーもあたりを見渡し、気付いた。
市場は相変わらず賑やかだった。活気溢れるごく普通の街の市場の風景。客引きに必死な商人の声、客との値切り交渉に熱くなる店番のおばちゃんの甲高い声、どこかで繰り広げられるのか喧嘩の怒号、そして悲鳴が聞こえる。それら全てがごったになった音の塊が二人を覆う。
その異常さ。
何故、眼前に人が上から降ってきたというのに、誰一人こちらに気を留めていないのか。
「貴方も、彼らの目に見えてないのね」
ラドゥーは通行人の肩にまともにぶつかった。その人はラドゥーを振り返りもせず、人込みに紛れて行ってしまった。
「………どういうことです?」
無視ではない。存在自体気が付いていないかのような、違和感。
「貴方が本の世界で主人公役を演じていた。つまり、貴方は存在していた。今は、干渉を許されない傍観者といったところかしら」
「傍観者?」
エルメラは答えなかった。
「ま、そういうことなら好都合ね。自由に動き回れる」
ラドゥーの腕を掴んだまま歩き出した。
「何処へ」
「情報収集。ただ市場を歩くだけだけど」
エルメラは人ごみを掻き分け、市場の中に突入していった。
引っ張られながら、今しがた気付いたことを口にした。
「………もし、もしですよ。俺がここの人達に普通に見えていたら、さっき降りた時どういう風に見えていたんですか」
「え? そりゃ…当然私は見えてない訳だし? かつ貴方は見えなくなるようにはできないわけで。一人で華麗に舞い落ちた風に見えたでしょうね」
しれっと答える少女にこめかみがピクついた。
「…つまり、俺は周りを巻き込んだ自殺願望のある少年というふうに見られるっていうことですよね」
精神的に不安定で、はっちゃけやすい思春期前半の子供時代はとっくに通り過ぎたというのに。
「結果オーライだしいいじゃない」
ラドゥーは先程の自分の状況を整理してみた。落下した際、ラドゥーは見えるが触れない存在となっていた。つまり、
「――間違えば俺、幽霊扱いされるじゃないですか!」
大問題だ。問題無いなんて嘘もいいところだ。
「男がそんな細かいこと気にすんじゃないの。貴方がこの夢ではどんな立場に立つのか見たかったんだからしょうがないじゃない」
エルメラの傍迷惑な主張に項垂れ、彼を引っ張る少女の腕に従った。彼女は観念したラドゥーに笑いかけた。
「さあ、夢を始めましょう」
そう小さく呟いて。
「明日はいよいよウォンバルト殿下の戴冠式だよ! 記念硬貨はいかがかな!」
「殿下と妃殿下が並んだ肖像画の方が貴重だよ! こんな上等なのは二度と拝めないよ! さぁ買った買った」
「殿下が即位なされればこの国はもっと豊かになる! 新皇帝陛下万歳!」
「心優しい妃殿下万歳!」
街の中心部にあたる広場。地方からやってきた風な人も、旅人風情の者も、中央の像の周りに集まっている。娘達は連れ添って様々な商品に目映りして悩みながらも、楽しそうだ。
「ここは平和そのものですねぇ。何処に攫われた人がいるんですか」
「ここが関係しているのは間違いないのよ。だってここの扉が最近やたらめったら開かれているし、やけに大きな夢だったし…」
そんな事どうやって知り得るのか謎だ。だが、神秘の“夢の旅人”だ。何が出来ても不思議ではない。
「でも、この世界は今お祭り騒ぎですよ。人攫いのひの字もない。もっと裏路地とは、裏社会の組織の根城を探したほうが…」
「いいえ。とにかく、もう暫く様子を見ておきましょう」
日が傾く頃まで粘ったが、いたって頭からお尻まで平和だった。
そして日が赤黒く染まる頃、手頃な宿屋に入り、泊まった(もちろん無賃宿泊)。
次の日。ラドゥー達は最初に降り立った所に戻ってみた。新しい手がかりがないか探るためだ。
今日も昨日と同じ快晴。市場も相変わらず盛況だ。
「で、今日はどうするんです?」
「手掛かりが見つかるまで街を探るしかないわね」
どこまで地道な作業なのか。失踪した人を探る探知機とか無いのかと、聞いてみたいが、たぶん街を見渡す限り無さそうだった。二人は昨日と同じく、また人ごみの中を歩き出した。
「いらっしゃい、いらっしゃーい!」
「美味しい林檎はいかがっすかあ!ほっぺが落ちないように気をつけろよ!」
「さあさあ寄ってらっしゃい見てらっしゃい、世にも珍しいマジックをご覧にいれましょう!」
「そこのお嬢さん、このブレスレットはどうかね、ほら青色に輝いて切れだろう。これはソルテ産の上等な―――」
エルメラは足を止めた。
「…どうしたんです」
「今なんか引っかかったような…」
「何か変わったことでも?」
エルメラは市を厳しい顔で見つめたが、やがて首を振った。
「…何でもない。行きましょうか」
ラドゥーはエルメラが訝しげに思った違和感に、気付かなかった。
二人は昨日と同じ、中央広場に着いた。
そこでも昨日と同じように地方から来たような人や旅人風情の者や娘達が楽しそうに品を物色していた。
「何も変わったところがありませんね」
今日も変わらず平和だ。ラドゥーは品を冷やかしたりしていると、エルメラは呻いた。
「…ちょっと待ってよ」
「どうかしました?」
エルメラは人指し指を唇にあて、鋭く息を吐き、ラドゥーに耳を澄ますように促した。
「明日はいよいよウォンバルト殿下の戴冠式だよ! 記念硬貨はいかがかな!」
「殿下と妃殿下が並んだ肖像画の方が貴重だよ! こんな上等なのは二度と拝めないよ! さぁ買った買った」
「殿下が即位なされればこの国はもっと豊かになる! 新皇帝陛下万歳!」
「心優しい妃殿下万歳!」
エルメラはよりいっそう眉をひそめた。
「…どうか、したんですか」
「気付かない? 周りの会話」
ラドゥーもエルメラの真似をしてみるが、周りの声が一つではない上、あまりの騒がしさにいちいち会話の内容には、特に注意を払っていなかったラドゥーは首をかしげた。
「これ…昨日と全く同じ光景なの」
「そりゃ市場ですから、同じような光景になるのは当然じゃないですか」
「そうじゃない、そうじゃないの。さっきから変に思ってたんだけど…今、誰かが言ったわよね。明日は戴冠式だとか」
「………」
「昨日も言ってた。明日は戴冠式だと。だったら今日は? 当日のはずじゃないの」
「……ええ。確かに」
ラドゥーは表情を消した。エルメラは頷いた。
「見つけたわ違和感の正体」
「つまり昨日の光景を繰り返して…」
「多分、ずっと、毎日この繰り返しなんでしょうね」
あまりに平和的で賑やかさに気付かなかったが、気付いてしまえば、この賑やかさは不気味な叫びにしか聞こえない。
この世界は…
「『時の止まった皇国』」
何故だかそんな名前が自然と口をついて出た。
「まさしくそんな感じ」
「でも、そこにどう失踪した人たちが絡んでくるんです?」
「それは知らないわ。どんな理由があれ、現の人間は現に返さなきゃ。だからまずは、これからこの夢の主に会いに行きましょう」
「主?」
「ええ、昨日も言ったと思うけど、この世界は誰かの夢なの」
「覚えています。でも」
「誰かの夢なら、主は必ずいるはずなの。夢はその主の望むままに形成する。だからきっと失踪者の件も、その主の意志が働いてる。どういうつもりなのかって直談判するのが手っ取り早いじゃない」
そううまくいくものだろうか。
「肝心の主が誰で何処にいるかも分からないんじゃ、言いようが無いじゃないですか」
「いいえ、主が誰なのかは見当はついてる」
「えっ誰なんですか」
「さっきの売り子が言ってた人よ。ウォンバルト殿下…って」
遠目にも壮麗だと分かる巨大な城を振り返り、エルメラは断言した。