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さまざまな騎士の誕生


 騎士は封建制度で誕生した小さな領土が出力する軍隊であり、その強力な装備と戦闘能力は領土の経済によって支えられていました。騎士はそれだけの成果を上げ、名声を得ることになりました。統治者としても騎士が反旗を翻してはまずいため、ある程度は特権を認める必要があったことでしょう。


 戦場で活躍する騎士は羨望の的でした。君主に忠誠を誓い、剣を誇りに敵を打ち倒す姿は、力強くかっこよかったのです。その活躍は芸術にもなり、宮廷文学、いわゆる騎士道物語が誕生します。


 騎士道とは行動規範であり、騎士の理想像が描かれています。簡単に言ってしまえば信義と力強さです。

 これは武士道に通ずるところがありますが、穿った見方をすれば、これは統治者が軍人に求める姿です。


 信義にもとる行いとは社会秩序を乱すことで、それはつまり封建制度を崩壊させるようなことをしてはいけません、という事になります。

 騎士道物語は当時から多くの貴族を魅了しましたが、これも一種の啓発だったのだろうと思われます。



 しかし残念なことに、実際のところは騎士道に反した騎士というのは多かったようです。


 なにしろ力を権威のよりどころとする価値観でしたので、力こそが正義と置き換えることができてしまうのです。

 暴力的な行為を働くならず者がいたようで、実際に盗賊騎士などと言う武装した山賊のような存在が、砦を占領してしまった例もあったようです。


 それも仕方のないことで、というのも経済難で野盗に身をやつした騎士もいただろうし、力さえ手に入れれば騎士と同等になれると考えた者もいただろうからです。


 むしろだからこそ騎士道物語に描かれる騎士は、より理想となり、多くの人を惹きつけたのかもしれません。


 騎士道物語は社会現象であり、こういった騎士道物語に憧れすぎて、冒険を求めて旅立つ騎士も現れたようです。定住せず旅をして回るため、遍歴騎士と呼ばれる存在となりました。



 信義に厚くあれという性質は、宗教勢力の目にもとまります。


 1100年頃、東ローマ帝国がイスラム勢力の侵攻に苦しむようになると、中世最大イベントである十字軍のエルサレム奪還運動が始まります。東ローマ帝国の皇帝がローマ教皇に助けを求めたのです。


 十字軍は教皇主導で行われる軍事行動ですが、教会自体は大した軍隊を持っていません。その結果神聖ローマ皇帝をはじめとする各地の王に招集がかかります。教皇の号令によって諸侯が動くという、キリスト教にとっては嬉しい光景が見れるイベントでした。


 遠征は度々行われましたが募集の際に発表された、イエスキリストの騎士として参加せよ、という言葉は多くの騎士に感銘を与えたことでしょう。

 また、ギリシア文明を保存した東ローマ帝国や優れた技術を持つイスラム国家から文化を持ち出すというのはヨーロッパ人にとって魅力的なことだったでしょう。



 十字軍は騎士の在り方に新たな展開を生み出します。それが騎士団の登場です。


 有名どころだとホスピタル騎士団、テンプル騎士団、チュートン騎士団が挙げられますが、彼等は一体どのような存在なのでしょうか。



 彼等は厳密に言うと騎士ではありません。


 元々、キリスト教の形体の一つに騎士修道会というものがあって、これはキリスト教が持つ武装集団です。一般的な騎士のように主君と契約を結んだ戦士ではなく、信徒と教会を守る修道士でした。


 修道士というのは誓いをたて禁欲的な生活を送り、様々な修行を実践してキリストの教えを身に降ろそうという、日本でいう修験者に近い存在です。

 エルサレム到達後、エルサレムにたてられた教会やキリスト教徒にとっての聖地を守るために教皇に認可され生まれたのがホスピタル騎士団です。


 その名の通り、聖地巡礼に訪れた人や戦闘で傷ついた人を治療する存在でしたが、時間が経つと次第に聖地防衛の要となっていきます。そのあとイスラム勢力に押されエルサレムからキリスト教徒が撤退すると、対イスラムの最前線としてロドス島、マルタ島へと本拠地を移し名前を変えていきます。


 第一次十字軍終了後、様々な騎士団が生まれました。

 戦闘行為によって楽園に迎え入れられようという思考のもとに、騎士団は発展していきます。貴族だった騎士も修道士となって騎士団に入りました。

 その中でもテンプル騎士団は十字軍の熱が冷めないようにと、聖地巡礼の保護を目的としてフランスで設立されました。ホスピタル騎士団のようにエルサレムに寄った存在ではなく流動的な活動をしていたので、銀行の走りのようなシステムも持っていました。第二次十字軍の際にフランス国王を助け、その見返りに土地をもらい、大きな経済力を手に入れます。


 フランスに対抗せずにはいられないのがドイツです。

 第三次十字軍の際にエルサレムにできたドイツ病院がそのうちテンプル騎士団に倣って戦闘集団となり、これがチュートン、もしくはドイツ騎士団となります。

 ドイツ騎士団はさまざまな異教徒を相手に戦闘活動を行いました。エルサレムへの熱が下火になると今度は北方十字軍を組織し、バルト海沿岸の異教徒に対し改宗を迫りにいき、遂には国を作ってしまいます。その国が崩壊すると今度はオスマン帝国が台頭してきたため、キリスト教圏の東の防波堤となりイスラムの流入を防いだのです。


 ストイックな彼等は強力な財政と強い信念の下に躊躇なく敵を退けましたが、ナポレオンがオーストリアに侵攻してくると解散させられてしまい、これを最後に武闘派組織としての側面を失います。



 また、イスラム教徒が王朝を打ち立てたイベリア半島でも騎士は活躍します。イベリア半島はいくつもの小国に分離し、イスラム教徒側とキリスト教徒側に分かれて戦争をしていました。

 十字軍に倣って騎士が招集され騎士団が結成され、キリスト教系小国の王に傭兵のように使われました。


 イスラム教徒もそれに対抗するようにアフリカからベルベル人を呼び込み、非常に激しい戦いがスペインでは起こりました。ベルベル人の強い個人主義がなんどもイスラム教徒勢力の分裂を起こし、キリスト教徒勢力が勝利をおさめます。

 これが国土回復運動、通称レコンキスタです。



 このように、騎士は普通に領主に使える世俗騎士と、教会のために異教徒と戦う教会騎士の二種類いて、領土があれば戦力を整えることができたため、欧州の騎士文化は急成長しました。


 ただ、貧乏がもとで狼藉を働くようになった盗賊騎士や、騎士道物語に影響され冒険に夢をみた遍歴騎士、詳しく書きませんでしたが、従卒から力をつけ騎士と同格の力を手に入れた隷農騎士ミニステリアーレまで、多種多様な騎士が時代に合わせて登場したという事を念頭において考察を進めましょう。




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