全戦全敗
「いらっしゃいませ」
はじめてのお店というのは、何かギクシャクとしてしまうものであります。
「今日はどういたしましょうか?」
メニューを見て。
「この髭そりと耳かきのセットでお願いできますでしょうか?」
敬語があっているかはわからないが、自分なりに一番丁寧な言葉で頼むと。
「かしこまりました」
一礼をされ返事をしてもらった。
「どうぞ、こちらへ」
店内に案内され。
「それでは上着をお預かりします」
あっ、そうか、そういうものか。
そしてこういう時に、上手く脱げなくて、袖がめくり上がったりするものだ。
(安物の)上着は木製のハンガーにかけられ、型崩れしないようにボタンを止めてくれている。
終わると、イスをくるりと回転させ。
「お座りください」
あら、そう?じゃあ、失礼しちゃおうかしら?
心の中で勇気を出すために小芝居をしながら頑張った。
「それでは今回眉や髭の形はどうなされますか?」
予想外の質問。
「さ、さっぱり」
魔法の言葉のように聞こえるが、これにはいろんな意味がある。
一つ、私にはさっぱりわかりません。(お手上げ)
一つ、出来上がりがさっぱりとしたものは妥当なんじゃないかな。
(提案)
一つ、はたしてさっぱりとしたものが自分に似合うのだろうか?
(不安)
等が込められている。
「…そうですか」
あれ、やっちゃった、面倒くさいのが来ちゃったとか、思われたか。
店主は何かを考えている。
すると一枚の鏡を、俺の前につきだした。
我が身を見直せというやつか。
鏡の中の自分がこちらを見ている、写っている箇所は胸から上、証明写真のような姿をしている。
「お客様の髭はここから生えています」
そういって店主は鏡の俺にペン入れをした。
「うちは産毛の部分は一回、髭の部分は二回泡をのせてから剃っています、これでかなりさっぱりするとは思います」
おお、わかりやすい。
「そして、お客様の目の形はこうなので」
福笑いのように眉のパーツを書き込んでいく。
「角をつけると凛々しく、逆に丸みを出していくと優しい感じになりますね」
「では眉だけでも、優しい人間にしてください」
「わかりました、笑顔が似合うようにしましょう」
笑顔か、最後に笑ったのはいつだったかな…
「それではイスを倒します」
最初にされたのは蒸しタオルで顔を包まれることだ。
この薄暗く、そして暖かい、鼻だけが出ているといった状態では特にやることはないので、睡魔がどんどん近づいてくるが。
カシャカシャ…
遠くからそんな音が聞こえる。
シェービング用の泡をたてている音で、これは寝てはいられないではないか。
まずは泡をのせられ、顔一面に伸ばしていく。
それが終わると、髭の部分、頬から下の部分はもう一度蒸しタオルにくるまれた。
シュルン
額から産毛は剃られていく。
流れるような動きで、泡と共に産毛は刈り取られた。
つ~
眉を整えるために、軽く押さえながら、理想の眉を作り上げている。
これは目を開けて、鏡を見たときのお楽しみといこう。
まぶたの上、目の下などの皮膚が薄く、丸みを帯びた部分も滞りなくカミソリは走り、これにて産毛の部分は終了となる。
それで次は、髭はどうするのだろうか?
しっかりと蒸らされた、ふにゃふにゃとした髭の上に、先程説明された通りにまた泡を塗られていく。
モコモコとしたこの泡一つも、家で体験するのは難しいであろう。
シュ
店主は髭を剃り始めた。
当たり前のように、カミソリは皮膚を撫で、頬から下、鼻の淵、その下。
一度剃り始めると、音が端まで途切れないのである。
この男…できる。
今さらではあるが、大当りなのではないだろうか。
顎から首へのアプローチも完璧であった。
「それでは生え際も、剃らせていただいてもよろしいでしょうか?」
「よろしくお願いします」
こういうことだったら、髪もやってもらえばよかったな。
少しばかり伸びた髪があってはやりにくいだろう。
ピンで泡がつかないように固定され、そこから首筋にブラシを…
ピクン
「痛かったでしょうか?」
「いえ、大丈夫です」
むしろ、動いてすいません。
今ね、快楽の扉が開きかけたんだよ。
何、このブラシは、泡のための動きじゃないでしょ、これ、でもカミソリだから、刃物だから、危険が危ないのである。
シュルリ
そんな雑念もカミソリが始まると落ち着いていく、そうか、この人はシェービングがめちゃくちゃ上手な人なんだな。
お肌がつるつるというわけでもない、肌荒れがある部分でさえ、迷いなく、さっぱりとさせてくれる。
「お疲れさまでした」
一声かけられて、新しい蒸しタオルで拭き取られた。
こっちは疲れてなんかないよ、本当、ありがとうね。
そんな気持ちになっていたら、自然と笑顔になっている自分がいて、いつもはそんな顔をしないのになっていうのもあったんで、やけにおかしくなった。
「それでは耳かきの方へと移らせていただきます」
本命がキター!
「お客様、こちらもさっぱりという具合でしょうか」
「期待してます」
「わかりました、そえるようにがんばります」
ガタン
店主はイスを用意した。
自分で座るやつで、それから耳かきに使う道具をすぐとれる位置に並べ始めた。
「とれたものは後から見れるように、胸元に置かせてもらいます」
そんなことをいいながら、店主はお医者さんがつけるあれ(額帯鏡というらしい)をつけていた。
人にやってもらう耳かきと髭剃りは気持ちはいいと思うから、よーし、今日はやってもらっちゃうぞの気分でここまで来たのだが、これから一体どうなるのだろうか?
遠足の前の晩、バレンタインデーの明け方ぐらいのテンションになってきた。
でもダメですからね、これであんまり耳かきが上手ではなかったりしたら、がっかりしちゃう終わりなんて、それは認めないからね。
「では失礼します」
先手 店主
右耳 外側 フチのひだ
パリッパリの奴が剥がれ落ちた。
それをティッシュの上にトントン置いてから。
「ここがたまっていると言うことは、中がすごいことになっていると思われます」
耳の奥が広げられた。
「ほら、やっぱり、いい具合に溜め込んでますよ、全部きれいになってから耳ツボもみます」
色んなことをいっぺんに言われて、理解が追い付かなくなってる。
えっ?耳ツボあるんですか?
「汗をきちんとかいている、運動してますね、こういう乾燥の耳垢さんだと、耳野中びっしりなんですよ」
「中は汚かったですか?」
「汚いというより、これは大物がいますね」
この人はたぶん耳かき動画を見ていると思われる(おそらく同類)
「ほら、これをご覧ください、サクッととれるわりには、耳の毛がほどよく絡まっている大きなのがとれます」
あ~わかる。
このぐらいのサジから落ちちゃうぐらいのって、いいよね(恍惚)
「ここは、カメラとかはないんですかね?」
「よく言われるんですよね、見る分には動画とかいいとは思います、ただ耳かきを自分がするとなると見えないからこそ、想像をかきたてられる派なんで」
ああ、それもわかる。
耳かきはなんて奥が深いのだろう。
サワ!
(あっ)
今、耳かきが自分の悶絶のポイントに触れた。
たぶん店主としても、ん?なんか気のせいか?と思いながら、コリコリとまたかいた。
そしてそれは起こる。
ガザ!
「ああ、やっぱりありましたよ、急にきれいになっている部分があったから、おかしいと思ったんですよね、奥の方に引っ掛かってましたね」
自分が耳かきをすると、癖になって、取りやすい部分ばかりかいていたりするのだろう。
その奥に獲物がごりっと眠っていたというわけだ。
だが、この時には自分には余裕がなく。
(耳かき職人の朝は早い、それは精神を統一する必要があるからだ。
耳かき職人の朝は早い、それは精神を統一する必要があるからだ。
耳かき職人の朝は早い、それは精神を統一する必要があるからだ…)
適当に作った文章を心の中で唱えて、誘惑に負けない作戦であった。
「それではカミソリを使いますね」
いわゆる穴刀であって、なぞるように動かし、その後は綿棒で拭き取る。
そして左耳へ。
耳の中をみて、最初に手にしたのはピンセットであった。
光に当たり、白くなっている部分をピンセットで掴み。
バリ!ベロン!
白くなっている部分は明るいところでみると、黄色と茶、黄茶ない色をしていた。
これが耳の中にどん!とあって、根を張っていたのを、ピンセットで根こそぎ捕まえ、バリ!と音と共に剥がされたのである。
奥の方がそれにより見えやすくなったのか、ギリギリまで念入りに耳掃除は行われた。
ガチャン
イスの音で目が覚めた。
あれから耳のツボを押されて、丹念にほぐされたと思うのだが、どうもおぼろげである。
この日からたまに耳かき目当てでやってくるようになるのだが、未だに最後まで起きている試しはなく、今のところ全戦全敗というやつである。