鏡
パトスの心配をよそに、チェコは、じりじりと、馬車の残骸に近づいていく。
とはいえ、パトスの目から見ると、本人は動きを最小限に抑えているつもりでも、体を引きずると、また音が出てしまう、と思うのか、動くときには胴体を、その都度、浮かせたりしているので、チェコはかなり盛大に動いてしまっている。
本当にコカトリスには、チェコが見えていないのだろうか?
パトスは不安だったが、巨大な鳥が、チェコに反応していないのは確かだ。
やがて、僅かに見える空が、赤く染まる頃、チェコはついに扉に手をかけた。
パトスは盛大に溜息をついた。
チェコは、さあ引け、とばかりに扉を手にかけ、五体投地してしまっている。
パトスは毒づきながら、一センチ単位で、チェコと扉を引っ張った。
パトスは、仔犬の姿はしていても、精獣である。
牛馬とまではいかなくとも、その辺の成犬に負けないだけの力はある。
ズ…。
ズ…。
五体投地したチェコと、扉を引いて、パトスが木苺の枝から扉を回収したのは、十分後だった。
「よーし、じゃあ見てろよパトス!」
チェコは体と顔を泥で真っ黒にして、ニコニコとスーツケースから錫を取り出した。
錫は、加工しやすいように粉々に砕かれて、瓶に入っている。
それを、平地に置いた扉の上にバラ撒き、チェコは呟いた。
「まずは静寂の石で、自然界に普通に漂っているアースを一旦、止めて…、と。
よし、スペル…溶解」
錫が溶け出し、薄く広がっていく。
チェコはダリア爺さんの手伝いで、鏡づくりなどは心得ているので、手慣れた様子で錫を扉いっぱいに広げ、零れない程度で上手に止めた。
「さて、ここで水銀だ」
チェコは、スペル融合を唱えながら、水銀をポタポタと垂らしていく。
水銀と錫が融合されると、アマルガムという物質に変化する。
上手くアマルガム化したと確認すると、チェコはパトスと共に、扉から離れた。
「これから、蒸発の過程に入るんだけど、水銀の気体は吸い込むと体に毒なんだ。
三メートル離れて…と」
チェコは、蒸発のスペルを発動させた。
「じゃーん! どうだい、この出来栄え!」
チェコが自画自賛する中、綺麗に錫でメッキされた、銀色の馬車の扉が出来上がった。
「俺、見える…」
パトスは、メッキを覗き込んで、言った。
「よーし、じゃあ、ちょっと、あの女の人を助けに行ってくるぜ!」
「ばか、チェコ!
本当に鏡が通用するのか、誰も知らない!」
「平気平気。
それなら、また、ゆっくり行くからさ!」
「もう、暗くなる!」
「じゃあ、少し急ぐよ!」
どうも、女性のところに行く、という部分は、どうしても変更されないらしい…。
パトスは一瞬考え込んだが、ムスッと、言った。
「判った!」
「うん、じゃあ、行ってくるぜ!」
「俺も、一緒に行く!」
パトスは、尾っぽを、まっすぐに立てて宣言した。