魔王
静寂が魔王の城の中を包みこむ。魔法による弾幕も、剣戟の音も、爆発音も。何もかもの音が消え失せた城内で向かい合う二人の男。一人は鎧を着込んだ兵士の男。もう一人は、頭に巻角を生やし、全身黒に染まった異形の男。兵士は魔王を倒しに来た男であり、異形の者はこの世において人々から魔王と呼ばれ恐れられているモノだ。
命を削り合う死闘。互いの軍勢、互いの仲間を犠牲にしながら、ついに決着の時がきた。魔王の胸に突き刺さる一本の剣。鋼色の刀身にツゥっと一筋の血液が流れていく。魔王の口から血があふれ出る血は、居場所を求めて滴り落ちていく。
兵士は魔王の体から剣を抜く。血糊が満遍なく付いている剣は、抜いた後も剣先から血が滴り小さな血だまりを石畳の上に広げていく。情けも慈愛も目の前の化け物には似つかわしくない。兵士の目は冷淡にそして鋭く魔王を射抜いている。魔王は膝から地面に崩れ兵士を仰ぎ見る。しかし、今自分が死の淵にいるというのに魔王は薄ら笑みを浮かべていた。
「まさか、私が人間に倒されるとは。全く、長く魔王を語ってみるものだ」
「お前の栄光も今終わりを迎える」
「そうだ、その通りだ。魔王という私は貴様に倒され、魔王という存在は貴様ら人間どもに打ち倒された。……だが、まるで無駄だ。私を殺したところで人間がこの地上で生きている限り、魔王は現れ続ける。貴様らがどれだけ魔王を嫌おうとも、魔王はお前たちが自ら作ることになるのだからな」
「魔王が何度も現れるのなら、何度でも殺してやるだけだ」
その言葉を最後に男は剣を振るい、魔王の首を斬りさく。一筋の赤い線が魔王の首に現れる。
「忘れるな。魔王は常に貴様らとともにある。貴様らが奈落へと落ちるとき、私はいつでもそばにいるぞ」
魔王の言葉が終わった次の瞬間、ずるりと魔王の首が傾き緩慢な動きでゆっくりと地面に落下して行く。ごろりと転がる魔王の首は薄ら笑みを浮かべたままだ。死んでもなお人間をあざ笑う姿は、さすがとしか言いようがない。褒めているわけではないが、その言葉以外思いつかなかった。
兵士の男は魔王の首を足蹴にして遠くに蹴り飛ばす。あの顔を見ていると虫酸が走って仕方がない。しかし、全て終わったのだ。災厄は過ぎ去り、ついに平和を手にいれた。これ以上の幸福があるだろうか。
帰ろう。妻の待つ元へ。娘の待つ元へ。友と民たちが待つ元へ。愛しの我が家、愛すべき私の国へ帰ろう。全てが終わり、これから新たな幸せが始まる。そう、戦いが終わり、ついに幸福が彼らの国にもたらされるのだ。
男が国に帰ってみれば、待っていたのは割れんばかりの喝采と歓迎だった。街中に花びらが舞い、人々は我らが英雄ここにありと声高に叫ぶ。厄災を払いのけてくれた英雄を通すために、男の仲間である兵士たちが道を開けるように人々に促す。
そうだ、我らが英雄はここにいる。しかし君らだけではなく王にもこの喜びを伝えなくてはならない。さあ、道を開けてくれ。彼は王の前に立たなければならない。
兵士の誰もが同じ言葉を口にして、人々の前に両手を広げ男が通れるよう人混みをかきわける。魔王を打ち倒した男はまんざらでもなさげに手を掲げ、市民の声に応える。歓声に混じって女性たちの喜ばしげな悲鳴が聞こえてくる。これまで男に対して見向きもしなかった女性たちが手を振り、声をかける。女性達に好かれるために魔王を打ち倒したわけではなかったが、それでも男にとって悪い気は一切しなかった。
城へと続く階段を登り、いざ謁見の間へ。高い天井にステンドグラスをはめ込んだ窓が両側に並んでいる。大理石を削って作り上げられた支柱がいく本も並び、表面には渦巻き模様の彫刻が彫られている。赤い絨毯がまっすぐとのびた先には、玉座に座る王の姿があった。王の目前で立ち止まり、男は膝をおって頭を垂れる。
「任務ご苦労。大義であった」
「ありがたきお言葉。痛み入ります」
「そなたは我が国の英雄だ。よくぞ、よくぞ魔王を打ち倒してくれた。これでようやく我が国にも平和が戻る。これも全て貴君のおかげだ」
「自分は国のために当然のことを致したまでであります」
「そうか。私は真良き臣下を持ったものだ。なあ、お前も何か言ってやったらどうだ。君は彼の者の良き同僚であり、よき友なのだから」
王は男に向けていた視線を横にそらし、玉座のそばに控える男に目をやる。
その男は兵士の友人であり、また同僚である近衛兵だ。近衛兵は会釈をするだけにとどめ、それ以上の動きは見せなかった。仕事に真面目であり、実直な男であることは友として兵士の男は知っていた。だから、王の前で無駄口を叩くことはせず、己の任された仕事を全うしている。
「良いのです。彼からは後ほどたっぷりと賛辞をいただきますから」
男は友にも聞こえるよう少し声を大にして王に語る。その瞬間、一瞬ではあったものの友の表情にふと笑みが浮かんだ。
「そうかそうか。それならよかろう」
王は笑みを絶やすことなく男に言う。
「まあ、そうだな。貴君には十分に褒美を撮らせてやりたいところだが、その前にこの栄光を祝してささやかな祝杯をあげるとしようではないか」
王が2回ほど手を打ち鳴らすと、傍からワインの入ったボトルとグラスを二つ持った給仕がやってきた。
「ほれ、貴君も飲むといい。遠慮することはない」
「はっ。では、失礼致します」
男は首を垂れた後に立ち上がり、王のすぐそばに歩み寄り再び片膝をつく。
王はグラスにワインを注ぎ、片方を自分の手に、もう片方を男に渡す。そして王がワインを口に含んだのを見て男もワインを喉に通す。葡萄の酸味と酒の匂いが鼻に抜け、胃の中に落ちていくと程よい酔いが体を巡っていく。心地のいい酒。一仕事終えた後の酒は何者にも変えがたい満足感がある。五臓六腑に染み渡ると言うのはまさにこのことを言うに違いない。
しかし、心地よさとは裏腹にワインを腹に収めた瞬間にやってきたのは強烈な吐き気だった。胃の中からせり上がってくるものを抑えるために口を手で押さえる。だが、とうとうこらえきれなくなり手のひらの中に吐いてしまった。
なんと情けない。たった一杯で吐いてしまうとは。自己嫌悪に陥っていた男だったが、ふと嘔吐をした手のひらに目を落とす。そこには胃液混じりの赤々とした液体が広がっていた。一瞬ワインが出てしまったのだと思ったが、ワインにしては赤が濃すぎる。はてこれは何かと一瞬わからなかったが、すぐにその正体が判明した。
「すまないな」
王の言葉が聞こえる。瞬間、胃の中が焼けるように熱くなり先ほどよりも強烈な吐き気が男を襲う。大量の血液が胃を遡り男の口から吐き出される。
意識も虚ろになり足に力が入らない。膝から崩れ落ちる男は床の冷たさを感じながら、視線を王へと向けている。尊敬の念も敬意も失せたその目には、ただ困惑と恐怖が宿っている。
「魔王討伐、ここまでの偉業をやり遂げた君はまさに英雄だ。私もここにいる面々も君のことを誇りに思っている。心からそう思っている。しかし、しかしだ。あの魔王を倒してしまうほどの君がもしも、もしも私やこの国に牙を剥くような真似をしようものなら、止められるものはまずいない。君の忠誠心を疑ったわけではないが、万が一にでもそう言ったことがあってはならん。……後は、わかるな」
王は目だけを動かして男を見下げる。男は何か言おうと口を動かしているが、出てくるのは血ばかりで声は一つとして聞こえてこない。しかし、男の視線は怒りに燃え、仇敵でも見るかのように王を見つめていた。
射すくめられ王はかすかにたじろぐ。しかし男の口から最後の吐息が吐き出されると、男の目に宿っていた怪しい光は消え失せ黒い瞳はもはや王の顔も写してはいなかった。
「……連れて行け」
横に控えていた男の友に王の命令が下る。友は表情一つ変えずに男に歩み寄ると、両手で男を持ち上げて謁見の間から一人後にする。
友は謁見の間を出た後、向かったのは城内の地下。牢獄を抜けた先にあるひらけた空間だ。土を削った縦穴のような場所で土壁にはロウソクの灯りが転々とつけられている。下を見れば暗い闇が口を開けている。
友は男の体を闇の中に投げ入れる。滞空することもなく、男の体は闇の中へと吸い込まれていく。友は闇に沈んでいく男の姿を見つめていたが、完全に闇に飲まれたのを見れば踵を返してその場を後にした。
闇の中をずんずんと落ちていく男。意識は消えては戻り消えては戻りの繰り返し。自分がどこかに落ちているのだというのはわかるが、果たしてここがどこなのかというのは全くわかっていない。このまま地獄にでも向かうのだろうかと薄れゆく意識の中で思っていたが、しかし地獄はすぐにたどり着く。
背中に走る衝撃。男の体がヘの字に曲がり、息がつまる。骨が何本も折れ、内臓に突き刺さり再び痛みが男を苦しめる。首が動く限りあたり見渡して見るが、しかしここ釜の底。暗闇が男の視界を奪い、見るもの全てを黒に染め上げる。視界がきかない代わりに、男の鼻腔をくすぐる匂いが辺りにあるモノを知らせてくれる。
あたりに立ち込めている腐臭。肉が腐り糞尿と混ざり合った強烈な匂いが鼻をつく。しかし、もはや死に体となった男にとってはその匂いもどうというものでもなかった。
このままこの闇の中で骸になるのを待つだけなのか。絶望にも似た感情が死にかけの男にまとわりつく。
『やつらが憎いか。お前を貶めた奴らが』
暗闇に男のものではない声が響く。ああ、ついに幻聴まで聞こえてきた。男は苦笑いを浮かべる。
『憎かろう。憎かろう。奴らは貴様の業績を知ってなお貴様を裏切り、己らの安全のために貴様をこの穴の中に放り込んだ』
黙れ。男は頭の中で叫ぶ。この耳障りな声を一刻も早く消し去りたくて、何度もなんどもその言葉を繰り返す。しかし、暗闇に響く声は男の声なき声をあざ笑うように、闇の中に再び声を響かせる。
『貴様がどれだけ念じようと私の声はお前の元に届き続ける。お前が憎しみや恨みを抱いている限り、消えることはない。お前の心に耳を傾けてみろ。自分に正直になれば、すぐに楽になる』
声は男の心の隙間に入り込み、つけいって来る。健全な状態の彼ならばこの声を一蹴することなど容易いことだが、この時の男はその声を心の奥へ付け入らせてしまう。
『力が欲しいだろう。奴らに復讐する力を。お前をこんなところに、まるでゴミを捨てるように放った奴らを殺したくて仕方がないだろう?貴様が望むのならば、与えてやろう』
男の黒い願望が顔を出し、声への返答を急がせる。しかし、微かでも男の理性はその声を喉奥へと落とし込む。例え裏切られたとしても王は国を思ってのことだ。辛いが国のための犠牲と思えば受け入れられる。
『それでいいのか。お前の妻や娘を置いて一人この穴蔵の中で死ぬというのか。お前がいいというのなら私も留めたりせぬさ。しかし、それだと妻や娘がかわいそうだな……。なにせあの王は隠してはいるが、並々ならぬ好色よ。もしもお前がいなくなればあの変態がお前の妻や娘に手を出さぬはずがない』
そんなことあるはずがない。男はどこにいるともわからぬ声の主を睨む。
『そうだろう、そうだろう。信じたくない気持ちも勿論わかる。だがな、私とて適当に嘘をついているわけでもないのだよ。これを見てみろ』
声の後、暗闇に浮かび上がったのはゆらゆらと揺れる光の玉。青白く浮かび上がるその玉はゆっくりと闇の中に広がっていく、やがて光の中に色のついた光景が映し出される。そこにいたのは男の妻と、王の姿。場所は男の家の寝室。二人の兵士らしきものたちにベッドに組み伏せられた妻は引きつった面持ちで目の前に立つ王を見つめている。王はニタニタと脂ぎった頬を歪め、妻の体を下から上へ舐めるように見つめている。そして、王は下腹部に手を回し、局部を妻へと…
「ヤメロォォオオオ!?」
血反吐を巻きながら男は力のかぎり叫ぶ。その瞬間、闇に浮かび上がった光が塵のように消え失せ、元の闇が広がっていた。
『これでわかっであろう。あの王は善良なる人間ではない。奴は王の皮を被った豚だ。お前が死ねば妻ばかりではないぞ、お前の愛しい娘もまたあの豚の慰み者になるやもしれぬ。それでいいのか?お前はそれでいいのか?』
男を嘲笑いながら、甘言を弄して男の心をかき回す。もはや抵抗する理性も信念も怒りに飲まれ砕け散る。
「ここから…、ここからだせ…。例え貴様が悪魔あろうと構わない。奴らを、俺を裏切った奴らを殺す。殺してやる!」
『良いのか。力と引き換えの代償は高くつくぞ』
「構うものか!早く、力をよこせ!」
『……いいだろう。力をくれてやる』
声は闇の中に一段と響き渡る。闇は男の周囲を蠢きそして男を包み込んだ。
牢獄を守護していた見張り兵は、何やら怪しげな音を聞きつけて穴の部屋に向かう。
ろうそくの明かりが絶えず照らしている穴の淵。兵士は恐る恐る深淵を覗き見る。
次の瞬間、闇の中から手が伸びてきて兵士の顔をわしづかむ。突然のことに慌てふためく兵士だが、己の顔を掴む手の力は強く兵がいくら足掻こうと剥がすことはできない。それどころか手の指が兵の顔に食い込んでいく。手の正体は闇の中から現れた一人の男のものだった。その男は兵も良く知る男であった。
魔王を打ち滅ぼし、国に平和をもたらした男。救国の英雄。そして我々が裏切った哀れな男。死んだはずの男が闇より姿を表し兵の顔を掴んで離さない。男は兵を一瞬見やるがすぐに視線を扉の外へと向ける。おもむろに兵士の腰から剣を抜くと、用は済んだとばかりに兵を闇の中へ投げ込む。
男の背後から聞こえてくる兵の絶叫。闇の中へと消えていく悲鳴を何と思わず、男の足は穴からついに場内へと帰ってくる。階段を登る脚に迷いなく向かう先は王のいる謁見の間。長い廊下を進みいざその扉の前にまで来た時だ。
謁見の間から一人の男が姿を現した。それは男のよく知る、男の友だ。共は男をみると目を見開いて驚いている。
「私が生きているのが、そんなに信じられないのか?」
男は両手を広げ友を小馬鹿にするように頬を歪める。驚くのも無理はない。王の謀によってこの世をさり、自らの手で穴の中に放り捨てた男が目の前に立っているのだから。しかし、友はそれ以上の反応を見せることはなかった。見開いた目は少し経てば元どおりになり、脇に垂れていた腕を腰に差した剣の柄にそっと添える。
「いかがなさいました」
友の後ろから近衛兵が声をかけている。恐らくは友の部下なのだろうが、彼奴は友とは違い男を見た途端目を見開くだけでなく「バカな…」と呟き息を飲んでいた。
「陛下の元へ兵を集めろ。何としても陛下を守れ」
友は小声で背後の兵に伝える。兵はこくりと頷くと踵を返して駆け足で謁見の間へと向かって行った。
「何だ。私の相手は自分一人で充分か」
踵を鳴らし男は友に近寄っていく。生還の喜びを分かち合うためでもなく、熱い抱擁をするつもりもない。ただ不気味な笑みを顔に貼り付けたままゆっくりと友へと歩み寄る。その時、男の視線が友の腰に落とされる。別段見ようと持って見たわけではない。たまたま視線の中にそれが入ってきたのだ。だが、それを見た瞬間男の笑みは消え失せただ無だけが男の顔に浮かんでいた。
友が腰に下げていたもの。それはきらびやかな一振りの剣だった。柄から鍔に至るまで金で統一されており表面には細やかな意匠が施されている。そして剣の腹にもレリーフが掘られており武器としてではなく、芸術品としてもかなりの価値がありそうな一品で会った。一介の兵士、武人である男であってもその剣に見ほれてしまうのも無理はない。しかし、男はその剣に見ほれていたわけではない。剣は王より賜るもの。そして、剣を受け取りはずだったのは男だったのだ。
男の視線に気がついた友は男から剣を隠すように半身になって腰をよじる。しかし、隠すにはもう遅すぎた。
男は友の煌びやかな剣にてを伸ばし、むんずと抜き取る。そして剣の切っ先を友の腹に向け一気に突き刺した。友は男の凶刃からの逃れようと無理矢理に男の腕を払おうとするが逃げられない。剣は友の腹に埋まり、背中へと突き抜ける。腹、そして口から友はちを溢れさせる。
「私が王から頂戴するはずだったこの剣。味の方はどうだ?ほら、もっと味わってくれ」
男の吐息が友の耳元にかかる。男は言葉の後剣を引き抜き今度は少し切っ先を上に傾けて再び友の肉を貫く。友の背中、肩甲骨のあたりから剣の切っ先が突き抜けてきた。友の口からは先ほどとは比べ物にならないほどの血流が溢れ、城の大理石を染めていく。
何度も、何度も、何度も、何度も。男は友の体に剣を刺し続ける。すでに友が事切れていたとしても構うことはなかった。友の腹はぼろ雑巾のように細切れになり穿たれた肉からは朱色の臓物が垂れ下がる。力なく崩れた友の体にまたがり腹と顔に剣を突き立てる。男の顔中、身体中に友の返り血が飛び散り、それでも凶悪な笑みを浮かべる男の狂人さが際立って行く。
ようやく男の手が止まったのは友の顔がなんだかよくわからない肉片に変わり、友の腹の肉と臓物の破片があたりに散らばった頃合いのことだ。周囲には血なまぐさい匂いが立ち込め、一度鼻腔深くにその香りを吸い込めば吐き気を催すほどだ。しかし、その中にあっても男は平然と笑みを絶やすことなく、むしろ先ほどよりも幾分満足そうに頬を歪めている。恍惚を堪能しているかのようだ。
しかし、いつまでもその場にとどまっているわけにはいかなかった。何しろ男の目的は謁見の間にあるのだから。友の肉の中に埋もれた剣を引き抜いて、友の肉を足蹴にしつつ先を急ぐ。ぴちゃぴちゃと男の足に友の肉と血がついて音を立てている。しかし、それさえも楽しんでいるかのように男は常に笑みを絶やさない。
謁見の間の大扉を両手で押しひらく。中にいたのは30人の近衛兵と玉座には王が座していた。
「地獄から這い上がってきおったか。そのまま死んでしまえばよかったものを」
玉座から王は男に言葉をかける。しかし、いまの男には王に対する敬意も畏怖もない。ただ侮蔑と怒りとを織り交ぜた視線で王を睨みつけている。
王は握っていた杖で床を叩くと、近衛兵たちは一人また一人と男へかけ迫る。しかし、男がおもむろに手を上げた瞬間。男の背後から何やら黒い物体が謁見の間へと飛来してきた。黒の物体はそのまま近衛兵の顔に纏わりつく。うろたえながらも怪しげなその物体を剥がしてしまおうともがいてみせる。すると、確かに黒の物体は近衛兵の頭から剥がれた。赤い肉片とこぼれ落ちる血を伴って。
一瞬の静けさ、そして謁見の間には二つの絶叫が響き渡った。近衛兵の二人はその場にうずくまり、両手で顔を覆っている。指の隙間からはとめどなく血が流れ、赤い絨毯にシミを作り出す。仲間の近衛兵がうずくまっている近衛兵に近寄り顔を覗き見る。引きつった悲鳴が聞こえたのは顔を覗き見てからすぐのことだった。うずくまり顔を両手で覆っている近衛兵、指の隙間から見えるのは剥き出しになった赤い肉と骨、そして片方の眼科からこぼれ落ちる眼球だった。悲鳴を上げた近衛兵は恐る恐る黒い物体へ目をやる。黒い物体は黒の襤褸をまとった髑髏だった。口元には近衛兵の顔面の皮膚と肉がぶら下がり、肉をすり潰すように咀嚼している。
「ば、化け物」
震える声で近衛兵の誰かが言った。
「そうだ。貴様らを殺すために、死霊どもが地獄から這い上がってきたのだ」
ニタニタと笑いながら男は高らかにそう言う。廊下の奥から大きな黒い塊が謁見の間を飲み込んで行った。ゆらゆらと揺れ動く黒い影の中からは、いくつもの髑髏が顔を覗かせている。近衛兵達は影を退けんと剣を振り続ける。しかし、彼らの剣は影を切り裂くことはできても己の命を守ってくれることはない。髑髏は彼らの攻撃をまるで物ともせず、目の前にあるいくつもの肉へと食らいつく。一人の近衛兵にいくつもの死霊が群がり、肉をはぎ喰らい尽くす。
絶叫と悲鳴が謁見の間のあちらこちらから聞こえてくる。日々鍛錬を積み重ね有事の際に王を守護する役目を担う屈強な男達。しかし、そんな彼らが生娘のように悲鳴をあげ、恐怖と痛みから涙を流している。そして絶叫の中で彼らは床に倒れ伏せ餌食となって悪霊達の腹を満たす。
守る盾も抵抗する剣も消え失せた、ただ一人の王。玉座に座るかの王はいつのも尊大な威厳は消え失せ歳老いた老爺のごとく震えている。そんな王のもとにこの空間の中にあって平然としている男が近寄って行く。
「あ、悪魔に魂までも売ったのか……」
震える声で王は男に問う。しかし男は答えなかった。男は王の襟首をむんずと掴むと、数段下の階下へと男を投げ飛ばす。ゴロゴロと転がる王の体はやがて止まる。苦しげなうめき声をあげながら視線を周りに向けると、そこにはいくつもの髑髏が闇の中に浮かんでいた。
王は逃げ果せようとするが、動かせたのは手のみ、それも床を少し撫でた程度であった。
一斉に王の体へと群がる死霊達。王の悲鳴は死霊達の中に埋もれ、時折血と肉が死霊達の合間から飛び出してくる。そして、死霊達が離れた時にはもはや王の姿はなく血色に染まった骸だけがそこに転がっているだけだった。
男は玉座へと座りいきをつく。これでようやく終わった。何もかもを成し遂げた。達成感と安堵が男の心に湧き上がる。
『では、契約を果たさせてもらおう』
突如として聞こえてきたのは、あの穴の中で聞こえてきた闇の声。あたりを見渡しても声の主の姿はどこにも見えない。しかし、その声に従って何体もの死霊達が謁見の間を出て言ってしまう。
「私の命ならば、いくらでもくれてやる」
『それももちろん貰い受けるが、それだけではまだ足りんのだよ。人間』
何か嫌な予感がする。そしてその予感は男の目の前に現れた。
悪霊達は二人の女達を連れてきた。一人は男の妻、もう一人は愛しい男の娘だった。
「まさか、やめろ。やめてくれ」
男はどこかにいる声の主に向けて懇願する。
『やめろ?何を言うのだ。私の話を聞いていなかったのか。力の代償は高くつくと言ったはずだ。そしてお前はそれを了承した。何もおかしなことはない』
声は男を嘲笑う。そして、死霊達は妻と娘の服をはぎ一斉に二人の華奢な体に群がり始めた。死霊の中からは懸命に男の名を呼ぶ妻の声と、父を求める娘の声が聞こえてくる。泣き叫び、恐怖に慄きながら喰われようとする妻子を、男はただただ見ていることしかできなかった。妻の柔らかな乳房に死霊が食らいつき、力任せに食いちぎられようと。娘の柔らかな足をじっくりと舐めまわしながら、一息に引き抜かれてしまおうと。胴体と頭だけになった妻子を死霊達が犯していようと。
男はすぐにでも妻子を救おうと駆けつけたかった。しかし、男の体は死霊達によって玉座に縛り付けられている。体を動かそうとすれば男の力を上回る圧力で押さえつけられる。
『これが貴様の求めた力の代償。皮肉なものだな、妻子を守ろうとした行為が妻子を殺めることにつながるとは』
くつくつと喉を鳴らして声は笑っている。男の怒りは今や王になどむいてはいない。この忌まわしき声の主に向けられている。
「どこだ、どこにいる!?姿を表せ!今すぐ貴様を殺してやる!?」
『いいとも。だが、私を殺すことはできぬぞ』
「何を言って…!?」
その時だ。男の手は男の意識とは無関係に勝手に動き始めた。そして両手は男の顎と頭頂部を抑える。抵抗しようと力を入れようとも手は男の頭部から離れることはない。それどころか離れるのではなく顎と頭頂部を掴む手は男の普段の力よりも強いものだった。
ひとりでに動く両手は力で男の首を傾け始める。そして、顎が天井に向けられた時、男の首の骨がコキリと悲鳴をあげる。それまで苦悶に歪んでいた男の顔は一瞬にして緊張が解け、だらしなく口元から下を垂らした。
『だから言ったであろう。人間がいる限り、魔王は何度でも現れると』
死人ばかりとなった謁見の間の中で、その声はやけに大きく響き渡った。